国宝のレビュー・感想・評価
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絶対もう1回は観ますね。
日本の映画って、スクリーンじゃなくてもいいのかな?って思うものが時々ありますが、この作品は絶対にスクリーンで観るべき作品。
美しく艶やかな舞台のシーンはもちろんの事、主役のお二人の表情、目の演技
歌舞伎の場面はどれだけ練習したのかな?
そもそも吉沢亮、横浜流星、永瀬正敏、田中泯…大好きな人たちが出てる作品で、何しろ予告のビジュアルがいい、観ない理由は1つもなかったけど…
いやもう1回は絶対観ます!
予告の見せ方、絶妙だったな…
寺島しのぶさんは、もうホント寺島しのぶさんにしかできない役でしたね。
⭐︎5にしたかったけど、ムスメと出会った場面がちょっと安易な感じもしたかなって感じで4.5にしました。
レビューを一旦書いた後に、いろいろ考えました。
血と才能と努力
血って、結局は経験値なんだと思います。朝から晩までその環境にあって、直に触れる事ができる。
だけど、才能は天からの授かりもの。
そして努力が裏付ける。
血って、人間が自分たちを守りたい…そんな気持ちと強欲が混じり合ったものなのかなぁ
追記の追記
吉沢亮を消せる吉沢亮と、どこまでも横浜流星の違いが主役、準主役を分けたのかな?
いや、2人とも主役
傑作であることに違いはないが…
傑作であることに違いはないが、完璧かと聞かれたら肯定しかねる。まずは、この作品の良かったところから書く。やはり、この作品の注目すべき点は歌舞伎を演じているシーンであろう。吉沢亮演じる喜久雄と横浜流星演じる俊介の「曽根崎心中」は引き込まれるような魅力があったが、最も印象に残ったのは田中泯演じる小野川万菊の「鷺娘」だ。ストーリー序盤に、この鷺娘を少年時代の喜久雄を俊介が鑑賞するシーンがあるのだが、人間国宝の芝居の凄さを少年時代の2人に思い知らせるには十分な演技でこちらも圧倒されてしまった。歌舞伎を観ること自体初めてだったので、歌舞伎初心者が歌舞伎を鑑賞る目的で観るなら非の打ち所のない作品だと感じた。次にこの作品の気に入らなかったところだ。ここからは、完全に個人的な意見なのであまり本気にしないでほしい。私はおもしろい作品に必要なものは「conflict」だと考えている。つまり、「対立」そして「葛藤」である。この作品には「葛藤」が不十分だと感じた。喜久雄に半二郎の代役を任せると告げられた時の、切磋琢磨してきた俊介がするはずだった役を奪ってしまったという葛藤。花井の血を持っていない自分が半二郎の名を継いでも良いのかという葛藤。おそらく、この作品の中で喜久雄は数え切れないほどの葛藤をしてきただろう。特に、PVでよく見かけた喜久雄がぐちゃぐちゃのメイクとはだけた衣装で舞っているシーンは、葛藤の末自暴自棄になったときのことだと思っていたのでなんだか興ざめしてしまった。ただ、傑作であることに違いはないのでこの点数とした。
凄まじい歌舞伎シーン
人間の狂気を描いた作品はとても好きなので期待してました
期待を超えてくる凄さでした
演技とか映像とか凄すぎて圧巻
約3時間と長いが次から次に展開が進んでいってあっという間に終わってしまった
ラストはもうなんかただただ画面からの美しさと覚悟と感動が一気に押し寄せてきて
言葉じゃ言い表せない感情になる
歌舞伎のシーンが凄まじい
吉沢亮の曾根崎心中のシーンとか歌舞伎の知識はほとんどないけれど衝撃を受ける
横浜流星の曾根崎心中も衝撃
1年半の稽古の努力が凄く伝わってきました
あとは田中泯の演技もとても存在感がありました
また、これは映画全体を通しても言えるが色味や、光と影の演出が素晴らしかった
序盤の方で東一郎が竹野にキレるシーンがあるけどその時の吉沢亮さんの演技が怖かった
狂気の世界と出会い別れ、苦悩が3時間の中に濃密に描かれていました
間違いなく世界で評価される作品でしょう!
歌舞伎に人生を捧げた彼らの壮絶な人生
歌舞伎に人生を捧げる理由
心が揺さぶれられっぱなしでした
美しい世界
御曹司の華と部屋子の執念がとてもいい対比になっていた
二人がいがみ合わず切磋琢磨していくのがまさに「芸事」だと思った。
悪魔に魂を渡してでも築き上げた国宝という地位と、完成された鷺娘の美しさはさながら浮世絵の様だったし、紙吹雪が本当の雪に変わり探し求めていた景色が現れた瞬間の美しさが圧巻だった
かなりの期間の年代を見せていく作品ではあるが、90年まではあまりときが進んでない様に見えるのは、梨園という閉じた世界を表現するためにわざと選んだのかどうなのか。半弥が亡くなってから急に時が進んで新しい世界に進んだように見えた。
長い!
歌舞伎の知識は、無いのですが
吉沢亮くんも、横浜流星も、どれだけ研鑽を
積んだのか。。。と思える
素晴らしい演技でした
でも、どうしても歌舞伎役者には
見えません
こんなに歌舞伎をがっつりやるなら
いっそのこと
団子くんと、染五郎とか
中村屋兄弟とか
歌舞伎役者さんに、演じてもらっても
良いのではないかと思うけど。。。
吉沢亮くんと、横浜流星の熱演ぶりが
凄すぎて
やっぱし、他の人ではあかんかなぁ
と、モヤモヤします
そして、なんで、舞台を関西にしたのやろ
メインの二人が、関西出身でないのだから
東京で、ええやん
関西弁探偵の、私は、決めゼリフの
イントネーションが気になって
感動が冷めます
クライマックスとなるべき場面が
何度かあり、そこを頂点に
世襲や、血、才能を乗り越えて芸に生きる
二人の姿をメインにした物語の方が
映画向きやと思うけど。。。
主人公が「国宝」となるまでの
長い道のりを描くなら
映画じゃなくて
大河ドラマとか、日曜劇場にしたら
良かったと思います
まだ、続きあるんか?
という気持ちになりました
そして、なんか、上から目線で
どや!すごいやろ!!と言われ続けていて
批判じみた感想要りません
みたいな、雰囲気の映画でした
単純な感想として。。。
黒川想矢くんが良かった
そして、俊ぼん、エエやつやなぁ
春江の心変わりにモヤモヤ
親子そろって、糖尿になるなんて
寺島しのぶ、食生活、考えたってぇや
なんてことも思いつつ、観てました
悪魔との取引‼️
父親を殺された極道の一人息子・喜久雄、そんな喜久雄を引き取った歌舞伎界の花形俳優・花井半二郎の一人息子・俊介の50年に及ぶ友情と葛藤の物語‼️半二郎が怪我した自分の代役に息子の俊介ではなく喜久雄を推したことから、二人の関係に変化が起こる‼️そんな二人の物語が歌舞伎界の内幕も含めてかなりソフトにまろやかに描かれます‼️喜久雄に自分の代役をさせねばならない半二郎の苦悩、代役が息子でないことに憤りを見せる半二郎の妻、代役が自分ではない事に哀しみを滲ませる俊介、そんな俊介を愛してしまう喜久雄の恋人・春江、喜久雄の娘を産みながらもほったらかしにされる芸妓、歌舞伎界を追放された喜久雄と苦労を共にする歌舞伎界重鎮の娘、父を恨む喜久雄の娘など、様々な物語が結構なアッサリ味で深みもなく描かれているので、もう少し一人一人のキャラを丁寧に描いて欲しかった‼️本当はもっとドロドロした歌舞伎界の裏側を観たかったんです、私は‼️演劇界の「イヴの総て」や映画界の「サンセット大通り」みたいな‼️半二郎の代役に喜久雄が舞台に上がり、涙を流す俊介と春江が手を繋いで出て行くのを交錯させて魅せるシーン‼️和解した二人が久しぶりに舞台で共演するシーン‼️この二つのシーンは素晴らしかった‼️キャストの皆さんも吉沢亮、横浜流星、高畑充希、森七菜、そしてワンシーンのみの瀧内久美さんも含め頑張ってたと思うのですが、半二郎役のラスト・サムライがミスキャスト‼️今作の製作のニュースを聞いた時から、歌舞伎界の女形の名優役と聞いて、そのビジュアルからして大丈夫かな?と思ったら、予想通り本編で歌舞伎の舞台で演じるシーンは無い‼️無理だと自覚してたのかな⁉️
歌舞伎の人はどう思うのだろう?
