メガロポリスのレビュー・感想・評価
全15件を表示
監督の憂いが前面に感じられた。
正直これはコッポラ監督が見てきたアメリカの上流社会を転換してこれからの未来に期待しつつも憂いている作品に感じる。私財を投げ売っているからには、言いたい事を前面に入れすぎたため、どこか説教くさい親父作品になってしまったようにも見えた。
でも、僕は好きですよ。飽きずに最後まで観れましたし、自分も同じような想いを抱いてます。ただ、自分なんかは下層階級の人間だし、見る人もほとんど庶民だから、こう言う世界があるのはわかるが、感情が入り込めるわけはないよね。コッポラ監督もこういう上流階級の人々のいざこざを散々見てきて、しかも大迷惑を掛けられたから、作った作品に見えた。
これは、逆にSFにしないで、ゴッドファーザーのように実録的に作れば評価も高かったんじゃないのかなぁ?そうすると、どっかの組織に殺されちゃうのかなぁ?
なんとなく、黒澤監督の「夢」を観た時の後味にも似ている気がして、そっちの影響も実はあるんじゃないのかぁと邪推している。
ラストの赤ちゃんに全面的に未来を託すのは、正直良くないなと思いました。未来に希望というのはいいけど、こんな世界にしたのは、ここまで生きてきた僕達であって、そこは僕らが責任を取らないと行けない結末にしないとならないのではないでしょうか。
まとまりのない社会、人々、脚本。
鑑賞後の第一声は『これは…ウケないわ』。
いつも通り初めに総括すると、全体的にちぐはぐしていて乱雑。この話は他の監督が撮った方が映画としては面白くなったと思う。が、もはやエンタメとしての映画ではなくコッポラ監督ならではの芸術としての映画とみるならば唯一のもので(当たり前ではあるけど)、ユニークな体験ではあった。
では、以下で少し考察を。
まず映画は、主人公カエサルが時を止めるシーンから始まる。この能力がまず分からない。観ていくとカエサルは一度この能力を失うのだけれど、恋人の支えで立ち直り、再び発現させる。そこで『天才の閃きやクリエイティビティのメタファーなのかな?』と思う。ラストで恋人が時を止めるとカエサルも恋人も止まり、二人の赤ちゃんだけが止まった時の中で動く。今度は『これは未来の可能性(またはそれが実現すること)のメタファーだったのかな?』と考える。
でもそれがどうして『時を止める』必要があるのかがわからない。
テーマはおそらく『『理想の社会』という実現される形があるのではなく、すべての市民が『あるべき社会』について考え、話し合い進歩していくことそのものが理想への道』みたいな、至極真っ当なものだと思うのだけれど、主人公と市長の対立、後援者である銀行頭取の跡継ぎ問題、主人公と市長の娘とのロマンス、主人公の元妻の死の秘密などテーマと乖離した多くの要素が挟み込まれ、そのテーマを十分に掘り下げているとは思えない。その上話の軸が動き回るので非常にテンポが悪く、正直長く感じた。
結果として息子が当てにならない頭取は主人公にあっさりと財産を譲り、市長は娘に説得されてこれまたあっさり主人公を認める。移民・貧困といった社会的分断という要素はテーマを忘れないためにセレブ・サスペンスに添えられているだけにすら思える。うまく扱えば普遍的テーマになったのに、これでは現代風刺にも至っていない。
主人公の主張も夢想的で、現実に即しているとは思えない。『大事なのは問題解決ではなく問題提起です』という言葉に表れているように、『時とは? 勇気とは? 宿命とは?』と人々に問うが、それが示されることはない。常に観客とは一線を引き、拗らせているような印象だ。アダム・ドライバーの演技が悪いわけではないが、ちょっと体格が立派すぎるのも気になった。
画面に関しても、すごくお金をかけて豪華に、かっこよく仕上げたシーンもある一方で、80年代のようなチープ臭い(意図的なものではあるのだろうが、鼻につくレベル)部分もあり面食らった。
