国宝のレビュー・感想・評価
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吉沢亮と横浜流星の贅沢なアンサンブルで魅せる、血筋と才能の残酷な相剋
吉田修一の原作は文庫本で上下巻、都合800ページほどで主人公立花喜久雄の15歳から還暦過ぎまでを描いている。時代背景も絡めつつ綴られた浮沈の激しい歌舞伎役者の一生を1本の映画に収めるのだから、細部の省略は当然ある。
それでも物語の本質的な魅力は全く損なわれていなかったように思う。それどころか、原作を読んだ当時歌舞伎の演目に関する知識があまりなかった私は、ああ視覚的にはこういう世界だったのだと、そこにかかっていた靄に気付かされたような、そしてその靄が晴れ澄んだ景色が見渡せたような気持ちになった。
吉沢亮と横浜流星は、個人的には世代でトップクラスの演技巧者だと思っている。どちらかひとりが出ている作品というだけでも食指が動くのに、二枚看板となればもう贅沢なものをありがとうございますとひれ伏すばかりだ。
実際、吉沢亮の喜久雄は圧倒的だった。半二郎から「曽根崎心中」の演技指導で厳しい駄目出しを受ける最中自らの頬をひとつ打ち、一瞬で一皮剥けたお初になる場面には息をのんだ。
行方不明だった俊介が帰って来てあっという間に晴れ舞台に戻る一方、「血」がないがためにドサ周りに落ちぶれた喜久雄が、汗と涙で化粧が流れた顔のまま悲痛な声をあげる姿に胸が締め付けられた。
そして、何と言っても舞台での華やかさ。どこか中性的な滑らかな輪郭の吉沢亮の面立ちに、女形の化粧が映えて眩しかった。
私には歌舞伎の舞台を観る嗜みがないのであの演技がどこまで本物の歌舞伎役者に迫ったものか、厳密に見極めることは出来ない。だが、彼がやろうとしていることは単純な舞台の再現ではなく、人間国宝になる役者の人生を映画で表現することなので、舞台場面のみを本物と比較して粗探しすることにはあまり意味がない気がする。
中村鴈治郎が歌舞伎指導を担当しているので、基本的なクオリティは担保されている。また、李監督は吉沢亮に、綺麗に踊るのではなく喜久雄としての感情を乗せて踊るよう指導したそうだ。歌舞伎をよく知らなくても難しく考えず、映画の観客として舞台場面ではただ東一郎と半弥、衣装や舞台芸術の美しさに酔い、二人の心情に思いを馳せればそれでいいのではないだろうか。
横浜流星も吉沢亮に負けない存在感を放っていた。助演とはいえ、W主演に近い演技力とエネルギーが求められる俊介という役を、吉沢に押し負けることなく、かといって主役の吉沢を食ってしまうこともなく、絶妙なバランスで演じていたと思う。このバランスが崩れると、喜久雄と俊介の関係性の表現は台無しになっていたはずだ。
血筋を持つのに父の半二郎に喜久雄の才能の方を選ばれ、喜久雄の舞台を見て実力の差を実感し家を出てゆくくだりでは、絶望に傾いてゆく俊介の心情が表情の変化から伝わってきた。
吉沢亮は稽古の段階で横浜流星の吸収の早さと役への気迫を感じ、彼に負けないことをモチベーションにして頑張ったとインタビューで述べている。一方横浜流星は、吉沢演じる喜久雄の踊りを見て俊介の踊りの個性をイメージしたとのこと。「仮面ライダーフォーゼ」で親友役だった二人のこういった関係も、どこか役柄の血肉になっている気がして面白い。
メインの二人以外で印象的だったのは、まずは寺島しのぶだ。演技は当然素晴らしいのだが、現実の彼女の境遇が、血筋と才能をめぐる物語に説得力を与えていた。彼女の場合は「血」はあったが、女であるがために弟の歌舞伎デビューをただ見ていることしか出来なかった。血筋を持つ俊介を守ろうとする幸子の姿には、寺島しのぶの母としての経験の他に、彼女が梨園の内側で見てきたものが反映されているように思えて仕方なかった。
田中泯にも驚いた。最初に白塗りの姿を見た時はその圧倒的な存在感に、一瞬本職の歌舞伎役者かと思ったほどだ。女形のしなやかさと威厳が同居する表情、そして洗練された手の動きはさすが舞踊家。
黒川想矢もよかった。喜久雄として最初に登場し半二郎を惹きつけるという、なかなか重要な役どころ。彼の墨染はとても可憐だった。
喜久雄と出会った頃は歌舞伎という業界を斜に構えて見ていた竹野が、最終的に喜久雄を救う立場になってゆく展開も描写はさりげないがなかなかアツい。
本作で全体的に女性キャラの扱いが小さく表層的なのは時代背景と業界の傾向に加え、原作での女性周りの描写が映画では削られているので(特に春江の心情描写はこれで大丈夫なのかというくらい端折ってあった)まあこんなものだと思っている。それでもちょっと残念だったのは、喜久雄の娘綾乃の扱いだ。
取材で喜久雄と再会した綾乃は娘であることを明かして彼に恨み節を言うが、最後に「舞台を見ているとお正月のような気持ちになる」等述べて舞台人としての彼を面と向かって肯定した。
これは、うーん……どうなんだろう。個人的には、ぽっと出のキャラが(子役としての綾乃は出てたけど)無難に綺麗事でまとめたように見えてしまった。肯定させる必要あったかな?
綾乃の使い方によっては、晩年の万菊に近いレベルで、喜久雄の美を背負う業のようなものが表現出来たのではないかと思えてしまう。偉そうにすみません。
才能で血筋を越えながらも血筋を持たない故に転落し、それでも才能で再び引き上げられた喜久雄。血筋を持ちながらも一度は才能で負けて家から逃げ、しかし血筋によって戻る場所を得られた俊介。入れ違いに過酷な運命に翻弄されながらも、最後まで穢れない彼らの友情もまた舞台に負けず美しい。
原作はちょっと長いがとても読みやすいのでおすすめ。鑑賞後に読めば映画で知ったビジュアルで想像を補いつつ物語のさらなる豊かな広がりに魅了され、美に魂を捧げた喜久雄の最後の姿に心を奪われるはずだ。
歌舞伎役者の業、親子の業
ドロドロした内幕物になっていないのは、喜久雄と俊介の二人の関係が心地よいものだからだと思う。足の引っ張り合いがない。
ライバルだが無二の親友の二人は、互いの芸を認め、相手を蹴落とすことで自分が浮上しようとは考えない。自分の芸を極めようと精進して高みを目指す。親友でありライバル、そして真摯に同じところを目指す同志でもある。紆余曲折あっても、基本的にふたりの関係は最後まで変わらない。お坊ちゃんの俊介がやくざの家に生まれたみなしご喜久雄を見下していないのは、親がしつけているからだろう。こういうところ、さすが格式ある「お家」であると思う。(実際の歌舞伎の家は甘やかしてやりたい放題のようだが)
二代目半二郎が自分の代役に、半弥ではなく東一郎をたてたのは、もちろん東一郎の方が優れていたからだが、本当にそれだけか。
実力はあるのに気持ちが今ひとつな実の息子を奮起させるために敢えてそうした意図はなかったか。
