国宝のレビュー・感想・評価
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今から見る人は前情報入れない方が良いかも。
前評判がどの批評系のYouTube見ても絶賛で
1分半の長めの予告編見ただけでちょっと
グッとくるところがあったので楽しみにして体調万全で見に行ったんだけどあまりにも主だった展開とか見どころ(ここに注目、な場面)とかを予習し過ぎたのは失敗だった。それでかなり感動が目減りしてしまったかも。上手いこと原作の中での長い年月と出来事をまとめていた気がするけどもっと歌舞伎の舞台シーンとかのワンシーンずつを短くまとめた方が感動出来たかも。人生の話が駆け足気味で舞台のシーンが長いから舞台のシーン長くするなら人生の話も長くした方がいいし、人生の話を駆け足にするなら舞台のシーンも短くした方がバランスはいいと思う。今年の邦画No.1の呼び声も高く、興行収入も突出したけども個人的には今年No.1は「爆弾」かなと思う。
このセリフに全てが詰まってると思う。
『あなた、歌舞伎が憎くて仕方ないでしょ。それでもいいの。それでもやるの。』おそらく、内省の果てにいる人にしか伝わらない奥深さだと思います。
歌舞伎のような、閉ざされた文化.家系だからこそより深く作品に溶け込んだ言葉でした。
でも誰しも人間のアイデンティティや職業倫理、感情や理性で解決しない矛盾に悩むと思います。ある人は、感情に傾く時があり、ある人は理性に傾き人間性を見失う。
主人公は、一度この言葉に取り乱します。偏った人には、この言葉は別の意味にも聞こえるのだと思います。
この言葉は、苦悩と向き合うのでなく感情も理性も受け入れるというのが正確なのだと感じます。
すべて放棄する自暴自棄でない、矛盾の中で自分を保つ人間のど真ん中に生きる事。
そして、芸能の到達点は誰も理解されない。
その芸は到達が、主人公のど真ん中で、感情と理性の包括集合知。
すごく面白かった。
カッコいいこと言ってますが、僕はそこに到達できるのはいつだろうか?^_^
妖怪人間国宝
泯さん妖怪が寒気をおよぼす!以前テレビでお見かけした、あのダンサー。すっかり人間国宝で、あんな長老いますいます、とトラウマ級。襲名挨拶の時の、「オマエ、やってくれたな…」の眼!!こっわ!
そして。見終わっても、強烈に残った思いとしては、何十年も前に感じたよそ者感。結婚した当時。私ってよそ者なんだ……味方がおらず、四方檻で囲まれ、そこに放っておかれたような疎外感。フラッシュバックしてきてかたまってしまいました。「私には血がない」このセリフは刺さりました。それでも。帰る場所なんてなくて、ここで生きるしかないと、腹をくくってからが勝負なんだな。そして、妖怪となる。
取ってつけたような波乱万丈な人生物語
組長の息子の設定にしながら殺された親父の敵討ちシーンが寸前でカット。
ここはすごく消化不良で何で1年後に娑婆にいるのか訳分からなかった。
3時間もかけているのだからもう少し説明してもよかった。
糖尿病で花井半次郎と花井俊介は最終的に亡くなる訳ですが、
花井俊介のいきなり片足切断は不自然すぎる。急に足が壊疽状態になるわけでもなく
親父が糖尿で亡くなっているのだからもう少し気を付ける筈。
遺伝性のある2型糖尿病は生活習慣に問題がある人が多く筋肉バリバリの横浜流星さんがなるには無理がある。リアリティがなさすぎる。
全体の感想として歌舞伎シーンは圧倒的迫力と美しさが感じられ、人間国宝まで行かなくても世襲という壁にぶち当たった半生でもよかった。
取ってつけた浮き沈みの激しい人生物語にしているから3時間もそんなに長く感じなかった。
落ちるとこまで落ちた歌舞伎役者が人間国宝までなるのは無理があるなと感じた。
(歌舞伎を演じている以外は女性を踏み台にしてのし上がって、それが芸の肥やしになっているのかもしらんけど碌な人間ではない)