原作未読のため映画単体としての感想。
役者の気合いと鍛錬には感服しますが、ストーリー。全体的に非現実的すぎて感動が半減。歌舞伎の世界が好きな人にはあまり受け入れられないと思う。血筋がなくても大成する役者はいるけど、さすがに主役に設定がねじ込まれ過ぎてる。女性たちの人物像が全体として薄い、二人の母、二人の妻(一人は内縁)でお腹いっぱい、さらに二人目の内縁、あげく娘は描ききれていない印象でした。
時間がどんどん進んで「◯年後」というのも頭が追いつかない。老け顔メイクもやや甘く感じた。
曽根崎心中はあのまま見せたのに、鷺娘での馬鹿でかい音楽なぜ。
二人の演技は凄い
吉沢亮さんと横浜流星さんの演技は凄い。
特に横浜さん。糖尿病で片足切断、もう片方も壊死?
の中舞台に立って…。
原作も読みました。あのボリュームをよく3時間で
まとめたな、と思います。
では涙溢れて心打たれるシーンがあったか、と言うと
そこはうーん、どうなんだろう。
二人の役者人生は飽きることなく最後まで見れました。
歌舞伎は一度も見た事ないですが…
文庫化された時に『国宝』を読んで面白かったのと、評判が良いので見て参りました。 歌舞伎をきちんと見た事が無いのですか、本当に絵が美しかったです。 演者さんが良いので、演技は当然ですか、全シーン代役無しで、ご自分で舞っていらっしゃったのでしょうか?
歌舞伎のシーンだけでも、元が取れるのでぜひ観にいって下さい! すでにウル覚えなのですが、原作ではもっと純粋に芸しか残らなかった事が、印象付けらるラストシーンだったと思いました。(暗いラストではなくて、やり切った、そこまでいったんだ!と感じられるラストシーンでした。)
✳︎入りは3割くらい、年配のご夫婦がほとんどでした。
吉沢亮、横浜流星なのでもう少し、若い人達が観に来て
いるのかな?と思いましたが、残念…
ヒットして欲しい作品なので、沢山の人に見て欲しい!
こういう映画に人が入らないと、アニメと軽い作品
しかかからなくなっちゃうぞ!
芸を極めた者だけが見る景色
吉沢亮と横浜流星の圧巻の演技だけでも観る価値あり。
歌舞伎役者を演じる二人だが、相当な稽古を積んだに
違いないレベルのパフォーマンスを発揮している。
その歌舞伎を実際に演じるシーンにもスポットがあたる
ため175分の長尺となったことがよくわかった。
歌舞伎役者の半生で、二人の栄枯盛衰が描かれているが、
あくまでも吉沢亮演じる喜久雄の視点である。
したがい、干されている期間の苦労が描かれているのは
喜久雄のみであるが、芸だけで生きる覚悟を感じる
大事なパートだと思った。
人間国宝になった喜久雄は自分の人生に満足だったのか、
それはラストシーンでの「きれいやなあ」のセリフに
全てが込められていると感じた。
きっと悔いはないのだろう。
吉沢・横浜以外の俳優も素晴らしいのだ。
渡辺謙の目、寺島しのぶの安心感ある盤石の演技、
田中泯は本当に人間国宝かと思ってしまうほどの緊張感
が迸る演技、そして森七菜の今までのイメージから脱却
するほど挑戦した演技に惜しみない拍手を贈りたい。
まさかの瀧内公美登場は素直にうれしかったし、
大事な役どころでビシッとキメていた。
長尺ながら終始緊張感があり、実に豊潤な作品で、
あっという間の175分。
とにかく吉沢亮と横浜流星の演技は刮目して
ご覧いただきたい。
※横浜流星は大河の主演をつとめつつ本作に取り組んだのか?もし、そうだとしたら凄まじい役者魂だ。
フツーのキレーな映画
全体に平坦で舞台シーンがキレーな映画という印象。以下ほぼ褒めていないのでこの映画をお好きな方は読まれない方がいいかも。
まず、映画の売りになっている歌舞伎の舞台シーン。メインキャラお二人が1年半かけて血の滲むような稽古をして挑んだとか。その努力を否定する訳ではないが、子どもの時から歌舞伎一筋で芸を磨く歌舞伎役者なる本業役者がいる以上、1年半で極められるものではないだろう。言葉がきつくなるかもしれないが所謂素人芸の域。譬えて言うなら部活の高校生が猛練習しました。その発表会するので見て下さいという感じ。猛練習した高校の吹奏楽部演奏は凄いし。それは否定しない。
だから若手の頃の舞台はそこまで気にならない。若い演技だから。しかし、中堅になった舞台シーンもさほど若手の頃と変わらない
レベルに見える。年月を経た深みはなくずっとメインキャラお二人が頑張って到達されたレベルの舞台。最後の鷺娘などはだからそれで国宝感はとても感じられない。申し訳ないが、それをプロの歌舞伎役者の舞台として見せられ感動せよと言われても鼻白む。演出で国宝感を出せたかもしれないが、ニュートラルな演出の色は変えられなかったのだろう。
ニュートラルな演出と言えば原作未読なので原作はもっと深いのかもしれないが、映画を見た限り、全てがあっさり通り過ぎ情念とか業は感じなかった。それをある程度は描こうとしていたようだが。
1つは女性達のメンタルがきれい過ぎる。義理の母や主人公の彼女達との関係は結構複雑なはずだが、義母は嫌味は言うがさほど意地悪な仕掛けもせず主人公の彼女達は立場を弁えている人ばかりで主人公を悩ませる事はほとんどない。それがメインの話ではないと言われればそうだが、主人公に都合が良過ぎる。
主人公と芸を競うという事で言えば師匠の実子が親友という関係で小さな争いがそこしか無く他の役者の妬みなどは全く無いので芸を極めることは壮絶とはいかずとても甘々な感じになっている。主人公の不遇時代も描かれてはいるが、女と間違われて暴力も振るわれているのに何故か危機感がさほどないあっさり演出。基本的にこのあっさり演出がさらりとした作品にしている気もする。
とは言ってもあまりドロドロになって歌舞伎の闇の世界を暴くような形になっては芸道の素晴らしさ凄さを描けないという思いかもしれないが。
それから試写会段階から絶賛コメが多過ぎて、この作品は褒めなくてはいけない圧を感じるのだが、本当に先入観無しにこの作品に感動した人が多いのか非常に気になる。個人的にとても期待していたし感動したかったから尚更。メインキャラ2人は今が旬の美形としても誉れ高く演技派で大河ドラマ主役経験者というこれ以上ない経歴の奇跡のような配役が作品の内容以上に人の感性に影響している気がする。
圧巻の舞台シーンに目が潤む! が、2~3の稚拙演出シーンが惜しい。 後半ネタバレ ★4.0
舞台で "役" を演じる。 只それだけのシーンでこれほどスクリーンに見入り、目が潤んだ事は初めてかも・・。
おそらく、吉沢亮は来年の「日本アカデミー主演男優賞」を獲るだろう。
とにかく、吉沢亮と横浜流星この二人の舞台演技はずば抜けていた!