歌舞伎界詳しくないし原作読んでいないが、外から来たものを歌舞伎界で表舞台に立たたせるには、養子という方法があるのは知っている。
本気で東一郎を後継ぎと考えていたなら、まず彼を養子にして、「血」を繋いでやると思う。二代目亡き後の喜久雄の極端な不遇は、やくざの家に生まれたこと、オンナ癖が悪かったこと以上に、それをしなかったところが大きいだろう。二代目は、自分は白虎を襲名、東一郎を三代目半二郎に指名したときでさえ、喜久雄を養子にしなかった。俊介が戻った時、すぐに事実上家を継げるようにだろう。
喜久雄に「歌舞伎界は血がすべてなので、これからつらい目にあうだろうが芸で生き抜け」のようなことを言うのは、彼を養子にしない言い訳のように聞こえる。二代目が白虎襲名披露の舞台で倒れた時に口にするのは「俊坊」なのだ。
東一郎が歌舞伎界に復帰できたのは、万菊が彼を養子にしたのか。
万菊が喜久雄を嫌い、認めなかったのは何故か。
歌舞伎の神の申し子であることを完全には自覚しきれていない喜久雄を、敢えてどん底に堕ちるように仕向け、全て失ったとき最後に残るのが歌舞伎であると、細胞の隅まで自覚させるためだったのでは、と思う。
きれいな顔に食われないように、という喜久雄への忠告は、なまじ顔が良いと芸を正当に評価されないと言いたかったんだろうが、女性を引き付ける美しさがゆえに女性問題を起こし勝ち、それがせっかく持っている無二の才能を生かす道を閉ざすことになるという意味もあったかも。そして、時期が来た時、満を持して、喜久雄を歌舞伎界に戻したのだろうと思った。
「血」がすべての歌舞伎界で、プリンス・半弥が役者生命だけでなく生命そのものも断たれたのは、父から遺伝した糖尿病の体質、その「血」のせいだったのが皮肉だ。
喜久雄の、「悪魔との取引」は成立していたかのように、どんな境遇に落とされようとも、すべてを失っても歌舞伎の世界に戻ってくる運命を感じる。そして、喜久雄の目の前に立ちふさがる障害は、最終的には消えていく。喜久雄は幾多の障害を越えたなら、生涯歌舞伎役者として前に進み続ける人生を与えられたようだ。
喜久雄が契約した悪魔の正体は、実はあの小さい神社にいた神様だったと思う。悪魔なら、多分、楽させて、精進のための試練は与えないから。
ひらひらと、目の前をはなびらか雪のようなものが舞う「景色」を見るために、喜久雄はずっと芸を追い続けるのだろう。
取材に来た、捨てた実の娘、綾乃の意外な言葉に、喜久雄は人間の領域を超えて神の域に近づきつつある存在になっていると思いました。
吉沢亮と横浜流星が素晴らしい
歌舞伎に詳しい人から見たら粗があるかもだが、ふたりの、特に吉沢亮の踊りや所作は、少なくとも自分が息を詰めて見入ったくらい見事に見え、役にリアリティを感じました。優しい顔立ちでどこか中性的なので、とても美しい女形で、見とれてしまった。横浜流星はもともと身体能力が優れているので、彼より半年早くけいこを始めた吉沢亮が、追いつかれそうで気が気ではなかったとインタビューで言っていたが、劇中だけでなく実際にもふたりで切磋琢磨しながら芸を磨いたようで、そこからすでに「魅せる映画」が始まっている。
その昔、日曜日の朝の、息子たちも私も大好きな某仮面ライダーで、この二人が親友同士の役で出演していたのをつい、思い出しました。
そして、田中泯さんの存在が圧倒的。
この映画の楔のようなもので、他の誰にも代われない、彼にしかできない役だったと思う。
人間国宝の万菊が、最晩年をたった一人、あんなところで過ごしているのが衝撃
こんなこと、現実にはあるんでしょうか。
いわゆる役者ばかで、他のことにこだわらなかったのか。
彼も芸の神に選ばれた人だったと思う。
二代目といい俊介と言い、芸とお客さんファーストであるとしながら、舞台上で血を吐いて、あるいは激痛で、倒れて公演を中止する、片足で倒れながら舞台を勤める、役者としての「やりたい」気持ちは分かるし感動的ではあるが、「役者」としてお客さんに完全な芸を見せることからは程遠いがそれは良しとするのか、と少し思いました。「お客様に無様な舞台を見せた」と恥じ入ったりはしないんですね。
追記:喜久雄が半二郎の代役を演じる際、俊介に「お前の血をごくごく飲みたい」と言うのに、銭湯で働くバンパイヤの姿が浮かんできて笑ってしまって困った、笑う場面じゃないのに。
これは映画館で見た方が絶対に良いと思う
吉沢亮演じる喜久雄が歌舞伎の世界で人間国宝となるまでの一代記。そして、その中で、横浜流星演じる歌舞伎名門の跡取り息子・俊介との友情・同志愛が物語の芯となっています。
喜久雄はとある事情で歌舞伎名門・花井半二郎(渡辺謙)の家に引き取られ、俊介と共に厳しい指導を受けながら役者として育っていきます。二人は、子供時代、同志として切磋琢磨しながら一緒に育っていくのです。ドロドロした部分はほとんど描かれないので、見ていて実に気持ちが良いのです。
印象的なシーンはたくさんあるのですが、私が最も感心し感動したのは、1回目の曽根崎心中、喜久雄の大役デビューのシーン。曽根崎心中は半二郎の体調不良により代役として喜久雄が立つことになったのでした。代役が跡取り息子の俊介ではなく喜久雄。複雑な感情が二人によぎります。
俊介が喜久雄の楽屋に入っていくと舞台化粧に手間取る喜久雄の姿。「始まるのが怖いねん。震えが止まらんねん。俊坊、怒らんと聞いて欲しい。今、俺が一番欲しいのは俊坊の血やわ」と涙ながらに言う喜久雄。「(あれほどに修練してきた)芸があるやないか」と優しく答える俊介。あれほど厳しい修行に耐えた喜久雄の、頂点を目指す人間しか味わうことのできない怖ろしいまでの緊張。それがわかる俊介。この二人のやりとりには本当に感動しました。素晴らしかった。
今、1回目と書きましたが、当然、2回目があります。それもまた良いのです。この二人の関係性、友情と言うよりも同じ戦場で戦ってきた戦友です。俊介は糖尿病で左足を切断。それでも曾根崎心中をやりたいと言います。近い将来、右足も切ることになるからと。相手役を喜久雄が務めますが、右足にすがりつくシーンで足先が変色しているのを見ます。喜久雄、涙が出てしまいます。私ももらい泣きしてしまいました。
吉沢亮さん、横浜流星さん、両者とも本当に素晴らしかったです。歌舞伎のできばえは素人だからわからないのですが、発声・舞踊・所作など凄いですね。相当の努力・研鑽を積まれたことくらいはわかります。
全体としてほぼ3時間の大作ですが、本当に良いものを見せていただきました。感動しました。
この映画は映画館で見た方が絶対良いですね。テレビ画面だと感動が伝わりにくいかもしれません。
【”積恋雪関扉、二人道成寺。そして曽根崎心中、鷺娘。”任侠一家に生まれながら歌舞伎に魅了された男と名門の家に生まれた男の歌舞伎と心中した如き人生を描いた作品。吉沢亮さんの女形の舞は壮絶な美しさです。】
