「まとまりのない社会、人々、脚本。」メガロポリス くめいさんの映画レビュー(感想・評価)
まとまりのない社会、人々、脚本。
鑑賞後の第一声は『これは…ウケないわ』。
いつも通り初めに総括すると、全体的にちぐはぐしていて乱雑。この話は他の監督が撮った方が映画としては面白くなったと思う。が、もはやエンタメとしての映画ではなくコッポラ監督ならではの芸術としての映画とみるならば唯一のもので(当たり前ではあるけど)、ユニークな体験ではあった。
では、以下で少し考察を。
まず映画は、主人公カエサルが時を止めるシーンから始まる。この能力がまず分からない。観ていくとカエサルは一度この能力を失うのだけれど、恋人の支えで立ち直り、再び発現させる。そこで『天才の閃きやクリエイティビティのメタファーなのかな?』と思う。ラストで恋人が時を止めるとカエサルも恋人も止まり、二人の赤ちゃんだけが止まった時の中で動く。今度は『これは未来の可能性(またはそれが実現すること)のメタファーだったのかな?』と考える。
でもそれがどうして『時を止める』必要があるのかがわからない。
テーマはおそらく『『理想の社会』という実現される形があるのではなく、すべての市民が『あるべき社会』について考え、話し合い進歩していくことそのものが理想への道』みたいな、至極真っ当なものだと思うのだけれど、主人公と市長の対立、後援者である銀行頭取の跡継ぎ問題、主人公と市長の娘とのロマンス、主人公の元妻の死の秘密などテーマと乖離した多くの要素が挟み込まれ、そのテーマを十分に掘り下げているとは思えない。その上話の軸が動き回るので非常にテンポが悪く、正直長く感じた。
結果として息子が当てにならない頭取は主人公にあっさりと財産を譲り、市長は娘に説得されてこれまたあっさり主人公を認める。移民・貧困といった社会的分断という要素はテーマを忘れないためにセレブ・サスペンスに添えられているだけにすら思える。うまく扱えば普遍的テーマになったのに、これでは現代風刺にも至っていない。
主人公の主張も夢想的で、現実に即しているとは思えない。『大事なのは問題解決ではなく問題提起です』という言葉に表れているように、『時とは? 勇気とは? 宿命とは?』と人々に問うが、それが示されることはない。常に観客とは一線を引き、拗らせているような印象だ。アダム・ドライバーの演技が悪いわけではないが、ちょっと体格が立派すぎるのも気になった。
画面に関しても、すごくお金をかけて豪華に、かっこよく仕上げたシーンもある一方で、80年代のようなチープ臭い(意図的なものではあるのだろうが、鼻につくレベル)部分もあり面食らった。
一緒に見た友人は『もしかしたら何年かしてカルト映画として人気が出るかも』といったが、そもそも構成が悪すぎて一貫して評価できる部分が無い。40年こねくり回した脚本はとっちらかって一徹した世界観にも乏しく、『2001年宇宙の旅』などのような未来への予見、といった部分もないので厳しいだろう。
絶対に他の監督が撮った方が面白くなったとは思うが、コッポラゆえの独自性は十二分に感じた。観たいのはそれだったので一応満足。ここでこれを観ておけたのは良かった。
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