「ミケランジェロだって本当はやりたくなかった」教皇選挙 TRINITY:The Righthanded Devilさんの映画レビュー(感想・評価)
ミケランジェロだって本当はやりたくなかった
ローマ・カトリックのトップ(教皇)を選出するための会合(コンクラーベ)を舞台にした小説の映画化。
教皇からの信任厚く、他の枢機卿からも一目置かれるトマス・ローレンス主席枢機卿(猊下と呼ばれていたけど、教皇は何て呼ばれてるんだろう)。
上昇志向も権力欲もない彼は辞任を申し出るも許されず、教皇の急死によって開かれるコンクラーベを自分が執り仕切ることに。
コンクラーベの会場はシスティーナ礼拝堂。有名な祭壇画『最後の審判』が映し出されるが、焦点は合っていない。
設営する神父を見上げるようなアングルでカメラが旋回するが、決して他の天井画を捉えない。あとで考えると、閉鎖性、秘匿性の高いカトリックの暗喩にもみえる。
コンクラーベは上位得票者による決選投票などなく、誰かが有効得票に達するまで延々繰り返されるという、冗談みたいだがまさしく根競べ。
決着がつかずに焦燥感を募らせるトマスは『最後の審判』にたびたび視線を向けるが、彼の主観で映し出されるのは荘厳に描かれたイエス再臨や美しい聖母ではなく、苦悶する人間を地獄へと引き摺り込もうとする醜怪な悪魔。
神に最も近い場所に仕えながら、他人を蹴落としてでも玉座を勝ち取ろうとする聖職者の内面を象徴しているかのよう。
ある媒体によると、原作者はフランシスコ現教皇選任の際のコンクラーベから想を得て起稿したそうだが、シチュエーションはどちらかといえばヨハネ・パウロ二世の時の方に近い(現教皇の前任は生前退位)。
有力候補が次々と脱落するなか、トマスはリベラル派の仲間から教皇になるよう促され「自分はジョン(ヨハネ)を名乗る」と決意する(因みに、英語圏でのヨハネ・パウロ二世の呼び方はジョン・ポール・セカンド)。
しかし、物語は予想外の結末に…。
急逝した前教皇の人間性やポリシーが不明なので、個人的にはいろいろ邪推したくなる。
対抗馬のアディエミと関係を持った修道女を呼び寄せたトランブレは、前教皇の指示だったと主張し、前教皇が彼を解任しようとした理由もほかにあることが発覚。でも亡くなった前教皇から証言を得られる訳もなく、真相は藪の中。
もし本当にアディエミの教皇就任を阻みたい意向を前教皇が持っていたとすれば、それはスキャンダルゆえなのか、それとも有色人種だからか。
メキシコ出身のベニテスの容貌はメスティーソ(白人との混血)というより、純粋な先住民に近い。
しかも彼の場合、非白人というだけでなく、身体の特異性は厳格なカトリックの立場からみればキメラ(怪物)のようなもの。
彼に紛争地ばかり担当させていたのは、バチカンから遠ざけたかっただけ?それとも、偶発的な排除を期待していたから?!
現実のバチカンも保守派とリベラル派のせめぎ合いが厳しいと聞く。
そんな中、リベラル派の現教皇は健康が不安視され、本当にコンクラーベが開催される可能性もかなり濃厚。
次はどんな人物が教皇の座に着くのか。
システィーナ礼拝堂の天井画や祭壇画を製作したミケランジェロは彫刻家としての自負が強く、絵画至上主義のダ・ヴィンチと対立した話は有名。
礼拝堂の絵画も当時の教皇に無理強いされてやむを得ず引き受けている。
作中のトマスもベニテスも本来なら教皇になりたくなかった人物。そのことを踏まえると、どんな人物が教皇にふさわしいかは、システィーナ礼拝堂自体が示唆しているように思えてくる。
ほぼ対話だけで成立する120分の映画を、熟練の俳優陣が弛緩なく見せてくれる。
予備知識がなくても十分堪能できる作品。
■追記■
猊下は本来、仏教用語で、日本なら座主や管長といったトップ中のトップにしか使われない敬称。
NO.2のトマスが猊下と呼ばれていることに違和感があったので、調べてみたら教皇には「聖下」という特別な敬称が用いられるのが一般的とのことでした。