■任侠一家に生まれた喜久雄(長じてからは、吉沢亮)は組長の父(永瀬正敏)を、正月の宴で自分が”関の扉(積恋雪扉)”を舞った後に、討ち入りで射殺される。
その後、上方歌舞伎の名門の当主、花井半二郎(渡辺謙)の部屋弟子になり、歌舞伎役者の道を歩み出す。半二郎の鬼の様な指導の元、喜久雄と半二郎の息子、俊介(長じてからは、横浜流星)と芸を磨く日々。
喜久雄は東一郎を襲名し、俊介は半弥を襲名し、女形コンビで”二人道成寺”で人気を博す。だが、半二郎は糖尿病の悪化で襲名披露の際に吐血し、入院。半二郎が代役に息子半弥ではなく、東一郎を指名した事から、半二郎の妻(寺島しのぶ)の怒りは炸裂し、喜久雄と俊介の関係もこじれて行く。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・今作は、2時間55分のマアマア長尺な作品だが、二人の男と複数の女達の30年の関係性を描いているために、脳内フル回転で観たためか、体感2時間であったし、結構疲れた。
疲れた理由は、喜久雄と俊介に絡む女性が複数居て、描き方が少し粗い気がしたからである。
■だが、俊介を演じた横浜流星と、特に喜久雄を演じた吉沢亮の白粉を首筋から上に刷毛で塗した女形の所作と舞は見応え充分であり、且つ二人の毀誉褒貶の人生の描き方が凄く、魅入られたのである。
更に言えば、二人の毀誉褒貶の人生の節目節目に、”積恋雪関扉”、”二人道成寺”、”曽根崎心中”、”鷺娘”といった歌舞伎の有名な演目が、彼らの人生を表したかの如く嵌められている、作品構成の秀逸さも、凄いのである。
俊介は名門の跡継ぎながら喜久雄の芸には劣るが故に(と言っても、今作でも頻繁に舞台になる京都の南座で数度歌舞伎を見ただけの素人には、違い分からず・・。)喜久雄の晴れ姿を観た俊介は長きに亘り姿を消し、喜久雄も又、舞妓(三上愛)との関係や、他の一門の統領の娘(森七菜)と良い仲になった事と、背中に彫った刺青が暴露されたスキャンダルにより、歌舞伎の表舞台から姿を消し、ドサ回りの日々を送るのである。
■花井半二郎の死により歌舞伎界に戻った俊介は、再び花形になり、喜久雄はヒラの役者として、歌舞伎界に戻るのである。
俊介は父と同じく、糖尿病のために片足を失い、残った一本の足と義足で”曽根崎心中”で再び共演するシーンは凄い。俊介の残った片足の足先も壊疽しつつある中、”お初”を演じる、その足先を全身で支える喜久雄の姿・・。
・劇中、二度出演する人間国宝の女形を演じた田中泯さんの演技は凄かった。一度目は人間国宝として堂々たる女形の声音と所作が、二度目は零落れてボロイアパートで煎餅布団に横たわりながらも”ここは、綺麗なモノが無いでしょう。だから、ホッとするのよ・・。”と呟く姿は、今作の陰のMVPだと思ったな。人間国宝の称号の光と影を表した人物だと思ったな。
・そして、喜久雄と俊介が出会って30年が経ち、俊介はもういない。
喜久雄は人間国宝に史上最短で成り、その記念の舞を披露をする前に彼の写真を撮る女性カメラマン(瀧内公美)。彼女は、喜久雄が若い頃に慕って来た舞妓の娘であり”貴方は、悪魔だわ。周囲の数々の人達を足場にしてのし上がって・・。けれども、貴方の舞には引き込まれるのよ・・。”と呟き、涙を流すのである。
<人間国宝になった喜久雄こと、東一郎は再び舞台下の”奈落”から華やかな舞台にせりあがり、紙吹雪の舞う中、一人”鷺娘”を舞い、亡き父と同じように雪の中で静に横になり、息絶えるのである。
今作は、任侠一家に生まれながら歌舞伎に魅了された男と名門の家に生まれた息子の、歌舞伎と心中した如き人生を描いた作品なのである。>
■付記
多くの作品で、歌舞伎をテーマにした秀でた耽美的世界を描き、私に届けてくれた故赤江獏さんに感謝いたします。
■付記<2025年7月6日 追記>
今作鑑賞後、複数の映画を鑑賞して矢張り作品のレベルが、突出しているなと思ったので、得点を4.0から4.5に修正させて頂きます。悪しからず。
吉沢亮・・・天性の歌舞伎の女形
藤娘の扮装をした吉沢亮のあまりの美しさと日本舞踊の上手さ。
16歳時には仮面ライダーだったのに、その変身(ヘンシーン)が、
歌舞伎の役者で、しかも大成功の変身でした。
吉沢亮の、
女形の声音の美しさ、張りは10年鍛錬した本物の歌舞伎の女形を
軽々と超えて見えます。
(恥ずかしながら、銀座の歌舞伎座にはたつたの一回行きました。
(滞在は6時間ですから、全くの素人ですが、
(たまにテレビの中継を見るる程度です)
でもですが、吉沢亮さんの、なりきり振り、その上手さは素人目に
完璧に見えます。
3時間の上映時間もまったく緩みがなくて、あれよあれよの瞬く間。
喜久雄(15歳は黒川想矢)が、藤娘を新年会の余興で踊るのを
見ていたのが、歌舞伎の大御所・花井半二郎(渡辺謙)。
半二郎は一目で喜久雄の日舞に圧倒されるのですが、
ヤクザが押し入ってきて、父親(任侠の親分=永瀬正敏)は、
その場で殺されてしまうのです。
そして一年後。
半二郎に引き取られて実子の御曹司の俊介(横浜流星)と、相弟子のように
半二郎の厳しい稽古を受ける事に。
めきめき力をつける喜久雄。
運悪く半二郎が交通事故で大怪我をします。
その代役に半二郎が指名したのは、なんと喜久雄だったのです。
そして30歳の時、3代目花井半二郎の襲名をしたのは、
実子の俊介ではなくて、喜久雄だったのです。
(ここに因縁の喜久雄と俊介の確執が生まれるのです)
★★一説には喜久雄のモデルは坂東玉三郎、ではないか?
とも言われていますが、もちろんフィクションで、原作者の
吉田修一さんが、
「歌舞伎役者で人間国宝」に上り詰める
血筋のない人物・・・というコンセプトのもとに
描かれた小説と推測します。
近年、片岡愛之助さんは実家が工場だと聞きますし、香川照之も
離婚して女優の母に育てられ40歳過ぎから実の父親の
超有名歌舞伎役者に弟子入り歌舞伎界に入られています。
中村獅童なども実の父親が歌舞伎役者を嫌い廃業したので、
正統的な世襲とは言えないかもしれません。
歌舞伎役者が、ミュージカルに出る、
アニメの声優をする、映画では異彩を放ち、
演劇(芝居)に出る・・・などなどクロスオーバーの活躍が目立ちます。
音羽屋(尾上菊五郎など)の娘である寺島しのぶは、
渡辺謙の女房役を演じていますが、
近年、女性ですが、歌舞伎座に出演しています。
新しい波は確実に押し寄せていますね。
父親・半二郎の代役を立派に務め上げる喜久雄の凄さに、
ショックを受けた俊介は、そのまま舞台の座席から去り、
姿を隠してしまいます。後を追う喜久雄の恋人の春江の姿が。
しかし父・半二郎の死後、俊介も歌舞伎の世界に戻ってくるのです。
横浜流星も良いです。
ちょっと驚くようなショッキングな見せ場があり、歌舞伎役者に
適正の薄いようでやる気のない俊介も、晩年で
凄い執着心を見せてくれます。
横浜流星もさすがの花形役者!!
