「まだコッポラ監督はコチラ側にいます。」メガロポリス モアイさんの映画レビュー(感想・評価)
まだコッポラ監督はコチラ側にいます。
「ゴッドファーザー」(72年)「地獄の黙示録」(79年)を監督した映画界の巨匠が40年の構想を経て目ン玉飛び出るような額の自腹を切り作り上げた一大叙事詩―。もうその触れ込みからして既に満貫、役満、三倍満と役が積みあがったようなヤバい臭いしかしないこの映画。
スタンリー・キューブリックも大島渚も黒澤明もみんなみんな巨匠たちはそのキャリアの終盤で「こんなもの見せられて私たちにどうしろと?」と問いたくなるような映画を撮ってよこすものですが、いよいよ今回はフランシス・フォード・コッポラの番か…って感じですよね。
まぁコッポラはこれまでもチョイチョイ「何これ?」というような映画を撮っていたような気もしますが…それはともかく、白い布の一点の染みのごとく、巨匠の輝かしいフィルモグラフィの中に異様な存在感を醸しだす作品が混じる事は、得も言われぬ甘美な背徳感があるものです。
監督の熱心なファンでさえも褒め称えはするものの、その作品の存在には口を濁し積極的には語らない―そんな作品。見て見ぬ振りを決めてみても重い足枷のように頭の隅にまとわりつく―そんな作品。繰り返し観たいか?と問われれば首を横に振りはするものの、どうしようもなく完璧ではいられない人間の不完全さを具現化したようなそんな作品には、その存在自体に奇妙な魅力があるものです。
普段なら初めて観る映画には「面白いといいなぁ…」と不安交じりの期待を抱くところですが、このテの作品 を鑑賞する前にはバチバチに覚悟を決めて「どれだけこの映画についていけるだろうか?」と固唾を呑むのです―。
まるでプロレス技か玩具販促アニメのタイトルのような名前のアダム・ドライバー。彼が演じる主人公が発見?開発?した新建築材の“メガロン”とはどのような物なのか?そのメガロンがあればこそ実現可能だというアダム・ドライバーが目指すユートピアとはどのような物なのか?ここら辺が物語の根幹のようなのですが、その肝心なところが一番よく分かりません。またこの映画で“時を止める”という事がどういう意味を持っているのかもよく分かりません。そのかわりローレンス・フィッシュバーンは30年前から時が止まったように見た目が変わらないという事だけはハッキリ分かります。
映画に限らず創作物を鑑賞する際にはよく「行間を読め」と言われる事がありますが、このテの作品 が大抵そうであるように、本作もその行間が途方もなくスカスカなのです。もう行間の幅が広いどころかページが丸々飛んでいるんじゃぁないか?と思うほど行間を読もうにも、その為に必要な取っ掛かりが無い(または小さい)のです。
物語とそこへ内包させた意図をどのように伝えるかは映画の面白さに直結する重要な部分です。個人的には観たい作品を選んで身支度を整えて上映時間に合わせて劇場へ行くという行為は結構能動的な行為なのですが、映画鑑賞というのうは基本的にはとても受動的な行為です。しかしそんな受動的な行為において物語やそこへ内包された意図を汲み取るというのは観客に与えられた僅かな能動的行為であり、例え間違った解釈をしていたとしても意味を汲み取れたと思った時、観客は快感を得るのです。その結果、共感や好感は抱けませんでした…という感想になる事もありますし、視覚や聴覚に訴える事に特化して物語などおざなりでも面白い映画というのも確かに存在するのですが、ともかく基本的に観客とは映画が何を言わんとしているのか理解しようとするものです。だからといって観客の無理解や誤解を恐れるあまりに一から十まで何もかも言葉で説明するのは不自然だし無粋です。しまいには「ここまで言わないと君ら理解できないもんね!」と作り手側が観る者をバカにしているというふうに受け取られて反感を抱くこともあるでしょう。
きっと巨匠たちだって駆け出しの頃は自身の才能を認めさせるためにも、どうやって物語を観客に伝えるか苦心したはずなのです。出資者やプロデューサーから映画の内容についてとやかく言われながらも、やり過ぎると陳腐化し、やらな過ぎると見向きもされない中、自分のやりたい事や表現したい事をいかに面白く魅力的に観客に受け取ってもらえるかに心血を注いできたはずなのです。しかし成功して揺るぎない地位や名声を手にしてしまうと自身の作品が観客にどう伝わるのか?というところに余り執着しなくなるようなのです。やっぱり観客にどう伝わるのかを気にしながら作品を作るというのはかなりの労力を伴うのでしょうから、きっと面倒くさくなってしまうのでしょうね……。