本物の歌舞伎ファンでも "納得" 以上の物を感じたのではないかと思う。
演舞以上に、女形独特の発声も全く違和感なく、本物の歌舞伎役者かと感じるぐらいに洗練されていて、
監督の舞台の魅せ方も巧いと感じた。
その舞台に臨むまでの紆余曲折が物語りで描写されているのだから、いっそう感涙に繋がる。
この原作を書いたのは、実際に歌舞伎で「黒衣」をされていた方が書いたようで、
その独特の世界観や舞台裏なども詳細に描写されている。
渡辺謙も過去視聴した中で一番の演技をしていて、
序盤での謙さんの絶妙表情は特別な存在感を放っていた。
さらにビックリしたのは、女形の国宝重鎮(万菊)役。
「はぁい、よぉろぉしぃく・・」とそのハンナリとした台詞は、
この人だけ本物(歌舞伎役者)を使っているのか?と感じたくらいで、
それを 田中泯さん が演じていたと、視聴後チェックで知って尚驚くことに♪
物語の序盤は説明描写的で心が動かないが、1時間経過した位の「曽根崎心中」の舞台から、
心に訴えるシーンが続き圧巻に繋がる。
稽古シーンで、「そんなので、命を賭すか否かが伝わるか!」的な叱責に吉沢亮が女形台詞を言い直すのだが、
3度目には本当に魂が入ったように表現されていて、相当な修練の賜を感じた。
ただ鍛錬・洗練されている舞台描写とは全く逆の、安易で稚拙なシーンも2~3あり、特に序盤は長く感じた。
それはネタバレに記す事に。
まあとにかく舞台シーンは圧巻です。
上映舞台挨拶で監督・役者とも、「とにかく観て下さい」と語っていたのが頷けます。
超力作・必見♪
私が感じた甘い描写 ↓ ネタバレ
序盤の宴会襲撃シーンは稚拙過ぎて、あきれた。
あのシーンにそれほど予算を掛けれなかったのかもしれないが、
よそ者が殴り込んで来ているのに、その数分後でも親分が自席に座っているのはあり得ない。
周りの若衆が、より安全な奥部屋へ連れていって当然。
それが、いつの間にか親分一人になって、銃で撃ってくれと言わんばかりに日本刀を掲げるポーズで・・・。
この時点で、これが★4.4か?・・と落胆・・。
あのシーンにもっと本格的殺陣を取り入れていたら、さらに高評価に繋がったと視聴後は惜しく感じた。
さらに後半、喜久雄が落ちぶれて旅館のステージ後に観客との一悶着シーンも、
まるで過剰な映画演出を感じて違和感たっぷり。
この監督は、激しい動きシーンは自然に撮れないのかと勘ぐってしまう・・。
監督の過去作をチェックすると、「フラガール」のみ観ていた(私も高評価)が、
イーストウッドの名作「許されざる者」のリメイク版は平均★3.3とかなり低い。
やはりアクションは苦手なのかも♪
脚本的には、かなり慎重な性格を表している喜久雄が、他の女性との関係を持つ点の、心境変化の描写が簡素な事や、
2度の舞台上でのアクシデントも、また?と感じてしまった点も惜しい。
まあ、現代作品に「黒沢明作品」のような完璧を求めるのは私ぐらいと思うので、
★は私なりの高評価 4.0 に♪
奇々怪々な部分が多い映画でコンペティション部門に出品ならず
ネタばれ含むので、映画鑑賞が未だの方は絶対にお読みにならないように...
奇々怪々と感じた部分は、歌舞伎役者でない役者が歌舞伎役者を苦労して演じてはみたもののやはり本物の歌舞伎役者の技量にはかなわない不自然さが目に付くとかそういう部分ではない。自分は歌舞伎や能はよく見に行くが、歌舞伎役者であろうとなかろうと、やはり美形が演じる女形のほうが圧倒的に美を感じるものなのだと、つくづく納得した。渡辺謙の毛ぶりはなかなかであったし、たとえ多くの不自然さが目立たないように撮影・編集されていてもそれは当然だろう。
原作を読んでいないので、原作にはきちんと描かれているのかもしれないが、
喜久雄とともに生きるために自らも背中に彫り物をしたほど喜久雄を愛した春江が、俊介のあとを追い、そのまま二人で姿を消してしまう春江の心情がきちんと観客に伝わるように描かれておらず、なぜ二人で消えた??? その???でしばらく頭がいっぱいになった。
あと、この映画を初日に観た理由は、自分が崇拝して止まない世界的ダンサー田中泯が出演しているからなのだが、その『鷺娘』の踊りに全く感動できなかった。玉三郎の『鷺娘』の足元にも及ばない。残念である。国宝を演じているわけだから、これではまずいだろうと思う。
あと、みすぼらしい狭い部屋で万菊が横たわり、喜久雄と再会するシーンで、「ここには美しいものがない。」と語り、美から解放されたという境地が、国宝であることからのストレス開放なのか、芸を極めたもののみが達することができる境地なのか、どちらなのか???理解できずにまた???であった。それに加えて、どうして歌舞伎の舞台に立てずにドサ回り中の喜久雄をその芸の上達も直接見ることなく万菊が「ようやく認める気になったのか」まったく理解できずに??だった。
それから、最後のシーンで喜久雄が国宝として観た景色がわけのわからない雪吹雪のような桜吹雪のようなものが散って、日本的美で誤魔化されてしまったような気分になって映画は気まずく終わった。
ここまで説明不可能な奇々怪々なシーンが次から次へとあると、
日本のメディアのプロパガンダにだまされてしまうことなく、
この作品がコンペティション部門で出品されなかった理由がはっきりする。
邦画の監督たちの映画の論理的思考や論理的構築の欠如があらわになった作品だと思う。
正直な感想です。ごめんね。
日本人が知ってる様で知らない“歌舞伎”の世界 役者の“華”は簡単には作り出せない
当代の“人気役者(大河主演)”の吉沢亮と横浜流星が、“舞台”で演ずる舞に“美しさ”を感じた。
勿論、日舞の手習をしていた訳では無いのでその良さ・真髄がわかっている訳では無いが、それでもその姿に美しさや優雅さを感じたのなら、それが正解だと思う。
「歌舞伎を観た事が無い」と言う観客が観て、面白い、素晴らしいと感じたとしたら、それはこの二人に役者としての“華”があるからだ。それは、歌舞伎の御曹司が生まれもってきた“血”とは一味違う“役者としての素質”かもしれない。
その道のプロフェッショナルを演じる事は容易では無い。
ドクターしかり料理人しかり、それが実在した人物なら尚更だ。
「ボヘミアンラプソディ」のフレディ・マーキュリー、音楽はクイーンの音楽に吹き替えられていたがラミ・マレックの演技も作品も素晴らしかったし、「天皇の料理番」を演じた佐藤健の包丁捌きは目を見張るものがあった。一流料理人からすればまだまだとしても、あの包丁捌きは木村拓哉演ずる「グランメゾン東京」のシェフより見応えあったと思う。