「曽根崎心中」のお初は鬼気迫る圧巻の演技でした。
ファンを楽しませてくれます。
芸を極める、
(私生活を犠牲にしても、
(悪魔に魂を売っても、
などの台詞が出てきますが、
凡人には見ることのできない景色を見る喜久雄は
人間国宝という頂きに上り詰めた
稀有の天才、
努力の人でした。
一芸を極めた人は、やはり感動的で
ラストは込み上げるものがありました。
雪吹雪のなか「鷺娘」を舞う喜久雄の姿は
芸に生きる喜びとつよさに溢れていました。
悪魔との取引‼️
父親を殺された極道の一人息子・喜久雄、そんな喜久雄を引き取った歌舞伎界の花形俳優・花井半二郎の一人息子・俊介の50年に及ぶ友情と葛藤の物語‼️半二郎が怪我した自分の代役に息子の俊介ではなく喜久雄を推したことから、二人の関係に変化が起こる‼️そんな二人の物語が歌舞伎界の内幕も含めてかなりソフトにまろやかに描かれます‼️喜久雄に自分の代役をさせねばならない半二郎の苦悩、代役が息子でないことに憤りを見せる半二郎の妻、代役が自分ではない事に哀しみを滲ませる俊介、そんな俊介を愛してしまう喜久雄の恋人・春江、喜久雄の娘を産みながらもほったらかしにされる芸妓、歌舞伎界を追放された喜久雄と苦労を共にする歌舞伎界重鎮の娘、父を恨む喜久雄の娘など、様々な物語が結構なアッサリ味で深みもなく描かれているので、もう少し一人一人のキャラを丁寧に描いて欲しかった‼️本当はもっとドロドロした歌舞伎界の裏側を観たかったんです、私は‼️演劇界の「イヴの総て」や映画界の「サンセット大通り」みたいな‼️半二郎の代役に喜久雄が舞台に上がり、涙を流す俊介と春江が手を繋いで出て行くのを交錯させて魅せるシーン‼️和解した二人が久しぶりに舞台で共演するシーン‼️この二つのシーンは素晴らしかった‼️キャストの皆さんも吉沢亮、横浜流星、高畑充希、森七菜、そしてワンシーンのみの瀧内久美さんも含め頑張ってたと思うのですが、半二郎役のラスト・サムライがミスキャスト‼️今作の製作のニュースを聞いた時から、歌舞伎界の女形の名優役と聞いて、そのビジュアルからして大丈夫かな?と思ったら、予想通り本編で歌舞伎の舞台で演じるシーンは無い‼️無理だと自覚してたのかな⁉️
芸を極めた者だけが見る景色
吉沢亮と横浜流星の圧巻の演技だけでも観る価値あり。
歌舞伎役者を演じる二人だが、相当な稽古を積んだに
違いないレベルのパフォーマンスを発揮している。
その歌舞伎を実際に演じるシーンにもスポットがあたる
ため175分の長尺となったことがよくわかった。
歌舞伎役者の半生で、二人の栄枯盛衰が描かれているが、
あくまでも吉沢亮演じる喜久雄の視点である。
したがい、干されている期間の苦労が描かれているのは
喜久雄のみであるが、芸だけで生きる覚悟を感じる
大事なパートだと思った。
人間国宝になった喜久雄は自分の人生に満足だったのか、
それはラストシーンでの「きれいやなあ」のセリフに
全てが込められていると感じた。
きっと悔いはないのだろう。
吉沢・横浜以外の俳優も素晴らしいのだ。
渡辺謙の目、寺島しのぶの安心感ある盤石の演技、
田中泯は本当に人間国宝かと思ってしまうほどの緊張感
が迸る演技、そして森七菜の今までのイメージから脱却
するほど挑戦した演技に惜しみない拍手を贈りたい。
まさかの瀧内公美登場は素直にうれしかったし、
大事な役どころでビシッとキメていた。
長尺ながら終始緊張感があり、実に豊潤な作品で、
あっという間の175分。
とにかく吉沢亮と横浜流星の演技は刮目して
ご覧いただきたい。
※横浜流星は大河の主演をつとめつつ本作に取り組んだのか?もし、そうだとしたら凄まじい役者魂だ。
業界の洗礼を受け 親子の絆に絡みつかれ 世間の荒波に揉まれながら 人生を泳ぎきった男の物語。3時間があっと言う間の濃密な人間ドラマです。見応え十分。
鑑賞前の脳内会議 -△-;;
吉沢亮と横浜流星が出演。 観たい。
渡辺兼も出てる。 うん、観たい。
上映時間175分。…3時間弱か うーん。 ・△・;;。
RRRよりは短い。きっと大丈夫。(…何が?)
(RRRは179分 … ほぼ変わらんです)
脳内会議の結果、観たい が勝利。v
そんな訳で鑑賞することに。・_・ …水分は控えめで
鑑賞開始。
…
鑑賞終了。 なんかこう、とても濃密な3時間弱でした。
血を受け継いだ者と、技を受け継いだ者。
命を削りながら舞台にあがることを厭わない、そんな者たちが
血と涙で描いた人間ドラマでした。
優れた技量の者を後継者にと思いながら、ギリギリ命の消える
瀬戸際で選ばれたのは親子の絆。
後継の道からは外れながらも、ひたすら技を磨き続けたの男に
与えられたのは、人間国宝の称号。
禍福は糾える縄の如し。
まさにそれを描ききった人間ドラマです。
濃密で、中だるみのほとんどない展開は見応えが十分。
劇中劇の歌舞伎の映像シーンは、ただもう綺麗の一言。☆
十分に満足の作品でした。
観て良かった。
言葉では良さが伝えきれないような気がします。
未だ観ていない人は是非劇場で。 ・_・♪
◇あれこれ
■顔
吉沢亮さんは歌舞伎顔…というより能面顔かも。
天賦の才を持つ者の存在感が出ていました。 ・_・
寡黙に見えながら熱い心を秘めた男の役、上手いです。
横浜流星さんは、良いとこの坊ちゃん 顔から苦労人の
表情へと変化していく過程が見て取れました。 ・_・
大河ドラマ ”べらぼう” でも時代劇主役を好演中。
この二人の共演する作品、また観てみたいです。
■人間国宝
人間国宝 というのは正式な称号では無いようです。・△・アラ
" 極めて優れた技量を持つ重要無形文化財 "
あちこち調べてみて、そのような人を指す呼称なのだろうと
そんな風に認識しました。
やや下世話ながら、国から年間200万程度の報奨金(?)が出ている
みたいです。後進の育成を目的にした支給のようでした。
200万が多いのか少ないのか。微妙ではありますが、人間国宝の対象
分野って、国が技術保全を奨励していかないと遠からず廃れてしまい
そうな、そんな分野が対象になっている気がします。
能 歌舞伎 浄瑠璃 などなど。
■遺伝
父(渡辺謙)は糖尿病で目を患い、血を吐いて死にました。
息子(横浜流星)も糖尿で左足が壊死し、舞台で倒れます。
吉沢亮が駆けつけた病室で、バナナを食べている流星クン。
こんな夜更けに ではないですが
こんなときにもバナナかよ です。☆_☆
あきらめの心境からの糖分摂取なのか それとも
好きなものは止められない、役者の性なのでしょうか。うーん
◇最後に
怪我をした父の口から、喜久雄を後継指名する声を聞いた俊介。
意識混沌とする師匠の口から、俊介の名を呼ぶ声を聞いた喜久雄。
悲しみ・絶望が深かったのはどちらの方だろうか と
しばし考え込んでしまいました。
ただ、その一声を聞いてしまった喜久雄だからこそ、その後ひたすら
技を磨き続ける人生を送れたのだろうかとも思います。
喜久雄にも後継がいれば良いのですが。
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
芸に魅せられ、芸を極め、芸に飲みこまれる
息を飲んだ。気がついたら息をしていない場面が何度か。
原作小説は、抑揚を抑えた講談調の語り口で、歌舞伎に魅せられた男を描く一代記。まさに波瀾万丈の物語だったが、文字で表現される場面場面が、頭の中で映像となって次々と展開していく感覚があり、一気に読んだ。ただ、歌舞伎に疎い私は、舞台の情景が脳内でうまく像を結べなかった。
その作品が映像化された。
うまく像を結べなかった世界が、スクリーン上で鮮やかな映像となって展開していく。
喜久雄が、俊介が、舞台の上で踊り、舞う。
3時間近いその時間を全く感じさせない、最初から最後までテンポ良く、キリッと締まった展開。どこにも無駄がない。極限まで磨きに磨き、削りに削ったような鋭敏さを感じた。
役者の動きにピタリと寄り添い、寸分の隙を見せることも許さないような緊張感のあるカメラワークと、それに応える俳優たちの演技が光っていた。
主演の吉沢亮は、素の喜久雄の演技と歌舞伎役者としての演技どちらも素晴らしいのだが、歌舞伎役者としての演技に凄味を感じた。