よせてはかえす運命の浪
近づくと反発して遠ざかる量子
日が昇ると薄くなり、夕暮れ過ぎ輝きを取り戻す月
数多の血を啜り生き残りを賭け切磋琢磨する写し鏡のふたり
テーマの一部にある血筋、血脈を体現するキャストの起用等、日本に生まれ日本に生きる人々にこそ明確に伝わるメッセージ
「人間国宝」だけでは足らず、"由宇子の天秤"の判定を受けついぞ見ぬ景色に到達した境地 自己肯定感とはかくも得難く偉大であった
美と言う呪い
ヤクザの祝儀の場で、二人の少年が床の間を舞台にして芝居を演じ、幕になると二人して座敷脇の廊下に威勢よく繰り出した。人生は芝居だ! この破天荒なプロローグで、まず軽く胸を掴まれました。
◉それでも舞台に立つ
田中泯が木賃宿の薄汚れた一室で、そこに訪れた喜久雄に呟く。綺麗な物が何一つないから、心が穏やかであると。喜久雄や俊介を駆り立てた「美しさ」は、やはり重荷だったのだ。
木賃宿と言う設定には正直驚いたが、田中泯は更に言う。「周りの人をどれほど苦しめようと悲しませようと、それでも舞台に立つの」と。それは鬼気迫る覚悟であって、知らず感動もするけれど、いたたまれない。生きることの原点は、自分勝手であり自己満足が、その全てなのだ。
◉越える吉沢亮、崩れ落ちる横浜流星
野で見出された「個」である喜久雄。演じた吉沢亮は芸への想いを瞳に湛えていたが、その眼差しは情熱を越えた狂気に手が届いていた。ドサ回りで若者に揶揄われた喜久雄が暴れて、屋上でウィスキーを喇叭呑みしながら咽び泣くように笑った後、俺何を見てるんだろうな…と呟いたシーン。必死だった人間が、何かを飛び越え損ねた時、こうなるのだろう。
どうやっても抗えない「血」を持っているはずだった俊介。しかし、そこまでのDNAは生得していなかった俊介を、横浜流星は崩れ落ちるように演じた。諦めや絶望に慣れてしまった瞳が凄いなと思いました。基本、流星君は立ち上がれないダークな姿が、一番よく似合っていると私は勝手に思っています。
極道の子と歌舞伎の子の二人のライバル心が、ギラギラした刃物ではなく、展開が進むほど爽やかな景色になってきて、そこは気持ち良く時が経ったと感じました。
二人の友情に感動した。
ある雪の日、立花組の宴席に上方歌舞伎の花井半二郎が挨拶に訪れる。組長息子の喜久雄は余興で女形を演じるのだが半二郎はその演技に才能を感じるのであった。その時唐突にカチ込みを受け雪の中で父は殺害されてしまう。それを見ていた喜久雄はなぜか美しく思えてしまうのであった。喜久雄は父の仇を取ろうとするが失敗してしまい、半二郎に引き取られ丹波屋で憧れの歌舞伎の道に進むのであった。半二郎の息子俊介は、初めは反目していたが、お互い厳しい修行を受けることで親友になっていた。ある日人間国宝の万菊の鷺娘の講演を観て喜久雄は雪の日を思い出すのであった。二人道成寺で脚光を浴びると半二郎は「俊介は血が守ってくれる」歌舞伎は世襲制であった、一方で「喜久雄は毎日の稽古が助けてくれる」と言うのであった。次第に俊介は芸に身が入らなくなっていった。ある日、半二郎が代役を立てることになった。誰もが息子俊介がなるだろうと思っていたが、半二郎は喜久雄に代役をさせるのであった。喜久雄は曾根崎心中の舞台前に俊介の血が羨ましいと吐露する醜態をみせていたが、講演の演技は迫真に迫るもので、それを見た俊介は敵わないと講演途中逃げ出すのであった。喜久雄の恋人であった春江は哀れな俊介をみかねて行動を共にした。順風満帆な喜久雄は舞妓の藤駒との間に娘をもうけていたが父親だと名乗りすらしなかった。それどころか神社で悪魔に何もいらないからもっと歌舞伎が上手くなりたいと願をかけるのであった。すると失踪した息子俊介の代わりに丹波屋の名跡を継ぐことになり、襲名の舞台で半二郎は悪魔に取り憑かれたように死亡してしまう。父の他界で帰宅した俊介は人間国宝の万菊の元でもう一度歌舞伎の稽古をやり直すことにした。