ところが巨匠が手掛ける、観る者に理解される事を放棄したような このテの作品 としては、本作は割と気軽に鑑賞できる印象を受けます。先ず尺の圧倒的な短さ。このテの作品 で138分というのは短いですよね。いやここはダラダラ180分超えてこいよ!と思うのですが、この程度なら朝飯前です。そして内容についても、物語の基本構造が栄華を誇った帝国の末期、為政者たちは民を見ず、贅の限りを尽くして堕落し、利己の為に醜い権力争いに明け暮れる。そんな今にも崩れ去ろうとしている国の現状を嘆き未来を憂う主人公がやがて救世主となり民草を理想郷へ導く―。という歴史エンターテイメントの鉄板カタルシス展開ですので、割とあぁーこれ系ねって感じでついていけます。そしてアダム・ドライバーが演じる主人公が映画の最後に巨匠のメッセージをたぶんほぼそのまま、声高らかに演説しますので、細かいところはともかく何を言わんとする映画なのかは割と分かってしまう(ような気がする)のです。
貧富も出自も人種も関係ない!俺たちはみんな宇宙船地球号のクルーだろ?家族じゃないか!!共に学び、尊重しあって偉大な奇跡である人類として誇りを持とうよ! Power To The People!! Imagine all the people!!っていうね、全くそのとおりだよね、なメッセージを放っている訳なのです。
なのでコッポラ監督の視点、意識はまだ我々常人と同じ次元に留まって同じ世界を視て、同じように憂いているのだなと、何となく分かるのです。巨匠の このテの作品 にありがちな「コイツは何をどう視て何について語っているんだ?」という魂と意識があらぬ方向の高次元に至ってしまったと感じさせるほどの物は本作にはありません。なので観る者に理解される事を放棄したようなこのテの作品としては少々物足りない出来だと思うのです。そしてなまじっかメッセージが明瞭なために鑑賞直後は「しょーがねーなぁ…」と苦笑いくらいの感覚でいたのですが、時間が経ってくるとなんだか段々腹が立ってくる映画なのです。
人類が互いに尊重しあい未来へ歩むというのは確かに理想です。ですが実際には移民や難民にまつわる事、社会保障制度にまつわる事、LGBTQにまつわる事、性差、歴史、文化、宗教、民族などなど、ありとあらゆる問題について、社会規模で一定の層を尊重・救済しようとすると、その一方で別の一定の層の権利が侵害または制限される(もしくはそう感じさせられる)状態となり、そのために新たな衝突が発生してしまうという事はよくある事ではないですか。人類はもうずっとその問題を解決できずにいるのです。
私は映画で社会問題をテーマにする際は問題提起をするだけで十分で何も答えまで提示しなくてよいと思っているのですが、本作はその“メッセージだけ”がなまじっか明瞭なために、ありとあらゆるところで食い違い、対立する人類の現実を無視して理想的なスローガンだけを掲げて「巨匠が世界に送るメッセージ」とか言って悦に入っているだけなのでは?それも1960年代ならまだいいのでしょうが、それからもう60年も経った今においても尚これでは、監督は本当にこの問題を憂いて我々と共有し、解決する未来を模索しているのだろうか?と、何だか疑問が湧いてきてしまうのです……。
まぁそれはともかく、気づいてみれば このテの作品 を撮るに値する“格”を持った巨匠が映画界にあと何人残っているというのでしょうか?ダニー・ボイル?デビッド・フィンチャー?小さ過ぎる!デビッド・クローネンバーグの様に元々訳の分からないものを撮り続けている人はレギュレーション違反ですので数えられません……。ちゃんと普通に見ても面白い娯楽性と芸術性のバランスの良い作品を残してきた人が対象となると思っているのですが、そしたら(デ・パルマやスコセッシを横目でチラチラけん制しつつも)後はもう スピルバーグくらいしかいないのではないでしょうか?いずれにしても我々映画ファンがこの偉大なる肩透かしを喰らう経験を得る機会はもう指折り数える程しか残っていない気がするのです。
そしてその貴重な機会の一つだと思われた本作ですが、どうやらフランシス・フォード・コッポラ監督はまだコチラ側にいる人なのだという事が確認でき、少し安心しつつも、何だか残念な気持ちになってしまうのです。ですので御年86歳を迎えたコッポラ監督ですが是非これかもっともっと芸術家の魂が浮世を離れ高次元へ至ったことを我々凡人に見せつけるような作品を撮って欲しいと今も切に願っております。どうかこれからもご健在で!!
非常によく分かる品評でした。観に行くつもりでしたが、「やめとこう」と。
巨匠のキャリアの終盤で・・・のところで「ピン」と来ました。宮崎駿氏・北野武氏の最新作(イエスマンしかいない制作陣によるつじつまの合わない場面の連続)を思えば、どのような作品か想像できました。怖いもの見たさはありますが、なけなしの時間とお金を突っ込むのはやっぱり勿体ないので。
人柱のようなレビュー(語弊の段はお許しください)有難うございました。
モアイさん、嬉しいコメントありがとうございます!言葉ではあんな感じのことをアダム・ドライバー何度も言わされてましたよね!単純が一番!の境地なのかなあ、コッポラ監督!
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