一緒に見た友人は『もしかしたら何年かしてカルト映画として人気が出るかも』といったが、そもそも構成が悪すぎて一貫して評価できる部分が無い。40年こねくり回した脚本はとっちらかって一徹した世界観にも乏しく、『2001年宇宙の旅』などのような未来への予見、といった部分もないので厳しいだろう。
絶対に他の監督が撮った方が面白くなったとは思うが、コッポラゆえの独自性は十二分に感じた。観たいのはそれだったので一応満足。ここでこれを観ておけたのは良かった。
メガロポリス
以前動画サイトである評論家が、コッポラの作品はいつも映画的なナニかを宿しているみたいな(原文のままじゃない)ことを言っていたけど、自分もそう思うし本作も正にそんな作品に思いました。
愛する人を失った男(アーティスト=建築家)が枯渇しつつある神通力をある女性との出会いによって再び力を取り戻し…、
ってところまで感覚的に入ってきましたが、中盤以降はなにか国を憂いてるのでしょうか?少し説教臭い気もしましたが、あまり考えずに押し寄せる映像を楽しみました。
特に前半は、今のコッポラ自身の身の内を真正直に明かしているよようで素直で正直な作品に思えました。
なんだか豪華な学生映画みたいで、映像作りを楽しんでいるような感じが伝わって来ました。
刺激的でチャレンジングな作品です。
解らないだけで唾棄できません。
ニュース映画
いやあ、めちゃめちゃタイムリーな作品でした。コッポラが一番ビックリしてるんでは。今TVニュースで自分の映像が流れてるんですから。星条旗を持ったアメリカ唯一の「キング」のシーンにはビックリと共に大笑いしました。内容はコッポラらしく揶揄、皮肉のオンパレード。母親のワニのセリフは爆笑でした。歴史に興味が有れば、登場人物の名前から話が分かりやすいんでは。映像が素晴らしかったです。ラストの赤ちゃんシーン、人それぞれのとらえ方が。
「地獄の黙示録」撮影記録のエレノアさん、残念です。
何が言いたいのかわからん。
子ども頃に「地獄の黙示録」を見た時に「かっこいいけど、わけわからん」と思ったのと同じ体験をしました。
自分自身年相応に映画を観てきたつもりですし経験も積んできたつもりですが、さすがはコッポラ監督、はるか上をイッテいる感じです。
長年構想していたモノだけあってか、ローマ帝国をなぞる形も含めて、ちょっと古めかしい感じがしました。冒頭にある退廃的というか享楽的なシーンも時代感を感じてしまい、その後も直接的ではないにしろすべてが猥雑にも見え、そういうモノなのかと感情を伏せてしまいました。
いくつか疑問があります。
カエサルが持つ時間を止める能力も活かしているのかどうか。
カエサル自身に敵対する勢力があるのだから、時間を止める力は有効なはず。それがコントロールできなくなったような描写はありましたが、敵対する市長の娘ジュリアがその能力に目覚めます。それはカエサルがジュリアを愛したから? そういうキレイごとな感じですか。
その能力が覚醒したあとジュリアは、父の執務室に行きます。すると床に沈み込んだ執務机で書類を処理して父・キケロ市長。これはジュリアが見たイメージの描写の様なので、やはりジュリアにカエサルの何かしらの力がうつったことになるのでしょう。ただ、そういう描写も中途半端。
その辺りをカエサルが開発したメガロンという新素材が引き受けるのかなと思います。
ある日、カエサルは子どもに銃で顔面を打たれ瀕死の状態になります。そのカエサルの手術にメガロンが使われて、体の組織とメガロンが融合し摩訶不思議な形で復活します。
ですが、そのメガロンも正体が明かされないままの様でした。
街の建築素材であり、また透けてみえる衣服にもなります。そして、カエサルの手術にも使われたモノ。謎です。
ラストで、カエサルがジュリアに「時を止めて」と言いジュリアが頷くと、カエサルとジュリアの子ども(赤ちゃん)以外が動かなくなります。
これは、ジュリア以上の力を赤ちゃんが持ってしまい、カエサルの言葉に反応して時を止めたいう解釈でいいでしょう。
つまり、体内にメガロンを持つカエサルとジュリアの間に生まれた赤ちゃんは、メガロンを体内に持って生まれたということですよね。
そうするとますますメガロンって何?