万菊は俊介が歌舞伎を恨んでいるのを見抜いて「恨んでもするのが歌舞伎」と逆に諭すのであった。一方、喜久雄は出自のスキャンダルとゴシップで役がなくなってしまっていた。役を獲るためだけに彰子と結婚するが、そのことが逆に歌舞伎界から追放されてしまう。追放された喜久雄は彰子と地方で小さな講演するほど没落していたが、いっそう歌舞伎しかないと感じるのであった。一方で歌舞伎に復帰した俊介は名声を得ていた。万菊によって喜久雄は歌舞伎に復帰させてもらうと、昔のように俊介と二人道成寺をするのであった。しかし今度は俊介が糖尿病進行で足を切断することになり一旦歌舞伎を諦めたが、新しい歌舞伎をしたいと懇願、俊介は自分の原点だと演目は曾根崎心中で二人は共演する。その共演中に喜久雄は俊介の命が短いと悟ると本物の悲涙を流すのであった。俊介の新しい歌舞伎とは命を削る鬼気迫る歌舞伎なのであった。俊介が死んでからも喜久雄は一人で歌舞伎を続け人間国宝になっていた。自分の娘と再会した時、喜久雄に歌舞伎を続けたことがどれだけ周りが血を流したか恨みをぶつけ、それでも歌舞伎に感動をしたことも告げる。それからも喜久雄は歌舞伎を続けた。喜久雄は何を探していたかも忘れてしまっていた。ある講演で鷺娘を演じた。会心の演技を終えた後、雪の日のことを思い出すとそれが有終の美であったと気づくのであった。
本編は三時間の長編ではあったが、理由としては歌舞伎の映像美が多く含まれているからである。その映像は色彩鮮やかで、BGMで上手く盛り上げられていた。美しいと言えば主演の吉沢亮も美しくそれを目当てで鑑賞するのも良いだろう。歌舞伎の知識はなくとも鑑賞できる内容で、多くの人に歌舞伎に興味を持たせる映像美であった。映像美は高印象だが、物語は奇抜さは感じられず、どんでん返しもないやや退屈な人情劇であった。俊介は喜久雄が血が羨ましいと言われたら、自分が継ぐはずだった名跡も喜久雄に与えてしまう。一方喜久雄は芸のためなら不義理なこともする人間であった。私は歌舞伎よりこの二人の友情に感動した。そして一方が隆盛すると片方が没落する数奇な運命でもあった。ここまでくると喜久雄の生き方は歌舞伎の話なのに、なにか極道の話のようにも思えてくるのだ。
結論、完全な人間などいない
周りからの絶賛の口コミに映画館で見なければという想いからようやくです 最後の方で「順風満帆」という言葉に、違和感を感じたのは自分だけではないはず!これまでの人生を知るもの、知らないものいれど、やはり上辺の言葉は刺さらないなと思った 何かを極めようとすると溢れる、裏切られるという波瀾万丈のまさに人生。一筋縄ではいかない、だから共感を呼ぶのでしょう。個人的には男性、女性の恋愛関係はリアル! 他の恋愛映画のような綺麗なストーリーは夢物語で、目の前にある衝動•感情で動くんだよなぁ
顔が綺麗
普段ドラマばかり見ている友人が「見た方がよい」と絶賛していたので、見に行った。
朝方だったからか、高齢者が大半で、歌舞伎のような伝統文化がテーマだと、こういった層が観覧に訪れるのだとしみじみ考えた。
内容は語ることができない。曖昧模糊な感じで、つかみどころがなかったように思う。
だから、「顔」の話をしたい。本当に吉沢亮は顔が綺麗だ。映画館の大きなスクリーンで見ると、なおのこと感動してしまう。彼の造形を彫刻にして展示してくれないだろうか。
ただ、女方は「俊坊」を演じる横浜流星に分があったように思う。
鼻筋がすらーっと通っていて、若干面長の輪郭が凛とした印象を与えている。
所作も女性らしさがあって、なんとも艶っぽかった。
友人は「森七菜」が魅力的だった(注:表現をぼかしている)と週刊誌の見出しに書いてあるようなことを言っていたが、確かに「幼さ」が一気に抜けた感じがする。
総括すると、ストーリーも興味深くはあるが、どちらかといえば、顔の造形や扇子を床に置くなどの身振り、歌舞伎の演目、鳴物などの演出などなど...