本作でも、上方歌舞伎の名門・丹波屋当主の花井半二郎役を演じた渡辺謙は「僕らごときに歌舞伎ができるわけがないですから真似事でしかありません」と謙虚に語っているが、渡辺謙も大河主役は勿論のこと、ハリウッド作品やミュージカルの主演も務めた、日本を代表する“役者”だ。
歌舞伎の看板役者となると、月に25日昼夜3〜4時間の公演に、稽古が5日、それが12ヶ月でざっくり見積もって360日“歌舞伎”を演じている。当然、そんじょそこらの役者が真似したとしても、早々にその立ち居振る舞いが板につく訳無い。
それでも、この作品には映画としての面白さがある。
もしこの二人が梨園の御曹司だったら?さぞ世の話題をさらったであろうし、そんな二人が映画の中で舞い踊る姿には正直魅了された。
歌舞伎の演技監修・出演もした中村鴈治郎曰く「賛否両論があるでしょう。でも、歌舞伎の記録映画ではなく、歌舞伎を題材にした人間ドラマですから。絶対に映画として成り立っていると思います」
正に本作の本質だ。
歌舞伎のご贔屓さんから見れば恐らく粗だらけ、それでも歌舞伎どころか舞台を観に行った事が無い多くの人に伝わるものはあると思う。
本作は“歌舞伎”の映画版では無い、そして歌舞伎の世界を知ってる様で知らない、“歌舞伎”を観たことが無いであろう多くの観客に伝わる何かがあれば、それが大正解な作品なのだと思う。
繰り返し言うが、吉沢亮と横浜流星の“演技”する舞は、物心着いた頃から身につけてきたものでは無いし、通し狂言「菅原伝授手習鑑」の全五段上演時間だけで約7時間半の演舞ができるはずも無い。映画で演ずる演目・舞は極々一部に過ぎない、それでもスクリーンに映し出されたその姿に、魅力や美しさを感じる事が出来ればこの作品を観る価値は大いにあると思う。
そして、恐らく今年上半期邦画作品を代表する一作として日本アカデミー賞の候補にも上がってくるだろう大作となっている。
ただ、この作品に少し違和感を感じた事も事実。
縁があって六代目 中村 歌右衛門さん、四代目 坂田 藤十郎さん、五代目 坂東玉三郎さんなどいわゆる“人間国宝”と呼ばれる重要無形文化財保持者の方とお会いしている、まだ幼い時や小中学生の頃父に連れられ楽屋にお招き頂いた。そんなご縁もあり結構な演目を観劇させて頂いた。当時は、正直あの独特な台詞回しが分からずだったが、「菅原伝授手習鑑」や「仮名手本忠臣蔵」、夏に開催される納涼物などは立ち回りや舞台転換も多く、子供ながらに面白いと思った。
時には、客席の盛り上がりにつられて「成駒屋!」なんて掛け声を掛けると、“威勢のいいガキンチョの掛け声に”大向うのご贔屓さんが「〇代目!」なんて絶妙な間合いの掛け声がかかり、子供なりに楽しんだものだ。
本作も、吉沢亮と横浜流星が舞台で演ずるシーンで、満場の拍手はあるのだが大向うの掛け声が無い。
原作者も監督もテキトーな“屋号”をあてがう事を良しとはせずあえてそうしたのかもしれないが、映画の中の客席にいる“観客”が“出演者”になってしまっていた。
映画やテレビと違い、舞台空間を作り上げるのは役者だけでは無い。観客と共に一期一会な時と場を作り上げるのが舞台だ。
それは“舞台は生物”と言われる所以でもある。
映画としての面白さはあったが、その劇中劇として描かれた“舞台空間”が描ききれなかったのはやや残念かもしれない。
それともう一点、気になったのはやはり台詞回し。歌舞伎では顔や姿も大切だが、あの口跡はやはりそう簡単に演じる事は出来ない。
その違いは、是非本物の舞台で肌で感じるのが一番良いかと思う、機会があれば是非生の“舞台”に足を向ける事をおすすめしたい。
因みに、本作では歌舞伎界の「世襲」が話しの大きな筋となっている。
2025年八代目尾上菊五郎襲名、中村屋ファミリーのドキュメンタリーや市川團十郎親子の姿が茶の間に映し出されると、ついつい「梨園は世襲が当たり前」
と思ってしまう人は多いのだろう。受け継ぐ主体が血縁者というのが“世襲”と言えるのは言うまでも無いが、歌舞伎界に於いては「家芸」の継承が最も重要視され、決して実子・血縁だけに受け継がれてきた訳では無い。
十四代目守田勘弥は実子を遠ざけ玉三郎を養子にしたのは家芸を伝承する為の選択肢だったのかもしれない。
坂東玉三郎は人間国宝となっている。ではその他の家はどうだろうか。
十三代目 市川 團十郎 白猿の祖父は、七代目松本幸四郎の長男十一代目市川團十郎だが、七代目幸四郎は役者と無縁な伊勢の土建屋の三男から養子縁組され大名跡を継ぐ迄に襲う。亡くなった中村屋の十八代目中村勘三郎の祖父は中村歌六という、元来高名では無い役者であったが兄の初代中村吉右衛門の活躍などにより家格が上がった。江戸時代は養子縁組も頻繁、現代でも女形は日常生活も“女性”であった一面もあり実子をもつことも減じられたりもした。
市川團十郎名跡の異色は、死後襲名した十代市川團十郎。銀行員の家系から九代目市川團十郎の長女実子と恋愛結婚、29歳にして歌舞伎役者に転向した、大成はしなかったが市川團十郎不在の市川宗家にあってその代つなぎとして絶えていた歌舞伎十八番を次々に復活上演。意欲的な舞台活動と研究によって市川宗家の家格を守り抜いた。五代目菊五郎には中々子供が授からず、養子を取り後継者として「菊之助」の名を名乗らせていたが、妾との間に実子が産まれると不仲となり名を捨て上方芝居の世界に、実子が六代目菊五郎、その養子七代目尾上梅香(人間国宝)は本作でも出演した寺島しのぶ・八代目 尾上菊五郎の祖父(父七代目菊五郎も人間国宝)にして、赤坂の芸者の三男として産まれている。
歌舞伎の名跡は、あくまで実子だ養子だなどという名前ではなく「芸に譲る」というのが基本だが、そうだとしても物心着いた時から芸に触れるという事は大きい。そして、名跡は決して一子相伝的なものでは無い、名前は勿論、家族・兄弟・友人・お弟子は元より会社やなんと言っても観客によって一人前として育て上げられる。そして、まだ若いうちは演ずる事、芸事の精進にひたすら努めれば良いのかもしれないが、座頭となれば当然如何に興行するかが重要になる。
ふと思い出す。
四代目市川猿之助・・・。
正に天才役者だ、華もあれば演技も別格だった。
ただ、澤瀉屋は歌舞伎界でも少し特殊な存在、初代は9代目市川團十郎の弟子だったが破門になり、やがて許されて復帰。
2代目も、新劇に出たりしながら松竹に反旗を翻したこともある。
3代目は23歳で猿之助を襲名したが、直後に祖父(2代目)と父が亡くなったので、「劇界の孤児」となった。後ろ楯のなくなった3代目猿之助は、大幹部の誰かに頭を下げて一門に加えてもらうしかなかったが、それを断り、自分で独自の公演を始めた。スーパー歌舞伎など独特な世界を作り上げたが、歌舞伎界の異端児的扱い(悪く言えば色物扱い)。そして、四代目は弟・4代目段四郎の子、市川亀治郎。実子の香川照之が9代目市川中車を名乗った頃から歯車は狂い始めていたのかもしれない。
