「バイオレンスではない暴力」ANORA アノーラ 文字読みさんの映画レビュー(感想・評価)
バイオレンスではない暴力
2024年。ショーン・ベイカー監督。ニューヨークで夜の性産業に従事する女性は、ロシアからやってきた若い客に見初められて自宅に招かれると、とんでもない豪邸に住んでいることがわかる。一週間の専属契約の後でプロポーズされるが、やがてその男の親に雇われた男たちがやってきて、、、という話。
「そこに愛はあるのか」という恋愛映画の永遠の主題が、あからさまな性と金の問題として描かれる。筋だけ追えば「主人公が疑いながらも得ていると思っていた愛らしきものが最初から幻だったことがわかる悲劇」ということになる。最初からある性的な格差(男と女)と資本力的な格差(富豪と夜の女)は愛の力では超えられなかった(この愛の疑わしさは当初からわかっているのだが)、ということだ。
しかしこれは喜劇でもある。男の親から派遣されてくるこわもての男たちは銃を持ってないし、人を殴らない。この映画で人を殴るのは主人公をはじめとする女性たちだけだ。悲劇をもたらす力であるはずの富豪一族、特に母親も最後の最後で主人公の女性に痛快にやられている。こわいおにーちゃんたちが女性をめぐってあたふたし、鼻を骨折してゲロをはく様子や、権威的な母親がやり返されて痛いしっぺ返しを食らう様子は単純に笑える。力の転倒の喜劇。悲劇と喜劇が上手にブレンドされた映画はたいてい面白いから、この映画も面白いのは当然だ。
それでもやはり、これは「暴力」の映画だ。こわもての男たちのうちのバイオレンス担当の男は、主人公の女性に「底辺に生きる者同士の連帯」のようなものを示し続けている。その男を忌み嫌っていた女性は最後に男のまごころに触れたおもいになった時、性的な行為で感謝を示すことしかできない(これが新たな愛の認識だと純粋なラブストーリーになるところう。この作品においては、あくまでも男の思いは共感的同情的なものであり、女性の思いは感謝だろう)。女性には性的に搾取される貧しい人間の行動規範が身についてしまっているのだ。これが人間に振るわれる最悪の暴力でなくてなんなのか。最後の涙は身につまされる。