今の自分が作品からなんらかの「美しさ」を享受できれば、良いのではないだろうか。
そういった観点で言えば満点星5なのだが、本サイトでレビューをするにあたって、
私は内容の面白さを絶対的な基準にしているため、星3.5に落ち着いた。
歌舞伎のシーン、すごい…。
ロングランヒット中で気になって観に行った。
役者陣の熱演、そして歌舞伎のシーンなどは本当にすごい作品だと思った。
ただ、そうは思うものの、私にはなぜかあまり刺さらず…。
その理由含めて消化不良感の原因を考えて記録したい。
大きな一因としては、本作のメインテーマというか主軸になってるのって「歌舞伎の芸に身を捧げる者の狂気と業と悲哀」だと理解したのだけど(ちなみに原作は未読)、そこを堪能する前に色々個人的に感じるノイズが多かったせいかなと思った…。
まず思うのは伝統芸能・歌舞伎の世界、闇が深い…!
(本作はフィクションだけど、この辺割とリアルに描かれてる気がする)
明らかな男性優位社会だし、血統主義だし、今は他にもたくさんの良質なエンタメがあるから、正直私には良さがよくわからない…。
最終的に喜久雄は人間国宝になるとはいえ、この血統主義の慣習のせいで中盤はあまりに不遇。
俊坊との対比でさらにエグさが浮き彫りになってて辛い…。
そしてこの作品に登場する女性、もれなく全員不遇…。(でも春江の選択はあれどういうことなの…。)
喜久雄と俊坊の関係性はかなりスリリングで好きだったので個人的にはここを作品のメインでいってほしいくらいだった。
(実際序盤はそこに集中して観てたから、そこは主軸じゃないんだ…と途中から拍子抜けした。)
2人学校帰りに歌舞伎を練習するシーン、美しかったな…。喜久雄が二代目の代役に抜擢されて、本番前に化粧部屋で緊張してるところに俊坊が来て化粧しながら言葉を交わすシーンも良かった。
(私の中ではこの作品のハイライトはここ)
そんな感じで心から楽しみきれなかったものの、すごい大作だとは思った。
「芸のためなら女も泣かす」役者の魂は、救われるのか?