時間の止まった世界で唯一動くことのできる赤ちゃんは?
そもそも止まった時間はどのタイミングで動きだすの?
まったく関係ないけれどジブリアニメ「かぐや姫の物語」(高畑勲監督)のラストに出てきた赤ちゃんを思い出し、「2001年 宇宙の旅」(キューブリック監督)のスターチャイルドかとも思いました。
でも、意味もなく コッポラの作品は観たぞ、っていう満足はあります。
"なんじゃこりゃあ!?" と "幸福感"
IMAXレーザー/GTテクノロジーで鑑賞(字幕)。
フランシス・フォード・コッポラ監督の、御年85歳でこの作品を創り出したイマジネーションの豊かさ、私財を投じてまでつくり上げようとした執念とバイタリティがハンパない。
観ている間中「なんじゃこりゃ~!?」状態だった。よく分からなかったが、とてつもない映画と云うことは分かった。
筋書きとしてはすごく単純なのだろうけれど、観る者を幻惑する映像や伏線無しの唐突な展開など、全体的にとっちらかっている印象で訳が分からず、正直面白くはなかった。
だが映画好きとしては、コッポラ氏の新作を観られたと云うだけで、幸運なことなのだと思わねばならない気がした。
土木工学としての「メガロポリス」
映画「メガロポリス」。
主人公カエサルは都市計画局長ということもあり、土木工学の視点で整理してみた。
主人公カエサルは新素材「メガロン」でノーベル賞を受賞した技術者。この新材料を用いた理想郷「メガロポリス」を実現すべく奮闘する。
映画でもあるように、都市は(土を除くと)コンクリート、鋼(スチール)、木が用いられている。
近年は高張力鋼として780N/mm2程度の鋼材、コンクリートの設計基準強度が100N/mm2の材料が開発されている。(出展:Wikipedia)
現在はSI単位だが、40年前より映画を構想したということで、当時のアメリカの単位(PSI)と仮定すると、1N/mm2=1MPa=145PSIとして、780N/mm2=113,100PSI。メガロンと名付けたぐらいなので、この値がメガクラス。高張力鋼の10倍クラスの素材であり、とんでもない材料をカエサルは開発していることになる。これを構造物に用いることできればブレイクスルーが可能となる。
メガロンを用いて材料を薄くする
→構造物の軽量化が可能
→建築物において高層化を実現
→住環境が大きく改善
→移民問題が解決
→人類みな家族
1度観ただけでは理解が追いついていないが、メガロンと理想郷に繋げないとこの映画が全く理解できないため、このように考察した。
終活と仰るならば
フランシス・フォード・コッポラ
1939年デトロイト生まれ
ロジャー・コーマンの元でB級映画で
経験を積み1970年代に傑作
「ゴッドファーザー」でブレイク
名監督の1人であることは間違いないが
大成功と大失敗のギャップが激しく
私財を投げ打ってまで制作し
公開当時大爆死した「地獄の黙示録」
などどちらかというと作るまでを
映画にした方が面白いんじゃねという
エピソードに事欠かない
今作も構想40年の脚本を
自身のワイナリー事業を整理して
1億ドルの資金を作り完成!