四代目猿之助襲名時亀次郎は「ずっと亀治郎でいたい」、「生涯一役者として生きたい」と言っていたと言う。役者として、「猿之助の芸」は継ぎたかったが「一門の長」になる気は本当は無かったのかもしれない。
それでもさまざまな事情で、「猿之助」になってしまった。
その後の顛末は、世の多くの人が知っているだろう。
名跡を継ぎ、座頭になるという事はただひたすら“芸事に打ち込む”事だけでは済まされない事だ。そこには芸の上に、一門を率いるリーダーたり得る素質も必要とされる。
「天才であること」と「組織のリーダーであること」はときに矛盾する。
その両立ができず、己の矛盾が臨界点に達したのかもしれない、猿之助さんのあまりにも衝撃的な事件を思い出すと、この作品の見え方も変わってくる。
そして、一人の“人間”としての「人間国宝(重要無形文化財保持者)」。
その名が如何に偉大なのか感じずにはいられない。
今まで取り上げられそうで無かった「日本人が知ってる様で知らない歌舞伎界」の人間模様。中々見応えある作品だが、3時間近い時間があっという間に過ぎた。
(ただし、最後に一言「100年に一本」や「国宝級」はさすがに言い過ぎかと思う)
その道と芸を極めた者を“国宝”と呼び、それを魅せてくれた映画を“至宝”と呼ぶ
李相日監督の作品は必ずその年のマイベストの一つになる。それくらい現在の日本映画界で絶対的信頼の名監督。
原作が吉田修一となれば尚更だ。
そんな二人の『悪人』『怒り』に続く3度目のコラボレーション。
なので映画化発表の時から超期待していたとは言え、その期待を越えてきた。
すでに見た方々がタイトルに絡めて絶賛しておられる通り。
まだ2025年上半期も終わってないが、今年一番は決まったかもしれない。
歌舞伎。
古くから伝わる日本の伝統芸能。
今尚多くのファンを魅力し、受け継がれ、その人気は国内のみならず海外にも。
多くの名門、人気役者。その芸と道を極めた者は“人間国宝”にもなる。
日本文化にとっては“至宝”の一つ。
しかし、なかなかに特殊な世界。敷居も高く、好きな人は好きだが、興味無い人は全くの無関心。
専門的な言葉や演目を始め、知らない事の方が多い。
自分もだが、歌舞伎を見た事がない人は伝統芸能でありながら日本国民の大半を占めるだろう。
そんな歌舞伎初めましての人でも見れ、引き込まれ魅了される作品になっているのが見事。
私の勝手なイメージ。歌舞伎は世襲制。歌舞伎の家に生まれた者が代々受け継ぐ。
勿論そうではない役者もいるだろう。本作は“異例”の世界から。
人気歌舞伎役者の半二郎はある宴の席に招かれる。
任侠の組長が主催の宴。その組長は歌舞伎好き。
宴の余興で、組長の息子が女形を演じる。
歌舞伎の世界の生まれでもないのに、組長の息子・喜久雄の美しさと才に半二郎は驚く。
その宴の席で、敵対組との抗争が。喜久雄は目の前で父を亡くし…。
仇討ちを決意するが失敗に終わり、行く当てもない天涯孤独の喜久雄を引き取ったのは、半二郎。
あの悲劇の一夜が新たな人生の始まり。かくして喜久雄は歌舞伎の世界へ…。
無論招かれざる存在。
半二郎の妻・幸子は“極道もん”とあからさまに邪険にする。
が、半二郎は喜久雄の才に確かなものを見ていた。
半二郎には息子・俊介がいた。いずれは跡取りとして次の三代目半二郎を襲名し、御家の名門・丹波屋や歌舞伎界を背負って立つ。
俊介も何処ぞの馬の骨か分からない奴を白い目で見る。
歌舞伎のプリンスと部屋子。天と地の全く違う立場ながら、半二郎は平等に厳しい稽古を付ける。
日々の厳しい稽古を共にし、いつしか二人に友情が育まれる。
稽古に、若者二人の友情と青春に。切磋琢磨。
やがて二人は才能を開花させ、若き女形コンビとして注目と人気の的に。
二人の歌舞伎役者人生を決定付ける初の大舞台。
これを見事成功させ、歌舞伎界のニュースターへ。
任侠の世界から歌舞伎の世界に鳴り物入りで入った喜久雄は見る。見た事ない景色を。
順風満帆だった。
ある時、半二郎が交通事故に遭い、舞台に立てなくる。しかも、大事な舞台の直前。
代役は…? 遂にこの時が来た。跡取りとして。
誰もがそう思っていた。
が…、半二郎が指名したのは、まさかの喜久雄だった。
思わぬ事に動揺する喜久雄。俊介も。
これをきっかけに、二人の運命と歌舞伎人生は大きく変動していく…。
吉沢亮と横浜流星。人気のWイケメン。それだけに留まらない。
演じた役が歌舞伎界を背負って立つのなら、二人はこれからの日本映画界を背負って立つ若手実力派。いや、若手と言うのも失礼なくらいの頼もしさ。
この二人の共演も見たかった理由の一つ。
にしても、同性から見てもお美しい二人。女形は大正解。
勿論ビジュアルだけじゃない。二人共、超売れっ子。過密スケジュールの中、一年半にも及ぶ歌舞伎の訓練。
たかだか一年半の訓練だけで舞台に立てるような世界ではない。人間国宝となった歌舞伎役者であっても修行に勤しむ。芸の道に終わりは無い。
本来歌舞伎役者でもない、訓練の期間も限られている。それでも歌舞伎役者になりきり、魅せた役者魂!
あの流し目一つ、表情一つ、振り一つ、発声や歌舞伎演技全てに、引き込まれる…。
プロから見れば至らぬ点多々かもしれないが、素人から見ればベタな言い方だが本場の歌舞伎役者にしか見えない。本当に役者の才や力量に驚かされる。
序盤の演目でさえ魅了されるが、共にさらに芸を身に付け、紆余曲折あって熟練。クライマックスで披露する演目は真に迫るほど圧巻…。
歌舞伎役者になりきっただけじゃなく、本来の役者としての複雑な内面演技も見て欲しい。
喜久雄と俊介。性格は真逆。
喜久雄は物静かで真面目。真摯に芸や修行に打ち込む。
一方の俊介はパーリーピーポーな性格。芸と修行の合間、遊び歩く。
私たちが抱く歌舞伎役者のイメージは喜久雄だが、ゴシップやスキャンダルを提供した人気歌舞伎役者もいたね。奥さんと出会って改心し、奥さんを亡くし、二児の父親として今は落ち着いたけど。
当初はそんな性格と印象だが、あの衝撃の代役を受けてから、二人の性格と印象も二転三転し、それを巧みに演じ切る。
尚、少年時代の二人を演じた『怪物』黒川想矢と『ぼくのお日さま』越山敬達の順調なキャリアも嬉しい。
世襲は当たり前。そんな中、赤の他人。
俊介のショックは計り知れない。突然家に上がり込んで、何もかも盗んでいって、泥棒と同じ。喜久雄の胸ぐらを掴んで、怒りをぶつける…フリをするが、内心は本心だろう。
喜久雄とて胸中は穏やかではない。寧ろ、俊介以上に動揺。何故、自分が…?
