「大変面白く観ました!」傲慢と善良 komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
大変面白く観ました!
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと大変面白く観ました!
今作の映画『傲慢と善良』は、映画の中盤で示された、小野里(前田美波里さん)による、今の婚活の人達は「自己評価が低い一方で、自己愛の方はとても強い」「傲慢と善良」です、という言葉が、観客に突き刺さったと思われます。
この小野里による、「傲慢と善良」という映画のタイトルにもなっている言葉によって、西澤架(藤ヶ谷太輔さん)の婚約者であった坂庭真実(奈緒さん)がなぜ失踪したのかの理由以上に、観客は「傲慢と善良」の意味を考え続けたと思われます。
結論としては、美奈子(桜庭ななみさん)らに、真実がストーカーの被害を受けていたことは嘘だと暴かれ、その上で(本当は結婚したい気持ちが70%であって、真実の点数を言ったわけではないのですが)架は真実を「70点の評価」だと伝えられ、その事がショックで真実は架の前から失踪したのだと明らかになります。
ところが、真実に対して美奈子らが言い放った「ストーカーの嘘」の暴きや「70点の評価」の言葉は、真実の失踪のトリガーに過ぎず、真実の架からの失踪の理由は、真実の母・坂庭陽子(宮崎美子さん)の毒親の言動による抑圧が要因だったと、映画を通して分かることになります。
(西澤架と婚約した)坂庭真実は、毒親である母・坂庭陽子から自身の本音やエゴを抑圧され、「善良」な振る舞いをずっと強いられて来ました。
すると、(真実が、過去に婚活で知り合った男性と遊園地に行った時に再開した)同級生や、美奈子らは、真実の「善良」さを嫌悪することになります。
なぜなら、母から強いられた真実の「善良」さは、同級生や美奈子らのエゴ(「傲慢」さ)を否定する作用を働かせることになるからです。
そして美奈子らに、真実の偽りのストーカー被害は、(「善良」の抑圧で歪んだ)真実の「傲慢」さ(エゴ)の現われだと、暴き立てられるのです。
ここで美奈子らは、一見、真実の「傲慢」さ(エゴ)を批判しているようですが、実は、美奈子らが真実に言いたいことは逆で、「傲慢」さ(エゴ)を「善良」で隠している、その「善良」の方の問題を批判しているのです。
つまり美奈子らが言いたい本心は、真実は初めから自分たちと同じように(「善良」さをある程度辞め)「傲慢」さをきちんと日頃から表現し、それで傷つく時は傷つく必要がある、だったと思われるのです。
ところが、真実は美奈子らの「善良」の問題の指摘をこの時、受け入れることは出来ません。
なぜなら、真実が自身の「善良」さを辞めて、「傲慢」さ(エゴ)を表に出すことは、母・坂庭陽子から幼少の時から禁じられて来たからです。
真実はこうして、自身の「傲慢」さ(エゴ)を母に否定されまま、身につけた「善良」さも美奈子らに否定され、助けを求めるはずの架には「70点」と評価され母に否定され続けたために本心(「傲慢」さ)の問い掛けも架に出来ないままで、心の行き場を無くして、婚約者・架の前から失踪せざるを得なくなります。
そして真実が向かった先は「善良」さが深く肯定される、高橋耕太郎(倉悠貴さん)や、よしの(西田尚美さん)らがいる、東北のボランティアの現場でした。
映画はその後のラストで、真実と架との再会で、真実と架が互いに必要な存在であったことを再認識し、再び一緒になることを選択して物語は閉じられます。
私はこの映画のラストが、本当に美しい着地だったと思われました。
なぜなら、このラストは、真実が母に持たされてしまった「善良」さも、母に抑圧されている「傲慢」さも、どちらも持っていて良いのだと肯定していると感じられたからです。
架もまた、元恋人の三井亜優子(森カンナさん)を引きずり「傲慢」的に多くの婚約アプリで知り合った相手を軽視しながら、しかし全体としては他者に対して丁寧で「善良」な人物であったと思われます。
そして、映画ラストの架と真実との再びの関係のスタートが美しく思われたのは、架を演じた藤ヶ谷太輔さんも、真実を演じた奈緒さんも、「善良」と「傲慢」との双方に広く深く複雑に触れながら演じ続けていたからだとも思われました。
この映画は、毒親によって「傲慢」さを抑圧され作られた「善良」さの正体を明らかにしようとしています。
そして、この「善良」さは、毒親による抑圧だけでなく、日本社会全体の抑圧によるものだとも示唆され、日本人の多くも持ち合わせている「善良」さだとも思われました。
私個人が(真実を責め立てる)美奈子らに対して嫌悪感を持ったのも、この日本社会の抑圧で強いられている「善良」さが、良くも悪くも影響しているように感じました。
しかし一方で、一見嫌な存在でしかないと思われる、美奈子らや遊園地での真実の同級生が、私には一方的な嫌な存在とまでは思われませんでした。
なぜなら、美奈子を演じた桜庭ななみさんらもまた、こちらの嫌悪感を超えて深さある演じ方をしていたと思われるからです。
これらの俳優陣のそれぞれ深みある演技の素晴らしさは、優れた俳優の皆さんの力もあると思われながら、萩原健太郎 監督の手腕もあるのではないかと想像します。
ただ惜しむらくは、もっと美奈子らの心情が深く真実と対峙されて描かれる脚本構造になっていれば、もっと多くの人にこの作品の伝えたい中心が伝わったのではないかとも一方で思われました。
なので、「傲慢と善良」の言葉の意味は?と、観客側が映画を通じて積極的に考え続けなければ、美奈子らの本心も、対峙する真実の心の深層も、理解しないまま映画を鑑賞し終わった観客も少なくなかったのではと、推察します。
(真実に対峙する)美奈子らの心情はもう少し深く描く構成に出来たのではないかと、僭越ながら今回の点数になりました。
しかしながら今作の映画『傲慢と善良』は、「傲慢」と「善良」とをそれぞれ共に広く最後には肯定した作品になっていると感じられ、やはり優れた美しい映画の1本だなと、僭越ながら思われました。