「二人道成寺」は、横浜流星との息の合った軽やかな演技が華やか。
「曽根崎心中」は、二代目代役として出たお初、盟友俊介の最後の舞台での徳兵衛のどちらも、役柄と喜久雄本人の想いが滲み出す。
圧巻は、最後の「鷺娘」。本当の舞台を通しで観てみたいと思う演技。歌舞伎の世界に入り込み、美の世界に迷い込んで忘我の境地に達する。
喜久雄は、芸の極みに達して常人が見えないものを見ている。その瞬間、彼は芸を自分のものとし、自己と一体化したのではなく、むしろ逆に歌舞伎という芸に飲まれているようにしか思えなかった。
原作のラストシーンをどのように描くのかが一番気になっていたのだが、原作とは違う味わいがあった。
脇を固める俳優の演技も良かった。横浜流星、渡辺謙らの演技は、「熱演」という熱量を感じるものだったが、目を引いたのは希代の女形、万菊を演じた田中泯。この存在感は何だろう。身体表現を追求するダンサーなのに、大きな動きがなくとも、その佇まいに人を惹きつける力がある。「メゾン・ド・ヒミコ」で演じたゲイの老人役に強烈な印象が残っているが、今回の女形役も異様な存在感を放っていた。
喜久雄という男は寡黙な男だ。彼が話さない代わりに、彼の心情を表現するような言葉を師匠たちが発していたように思う。
「ほんまもんの芸は刀や鉄砲よりも強い」という二代目半二郎。
「歌舞伎が憎くても私たち役者はやるの」という万菊。
この2人の台詞が強く印象に残った。
吉田修一の執念の賜物と言えるような原作は勿論のこと、映画の脚本も、映像も、音響も、美術も、俳優陣の演技も、そしてそれをまとめ上げた監督の手腕も素晴らしい。色々な要素が、それぞれ非常に高いレベルで結晶して生まれた映画のように思った。間違いなく、後世に残る傑作。
美しい舞が、残像のように脳裏に残る。
<追記>(2025年6月14日)
公開当日のレイトショーで観て直ぐに上のレビューを書いた。それから1週間、このサイトのレビューやWEBニュースで流れてくる評判の高さに驚きつつ、時の経過とともに冷静になって考えると、5.0という自分が付けた評価が気になり始めた。
過去に5.0の評価をした作品は、何かしら「心を大きく動かされる」「また観たい、また観るだろう」と思える作品だった。しかし、本作はそれに当てはまらないことに気づいた。
結局私は、この映画のスケール感と、原作で埋められなかった脳内映像を補完できたことには満足したが、感動とか、そういう感情は沸かなかったことに気づいた。
上のレビューでは触れていないが、多くの方が指摘されているように、女性の描き方が非常に薄くて雑だった。原作も薄めだったが映画は原作より相当薄い。それは喜久雄と俊介に焦点を当てて他を削らなければ、800ページにわたる大作を映画化することなど到底不可能だったからやむを得ない選択だったと思いたいが、一方で何故、女性陣の中で幸子(寺島しのぶ)だけクローズアップしたのか疑問が残った(原作では他の女性と比べて幸子の扱いが突出している訳ではない)。
それから、鑑賞後に知ったが、原作者が「100年に一本の壮大な芸道映画」と絶賛しているという。これには少しガッカリした。自分が心血注いだ作品が映画化された喜びの表れだろうが、それはメディアの入らないところで制作陣たちにかけてあげればよかった言葉ではないだろうか。
近年稀にみる邦画の大作であり、圧倒される傑作であることは間違いないと思いますが、上記のようなことを考えた結果、点数は4.5に変えさせて頂きます。
その才能が、血筋を凌駕する
予告からして凄まじい作品である事はすぐ
分かりましたよね。
期待値の高さを伺える。
初日初回は大きな箱、大入りでした!
⚫︎ はい、お亮さん。
以前「国宝級イケメンランキング」とやらで
1位になっておりました。
まぁ〜美しいお顔立ちです。
その端正なルックスに注目されがちですが、お芝居もとっても巧い役者さんですよね。
本作では任侠の一門の生まれだが、歌舞伎の世界に飛び込んだ主人公喜久雄(東一郎)を、迫真の演技で魅せてくれました。
実際の歌舞伎役者同様「役」に魂を吹き込む!
恐ろしいほど生々しくて痛々しくて、そして圧倒的に美しい!!
鬼気迫るものがありました。
彼の人生から目が離せなくなりました。
⚫︎ 我らが流星君!
はい素敵。
現在放送中の「べらぼう」では重三郎というコミカルな面を持つ主人公を演じ、新たな魅力を振りまいておりますね。
はきゅん。
はい素敵。
こちらは歌舞伎の名門一家に生まれた御曹司俊介(半弥)という人物を熱演!
難しい役どころを見事に演じきっておりました。
流星君は本当に何でも出来る子だね〜♪
⚫︎ 喜久雄の少年時代を演じたのは「怪物」で
記憶に残る芝居を見せてくれた黒川想矢君。
まだ少年。
愛らし笑顔に不釣り合いな、背中の立派な彫り物が彼の人生を支える。
そのアンバランスさも美しく見える不思議。
歌舞伎に魅せられていく喜久雄を熱演!
⚫︎ 俊介の少年時代は「ぼくのお日さま」で難しい芝居を求められていましたが、見事に演じきった!
静かな作品でしたが大きな感動をくれた越山敬達君。
歌舞伎の名門の御曹司として生まれ育ち、
その険し過ぎる人生を理解する前に「役者」として生きる事が「普通」になっている少年時代の俊介の心境を見事に表現していました。
半二郎と舞う「連獅子」は迫力がありましたね。
⚫︎ 当代一の女形、小野川万菊を演じた田中泯さん。
「鷺娘」を舞う万菊さんの圧倒的な存在感は恐ろしい程でした。
芸を突き詰めた役者だけがたどり着く境地。
悟りの域。
もはや人間では無いモノになっていたかの様でした。
素晴らしい役者さん達が作品に重みと深みを与えていました。
皆さん達者!
歌舞伎は詳しくないけれど、私レベルでも知っている「藤娘」や「曽根崎心中」の演目も披露される。
特に「曽根崎心中」は物語の核となる演目で
2回演じられる。
1回目は、半二郎の代役として喜久雄が1人、初めての大舞台に立つ。
実の息子である俊介が務めるのが筋だと反対もあったが、半二郎は譲らなかった。
芸を極めている者だから見えてしまう
"上手い下手"
半二郎は誠実に"芸"だけを見て、自分の代役を喜久雄に託したんだと思った。
プレッシャーに押しつぶされて震えが止まらない喜久雄を励ます俊介の姿、2人のやり取りには泣いたわ。
本当よね。
血筋なんて変えられない泣
結果的に、俊介のおかげで無事大役を務めあげた喜久雄。
しかし、
舞台で舞う東一郎(喜久雄)の圧倒的な姿を見せつけられて、自分の負けを認めざるを得なかった俊介は姿を消してしまう事になる皮肉よ。。泣
2回目は片足を失った俊介の願いを聞く形で、東一郎・半弥、2人で舞台に立つ。
この2人が演じるからこそ、より魂までも震える「曽根崎心中」になったのだと思う。
俊介の残った足先も壊死しかけているのを見た喜久雄の涙が忘れられない。
その後何度も転び、汗と涙で崩れた化粧も構わずに、最後まで演じきると覚悟を決めた2人。
これが最後だと分かっていたと思いました。
少年時代から毎日苦しい稽古に汗を流し、
切磋琢磨しながら高みを目指した喜久雄と俊介。
葛藤や絶望、プライド。
もがき苦しみながらも2人が培ってきた友情が支えるその舞いは、正に全身全霊。
歌舞伎に人生を捧げた彼らの姿そのものでした。
それは幸か不幸か。
私にはわからない。
「歌舞伎」に取り憑かれてしまった2人の運命はある意味では残酷でした。
血筋とは。
才能とは。
今更ながら「サンクチュアリ」を一気見したばかりだったので、伝統と格式を重んじるお相撲の世界に身を置く各界のプリンス"龍貴"が抱える苦悩と2人の姿が重なった。
女将さんでもある母から
「この家に産んでごめんなさい」と言われる
シーンを思い出した。
家柄とか、血筋とか、伝統とか継承とか。。
人ごとでよかった。
私ならどの立場でもプレッシャーに押しつぶされて痩せてまう。。
又、2人共驚くほど白塗り姿が美しかったから、レスリーチャンの「さらば、わが愛 覇王別姫」とも重なった。
↑↑凄まじい作品です。
オススメ!!
本作も、後々まで語られる作品になると思うし、お亮さん、流星君の代表作になったのでは??