歌舞伎の家に生まれた訳じゃない。任侠の家に生まれた。自分の中には任侠の血が流れている。
生まれは関係ない。才なのだ。
喜久雄はただただ、女形の才があった。それだけなのだ。
酷でもあるし、妥当でもある。しかし、そういう世界なのだ。
歌舞伎の世界だけじゃない。あらゆる各業界全て。才と実力が生きる。
半二郎の判断は間違っていなかった。さらに厳しい稽古を経て、喜久雄は大役を成功させる。
本番直前。手の震えが止まらない喜久雄。自身の生まれや弱音を吐く。
俊ちゃんの血が飲みたい。自分には歌舞伎の血が流れていないから。
勇気付けたのは俊介。芸があるやないか。
俊介に代わり、名実と共に半二郎の後継者となった喜久雄。
俊介は喜久雄の演技を見届け、歌舞伎の世界から去る。その傍らには、俊介に同情した喜久雄の恋人・春江が…。
喜久雄にさらに名誉。俊介が襲名する筈だった三代目半二郎の襲名。
半二郎は白虎を襲名するが、その身体は病魔に蝕まれていた。
それでももう一度舞台に立ちたい…。
が、口上の途中で吐血して倒れてしまう。
その時、半二郎が求めたのは…
俊坊…俊坊…
師から才を認められたのに、師が最期に求めたのは“血”だった…。
半二郎の死。悪い事は続く。
喜久雄にスキャンダル。任侠の生まれ。部屋子時代に出会った芸妓との間に隠し子。
名門丹波屋が傾き、喜久雄は端役しか与えられない。スポットライトを浴びた舞台から一転して、奈落の底へ…。
そんな時、思わぬ人物が帰って来る。
俊介。春江との間に一児を設け、どさ回りなど苦労を経験し、一回り人間的にも成長。
後ろ楯には、かつて喜久雄も俊介も圧倒された日本一の女形で人間国宝の万菊。
一方の喜久雄は大御所歌舞伎役者の娘・彰子と付き合っていたが、父親に取り入る為だった事が発覚し、さらに立場を悪くする。
喜久雄は丹波屋を去る。傍らには、父親から縁を切られ、騙されたと分かった上でもついていくしかない彰子が…。
かつての俊介と立場逆転となったが、これから行く道の険しさはまるで違う。
真面目そうに見えて、女癖の悪さ。本人の性分か、本来の血か…?
去る間際、俊介と相対する。あの時の俊介と同じく怒りをぶつける…フリをして、本当にお互いの感情が爆発。取っ組み合い、殴り合いに…。
一度去った血筋の者が戻り、才を認められた筈の血筋じゃない者が去る。
喜久雄は吐き捨てる。結局、血やないか。
その後の喜久雄の姿は見てられない。
落ちぶれ、荒み、どさ回り中チンピラに絡まれる。TVには再び歌舞伎界のスターとなった俊介の姿。
彰子との関係もぎくしゃく。
あるシーンの虚ろな目と表情は今の喜久雄を物語る。
自分に未熟な所はあった。
それでも血だけじゃない事を信じ、芸に打ち込んできた。
自分はここまでなのか…?
あの時の代償か…?
いつぞや神社にて手を合わせた。神様に願ったのではなく、悪魔と取引…。
悪魔が栄光を見せた後、地獄へ叩き落としたのか…?
が、芸の神様は見捨ててはいなかった。
万菊から声が掛かり、喜久雄は再び歌舞伎の世界へ…。
二人の若き天才歌舞伎役者の人生がドラマチックに展開。
難点もある。時代ものだから時々展開が早い。俊介も喜久雄も歌舞伎の世界に戻ってからあっという間。多少のベタな設定やご都合主義もある。そこら辺、800ページ以上に及ぶ大長編の原作小説には細かく書かれているのであろう。
本作に限った事じゃないが、原作小説の全てを映像化する事は到底無理。省略や纏め上げ、壮大な大河ドラマに仕上げた奧寺佐渡子の脚本も見事。
時に観客視線、時にクローズアップで役者の一挙一動を逃さない。フランスのカメラマン、ソファアン・エル・ファニによる映像美。
歌舞伎を完全再現した種田陽平による美術、衣装や化粧・床山も本格的。
言うまでもない李相日の名演出。
厳しい師/父親であり、初の大舞台に挑む二人に優しい言葉をかけ、自身も当代きっての歌舞伎役者として舞台に立つ事を望む。渡辺謙の存在感。
圧巻は万菊役の田中泯。出番は少ないが、前衛舞踏家としての本来の面が女形に活かされ、バケモン級の凄みと、狂気すら感じる演技と、完成された美しさと佇まい。
この万菊が人間国宝でありながら、晩年はボロアパートで孤独に病に伏せっている姿は衝撃でもあった。
歌舞伎は男の世界。なので、高畑充希、森七菜、見上愛、瀧内公美(ラスト近くのシーンは特筆)、寺島しのぶら実力派/注目株の女優陣が揃えられながら、脇に留まってしまっているのは致し方ないとは言え、残念。
が、皆が名アンサンブル。熱演。
映画だが、歌舞伎もたっぷり見せ、あたかも本場の歌舞伎を見ているような錯覚さえも。
全てが超一級。堂々たる3時間。
歌舞伎の世界に戻った喜久雄。
俊介との女形コンビの復活に、世間は沸く。
が、またしても…。
俊介が糖尿病となり、片足を切断。舞台に立つ事も後進に稽古を付ける事も出来なくなり、俊介の息子の稽古は喜久雄が付けていた。鳴り物入りで歌舞伎の世界に入った若者は指導する立場に。
舞台に立つ事を絶たれたかに思えた俊介だが、それでももう一度舞台に立つ事を望む。
二人で挑む『曽根崎心中』。歌舞伎の演目はほとんど知らないが、『曽根崎心中』はほんの少しだけ。劇中披露される演目がその時の心情とリンクしているのが巧み。
演技中、俊介は体力の限界で倒れる。喜久雄は聞く。やれるよな? 俊介は答える。当たり前や!
当初歌舞伎の世界を冷ややかに見ていたがいつしか魅了されていく興行主の二代目の台詞が見る者全てを代弁する。こうは生きられない…。
あなたにも、私にも、こんなにも打ち込めるものはあるか…?