「芸のためなら女も泣かす」…「浪花恋しぐれ」(都はるみ、岡千秋)の一節です。
この歌は破天荒な落語家の初代・桂春団治を歌った曲ですが、この映画の主人公喜久雄の生き方も、自分の人生すべてを芸の為に捧げる生き方です。実際、喜久雄も女を何人も泣かせます(汗)
しかし、そのある種極限のストイックな生き方にそこまで主人公・喜久雄を突き動かす衝動はなんなのでしょうか。見ていて今ひとつそれがわからなかった。喜久雄曰く「きれいな景色を見たいから」とのことですが、その理由はあまりにも抽象的かつ具体的でない。おそらくそれは自己満足や自己実現といったレベルのものではないでしょう。
最後まで見終わって僕が思ったのは、喜久雄は「歌舞伎の魂あるいは、連綿と連なる怨念のようなもの」に取り込まれているということではないかということです。
伝統芸能に対する高尚な理解や素養など持ち合わせていない僕などは、歌舞伎とは『オワコン』であって、衰退するのみの『古くさい過去の遺物』位にしか思っていませんでした。世の中の大多数の人にとってはそうでしょう。しかし、江戸時代から連綿と時代が変わっても消滅しないのはなぜなのでしょうか。
おそらく僕が思うに、歌舞伎に関わってきた役者たちの、あるいはそこに夢と熱狂と共に観た人々の、情念もしくは怨念のようなものが織り重なり、それが得体の知れない妖怪のように膨れ上がり、不可視であり明確な意識を持たずとも決して消滅するまい・その存在を消すまいと渦巻く歌舞伎のレーゾンデートル、「怨念もしくは集合的無意識のような力」になっているのではないかと思うのです。
喜久雄は、劇中で神社で自身の子供とお参りをするシーンで、奇しくも「自分は悪魔と取引をした」と言っています。なぜ「神」ではなく「悪魔」なのでしょうか。「神」は見返りを期待しないが「悪魔」は見返りを要求するものだからです。(諸説あります)
喜久雄は「悪魔」と取引をした。「悪魔」とは上記の「歌舞伎の集合的無意識」であり、そこに取り込まれることを喜久雄は自ら望んだのだということでしょう。「そのために他の何もいらない」つまり、その為には「すべてを差し出す」と言う。
「歌舞伎の集合的無意識」には意識や人格のようなものはないでしょう。その意味では悪魔とは違います。しかし、歌舞伎に自身を捧げるものからすべてを吸い取る。人間が人間たる人間性や、あるいは人並みの幸福も。その代わりに歌舞伎の集合的無意識は、芸の魂を分け与えるのです。言わば、人身御供。役者の魂を吸い取りながら、決して消滅することなく、孤高に閃き続け存在し続けるのが、歌舞伎の「悪魔」のレーゾンデートルであり、それこそが存在し続けることができる所以なのです。
もし役者自身が捧げるものが中途半端であるのなら、その魂の「内なる熱」が足りないなら、役者の魂は「悪魔」に吸われ尽くして「死ぬ」のです。その魂の熱が役者の中から湧き続ける限り、歌舞伎の集合的無意識と取引し続けることができるのです。無尽に湧き出る熱を持つ者のみが芸を磨き続け国宝となりうるのです。
喜久雄には全てを差し出す意思と潔さと、芸に対する内なる無尽蔵な熱があったということです。ですから、国宝となり上り詰めた喜久雄には、他人は、芸以外何も期待してはいけないのです。
もはや喜久雄は、歌舞伎の集合的無意識に自らを差し出し・逆に力を吸収し続けたその果てに、集合的無意識と合一してもはや同じ存在となった。そこで初めて「きれいな景色」を見ることができたのでしょう。喜久雄は、歌舞伎の「悪魔」そのものになり、全てを捨て人外のモノとなった。それでこそ見れる世界だったのでしょう。
…あんまり期待していなかったのですが、面白い映画でした。スピーディーな展開で飽きさせない工夫もありつつ、ドロドロとした情念に溢れた僕好みの映画で、1回は歌舞伎を鑑賞したくなリました。この映画のヒットで歌舞伎に足を運ぶ人が増えたらこの映画を苦労して作った甲斐があるでしょうね。…そうしたら、歌舞伎の「悪魔」もニヤリと笑うかも知れません。
Thank's, all Cast and Staff ! :‑D
東宝はプロモーションがうまいね
3時間近い長編ということで、大福3個食べて観賞に臨んだ。その効果があったのかどうかははっきりしないが、最後までトイレに行きたくならなくてすんだ。大画面で見られてよかった。