こんなに大変な役どころを見事に演じきったお亮さんと流星君の姿を見せられたら、少々の事は気にならない。
星は5つ以外、私には付けられません。
美雨ちゃんx理の主題歌もサイコー!
あ。
でもよ。。
春江(充希ちゃん)ちゃっかりしてるなおもちゃった。
あの身の引き方、切なくて泣きそうだったのに。
一緒に姿くらますんかいっ!!
あ。
ま〜ちんの奥さんだからいぢわる言ってるんじゃありませんけどー(棒)
そして、偉そうであまり好きではなかった
🦐🦣さんを見る目が少し優しくなれそうデス。
ポップコーンを食べるのに、とんでもない緊張を強いられる映画
ところどころで登場する歌舞伎のシーンでは、館内が緊張と静寂に包まれる。
演者の心の機微や微細な表現の差異が、ビシビシと伝わってくる。
発せられる一音、指先の動き一つに至るまで、なんと精神的で繊細な芸能なのか。加えて、迫力と華やかさも。
「歌舞伎=古くて退屈」という先入観が、完全に覆された。面白い。
「血」と「芸」。
伝統芸能では世襲が前提。部外からの成り上がりは並大抵のことではない。。
・三代目襲名は既定路線と思っていたものをはく奪される俊介の辛さ。
・才能と実力で三代目になっても、家の力に押し返される喜久雄の辛さ。
双方の慟哭がスクリーンにありありと表れていて、胸が痛かった。
吉沢亮、横浜流星。一体どれだけ稽古したのだろう。本当に見事であった。役者って凄い。
『さらば、わが愛 覇王別姫』と似ているという噂もあったが①こちらはどちらも女形②双方に恋慕はない(たぶん)、という点で大きく異なる。ただ、伝統芸能において素人の俳優が本当に見事に女形を演じ切ったという点でレスリー・チャンと吉沢亮、横浜流星は共通していた。
「歌舞伎」「世襲・家」など日本の根源的な面を表現するのに、いままでにないダイナミックな表現だった。この感覚はどこか「PERFECT DAYS」と似ている。
一方、少年時代から人間国宝になるまでの長い時間軸を順に描いているせいか、伝えたいことがやや散漫になった印象もある。
原作ではどうなのか?その辺りをうまく言語化しているのでは?私には珍しく原作を読みたくなった映画であった。
※「国宝」という題名には違和感がある。まだ私が咀嚼できていないだけかもしれないが。
※少年時代を演じた彼の演技(特に女形の演技)も心を奪われるものがあった。渡辺謙が目が釘付けになるのも納得の演技であった。
※横浜流星の女形はちょっと怖いよ!顔のパーツがでかいからだな。
※永瀬正敏が演じたヤクザの親分が、しずるのLOVE PHANTOMネタの兄貴役にみえて仕方がなかった。ほんまごめん!
人間国宝も軽く見られたもんだ
歌舞伎は1か月に1回位は観ている。ファンには悪いがいくらエンタメとはいえ、これは書かねばならないと思った。原作を読んでいないので映画だけの感想。
冒頭に、半次郎が喜久雄の踊りを素晴らしいと誉めるのが物語の始まりだが、この踊りがちっとも良くない。声もひどい。喜久雄がもっと小さくて踊れてスゴイと見込むならまだ理解できるが、15歳でこの程度なら踊れる役者は大勢いる。その1番大切な部分がおざなりだから、シラけてしまった。
そしてスポ根場面。今より体罰も許された時代だから、そういう指導者もいたかもしれない。しかし、よく年配の役者さんが「稽古が厳しかった」というのは、こういう意味では無いと思う。そして事あるごとに御曹司は血が守っていると言うが、それこそ歩き始めた頃から稽古をする精進の賜物なのにその様な説明が無い。まるでDNAにアドバンテージがあるかのように誤解させる。
半次郎が事故に遭いその代役でチャンスを得るが、「曾根崎心中」で渡辺謙が「お初」を演じる筈だったという設定はかなり厳しい。渡辺謙はどう見ても立役。一体全体、どういう個性の役者に描きたかったか不明。
喜久雄は途中舞台を離れヤサグレても結局人間国宝になるのだが、これまた説得力が薄い。彼の努力は取り立てる程ではなく、お客様を大切にするシーンは皆無で、芸の為に生活を律して何かを我慢した訳でもない。努力したのは高校生の時と、不遇の時代に芸ではなく卑劣な方法で上に取り入ろうとした時、悲しみを芸の肥やしにしてあとは才能で国宝になりましたとさ。それは現在の多くの役者、何より人間国宝に対して随分と失礼じゃないだろうか。
吉沢亮と横浜流星の女形はとても綺麗で頑張ったとは思う。しかし歌舞伎を観慣れた者にとって舞台シーンは至極普通。初めて早替わりを観た人は感激したのかもしれないが全然珍しくない。それなのに道成寺や曾根崎心中のワンシーンを演じただけで、すごいでしょの押し売りされても、唯一無二の特別感は伝わらない。画面が綺麗というだけで、どうして「人間国宝」の舞踊として観ていなければいけないのだろうかと、その違和感で変な気持ちになった。これは国宝じゃ無い。偽物だ。
任侠出の俳優の出世物語なら、それに相応しいタイトルを付ければ良い。その方が腑に落ちたし、エンタメとしてずっと楽しめた。
どうしても「国宝」というタイトルを付けたいのなら、役者が日夜どんなに地味に努力しているのかを、もっと丁寧に描くべきだった。歌舞伎役者と他の役者と、何がどう違うのかという事にも、監督は全く興味が無かったようだ。国宝というタイトルには程遠い、随分と薄っぺらい内容。これ観て喜んでいる日本人は、富士山、芸者と言って喜んでいる外国人の感覚なのだろう。
撮影、俳優、脚本、及び監督が凄い、久しく見ていない芸術至上主義の映画に拍手
李相日 監督による2025年製作(175分/PG12) の日本映画。配給:東宝、劇場公開日:2025年6月6日。
歌舞伎はこれまで全く見たことは無かったし、李相日監督作も、ソフィアン・エル・ファニ(チュニジア系フランス人)撮影監督の作品も初体験。
とても印象に残ったのは「にじり寄る」様なカメラワークだった。冒頭、少年時代の主人公・喜久雄の背肌に白粉が塗られる映像から物語は始まる。以降何度も登場する首筋、目尻、手先、指先等、身体の一つ一つを捉えるクローズアップは、美しくどこか官能的でもあり、人物の迸る感情さえ感じさせ、とても気に入った。
主人公喜久夫の少年時代を演じたのが15歳の黒川想矢(高校生)。歌舞伎界の名門当主の花井半次郎が、彼の演技の才能に魅せられるという展開で、それを説得力を持って見せるという難易度の高い役を見事にこなし、この子の演技は凄いと驚かされた。「怪物(2023)」の演技も驚くほど優れていたので、本物の天才子役や!と思わされた。
勿論、ヤクザの家に生まれながら歌舞伎界の人間国宝と変貌していく喜久雄(花井東一郎)を演じた吉沢亮の奥が見えない様な表現者としての能力には脱帽。年輪を重ねた末の人間国宝の老けメイクの出来は今ひとつと感じたが、カメラを通した吉沢の神がかった歌舞伎演舞の美しさが大きな感動につながった。
脚本は「コーヒーが冷めないうちに」の会話が素敵だった奥寺佐渡子。この映画のヒロイン春江(高畑充希)は、プロポーズされたあの夜「一番のご贔屓になって、特等席でその芸を見る」みたいなことを言っていた。そして紆余曲折はあったが、国宝となった喜久雄(吉沢亮)の舞台を観ている春江の満足げな姿に、あの夜に話した言葉を叶えていることに気づかされる。喜久雄と同じく背中に刺青を入れた彼女も、歌舞伎の世界で一目を置かれる存在となったのだと感慨を覚えた。
ただ、御曹司花井半弥(横浜流星)に走ったのが、芸一筋で凄みを出しつつあった喜久雄に傷ついたもの同士としての同志愛からであったのか、それとも将来までを考慮した喜久雄への深い愛による計算なのかは、それらが混在していたのかは分かりにくい部分があった。脚本も高畑の演技も、最後の様には感じさせたが、もう少し示唆的なものが欲しかったかも。
対照的に、喜久雄と一緒にドサ周りまでした著名歌舞伎役者の娘・彰子(森七菜)は、「どこ見てんの」と問い詰め、彼が踊り狂った屋上から降りた後は、映画には登場せず。原作とは異なり、彼の元を去ったということか。見返りを求めてしまう、お嬢様育ちの限界という設定なのだろうか?