文字通り、その道に生き、その道に死ぬ。
実の父を亡くしても、
血筋じゃなくても、
犠牲や傷を負わせた者が居ても、
悪魔に魂を売っても、
師を亡くしても、
どん底に落ちても、
ライバルであり親友を亡くしても。
天からの授かり物。この世界で生き続ける。
いや、自分で選んだ。もう一度見たかった。見た事ない景色を。
その生きざま。
芸。才。ただひたすらに一つのものに打ち込み、極め続け、頂きに達した存在を“国宝”と呼ぶ。
そしてそれを打ちひしがされるほど魅せてくれた映画の事を我々は“至宝”と呼ぶ。
いろいろな意味で力作
とにかく撮影が美しい。役者も子供時代役も含めて相当な訓練を積んだと思われる。歌舞伎界についてはゴシップレベルしか知識もなくその芸の凄さもわからないが、そうした素人にもスジをわからせられるだけの演出と演技だった。ストーリーも長尺だがダレることなく大河ドラマを堪能した。満足感。実際の歌舞伎界がどのようなものかはわからないが、関係者が多数協力していることから、大きく外れていることはないのだろう。森七菜も大人になったなあ。田中泯、顔が美しいのは役者にとってマイナスなんてセリフもあっなあ。
人間国宝も軽く見られたもんだ
歌舞伎は1か月に1回位は観ている。ファンには悪いがいくらエンタメとはいえ、これは書かねばならないと思った。原作を読んでいないので映画だけの感想。
冒頭に、半次郎が喜久雄の踊りを素晴らしいと誉めるのが物語の始まりだが、この踊りがちっとも良くない。声もひどい。喜久雄がもっと小さくて踊れてスゴイと見込むならまだ理解できるが、15歳でこの程度なら踊れる役者は大勢いる。その1番大切な部分がおざなりだから、シラけてしまった。
そしてスポ根場面。今より体罰も許された時代だから、そういう指導者もいたかもしれない。しかし、よく年配の役者さんが「稽古が厳しかった」というのは、こういう意味では無いと思う。そして事あるごとに御曹司は血が守っていると言うが、それこそ歩き始めた頃から稽古をする精進の賜物なのにその様な説明が無い。まるでDNAにアドバンテージがあるかのように誤解させる。
半次郎が事故に遭いその代役でチャンスを得るが、「曾根崎心中」で渡辺謙が「お初」を演じる筈だったという設定はかなり厳しい。渡辺謙はどう見ても立役。一体全体、どういう個性の役者に描きたかったか不明。
喜久雄は途中舞台を離れヤサグレても結局人間国宝になるのだが、これまた説得力が薄い。彼の努力は取り立てる程ではなく、お客様を大切にするシーンは皆無で、芸の為に生活を律して何かを我慢した訳でもない。努力したのは高校生の時と、不遇の時代に芸ではなく卑劣な方法で上に取り入ろうとした時、悲しみを芸の肥やしにしてあとは才能で国宝になりましたとさ。それは現在の多くの役者、何より人間国宝に対して随分と失礼じゃないだろうか。
吉沢亮と横浜流星の女形はとても綺麗で頑張ったとは思う。しかし歌舞伎を観慣れた者にとって舞台シーンは至極普通。初めて早替わりを観た人は感激したのかもしれないが全然珍しくない。それなのに道成寺や曾根崎心中のワンシーンを演じただけで、すごいでしょの押し売りされても、唯一無二の特別感は伝わらない。画面が綺麗というだけで、どうして「人間国宝」の舞踊として観ていなければいけないのだろうかと、その違和感で変な気持ちになった。これは国宝じゃ無い。偽物だ。
任侠出の俳優の出世物語なら、それに相応しいタイトルを付ければ良い。その方が腑に落ちたし、エンタメとしてずっと楽しめた。
どうしても「国宝」というタイトルを付けたいのなら、役者が日夜どんなに地味に努力しているのかを、もっと丁寧に描くべきだった。歌舞伎役者と他の役者と、何がどう違うのかという事にも、監督は全く興味が無かったようだ。国宝というタイトルには程遠い、随分と薄っぺらい内容。これ観て喜んでいる日本人は、富士山、芸者と言って喜んでいる外国人の感覚なのだろう。
映画が小説を上回ったと感じたのは、春江と万菊。
観ました、国宝。
上映前からのプロモーションや配役の投資額が並大抵ではなく、絶対に失敗は許されない映画という印象。
李監督はじめ、プロデューサーの方々は相当プレッシャーだったのでは。
まず、圧巻の一言。
何度も胸が締め付けられた。
吉沢亮と横浜流星が見事だったし、若き頃の俊ぼんと喜久雄ももっと長く観ていたかった。
175分と言えども小説の上下巻をそのまま映画にする事は不可能なのか、ストーリーはだいぶ端折られていた。
この物語はただ歌舞伎を魅せるだけでも、ライバルの友情を語るだけのものでもない。
映画だけでなく小説も読んでおくと、年月が動いた際の背景が見えてくる。
映画が小説を上回ったと感じたのは、春江と万菊。
高畑充希の声のトーンがとても良かった。あの声のおかげで、なぜ俊ぼんについて行ったのか、愛する喜久雄に応える事が出来なかったのか、読み取れた気がした。
万菊は、小説以上に万菊。
声の出し方、所作、目線。全てが不気味で妖艶。素であんな人がいたらゾッとしてしまう。
印象的なのは喜久雄が屋上で白粉を落とさずに狂ったように踊るシーン。主役の座から降ろされ、出演出来る舞台もなく、からっぽ。
そんな状態であっても、踊ってしまうんだな。芸に魂を売った人間は。何と非情な事だろう。
ぜひ、映画館で見て欲しい。
映像も音楽も素晴らしい。
特に映画館内で地面から鳴るような、重低音に注目して欲しい。あの音がさらに胸を締め付けてくる。
終始、胸を締め付けられていたのだが、最後のluminanceの歌詞に心が救われた。
喜久ちゃんは、人間国宝で良かったんやんな。
175分も長くはない
皆さん言われてるように、圧巻の一言。あの小説を約3時間に収めてるので、全てを入れ込めないのが残念なくらい、もっと観たかった。
主演の吉沢さん、助演の横浜さんは言わずもがなですが、他の俳優さんもそれぞれの役どころで作品を支えてくださってましたね。
まだ一度しか観てないので全てを語る事は出来ませんが、特にぐっと来た場面は喜久雄が半次郎の代役を務める舞台の、幕が開く前の楽屋のシーンです。予告でも少し流れてますが、自分には助けてくれる血(血筋)が無いと「俊ぼんの血を飲みたい…」と震えながら一筋の涙を流し、俊介に言うんですが、ほんとに切羽詰まった喜久雄の表情。そして予告の俊介の「芸があるやないか」のセリフと涙をぬぐってあげるシーン。胸が痛くなりました。
もう一つは、最後二人で踊った曽根崎心中。俊介演じるお初が軒下に隠れている喜久雄に心中する気があるのか?と暗に問うセリフがあり、お初の足を喉元に当てるというシーンです。実はこの前段階のところで、もう病気で左足を膝下から切断していて義足なんですが、もう片方も同じように壊死してしまえば両足とも切断だと言われてた。本番で喜久雄が掴んだ足は右足。すで壊死が始まってました…。必死にお初をやり遂げようとする鬼気迫る俊介と、その足を見て震えながら掴む喜久雄の心情を考えるともう涙が止まりませんでした。
これはほんの一部。何度か視点を変えて見てみると、もっと深く作品を知れるかもしれません。
当然、映画にする時点で全ては入れられないので仕方ありませんが、喜久雄と俊介に絞ったストーリーでよくぞここまで作り上げてくれたものだと思います。
「バケモン」映画生まれる
ネタバレ注意
先に言うが、今回のレビューは3000字を超え
言わば大学のレポートのような感想となっている
それと同時にネタバレを語ってしまっている為、
見た人とこの作品にとてつもない衝撃を受けた人に
ぜひ読んでほしい。
自分がこの作品を一言で表すなら「バケモン」である。
それ以外にこの作品への表現が見当たらない。
ここ数年映画の表現の偉大さに取り込まれ、
衝撃を受けた作品は何本もある。「ヤクザと家族」「ある男」「正欲」「ラストマイル」これらは個性・特性が
とてつもない力が込められており、どの作品も素晴らしくその中でも1番を決めることができない。
私にとってそんな影響を受けた作品はここ数年で何本も出てきた訳であるが
「国宝」という存在を目の前にした以上他のことが考えられなくなったり、映画が終わって明るくなって数分間座席から立てなくなる程の虚無感を与えられた。
この表現が正しいかどうかは自分でも決める事ができないがただ、そう表現するのが適切かもしれない。