日頃、歌舞伎に興味がないわたしでも、初の大舞台の『二人道成寺』のシーンはハラハラしながら見た。渡辺謙に変わって『曽根崎心中』の舞台に立ったシーンは緊張感が伝わってきた。後でお初を横浜流星が演じるシーンでは、前もって『曽根崎心中』を見せてもらっていたおかげで、展開がよく理解できた。これは脚本の妙だと思う。
歌舞伎の演目名がその都度画面に字幕で出てくるのはダサいけど親切だなと思った。後で調べられますし。しかし、最後の『鷺娘』ではやっぱり歌舞伎のシーンに飽きてきて、少し意識が遠のいてしまった(トイレ我慢しなくてすんでたのも要因かもしれないけど)。吉沢亮の「きれいやなー」というセリフでハッと気がついたが、そのままエンドロールになってしまった。吉沢亮が見たかった景色というのはなんだったのだろう。不覚なり。
ストーリーは、孤児だけど圧倒的な才能をもつ主人公と、血統書付きのサラブレッドだけど才能はそこそこのライバルという、武道や伝統芸能を題材にした話では何度か見たパターン。そのライバルが、血筋だけではなく、糖尿病のリスクという遺伝的な形質(いやこれこそ血筋というべきか)も親から引き継いでいましたとさ、というのは皮肉だけどなるほどと思った。
個人的には田中泯の演技が鳥肌もんだった。芸を極めると妖怪のようになるのだ。そういう意味では、人間国宝となった後の吉沢亮には幽玄さが足りなかった。美しくはあったのだけれど。
原作は見ない方が良いかも…
話題の映画だったので期待して観に行きました。3時間は長いですが、出演者の熱演に飽きることなく最後まで観れました。歌舞伎シーンは圧巻で引き込まれます。ただ、ストーリー展開の唐突さ、現実感があまり感じられない点や、なぜそういうことになったのかという疑問点があまりにも多すぎ、面白かったものの、ここまで高評価なのが不思議でした。
ただ、何とも言えない余韻を感じたのは確かで、気付けば原作本を購入し、読みふけっていました。原作は文句無しの面白さ。ただ、原作ファンはこの映画を見て怒るんじゃないかな、と思うくらい原作と映画は別物。映画では、原作での重要人物の一人がほぼ登場せず、そのことによって原作ではしっかりと描かれた主人公と周辺人物との関係性もおかしな感じになっているし、そもそも様々なエピソードが雑に統合されたり、別の人物のエピソードに変更されていたりという改変により、膨大な疑問点を生み出しているように思います。長編小説を映像化すると仕方ないのかもと思う反面、原作を観たからこそ、こんな映画になるならやらなくてよかったのに、とすら思いました。原作未読だと疑問まみれだし、原作ファンにとっては噴飯ものの作品になったしまったのではないでしょうか。
「本物の歌舞伎に触れる、魂揺さぶる物語」
【正反対の運命を背負った二人の青年】
物語の軸となるのは、吉沢亮さん演じる喜久雄と、横浜流星さん演じる俊介。
喜久雄は長崎に暮らしていた15歳のとき、目の前でヤクザの義父を殺され、そのまま大阪の歌舞伎一家に預けられ、意志とは無関係に厳しい修行を受けることに。一方、俊介は生まれながらにして歌舞伎一家に育ち、歌舞伎をやるのが当たり前という環境に身を置く青年。
まったく異なる出自の二人が、血縁と才能という逃れられない運命に翻弄され、互いに刺激しあいながら、役者として成長していく姿が描かれます。
【それぞれの魅力と演技の違い】
喜久雄はもともと女方の素質があり、飲み込みが早い。一方で俊介は、生まれながらに歌舞伎役者という「恵まれた立場」に甘んじつつも、自分の進む道に苦しみながらも懸命に努力するボンボン的存在。
横浜流星さんは、映画『正体』でも見せた「可哀想な子」を演じる才能が今回も存分に発揮されており、「ほんまもんの役者になりたいんや」というセリフには心を打たれました。
俊介の父・半二郎(渡辺謙)が、自身の跡継ぎを血の繋がらない喜久雄に託すという、歌舞伎界のタブー中のタブーを描いた展開も衝撃的。その選択に葛藤しながらも、最期に息子・俊介の名を呼ぶシーンには深い愛が感じられました。
【圧巻の歌舞伎シーン!亮と流星の努力の結晶!】
とにかく、歌舞伎のシーンが素晴らしい!
