「たくさんの仕掛けがある作品で、色抜き文字の解釈で論争が起きそうな気配がありますね」教皇選挙 Dr.Hawkさんの映画レビュー(感想・評価)
たくさんの仕掛けがある作品で、色抜き文字の解釈で論争が起きそうな気配がありますね
2025.3.26 字幕 TOHOシネマズ二条
2024年のアメリカ&イギリス合作の映画(120分、G)
教皇の死によって選挙が行われるシスティーナ礼拝堂内部の内紛を描いたミステリー映画
原作はロバート・ハリスの著作『Con clave(2016年)』
監督はエドワード・ベルガー
脚本はピーター・ストローハン
原題の『Conclave』は「教皇選挙」のこと
物語は、バチカンにて教皇(ブルーノ・ノヴェリ)が亡くなるところから紡がれる
第一発見者のヤヌシュことウォズニアック大司教(Jacek Koman)が部屋を訪れた時にはすでに亡くなっていたが、そのことはトレンブレ枢機卿(ジョン・リズゴー)によって口止めされていた
トレンブレは教皇が亡くなった当日のスケジュールを洗い出し、不審な動きがなかったかを調べていく
主席枢機卿のトマス・ローレンス(レイフ・ファインズ)は遅れてそれを知らされることになり、悲しむ間もないままに、教皇選挙の管理人として動き出さなければならなくなった
彼には右腕的存在のレイことオマリー大司教(Brían F. O’Byrne)がいて、彼はトランブレに関する何かを握っていた
教皇が亡くなった3日後にコンクラーベが行われることになり、108人もの枢機卿がシスティーナ礼拝堂にやってくる様子が描かれていく
彼らは近くにあるマルタの家にて寝泊まりすることになっていて、そこの管理はシスター・アグネス(イザベラ・ロッセリーニ)が任されていた
有力とされているのは、ローレンスの親友でもあるリベラル派のアルド・ベリーニ(スタンリー・トゥッチ)で、彼は保守派のテデスコ(セルジオ・カルテリット)を敵視していた
他には穏健保守派のトレンブレと、アフリカ系初の教皇となるアディエミ(ルシアン・ムサマティ)も有力視されていた
物語は1回目の投票を終え、レイがトランブレの疑惑についてローレンスに話すところから動き出す
レイは、「トランブレが教皇に会った最後の人物だったが、そこで解任を言い渡されていた」と言う
事の真相を確かめるべくローレンスはトランブレに問いただすものの、彼は強く否定し、会話の内容はプライベートなものだったと言い張る
その後、2回目の選挙後の食事にて、アディエミ派たちが座っていたあたりで騒然とした一悶着が起こってしまう
ローレンスはシスター・アグネスに尋ねるものの、修道女の問題はこちらで解決すると突っぱねられる
だが、選挙に必要な情報だと確信するローレンスは、アディエミとの間に何かが会った修道女シャヌーミ(Balkissa Souley Maiga)から話と聞くことになった
そして、ローレンスは事態を重く受け止め、アディエミに候補から外れるように言い渡した
物語は、誰が時期教皇に相応しいのかを選んでいくものだが、大きく分けて3つのグループが派閥争いをしていた
ベリーニを担ぐリベラル派、ムスリムとの衝突も辞さない保守派のテデスコ派、そして、何としても教皇になりたいトレンブレは裏工作をして、複数の枢機卿を金で買収していた
さらに、シャヌーミをバチカンに来させた張本人であることがバレて、トレンブレは失脚してしまう
そして、ベリーニは周りが思うほどに自分には人気がないことを悟り、ローレンスに対して教皇になるように働きかける
だが、ローレンスが投票用紙に自分の名前を書いて投票しようとしたその時、事件が起きてしまった
それは、近くの広場にて自爆テロがあり、その影響で、システィーナ礼拝堂の天窓が割れて、辺りはガラス片とチリに塗れてしまったのである
この事件によって、保守派のテデスコは宗教戦争を高らかに宣言するものの、戦地での布教経験のあるベニテス(カルロス・ディコス)は、一連の選挙騒動にて、教会は自分のことしか考えていないと断罪するのである
映画は、劇中の呼び名とエンドクレジットの名前が違うと言うキャラが複数いて、人物相関がかなり難解なものになっていた
ローレンスはトマス、猊下と呼ばれ、ベリーニはアルドと呼ばれている
さらに第一発見者はヤヌシュと呼ばれているが、役名はウォズニアックだし、ローレンスの右腕のレイは役名はオマリーだったりする
このあたりをさっと理解できる人は、相関図に悩むことはないと思う
映画のラストは、新教皇にまつわる秘密のお話だが、さすがにネタバレレビューでも書きづらい内容だと思う
それは冒頭のローレンスの説教のアンサーになっていて、多様性とは何かをもう少し掘り下げていく必要がある、と言うメッセージがあった
ローレンスの中では、多様性を受け入れる覚悟を持っていたが、それ以上の多様性というものが登場し、狼狽する様子が描かれていく
さらに、その事実は前教皇も承知の上で聖職者として認めている部分があるのだが、前教皇の進言を誤りだと考えて、ありのままを選択することになっていた
「これも私」というのは言い得て妙というもので、生まれながらにして生まれる多様性と、後天的に派生する多様性の違いというものを色濃く対比する構造になっていたのだと思う
宗教、肌の色、思想信条などのあらゆる多様性受容の中にありつつ、それを超えてしまうもの
それを新教皇は神から与えられていた、というのである
いずれにせよ、なぜかお客さんがたくさん来る映画で、ほとんどの席が埋まっている状態で2回観ることになった
日本人受けするとは思えない内容とテーマだが、それでも口コミやメディアの宣伝で拡大上映が起こっている
また、冒頭とラストのスタッフ&キャストロールにて、「文字の色抜き」というものがあって、それが新たな考察を生んでいた
ググっても正解らしきものは出ないのだが、冒頭のスタッフロールでは「I(私)が5回」登場し、これは「次期教皇候補5人(ベリーニ、トランブレ、テデスコ、アディエミ、ローレンス)」のことを指していると思う
エンドクレジットでは合計27文字「INOUAXINXOIN IOTíDTNaIVMAIN&」が登場するのだが、枢機卿の役柄で「色抜きにならないのはベニテス役のカルロス・ディエゴだけ」だった
CARLOS DIEHZはレイ役のBRÍAN F. O’BYRNEと併記になっているが、ここで使われる「I」は「Í」となっていて、このあたりにも意味があるのだろう
それが何なのかは色々と解釈があると思うが、個人的にはレイの持つ情報が選挙を左右し、彼にアキュートアクセントの「Í」があることからも、それを強調しているように思える
カルロスの中にある「I」をあえて色抜きにしていないのは、彼自身は「I」の人ではないということの表れだと思うし、冒頭では先頭のIを色抜きにしつつ、エンドクレジットでは先頭の文字は一つも色抜きになっていない
このあたりに、選挙を通じて変化した教会というものを示唆しているのかな、と感じた
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