「なぜ動く歩道が必要なのか」メガロポリス 弁明発射記録さんの映画レビュー(感想・評価)
なぜ動く歩道が必要なのか
このクソ評判の悪い大コケ映画を初日にドルビーシネマで観るというのは(まあ時間が合うのがここしかなかった自分みたいな人も含めて)相当なもの好きの集まり。
初日夜にも関わらず20人入ってないと思う客入り。逆にワクワクしたわ。
そして実際に映画を見終わって。
いや自分としてはかなり面白かったよ。
やりたいこと、言いたいことはめちゃくちゃ伝わった。
これはむしろ大コケしたからこそいい作品になったとすら言える。興収散々で評価も悪いからこそ、その志高さ、姿勢の尊さが際立つ。
この映画は「建築家が新しい物質見つけて新しい街を作ったら全部うまく解決したよ!」という理想を言いたいだけ。
正確には何かを創造する人はそれがたとえ絵空事だとしてもユートピアを創造することを目指して欲しい、自分🟰監督はそうありたい。そういう映画。
時間を止める能力ってのは感覚的なもんだ。時間を止める能力で色々な問題を解決したいわけじゃない。自分が創造してる間、自分を愛してくれる人といる間は時間が止まったような感覚になる、ということを表現したいだけ。
だから時間が止まるのは冒頭の眼下の車の群れ止める場面、ジュリアと鉄骨の上にいる場面、ラストでジュリアとの赤ん坊が止める場面くらい。
まあ終盤に出てきた新しい都市は時間を止めて作ったかもしれないけど。
この世界観がどんな時代なのかもふわっとしてていいのよ。監督がやりたいだけだから。
フランク・シナトラやヒッチコックは存在するんだ。ソ連の存在も許されてるんだ、まあ人工衛星の打ち上げが失敗してその破片でニューローマがダメージ受けたけどな!新しい街作りができるきっかけの為にソ連は存在させてやる!という姿勢。
冒頭からニューローマをとにかく見せたい。ニューヨークとローマが混ざってる世界素敵でしょ?衣装見て!セットもめちゃくちゃ凝ったんだあ。細部まで見て欲しいなあ。建築家の部屋の三角の窓とか素敵でしょ!という監督の思いがビシバシ伝わってくる。
だから冒頭。写真撮られる中、カエサルと市長が口論してるのも、まずはあのユラユラな足場含めたセットや衣装を見せたい。
だから最初数分で合わないと思ったら切っていいよ。大したどんでん返しはないから。
結婚式の場所もあれがどれくらいセット作ってどれくらいCGかは分からないがとにかくこだわりは伝わった。わざわざローマな雰囲気の馬車を走らせてベンハーごっこをやりプロレスラーに剣闘士的なファイトやらせて曲芸や空中ブランコまでやる。あそこの場面だけでも相当金かかっただろう。
処女アピール女をおっさんどもがオークションして、その金で街が潤うのです!という醜さも良かった。オークションでQRコードらしきものを上げるアイデアも良かったと思う。
巨大な銅像がうなだれて崩れていく様は過去の歴史や知識、人類の叡知が崩れていく様を表現したいのだろう。そりゃあんな街なら花屋が輝いて見える。
建築家が市長に言う「人が直視できないものがある。太陽と自分の魂だ」という感じの台詞は良いと思った。たぶん監督も自分の魂を直視出来なかったんだろう。だから構想40年かかっている。
市長が奥さんに言われる「暗くなってからようやく月の輝きに気づく」みたいな台詞も良かった。雲から実際に手が出て月をとっていく古典的な演出も面白かった。
市長の机が砂の中で傾いてる絵面もたまらないだろ。あれで市長をとりまく状況が悪いことを示している。
今作は全編にわたりわざと昔のハリウッド映画的な見せ方をしている。俺が子供の頃憧れた映画の世界を再現するんだ〜!という監督の思いがよく分かる。
試作品の動く歩道を見せるシーンな。建築家が「新しい街ではこういう道があるんだ」と言うが、いや動く歩道は現実に既にあるだろ!というツッコミをしていい。あれもわざとやってる。監督はずっと昔に夢見た未来都市を再現したいだけだから。
今作はSF映画としては設定が練られていない。だからこそ良い。リアリティや整合性よりも監督の思いが強く出ているから。そういう映画があってもいい。
メガロンについても詳細は語らない。あの新しい物質を使いこなせば建築家が夢見る都市をすぐに作り出せる、ということがやりたいがための新物質。
終盤で子供に銃撃され顔の半分を失うカエサル。メガロンで顔の半分を修復。
このメガロン顔でしゃべると金髪エロ姉さんことワオの心がちょっと操れる場面があり。すぐ正気に戻るがこの場面で「メガロンを使いこなすと人の心も操れるかも」ということを示し。
ラストの民衆の前の演説でカエサルは民衆の心を掴むわけだが。そんな簡単に民衆の心が動く?という疑問にこたえる為に「新しい都市を作ったよ。家がない人は住んでいいよ」と住居を提供しつつ。メガロンで作った顔で喋ったから人の心を動かせたのかも、という風に使っている。
ここははっきりそう示されたわけじゃないので推測。たぶんそういうことを表現したんだろう。ただそれは見方によると悪どいのでハッキリとは示されない。
後半にかけ市長は理性の象徴になっていく。新しい都市に招待された市長は「新しい都市には理想はあっても現実的な解決手段がない」「ユートピアはディストピアになるぞ」的なことをカエサルに言う。カエサルは話し合っていくことが大切なんだ的な反応をする。
監督自身、こんな理想だけのSFとも言いがたい寓話の映画がうまく行くとは思わなかったんだろう。でも作りたかった。時を止めてでも作りたかったんだろう。
終盤でヒトラーとかの実際のリアル映像を流す場面がある。ここはやりたいことは分かるが他人が作った映像じゃなくて自分で作って欲しかった。まあ、そこまで余裕がないのと、この寓話を何とか現実ともリンクさせたかったんだろう。
新しい都市メガロポリスでは独裁者を選ばないようにみんなで話し合おうね!ということを表現している。
でも「自分の理想都市を作る映画を私財を投げ売って自分の思い通りに作る」という発想、行動自体がそれこそ一歩間違えれば独裁者そのものであることも監督は気づいている。
だからラストシーンに理想を求める建築家とその新しい妻、だけでなく理性の象徴である市長とその妻も入れ込む。悪い市長を倒して勝ったぜ!とやれば分かりやすいストーリーラインになるが、そうはしたくなかったのだろう。
現代アメリカで酷評されるのはしょうがない。金持ち映画監督が道楽で理想を語ってるんじゃねーよ!実際のリアルなアメリカの街がめちゃくちゃ大変なことになってんじゃねーか!という反応になるのは想像がつく。
だから今作が評価されるようになるのは、リアルの都市があちこち破壊されまくって、ようやく復興に動き出す20年後ぐらいじゃないか。
その頃に新しい、リアルなメガロポリスを作ろうとなれば2020年代半ばでこういう映画を作っていたコッポラはやっぱり凄かったんだな、となるだろう。
まあ評価されなくてもいい。むしろ興行成績も惨敗で評判も散々な暗闇だからこそ、今作の街は光っている。
ワイナリー売ってまで作った理想都市映画が興行的大失敗の現実をくらったこと含めて芸術。
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