一方最初から愛人として生きぬいた芸妓・藤駒(三上愛)は、彼の娘綾乃をもうけ、あの娘は写真家 (瀧内公美)として本物の芸術が分かる優れた女性に成長した様。
子どものときに父親である喜久雄が神社で願掛けをしているのを見かけ、「悪魔と取引した、日本一の歌舞伎役者になれるように」と言われた綾乃。人間国宝になった喜久雄と再会したとき、「悪魔さんに感謝やな」「あんたのことお父ちゃんだと思ったことなんかいっぺんもあらへん」と恨み節を伝えながらも「しかしそれでも、客席から見てると正月を迎えるような何か良いことが起こりそうな気分に満たされて、気がついたら思いっきり拍手をしていた」「本当に日本一の歌舞伎役者になったんだね」と話す。
原作には無い台詞らしい。恨んでいた人間さえ喜久雄がたどり着いた至高の芸術を讃えており、感動もさせられた。脚本の奥寺佐渡子、凄い!
国宝となった喜久雄による最後の「鷺娘」は、本当に美しかった。そして、多くを犠牲にして芸術家たる彼がやっと手に入れた至高の景色、李相日監督も映画作りにそういった境地を目指しているということか。今後も大きな期待ができる監督の様だ。久しく見た覚えが無い芸術至上主義の映画を、今作り上げたことに大きな拍手をしたい。
また、画期的な映画を企画・プロデュースしてくれた村田千恵子(鬼滅の刃で有名なANXの子会社ミリアゴンスタジオ)にも感謝 。マーケティング主導ではなくクリエイターのビジョンに寄り添うものづくりを目指しているとかで、今後も期待。
あと、とりあえず人間国宝となった歌舞伎役者の演舞映像や、この映画に登場の歌舞伎演目(関の扉、藤娘、連獅子、道成寺、曽根崎心中、鷺娘)のストーリー確認や映像視聴に今は夢中となっている。演目内容が映画のストーリー展開に沿って綿密に選択されていたことを、あらためて知った。
監督李相日、原作吉田修一、脚本奥寺佐渡子、製作岩上敦宏 、伊藤伸彦 、荒木宏幸 、市川南 、渡辺章仁 、松橋真三、企画村田千恵子、プロデュース村田千恵子、プロデューサー松橋真三、撮影ソフィアン・エル・ファニ、照明中村裕樹、音響白取貢、音響効果北田雅也、美術監督種田陽平、特機上野隆治、美術下山奈緒、装飾酒井拓磨、衣装デザイン小川久美子、衣装松田和夫、ヘアメイク豊川京子、特殊メイクJIRO床山、荒井孝治 、宮本のどか、肌絵師
田中光司、VFXスーパーバイザー白石哲也、編集今井剛、音楽原摩利彦、音楽プロデューサー杉田寿宏、主題歌原摩利彦、 井口理、助監督岸塚祐季、スクリプター田口良子、キャスティングディレクター元川益暢、振付谷口裕和 、吾妻徳陽、歌舞伎指導中村鴈治郎、アソシエイトプロデューサー里吉優也 、久保田傑、 榊田茂樹、制作担当関浩紀 、多賀典彬。
出演
立花喜久雄(花井東一郎)吉沢亮、大垣俊介(花井半弥)横浜流星、福田春江高畑充希、大垣幸子寺島しのぶ、彰子森七菜、竹野三浦貴大、藤駒見上愛、少年・喜久雄黒川想矢、少年・俊介越山敬達、立花権五郎永瀬正敏、梅木嶋田久作、立花マツ宮澤エマ、吾妻千五郎中村鴈治郎、小野川万菊田中泯、花井半二郎渡辺謙、芹澤興人、瀧内公美。
男の世界。ウ〜ン、マンダム。
5〜6月は、別の趣味でカメラを持って出かけているので映画館へ行くのが少ないのだが、今月はやっと劇場鑑賞2本目。
カミさんが珍しくこの映画観たいと言うので一緒に「国宝」をTOHOシネマズ上野で。原作未読。
6月17日(火)
平日昼間でもキャパ392の劇場が七分以上の入りで年齢層高め。横並びの列に年配の夫婦が予告が終わる開映ギリで係員に案内されて来た。映画館慣れ?していないのか、しばらくおしゃべりがうるさい。映画館に普段来ない客層が足を運んでくれるのは嬉しいがこういうのはちょっと困る。
齢70を過ぎたが、恥ずかしながら歌舞伎座には行った事がない。3階席でも良いから一度行った方が良いと昔言われた事があったのだが。そういう点では、ある意味歌舞伎の世界は新鮮であった。
上方歌舞伎役者の花井半二郎(渡辺謙)は、招かれた長崎・立花組組長立花権五郎(永瀬正敏)正月の宴の余興で「関の扉」を舞う権五郎の息子喜久雄を観る。その才能に眼を見張るが、二人の眼の前で殴り込んで来た他の組の者に権五郎は射殺されてしまう。
喜久雄を引き取った半二郎は、喜久雄を同い年の自分の息子俊介と一緒に芸を磨かせ、歌舞伎役者の女形として仕込んで行く。
半二郎と俊介(越山敬達)が舞う「連獅子」を舞台袖から観る喜久雄(黒川想矢)。
二人が成人した後、交通事故で舞台に立てなくなった半二郎は、自分の代役を息子の俊介(横浜流星)ではなく喜久雄(吉沢亮)を指名する。緊張で震えが止まらず化粧が出来ない喜久雄に化粧を施す俊介。
父の代役で「曽根崎心中」の舞台を見事に務め上げる喜久雄の才能にショックを受けた俊介は姿を消す。それに気づき俊介と行動を共にする春江(高畑充希)。
「曽根崎心中」のお初徳兵衛の道行きとリンクして描かれる春江と俊介。
とうとう喜久雄は半二郎を襲名する事になるが、襲名披露の舞台で先代半二郎は糖尿病のために倒れ、亡くなってしまう。(倒れた時に呼ぶのは隣にいる喜久雄ではなく「俊坊!」)
いくら才能があっても血筋がない喜久雄は大旦那が亡くなれば歌舞伎の世界ではセリフもないような役しか貰えない。
そこへ俊介が花井半弥として歌舞伎界に戻って来て脚光を浴びる。喜久雄は背中の刺青や隠し子のスキャンダルで奈落に落ちるように姿を消すのだが…。
「関の扉」「二人道成寺」「曽根崎心中」「鷺娘」といった演目が複数回演じられる。演者を替え、或いは替えずに。(親子で舞う「連獅子」は一度のみ)
この構成は良かったと思う。吉沢亮は「曽根崎心中」でお初も徳兵衛も演じる。
「鷺娘」では田中泯と吉沢亮の比較もある。ソフイア・エル・ファニのカメラも素晴らしかった。
「ぼくのお日さま」のタクヤ越山敬達が、若き日の俊介を、「怪物」の黒川想矢が若き日の喜久雄を演じている。彼らも吉沢亮みたいにどんどん吸収して育って行くのだろうな。
結局、歌舞伎界と言うのは男の血筋の世界と言う事か。吉沢亮、横浜流星、田中泯、渡辺謙の演技が素晴らしいのは言うまでもない。女優陣の演技も素晴らしいのだが、女性の側の描き方が足りない。
母(宮澤エマ)のその後は。見上愛はどうなったのか。何故、春江は喜久雄と一緒に刺青を入れたのか(若き日の高畑充希(春江)役の娘も良かった)、恋人喜久雄を捨て俊介を選んだのか。彰子(森七菜)はあの後どうなったのか。唯一、その後が描かれたのはカメラマンとして登場した瀧内公美くらいだ。(これがまた良いのだな)
男性側も充分ではない部分もある。人間国宝の万菊は何故あんな安宿に住んでいるのか。それでいて喜久雄の事を何で知ったのか。俊介が亡くなった後、喜久雄はどうして人間国宝になるまでになったのか。