吉沢亮さん、横浜流星さんは、他の仕事も抱える中、1年間かけて歌舞伎の踊りと演技を習得したそうです。もともとの素質では亮さんが一歩リードしていたそうですが、流星さんは持ち前のガッツと努力でそれを追いかけ、見事に演じ切っています。
劇中に登場する演目では「二人道成寺」では手ぬぐい、笠、鈴太鼓などを使った妖艶な舞、「曽根崎心中」の緊迫した感情表現など、どれも素人が見ても圧倒される完成度でした。
【撮影現場で体感した「本気の現場」】
今回、私は京都・南座や上七軒の歌舞練場(芸子、舞妓の訓練場)、大阪の昔ながらのキャバレーなどでエキストラとして撮影に参加しました。普段は入ることのない場所に足を踏み入れ、歌舞伎の世界を映画で表現しようという壮大な挑戦に触れられたのは、一生の思い出です。
現場では、俳優陣(亮さん、流星さん、渡辺謙さん、寺島しのぶさん、高畑充希さんなど)をはじめ、李監督、カメラ、照明、方言指導など多くのスタッフが一丸となって映画づくりに挑んでいました。
朝5時から夜9時まで、衣装・髪型・小物のチェック、食事の用意、300人近いエキストラの管理…。ものづくりの裏側に、これだけの人と労力があることを知って感動しました。
印象深いのは、俊介が観客として喜久雄の「曽根崎心中」を見つめるシーン。俊介の心の揺れが物語の分岐点になる重要な場面で、監督の演出も非常に熱が入っていました。
【推しのために全国から!エキストラたちの熱量】
エキストラの多くは亮さん、流星さんのファン。北海道から九州まで、交通費も宿泊費もすべて自費で駆けつけていました。
観客役だったため、舞台で演じるお二人を堂々と見られるという特典付き。花道の近くでは「生の素足と爪が見えた!」とファンが歓喜する場面もww。
そして、映画『国宝』の評価は――
評価は、文句なしの5.0。SSSトリプルSのランクです。世界に誇れる映画だと現場でも確信しました。
エンタメ性、芸術性、ストーリーの分かりやすさ、衣装、音楽、映像…。どれを取っても素晴らしく、全体の完成度が非常に高い作品です。
一つの作品が出来上がるまでに、どれだけの人の情熱と時間が注がれているのか。
それを肌で感じたこの映画、ぜひ多くの人に見てほしいと心から思います。
そして、映画ならではの映像による歌舞伎体験を、ぜひ劇場で味わってほしいと思います。
※あとがき
記念品とともに心に残る時間。
ボランティアエキストラなのでもちろん報酬はありませんが、映画のタイトル『国宝』と監督の名前が刻まれた記念品をいただきました。
ちなみに、記念品はステレンスボトル、扇子、傘の超吸水ポーチ、保冷バッグなどなど。
まさに自分にとっての『国宝』。
以上
久しぶりに映画観に行けた
吉沢亮と横浜流星の見分けが難しくて何度か間違えて観ていた・・・白塗りするとますます見分けが付かない。あと何故か横浜流星の方が主演だと思い込んで観ていたので、途中であれって・・・
永瀬正敏気が付かなかった!
渡辺謙が女方って、なぜ?!と思ったけど白塗りして舞台に立つとそんなに違和感はない。でも渡辺謙は白塗りしてても渡辺謙だと分かるなぁ。
田中泥さんが良かった。
吉田修一は悪人や怒りの人だから・・・吉沢亮が渡辺謙に毒を持ったのかと思って観ていて、横浜流星にも毒を?!と思ったけど違うようだった。悪魔と取り引きしてたからてっきりもっとドロドロした話なのかと・・・
横道世之介も吉田修一だった。
歌舞伎の上手い下手は正直分からないけど、音響や演出の工夫がされていて、舞台シーンは迫力があった。
スクリーンで観られて良かった!