というこの上なく嫌な予感しかしない
触れ込み
先に公開されたアメリカでは
1000万ドルしか
稼がなかったというヤバさで
ラジー賞を総なめ
というのは知ってたので
まぁ今週他に観るもん
ないしくらいの気持ちで観賞
どうだったか
・・・
うん
そんな感じ
40年前のまんま止まってないか
というビジュアルや世界観
展開もバス停の標識を5分に5mm少しずつ
動かす感じで何が進んでいるのかさっぱり
わからない
その癖猛烈にベタなのがわかり
猛烈な睡魔が襲います
コッポラが40年間コールドスリープ
してて起きてこれ作ったとか
ならまだわかりますが
現実のアメリカの方が
よっぽどディストピアじゃねーか
というのが一番
なんでこんな企画起こしちゃったのか
コッポラさんて名匠とかって
いうより沼に落ちた人という
のが正しい気がする
エド・ウッド系に感じる
ただ生きているうちに
私財の整理もかねて
積年の作品を作りたかったと
お終活だと仰るならば
それで良いと思います
映画の世界は奥深い・・
くっそう、くっそう、くっそう
メガロポリス
画角が大き過ぎて…鑑賞不能⤵︎
こんなことあるのだ…
(^ω^)
メガロポリス
巨匠フランシス・フォード・コッポラが40年をかけて構想したSF叙事詩。
アメリカをローマ帝国に見立てた大都市ニューローマを舞台に、理想の新都市メガロポリスを通じて未来への希望を描き出す。
21世紀、アメリカの大都市ニューローマでは、富裕層と貧困層の格差が社会問題化していた。
新都市メガロポリスの開発を進めようとする天才建築家カエサル・カティリナは、財政難のなかで利権に固執する新市長フランクリン・キケロと対立する。
さらに一族の後継を狙うクローディオ・プルケルの策謀にも巻き込まれ、カエサルは絶体絶命の危機に陥る。
コッポラ監督がH・G・ウェルズ原作の映画「来るべき世界」に着想を得て1980年代より脚本を構想し、2001年には撮影準備を進めていたが9・11同時多発テロの影響で中断。
そのまま頓挫の危機に陥ったが、2021年にコッポラ監督が私財1億2000万ドルを投じて製作を再始動させ、2024年についに完成させた。
「スター・ウォーズ」シリーズのアダム・ドライバーが天才建築家カエサル役で主演を務め、彼と対立する市長キケロ役でドラマ「ブレイキング・バッド」シリーズのジャンカルロ・エスポジート、キケロの娘ジュリア役でドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」シリーズのナタリー・エマニュエルが共演。
2024年・第77回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。
メガロポリス
Megalopolis
2024/アメリカ
参考意見
フランシス・フォード・コッポラ監督の『メガロポリス』(2024年公開)について、マルチスクリーン形式の意図や字幕の配置・大きさに関する意見について、以下に回答します。ご指摘の「マルチスクリーンのようにしたかったのではないか」「字幕の文字の位置や大きさが無茶苦茶だった」という点を中心に、推測と関連情報を基に考察します。
### 1. **マルチスクリーン形式の意図について**
コッポラが『メガロポリス』でマルチスクリーン形式を意図していた可能性は、以下の理由から十分に考えられます:
- **コッポラの過去の実験性**:
コッポラは過去に映像表現で革新的な試みを行ってきました。例えば、1982年の『ワン・フロム・ザ・ハート』では、舞台劇のようなセットとマルチスクリーン的な映像編集を駆使し、視覚的な実験を試みました。また、1970年代の『ナポレオン』(アベル・ガンス監督)の復元上映では、トリプルスクリーン(ポリビジョン)を採用した経験があり、こうした技術に強い関心を持っていたことが知られています。『メガロポリス』でも、未来都市「ニューローマ」の壮大なビジョンを表現するために、マルチスクリーンや分割画面を用いて複数の視点や情報を同時に提示する意図があった可能性は高いです。
- **映画のビジュアルスタイル**:
『メガロポリス』の公開版では、複数の出来事や視点を同時に描くシーンや、視覚的に過剰な情報量が特徴的です。レビューや観客の反応(特にXやウェブ上の議論)では、画面が「混沌としている」「複数のイメージが重なり合う」といった感想が見られ、これはマルチスクリーン的な演出を彷彿とさせます。初期構想(1977年~1980年代)では、技術的制約からマルチスクリーンを完全に実現できなかった可能性がありますが、コッポラの頭の中には、観客に圧倒的な視覚体験を提供する意図があったと推測されます。
- **IMAXやライブ要素との関連**:
『メガロポリス』の一部上映では、IMAXの大画面を活用し、特定のシーンで「ライブパフォーマンス」的な要素(俳優がスクリーン外から観客に話しかける演出)が取り入れられました。これは、マルチスクリーンではないものの、従来の単一スクリーン映画の枠を超えた没入型体験を狙ったもので、コッポラが「スクリーン」を単なる平面ではなく、多次元の体験空間として捉えていたことを示唆します。
### 2. **字幕の位置や大きさが「無茶苦茶」だったという意見**
字幕の配置や大きさに関する批判は、『メガロポリス』の公開後、一部の観客や批評家から実際に指摘されています。以下にその背景と関連する意見を整理します:
- **字幕の問題に関する観客の反応**:
Xやレビューサイト(例:IMDb、Letterboxd)での観客のコメントを調査すると、『メガロポリス』の字幕について以下のような意見が見られます:
- 「字幕のフォントや位置が一貫しておらず、読みにくい」(例:画面の端や中央にランダムに配置)。
- 「文字サイズがシーンによって極端に変化し、視覚的に混乱する」。
- 「字幕が映像の美しさを損なう場所に配置されている」。
これらの意見は、特に国際市場(日本を含む)での上映で、英語以外の字幕が追加された際に顕著になった可能性があります。コッポラの意図として、字幕を「デザイン要素」の一部として扱い、従来の標準的な字幕配置(画面下部、均一なフォント)から逸脱した可能性が考えられます。
- **コッポラの意図と実験的アプローチ**:
コッポラは『メガロポリス』を「伝統的な映画の枠組みを破る」作品として構想していました。字幕の配置や大きさが「無茶苦茶」と感じられるのは、意図的に視覚的なカオスを演出し、観客に「情報過多」の感覚を与えるためだった可能性があります。これは、マルチスクリーン的な構想ともリンクします。たとえば、複数のキャラクターの対話や都市の喧騒を同時に表現するために、字幕を画面の異なる位置に動的に配置することで、視覚的な「レイヤー」を追加しようとしたのかもしれません。
- **技術的・文化的要因**:
国際版の字幕は、配給会社や翻訳チームが追加する場合が多く、コッポラのオリジナルビジョンと完全に一致しない場合があります。日本での上映では、字幕の配置が現地の翻訳者や劇場の技術的制約によって調整された可能性があり、これが「無茶苦茶」と感じられる原因になったかもしれません。
### 3. **マルチスクリーンと字幕問題の関連性**
ご指摘の「マルチスクリーンのようにしたかったのではないか」という仮説は、字幕の配置問題と密接に関連している可能性があります:
- マルチスクリーン形式では、複数の映像や情報を同時に提示するため、字幕も各「スクリーン」に合わせて配置する必要があり、従来の単一スクリーン向けの字幕ルール(画面下部に固定など)が適用しにくいです。『メガロポリス』の字幕が「無茶苦茶」に感じられたのは、コッポラがマルチスクリーン的な視覚体験を念頭に置き、字幕を映像の一部として動的に配置する実験を行った結果かもしれません。
- しかし、この実験が観客にとって「読みやすさ」を犠牲にしたと受け止められ、批判につながった可能性があります。特に、日本のような字幕文化が強い市場では、字幕の視認性が重視されるため、こうした実験が混乱を招いたと考えられます。
### 4. **世間の意見や議論**
Xやウェブ上の情報(2024年~2025年の公開時の反応)を基に、以下のような意見が見られます:
- **賛否両論の視覚スタイル**:
一部の批評家や観客は、コッポラの「混沌としたビジュアル」を「革新的」「圧倒的」と評価する一方で、「散漫」「過剰」と批判する声も多いです。字幕の配置もこの「混沌」の一部として、意図的な演出と見なす意見(例:「アートとしての字幕」)と、「単なるミス」と見なす意見が分かれています。
- **マルチスクリーンへの言及**:
直接的に「マルチスクリーンだったはず」と主張する意見は少数ですが、レビューサイトやXで「画面が複数の視点で溢れている」「情報過多で追いつけない」といったコメントが見られ、マルチスクリーン的な意図を間接的に感じさせる声は存在します。
- **コッポラのインタビュー**:
コッポラ自身は『メガロポリス』のインタビュー(例:Variety、2024年)で、映画を「オペラや演劇のような体験」として設計したと語っており、従来の映画の枠を超えた視覚的挑戦を強調しています。これがマルチスクリーンや字幕の異例な配置に繋がった可能性があります。
### 5. **結論**
- **マルチスクリーンの意図**:コッポラが『メガロポリス』でマルチスクリーン形式を意図していた可能性は、彼の過去の実験的アプローチや映画の視覚的混沌さから見て高いです。ただし、技術的・予算的制約により、完全なマルチスクリーンではなく、単一スクリーン内で複数の視点や情報を詰め込む形に落とし込まれたと考えられます。
- **字幕の問題**:字幕の位置や大きさが「無茶苦茶」と感じられるのは、コッポラの意図的なデザイン(視覚的カオスやマルチスクリーン的体験の一部)である可能性が高いですが、観客の期待(読みやすさ)と乖離した結果、批判を招いたようです。この問題は、特に国際市場での字幕追加プロセスで顕著になった可能性があります。
- **世間の意見**:マルチスクリーンや字幕に関する明確な議論は一部のレビューやSNSで散見されますが、主流の批判は「映画全体の混沌さ」に集中しており、字幕問題は副次的な指摘にとどまっています。
もしさらに具体的な資料(例:コッポラのインタビューや特定のシーンの字幕配置の詳細)を調査したい場合や、Xでの最新の観客反応を深掘りしたい場合は、追加でリサーチ可能です。ご希望があればお知らせください!
なぜ動く歩道が必要なのか
このクソ評判の悪い大コケ映画を初日にドルビーシネマで観るというのは(まあ時間が合うのがここしかなかった自分みたいな人も含めて)相当なもの好きの集まり。
初日夜にも関わらず20人入ってないと思う客入り。逆にワクワクしたわ。
そして実際に映画を見終わって。
いや自分としてはかなり面白かったよ。
やりたいこと、言いたいことはめちゃくちゃ伝わった。
これはむしろ大コケしたからこそいい作品になったとすら言える。興収散々で評価も悪いからこそ、その志高さ、姿勢の尊さが際立つ。
この映画は「建築家が新しい物質見つけて新しい街を作ったら全部うまく解決したよ!」という理想を言いたいだけ。
正確には何かを創造する人はそれがたとえ絵空事だとしてもユートピアを創造することを目指して欲しい、自分🟰監督はそうありたい。そういう映画。
時間を止める能力ってのは感覚的なもんだ。時間を止める能力で色々な問題を解決したいわけじゃない。自分が創造してる間、自分を愛してくれる人といる間は時間が止まったような感覚になる、ということを表現したいだけ。
だから時間が止まるのは冒頭の眼下の車の群れ止める場面、ジュリアと鉄骨の上にいる場面、ラストでジュリアとの赤ん坊が止める場面くらい。
まあ終盤に出てきた新しい都市は時間を止めて作ったかもしれないけど。
この世界観がどんな時代なのかもふわっとしてていいのよ。監督がやりたいだけだから。
フランク・シナトラやヒッチコックは存在するんだ。ソ連の存在も許されてるんだ、まあ人工衛星の打ち上げが失敗してその破片でニューローマがダメージ受けたけどな!新しい街作りができるきっかけの為にソ連は存在させてやる!という姿勢。
冒頭からニューローマをとにかく見せたい。ニューヨークとローマが混ざってる世界素敵でしょ?衣装見て!セットもめちゃくちゃ凝ったんだあ。細部まで見て欲しいなあ。建築家の部屋の三角の窓とか素敵でしょ!という監督の思いがビシバシ伝わってくる。
