「我が人生をかけて創(か)く」八犬伝 近大さんの映画レビュー(感想・評価)
我が人生をかけて創(か)く
『里見八犬伝』は1983年の角川製作作品は見た事あるのだが…、
今となっちゃあほとんど話は覚えておらず。ましてや誰かに説明なども出来やせず。漠然と妖術とアクションとロマンスの時代劇ファンタジーだったような…くらい。
現代技術を駆使して新たに映画化。これはちょうどいい…と思っていたら、一捻り。
『里見八犬伝』の物語=“虚”のパートと、作者である滝沢馬琴がいかにして『里見八犬伝』を書き上げたか=“実”のパートが交錯して展開。
大胆な構成で描かれる、“シン・里見八犬伝”であり、名作誕生秘話。
名作誕生秘話に著作が挿入されるのはそう物珍しくはないが、こうも堂々と双方を打ち出して描くのはそうそうない。大抵、どちらかに比重が置かれる。
ならば、一本で二本分の…と言いたい所だが、ちょっと惜しい気がした。『里見八犬伝』はダイジェスト的であり、馬琴のドラマもぶつ切りエピソードを並べ立てたようにも…。
“虚”と“実”が巧みに入れ替わるが、人によってはそれが物語やテンポを鈍らせたかもしれないし、純粋にVFXエンターテイメントを楽しみたかった、馬琴の創作のドラマをじっくり見たかった…という声もあるかもしれない。
でも、私のように『里見八犬伝』をほぼ忘れてしまったり、創作秘話に少なからず興味ある者としては、やはり贅沢な2時間半なのである。
見る前は2時間半は身構えるが、終わってみれば意外とあっという間の感。まんまとこの“虚”と“実”の物語に引き込まれてしまった訳か。
監督・曽利文彦にとっても『ピンポン』以来の上々作。
“虚”のエンターテイメントと“実”のドラマなので、それぞれの感想を語っていこうかなと。
まず、“虚”。『里見八犬伝』。
見ていく内に話を思い出した。呪いをかけられた里見家。呪いからの解放を願い、息絶えた姫君縁の八つの珠を持つ八人の士が導かれるようにして集い、邪悪な存在と闘う…。
演劇・映画化・ドラマ化は数知れず。『指輪物語』が洋ファンタジーの原点なら『里見八犬伝』は和ファンタジーの原点。
1983年版はたっぷりの製作費と当時の特殊技術を駆使して描いた娯楽活劇だった事を記憶している。さすがに今回は全編『里見八犬伝』ではないのでちとスケールなど物足りなさはある。
しかし、現代VFX技術を駆使したケレン味たっぷりの世界観。若いキャストも多く、何だか映画というより2.5次元舞台のよう。最近『推しの子』を見たばかりなのでそれはそれで楽しませて貰った。
若いキャストの中には名も知れた注目株もいるが、ちと実力不足も…。今年最大のブレイク・河合優実も勿体ない。栗山千明は怪演。
先述の通りダイジェスト的だが、サクッと『里見八犬伝』を知るには充分。確かにこんな感じで1983年版のように長尺で見てみたかった気も…。
“虚”も悪くなかったが、個人的に“実”の方が好みだったかな。
ラストでも説明あるが、執筆期間は28年…! 全98巻。48歳の時に書き始め、人生の後半を費やしたほど。まさにライフワーク。
創造した『里見八犬伝』を話聞かせる。相手は、葛飾北斎。
知ってる人もいるのだろうが、馬琴と北斎が親交あったとは、私ゃ知らなかった。
馬琴が話を聞かせ、北斎が挿し絵を描く。それを糧に馬琴はまた物語を創造していく。だけど北斎はせっかく描いた挿し絵をすぐ丸め捨ててしまうんだけど…。
そんな二人のやり取りをユーモラスにも。馬琴のうるさ妻曰く、ジジイ二人で何やってんだか。
ものを書く/描く者同士、才能を認め合っている。あんな石頭からどうしてこんな奇想天外な物語が創られるのか、あんな偏屈からどうして躍動感たっぷりの画が描けるのか。
馬琴と北斎は北斎の方が年上なので、馬琴=役所広司、北斎=内野聖陽の配役はちと違和感あるが、そこは演技力でカバー。不思議としっくり来る。
実パートは豪華演技派揃いで、その点は虚パートと比較にならないほど。磯村勇斗や黒木華も好助演で見せ場あり。寺島しのぶはオーバー気味だったかな…?
創作秘話には苦悩が付き物だが、馬琴のそれはちょっと違う。物語の創造に於いて壁にぶち当たる事はなく、想像力は無限。馬琴と関わる人間関係や馬琴の身体のある部分が馬琴を苦しめる…。
馬琴はある時北斎に連れられ、芝居を観に行く。
一見『忠臣蔵』。そこに怪談話が絡む。深作欣二監督作でも知られる『忠臣蔵外伝 四谷怪談』。
馬琴は作者・鶴屋南北の独創性は評価するが、ある疑問が。何故、“実(忠臣蔵)”に“虚(四谷怪談)”を…?
南北にとっては『四谷怪談』こそ“実”で『忠臣蔵』こそ“虚”。『四谷怪談』に恐怖を感じたならそれはもう“虚”ではなく“実”。
馬琴は『里見八犬伝』で勧善懲悪を描くが、南北はこの世は必ずしも正義が勝つ訳ではない。
馬琴と南北の問答の凄みと、立川談春の存在感。
『里見八犬伝』を勧善懲悪の“虚”として描く馬琴にとってはカルチャーショック。
妻・お百は物書きの夫を理解出来ない。口を開けば悪態悪態悪態…。息子・宗伯は父を尊敬しているが、馬琴は厳しく向き合ってくれない。それでも父の執筆を手伝う宗伯だったが、身体が弱く、やがて…。
良き息子に恵まれ、孫にも恵まれるが、真に家族として幸せだったのか…? もっと家族と…。
息子が亡くなり、妻も亡くなり、それでも書き続ける馬琴。長い歳月をかけて『里見八犬伝』も終盤に差し掛かった時、馬琴に病魔が…。失明。
これは物書きにとっては致命的。見えない=紙に文字を書けないも同じ。
物語の創造が出来ないのも苦だが、書きたいものがあるのに書けないのも苦。その歯痒さ、もどかしさ。
そんな時助力を申し出たのが、息子の妻であったお路。
読み書き出来なかったお路が馬琴に一文字一文字教えを乞い、叱責受けながらも、完成させる。知らなかったが、これも実話。
ラストシーン。『里見八犬伝』を書き上げ、力尽き果てたように命絶えた馬琴の元に現れたのは…。
昨今、原作者問題が何かと物議になるが、作者にとって生み出した作品やキャラは我が子。作品やキャラにとって作者は生みの親。
和ファンタジーの原点。
善と悪が入り乱れる世界で貫いた勧善懲悪の信念。
様々な人間関係、苦楽の果てに。
我が人生をかけて創(か)く。
“虚”は“実”となる。