いやすごいけど
すごいけど、まじで昭和元禄落語心中と話にすぎません?!途中であれなんでこんなに似てるんだと考えて、どっちらかパクリ?とあることないこと考えてしまった😓でもやっぱ歌舞伎は難しいなあ、感情理解も、セリフを理解するのも、一回観に行きましたが、イヤホンの説明がないと何もわからない感じだった。こんなこと言うのはなんなんだが、本当に人をこんなに辛くさせられるものってそんなに大事かと思ってしまった。
死の間際に実の息子の名を呼ぶのはある意味普通
死の間際に実の息子の名を呼ぶのはある意味普通だ。芸より血だと思っているんだとしかあの場では思えなかったし、実際本音としては実の息子に襲名させたかっただろう。家継続の為にはもう待てない。自分は我慢して目の前で頑張っている喜久雄に継がせよう。その我慢が限界を超えた瞬間が襲名披露の壇上だったのは不幸だったけど。それでも死ぬときは預かった息子ではなく、0歳から育ててきた息子の方の名を呼ぶのは役者としてではなく、父としての自分の心から、飾りなしに出た言葉だった。と思う。
喜久雄が俊介と違うのは、父を二回看取っていること。実の父と歌舞伎の父。それだけでも業が違う。俊介が帰ってきて隅に追いやられた時間は人生の休み時間であり、俊介がいない間に握っていたバトンを一時返していただけ。そして俊介が死んだあとは孫にバトンを渡す役目を遂げたはず。立派につないだのだ。
最後、国宝=国の宝にはなれた。見たかった景色を見つけた。けれども本当に喜久雄は国宝になりたかったのだろうか。それよりも、どこかのたった一人の一番の宝物になったほうが、人間としては幸せだったのかもしれない。死ぬときに混濁する意識の中で、「喜久雄」と必死で自分の名を呼んでくれる。そんな人はこの世界にいるのだろうか。芸に魂を売った結果、そんな人はいないかもしれない。わかっていてその寂しさをも抱きしめながら生きる喜久雄と、国を背負う全ての芸の人に心より感謝と敬意を表したい。
何で高評価?
当初、本作は観ないと決めていたのですが、私の周りで観てきた方々が皆さん絶賛するので、重い腰をあげて観てきました。
結論から言うと何でこんなに高評価なのかさっぱり分かりませんでした。
まず、踊りの場面については、私自身が歌舞伎を観た経験がないため、上手いのかどうか判断がつかず、頑張っているようには見えましたが、感動するまでには至りませんでした。ただ、映像的には早変わりの場面など、観客に分かりやすいような工夫がみられ、その点は評価できると思います。
また、ストーリーについては、後継ぎを一度決めてしまったら戻せないと、半二郎の妻がさんざん騒いでいた割には状況次第でころころ変わるし、主人公の恋人にしても、いつの間にかあっさり俊介の恋人になっていて、どっちでもいいの?って言う感じで、同情なのか愛情なのか、心の内が伝わって来ませんでした。
極めつけはラストのカメラマンが、偶然にも実の娘だなんて都合良すぎでしょう。
(追記)
歌舞伎は女性の役を男性が演じ、宝塚は男性の役を女性が演じるわけですが、何でわざわざ異性の役を演じるのか、私にはその良さが理解できず、違和感しか感じません。
原作の良さを活かしきれていないのでは…
映画化が決まる前に大変面白く一気読みしていました。
映画の前評判が、かなり高く「映画館で見るべき映画」との口コミも多かったので期待して見に行きましたが、残念ながら映画の方は期待外れでした。
原作の魅力は、細かい人間ドラマや時代背景によって、メインの歌舞伎の世界で生きる喜久雄と俊介エピソードに深みを与えているところにあるかと思うのですが、3時間の映画ですので、かなり端折られています。
原作を未読の人は話が分かるのかな?と、鑑賞中に心配になるレベルでした。他の方もレビューされていますが、かなりぶつ切りで、すぐに時間軸も飛ぶので、感情移入はかなり困難です。
歌舞伎のシーンは確かに美しく、俳優さん達の歌舞伎シーンを成立させるための苦労や努力は、とてつもなかったかと思いますが、それが映画としての面白さには直結していないと感じてしまいました。歌舞伎シーンを見るためなら、歌舞伎そのものを見た方が良いのではないでしょうか。
映画制作のリソースを歌舞伎シーンではなく、ドラマ部分に費やしてほしかったです。そして、2部作にすべきだったと思います。
全566件中、21~40件目を表示
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