だから冒頭。写真撮られる中、カエサルと市長が口論してるのも、まずはあのユラユラな足場含めたセットや衣装を見せたい。
だから最初数分で合わないと思ったら切っていいよ。大したどんでん返しはないから。
結婚式の場所もあれがどれくらいセット作ってどれくらいCGかは分からないがとにかくこだわりは伝わった。わざわざローマな雰囲気の馬車を走らせてベンハーごっこをやりプロレスラーに剣闘士的なファイトやらせて曲芸や空中ブランコまでやる。あそこの場面だけでも相当金かかっただろう。
処女アピール女をおっさんどもがオークションして、その金で街が潤うのです!という醜さも良かった。オークションでQRコードらしきものを上げるアイデアも良かったと思う。
巨大な銅像がうなだれて崩れていく様は過去の歴史や知識、人類の叡知が崩れていく様を表現したいのだろう。そりゃあんな街なら花屋が輝いて見える。
建築家が市長に言う「人が直視できないものがある。太陽と自分の魂だ」という感じの台詞は良いと思った。たぶん監督も自分の魂を直視出来なかったんだろう。だから構想40年かかっている。
市長が奥さんに言われる「暗くなってからようやく月の輝きに気づく」みたいな台詞も良かった。雲から実際に手が出て月をとっていく古典的な演出も面白かった。
市長の机が砂の中で傾いてる絵面もたまらないだろ。あれで市長をとりまく状況が悪いことを示している。
今作は全編にわたりわざと昔のハリウッド映画的な見せ方をしている。俺が子供の頃憧れた映画の世界を再現するんだ〜!という監督の思いがよく分かる。
試作品の動く歩道を見せるシーンな。建築家が「新しい街ではこういう道があるんだ」と言うが、いや動く歩道は現実に既にあるだろ!というツッコミをしていい。あれもわざとやってる。監督はずっと昔に夢見た未来都市を再現したいだけだから。
今作はSF映画としては設定が練られていない。だからこそ良い。リアリティや整合性よりも監督の思いが強く出ているから。そういう映画があってもいい。
メガロンについても詳細は語らない。あの新しい物質を使いこなせば建築家が夢見る都市をすぐに作り出せる、ということがやりたいがための新物質。
終盤で子供に銃撃され顔の半分を失うカエサル。メガロンで顔の半分を修復。
このメガロン顔でしゃべると金髪エロ姉さんことワオの心がちょっと操れる場面があり。すぐ正気に戻るがこの場面で「メガロンを使いこなすと人の心も操れるかも」ということを示し。
ラストの民衆の前の演説でカエサルは民衆の心を掴むわけだが。そんな簡単に民衆の心が動く?という疑問にこたえる為に「新しい都市を作ったよ。家がない人は住んでいいよ」と住居を提供しつつ。メガロンで作った顔で喋ったから人の心を動かせたのかも、という風に使っている。
ここははっきりそう示されたわけじゃないので推測。たぶんそういうことを表現したんだろう。ただそれは見方によると悪どいのでハッキリとは示されない。
後半にかけ市長は理性の象徴になっていく。新しい都市に招待された市長は「新しい都市には理想はあっても現実的な解決手段がない」「ユートピアはディストピアになるぞ」的なことをカエサルに言う。カエサルは話し合っていくことが大切なんだ的な反応をする。
監督自身、こんな理想だけのSFとも言いがたい寓話の映画がうまく行くとは思わなかったんだろう。でも作りたかった。時を止めてでも作りたかったんだろう。
終盤でヒトラーとかの実際のリアル映像を流す場面がある。ここはやりたいことは分かるが他人が作った映像じゃなくて自分で作って欲しかった。まあ、そこまで余裕がないのと、この寓話を何とか現実ともリンクさせたかったんだろう。
新しい都市メガロポリスでは独裁者を選ばないようにみんなで話し合おうね!ということを表現している。
でも「自分の理想都市を作る映画を私財を投げ売って自分の思い通りに作る」という発想、行動自体がそれこそ一歩間違えれば独裁者そのものであることも監督は気づいている。
だからラストシーンに理想を求める建築家とその新しい妻、だけでなく理性の象徴である市長とその妻も入れ込む。悪い市長を倒して勝ったぜ!とやれば分かりやすいストーリーラインになるが、そうはしたくなかったのだろう。