そんな感情になる程国宝という作品は主人公「立花喜久雄」の人生をバケモンのように描いていると私は考える。
何故「バケモン」と表現しているのか
それは喜久雄と俊介が初めて人間国宝 小野川万菊による
演目「鷺娘」を見た時に放ったセリフに
「バケモンや」、「バケモンでも美しいバケモンや」という
言葉を2人から出たのである。
そうしたように人間国宝の影響から2人の人生はとてつもない壮絶な時を過ごすのであった。
だからこそ私はそのフレーズを当てはめてこの作品への感想と賞賛を語りたい。
そして血の繋がらない兄弟以上の関係となっていく
「喜久雄」と「俊介」
この2人の織りなす生涯は観客の多くを魅了していき、かくいう私自身はとてつもない衝撃を与えたのだと感じる。
その上で私は吉沢亮と横浜流星にとてつもない賞賛を送りたいと思う。冗談抜きで2人の俳優にとっての代表作だと確信を得ただろう。
吉沢亮と横浜流星
横浜流星は以前から「ヴィレッジ」、「正体」など
藤井道人監督作品にエースのように活躍していき、
私自身も彼が大好きになった。
だからこそ「国宝」のメインキャストに横浜流星の名が見えた瞬間「あっ、これは間違いない作品だな」とキャスティング発表から期待がとてつもなかった。
だからこそ楽しみでしかなかった作品でもあったが、彼の表現や存在感は前評判の想像を遥かに絶していたと今になって考える。
上方歌舞伎の名門の御曹司として生まれた俊介にとっては喜久雄との出会いが壮絶な人生への歯車になっていった。次第に兄弟のような関係性として互いに歳を歩んでいったが、喜久雄の「バケモン」のような表現によって人生が目紛しく変わっていっただろう。そうした中で横浜流星という俳優は穏やかでありつつも怒涛のような演技をしていき、これからも敬愛せざるを得なくなっただろう。
そして吉沢亮
私が思うには彼の代表作に間違いなく名を連ねると確信し、彼の役者人生に大きな影響を与えたのではないかと考える。
私にとって吉沢亮のイメージとしては
「キングダム」や「なつぞら」など良くも悪くも「イケメン俳優」のような軽い印象しか持っていなかった。カッコいいのは間違い無いが、これまで彼の演技に心を打たれたことはあまり無かった。そして昨今でいえば彼自身のトラブルによって俳優生活に大きく影響を与えてしまっただろう。この後公開される「ババンババンバンパイア」も事件の当初で延期になる程「何やってるんだよ」としか思えなかった。ただ穏便に終息していったことによってこの作品も何とか公開にありつけたが、
だからこそ「国宝」という作品は間違いなく彼の名声を取り戻すチャンスであり、それ以上に彼の役者人生に影響を及ぼす作品でもあるだろう。
私がそう思える以上に彼の演技ないし表現は
タイトルの「バケモン」に当てはまることができ、この作品の圧倒的さを決定付けるものだったと感じている。
15歳半ばで父親を抗争で亡くし、母親を原爆の後遺症で亡くすという青年期から壮絶さを物語っていた喜久雄という主人公は次第に上方歌舞伎の名門に引き取られ、歌舞伎の世界に徐々にのめりこんでいく。最初は歌舞伎の素晴らしさに影響を受けながら表現のスキルが上達すると共に、人間国宝小野川万菊の出会いを契機に歌舞伎役者ないし自分自身の人生が目紛しく発展していく。いつしか兄弟のように歩んできた俊介の人生を狂わせる程の「バケモン」となっていっただろう。そうして彼は歌舞伎役者の血がないことをもがき苦しみ、いつしか悪魔と契約するほどの絶望の時期を迎えることになっていった。
再三言ってしまうが吉沢亮ないし立花喜久雄という人間の人生は「バケモン」であり、見る者の多くに衝撃を与え、飲み込んでいく。
そんな彼の生涯を描いた「国宝」という作品は
他にも「バケモン」と表現できる点がいくつも
あるだろう。
歌舞伎
本作の舞台でもある「歌舞伎」そして
「100年に1本の壮大な芸道映画」というキャッチフレーズはこの作品を表現する唯一無二の言葉であるが、私自身は歌舞伎を生で見たことがなく、数々の歌舞伎役者の活躍があるなどそんな軽いイメージしかなかった。そんなイメージしかなかったからこそ歌舞伎の表現ないし歴史は何百年、何万もの人によって作られていき、私も今日はじめて歌舞伎の世界を目の当たりにする運びとなっただろう。
「藤娘」「二人道成寺」「曽根崎心中」「鷺娘」
これらの演目は喜久雄にとっても俊介にとっても生涯に避けることのできない影響を与えたものである。2人の人生を壊していき、繋いでいき、そして国宝へと導いていった演目であるのだと心から思う。同時に歌舞伎を知らないからこそ私と同じように初めて触れる多くの観客がこの作品を通じて「歌舞伎」の壮大さや素晴らしさに魅了されたのだと間違いなく言える。
劇音楽
この作品を語る上で外せないのが、劇音楽であるだろう。端的に言ってしまえばこの作品の魅力を何よりも表現したのが劇音楽であり、この作品の壮大さを表現したのも劇音楽であるだろう。これらは作品自体を唯一無二の存在に仕上げてゆき、一つの芸術として作りあげていったのだろう。立花喜久雄と大垣俊介という2人の人間の壮絶な人生を完璧に表現していき、見る者多くの感情を乗っ取ったかのような音楽でもあったと何度も考えてしまう。
そうして「国宝」という作品を語る上で外せない劇音楽はエンディングテーマとして原摩利彦・井口理による「Luminance」で締めくくる形となった。
私自身の話になるが昔からking gnuが大好きで何度もライブに行くほどのファンであるがこれまでking gnuないしMILLENNIUMPARADEがエンディングを務める作品が何本も世に放たれていった。
昨今でいえば名探偵コナンや呪術廻戦などアニメ映画のテーマを担ってきたが、私にとって最も影響を与えたのは「ヤクザと家族」のEDのFAMILIAだった。冒頭にも名を載せたこの作品は「山本賢治」というヤクザの壮絶な人生を描いた内容でもあり、儚いエンディングと共にこのFAMILIAが流れた瞬間、2度と感じる事のできない感情に襲われたのだった。
だからこそ今回「国宝」という作品のエンディングに井口理が参加することで期待が更に上がったと共にエンディングに入るまでの約3時間の衝撃、そして井口理の唯一無二の歌声で作品が締めくくられることとなった。
だからこそこの作品の劇音楽ないしエンディングテーマは他の作品と似たようで似つかない
「バケモン」とも表現できるのだろう。
改めて音楽を担当した原摩利彦そして井口理に賞賛を送りたい。
映像
ここまでとてつもない長文でこの作品を可能な限り語ってきたが、最後に語りたいのは
「映像」である。これこそがこの作品を「バケモン」と語る1番の由縁であり見る者の多くを飲み込み、私自身もとてつもない衝撃を与えた要因の大部分にこの「映像」が当たるだろう。
「国宝」が織りなす映像美はどの作品と比べても唯一無二の存在であり、一つの芸術作と表現するような完備な仕上がりとなっていたと感じる。
映像美こそ本作の素晴らしさないし恐ろしさでもあり、「歌舞伎」「舞台」「背景」などと簡単には説明できないほどの圧倒さを持っていたと思う。だからこそこればかりは上手く表現できない感想でありつつ、それと同時に私自身の衝撃は見た人によって捉え方や感じ方は大きく異なっていくが、間違いなく感動や衝撃をこの映像によってもたらされるのだと何度も考えてしまう。最後に監督を務めた李相日、撮影のソフィアン・エル・ファニ、美術の下山奈緒をはじめとした「国宝」を作り上げた全ての関係者にとてつもない賞賛を送りたい。
「国宝」という作品は間違いなくこの数年での衝撃や影響を与えた作品に名を連ね、毎年良く私は1年間で映画館で見た作品ランキングでは今年の一本となっていくだろう。
現に見終えた数分後に翌日分のチケットを買ってしまったもしかしたらここまで語ったように捉え方や感じ方は明日になれば大きく変わるかもしれないが、この作品を見終わった数分間席を立つことができず、虚無感を与えられ、そして何よりもこのくらいの文量になる程の影響や衝撃を間違いなく受けた。
だからこそこの作品を私は改めて
「バケモン」のような作品が生まれたと感じる
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