「閉鎖空間における狂気狂乱」IMMACULATE 聖なる胎動 HGPomeraさんの映画レビュー(感想・評価)
閉鎖空間における狂気狂乱
ホラージャンルの作品という事とジャンプスケア(突然の大きな音や怖い映像)がある事の、鑑賞前と鑑賞中の心持ちが合致したこともあり、ホラーとしては安定して楽しめた作品でした。
下手に捻った設定や謎、考察に苦労する退屈なシーンも少なく比較的分かりやすい不条理と狂気だったので退屈感は少なく鑑賞できましたが、ホラーが根幹では無い作品のようで、スプラッターやグロ表現は抑え目のためホラー感は期待したよりは少なかった印象でした。
そして終始憤りを感じながら鑑賞できたことは、本作品の性質上、魅せられたなぁと思います。
本作は、聖なる存在や誠実、真理などとは全く関係のない作品だと思いました。
「ナンホラー(修道女と狂信、暴力描写)」ではあるのですが、それはあくまで修道女とキリスト教が出演・舞台になっているだけで、閉鎖空間で宗教を利用しその場を搾取する側と、宗教を妄信する側の、人間同士の狂気共演と思いました。
その理由は以下の通りです。
※注意。ネタばれ有ります。
①テデスキ神父の動機と計画は、自分のキャリアを活かして「不可能」に臨み憑りつかれて、「使えそうな素材」を騙して引きずり込んで詐欺行為を働き、人権も神の存在さえも考えていないただの快楽狂人者であった。
なぜなら、「失敗作」や「反対勢力」に対して普通に非道行為を行いキリスト再誕に挑戦しているだけで、その後(成功した暁後)の聖地や聖なる新興を感じさせる背景や性格は伝わらなかったから。
②修道女院内のテデスキ支持派や宗教の妄信者も、神への信仰を感じさせるよりも妄信して何も考えていないと見えるだけの、閉鎖空間の犠牲者だった。
なぜなら、「現代」なら体外受精や人口受胎などの可能性は十分に考えられるし、疑問にも思えるはずなのに、妄信者たちは意味なく狂信に憑りつかれ、物語の「正」の牽引者だったシスター・グウェン以外の人達は、疑いもしないから。
※それがホラーの物語構成だと言われればそうなのですが。
③主人公シスター・セシリアも、冒頭の「決断」ではないとのクダリでは、信仰に身を捧げる誠実な人物かと思いましたが、それもつかの間、妊娠が発覚してからは信仰の「し」の字も消え失せていた。
あり得ない異常な状況と犯罪の狂気をすぐに察知し脱出に奔走。
神の御業なんて全く信じない(当たり前ではありますが)。
それだけではなく、錯乱し人を殺め普通の暴言を吐き捨て逃れるために一生懸命に生き抜こうとした普通の強い意志の人間だった。
冒頭の、丁寧な言葉遣いや慎み深い態度、鶏をさばけない描写などは、あくまでも「そうなりたいと」との思いを「決断」した人だっただけであり、それを裏付けるように妊娠をしてしまった「罪」を認識した後の彼女の性格は、ある意味普通の錯乱した被害者になり、やはり「(軽い)決断」をしただけの人だった。
また恐らくではあるが、ラストのあの赤子描写の仕方からして、人口受胎はやっぱり失敗しており、その胎児はあまりに不幸な姿だったのであろうかと思える。
そして見せ場のあの絶叫。
信仰に裏切られた怒りもあるであろうが、そもそも信仰の薄さが見て取れてたし、悲しげな表情も皆無だったため、単純に「ふざけんじゃねぇ!」……との怒りのみと私は思いました。
また、何であろうと極悪行為を許さない怒りを抑えられない描写は、まさに「信仰にとりつかれるな。人間らしく自分の意志を持つのが当たり前の生きる道。」を伝えたかった描写と勝手に邪推いたします。
あのラストは「決まりの良い」ラスト演出で満足できました。
本作で、「追い」として思ったのは、閉鎖空間は本当に危険な空間になり得る可能性が高いとの事。
そもそも反社会的思想者は、そこを隠れ蓑に好き放題支配しようとしている事例が、どの国の歴史でも現代でも、見て取れるはず。
宗教を否定はしたくはないのだが、信仰を「利用」して自分勝手に欲望を遂行する人間が必ず存在するので(むしろ数多く)、信仰に耳を傾けることが出来なくなってしまう状況もある事が永遠のジレンマだと思います。
結論、宗教は「自分のみ」の意志と信仰心で介入し、強制や妄信は聖なる存在や真理から外れていることに気が付くべきで、もし信仰に疑問があれば潔く身を引ける環境で有ってほしいと思います。
あと最後に、近日公開された「異端者の家」とは、主人公の描写が180度真逆だったことも、印象深く多種多様な自由な考え方や意志を感じれてよかったです。
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