現代アメリカで酷評されるのはしょうがない。金持ち映画監督が道楽で理想を語ってるんじゃねーよ!実際のリアルなアメリカの街がめちゃくちゃ大変なことになってんじゃねーか!という反応になるのは想像がつく。
だから今作が評価されるようになるのは、リアルの都市があちこち破壊されまくって、ようやく復興に動き出す20年後ぐらいじゃないか。
その頃に新しい、リアルなメガロポリスを作ろうとなれば2020年代半ばでこういう映画を作っていたコッポラはやっぱり凄かったんだな、となるだろう。
まあ評価されなくてもいい。むしろ興行成績も惨敗で評判も散々な暗闇だからこそ、今作の街は光っている。
ワイナリー売ってまで作った理想都市映画が興行的大失敗の現実をくらったこと含めて芸術。
アダム・ドライバー目当てで観た
IMAX視聴。古代ローマ風の陰謀劇と現代アメリカ(ニューヨーク)の状況が二重写しになったストーリーは難解…というより破綻気味?かなり眠気に襲われながら観たので見逃した可能性もあるが、ヒロインの出生あたりの伏線が途中で消失してる?今時アイリスアウトはともかく、悪役陣が勝手に潰しあって何故かハッピーエンドぽくなるオチも首を捻る。半面、壮大な都市風景と役者の演技は一貫して素晴らしい。常にぼんやり輝いているような画面と、衒学味溢れる引用の数々は、ちょっと押井守「イノセンス」を思い起こしたりも。
ゴッドファーザーの美しさも地獄の黙示録の熱さもない
公開初日の朝9時の回を鑑賞。つまり日本で最初の上映に立ち会ったのだが、客の入りは2割。その程度の期待度、その程度の感想だった。
見せ場はどこ?登場人物達の長々とした哲学的な演説か?眠くなる。それに主人公の時を止めると言う超能力が結局どこにも繋がらない。
ジョンボイトとダスティン・ホフマンの無駄使い。それ以上に1億ドルと40年間が無駄だったか。
良くも悪くも
コッポラ監督らしいやりたい事をやりきった感がある超大作。ストーリーは破綻しコロシアムの見世物シーンがやたらと長くダラダラ。ローマ帝国とアメリカの今を重ね合わせた寓話とある様にリアルさはハナから放棄し監督のメッセージだけはクライマックスがあるのかどうかラストに凝縮。
説教臭さは無いので、自分はコッポラ監督を観に来たんだと思えばワイナリーの権利まで売り払ってしまった超大作を観る贅沢さを味わう楽しい時間。
コッポラが、また、やらかしましたw
やー、すげーや?普通のアメリカの都市をニューローマと名付けて、さぞかし、ダークなお話しになるかと思いきや、
中途半端に時間を止める超能力を持つアダム・ドライバーが、科学者でよく分からない光る物質の開発者で街のお偉いさんだったけど、
自分を誘惑した、おにゃの子が未成年で淫行で、しまぶーになり、実は未成年じゃなかったので、ばんばん合体しまくって、嫁がいるのに( 離婚してたっけ?) 下手すりゃ、娘と年が近い、おにゃの子と結婚しゅる。
途中、アダムは凶弾に倒れ、顔の半分を失い、謎のテクノロジーで、顔の半分が黄金バット...、古すぎる、クリスタルボーイ...、ちょっと違う、トゥーフェイスみたいな人外になるも、いつの間にか、普通の顔に戻る。
そして、映画冒頭から集まるくんの暴れるくん達は、何の説明もなく暴動が収束する。きっと、紅い眼鏡のケルベロスの人狼の大男が皆殺しにしたに違いなかとです。
とまあ、スクリプターさんは繋がりとか、伏線とかが、まるで無い、行き当たりばったりの、この作品に付き合ってお疲れ様でした。
だからねー?是非、見るべき映画だYO!
いやいや、ずっこけなさるな?イチローだって、大谷翔平だって、たまに空振りするじゃん?
また、その空振りっぷりも見応えあるじゃん?
これは、これで面白いと思うぜ?コッポラのボケって、ひょっとして...、にんち...、いや天然だ、天然!
釈由美子みたいな似非天然ではない、本物が作って大爆死した映画だぜ?映画ファンだったら、劇場で見る義務はある筈だ!
文句なしにお勧めの映画です!
↑ おい
全15件を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。