人間国宝となる男の50年以上の人生を描くのには2時間55分でも短かったのかも知れないが、もう少し編集に加減と工夫があっても良かったのではないか。
映画は、省略の芸術でもあるのだ。
おまけ
母は原爆症で死んだと言及があったらしい(長崎だから?)。聞き逃した。
実の母親は亡くなり行くところがない、と言うのは聞き取れましたが原爆症で、というのは聞き逃しました。
持つ者と持たざる者の苦悩
歌舞伎は全く門外漢で、もちろん原作も未読だし、映画館のポスターを見るまで、全くノーマークだった。
吉沢亮が歌舞伎役者を演じるだけで気にはなったが、予告を観て才能に纏わる話は好きだけど、持つ者と持たざる者の対比は、ちょっともう良いかなと二の足を踏んでいた。
ただ公開後の評判の良さにミーハー心で鑑賞。
吉沢亮、横浜流星のみならず、どの役者さんも素晴らしかったです。
芸事に抜きん出てるが、歌舞伎の世界では重要な血統を持たない吉沢と、梨園の息子で名跡の血統を持ち自身も継ぐ意思を持って育ったが、突然現れた内弟子の芸事の才能に、打ちのめされた流星。
お互いが持つ者であり持たざる者なのが面白い構図で、原作からの展開だと思いますが2人とも一度挫折し、歌舞伎から離れ復帰する筋があり(ちょっとくどい気もしたが、分かりやすいとは思う)、復帰後真っ直ぐ芸道を歩み芸と心中する流星、悪魔と取引するが如く芸以外を捨てて自己研鑽を重ね、国宝まで登り詰める吉沢。
1番感心したのは、キャスティングの妙でもありますが、吉沢亮の血統を持たない外部から歌舞伎の世界に入った人の佇まいでした。
芸が磨かれ美しさも増すけれども、どこか雑種感と言うか、歌舞伎自体との距離感を感じさせてる様に思えました。
あくまで自分が先にあり、才能で歌舞伎と同化して、生き様を歌舞伎で証明しようとしてる感じ。
逆に横浜流星は血統を感じさせる容姿で、特に首筋とかなんとなく感じさせるモノがありました。初めから歌舞伎の中に含まれた者として、正に名に恥じない芸を求める感じ。
皆さんの絶賛の通り、特に吉沢亮が凄いですね。
役同様の自己研鑽で魅せてくれます。
雪の舞う中の鷺娘は、亡き父の生き様と重ねて自分の生き様を見せてました。
ケン・ワタナベをはじめ共演も豪華ですが、中でも田中泯の第一声には震えたし、歌舞伎を舞う事自体凄いと思いました。
高畑充希のキャラはどうも評判が宜しく無い様ですが私は好きです。
身の引き方も吉沢亮の為ではなく、ずっといても決して自分を見てくれないと察した事だろうし、流星に付いていくのは彼の相対的な弱さが、きっと自分を見てくれる事に繋がるし、どこか常人として共感したんだろうと。
対比として森七菜の存在も、真っ直ぐ吉沢に付いていく結果を示してて儚い(コレまたある意味繰り返しで、くどいが分かりやすい)
他、キリがないので書きませんが役者さんはそれぞれ、とても良かったです。
ただ映画としては、ちょっと不満です。
田中泯の舞になぜあんなエフェクトを入れたのかとか、
演目自体ではなく演者の苦悩を写し出す為、カメラが近いのは理解してますが、ちょっと多すぎかなぁずっと近いカメラで外連味が無いと思います。
特に吉沢亮の森七菜との屋上でのシーンは、もっと引いた絵を見せないとって思いました。
顔だけではなく、全身で熱演してる吉沢亮に失礼じゃ無いかとさえ思いました。
まあだから最後の鷺娘が生きるんでしょうけど
(あのシーンももっと固定で観客目線、たまに寄るのが良かった気がするなあ)
とは言え、3時間楽しませてもらいました。
特に吉沢亮が国宝になった時の写真撮影時のシーンは泣きました。分かってたベタ展開ですがカメラマンの正体と、最後のセリフの一番の褒め言葉にはグッと来ました。
印象的だったのは完成披露時かのインタビューで、
寺島しのぶが鋭い視線で、原作を含めファンタジーですからと言った事ですけど。
要るべき場所。
1964年の長崎、…劇終わりに乗り込んできた組織との抗争で組長でもある父を亡くし、その敵対組織に復讐から1年後、歌舞伎の名門当主・花井半二郎に以前に見てた劇で才能を買われ世話になることになる16歳立花喜久雄の話。
半二郎から花井東一郎と名付けられた喜久雄、半二郎の息子・俊介(半弥)と日々稽古をするなか半二郎と半二郎の妻・幸子はこの2人を女方へと考え、…後に女方で開花する東一郎と半弥だったが。
歌舞伎=市川海老蔵イケメン、尾上右近=レトルトカレー好き、尾上菊之介=グランメゾン東京に出てた黒服シェフ位の知識しかなく歌舞伎知識は全くない私でしたが楽しめた!
ザックリ書けば日々の稽古で身に付けた技術で前に進む東一郎、歌舞伎一家の家に生まれ敷かれたレールで生きる半弥って感じですかね、半二郎の事故で巡ってきた半弥を差し置きの半二郎の代役となった東一郎、…その事で崩れた関係性、代役で時の人となるが雑誌スキャンダルで転落と見せていくけど。
天と地を繰り返しながらも、自分の居場所、“歌舞伎”の道で生きる東一郎と半弥の生き様と歌舞伎俳優の裏側(稽古)を見たようで面白かった。
歌舞伎ならではの発声と所作、この難しい役をこなした吉沢亮さん横浜流星さんが凄いの一言!「流浪の月」から知り好きになった李相日監督の見せ方の技術は流石だね!
血か才能か…相克の大河ドラマ
通常スクリーンで鑑賞。
原作は未読。
私の主義としてだが、原作有りの映画で、原作を読むならばきちんと読了してから映画を観に行くことにしている。
先に映画を観て、結末を知ってしまったら、原作を読む気が失せてしまうと、自身の性格的に分かっているからだ。
本を読むスピードは遅い方だし、映像化されていれば当然そちらの方が早い。わざわざ文字で読むのが億劫になる。
だが今回は例外。原作を読んでいる途中だが、話題になっているので居ても立っても居られず映画館へ足を運んだ。
すっかり前置きが長くなってしまった。
芸を極めることの美しさ、醜さ、そして儚さを、血か才能かの50年に及ぶ相克を軸に描き出す、圧巻の大河ドラマ。
只管に夢を追い、人生を駆け抜けた喜久雄と俊介を演じた吉沢亮と横浜流星の名演に魅せられ続ける174分だった。
鑑賞後の興奮がなかなか冷めない。役者たちの渾身の演技に心を鷲掴みにされた。まるで名演の博覧会状態である。
吉沢亮と横浜流星の、女形の所作の素晴らしさと言ったらない。肉体の動きの靭やかさ、艶めいた仕草に魅せられた。
上下巻800ページ近くの原作を約3時間に落とし込もうとすれば、かなりの換骨奪胎を要しただろうと想像する。
観に行った時点で上巻を100ページほど読んでいたが、そこまででも様々な要素が削られていることに気づいた。
早速、原作を読むことを再開しようと思う。映画の内容を補完しながらの読書体験になりそうでワクワクしている。
奇々怪々な部分が多い映画でコンペティション部門に出品ならず
ネタばれ含むので、映画鑑賞が未だの方は絶対にお読みにならないように...
奇々怪々と感じた部分は、歌舞伎役者でない役者が歌舞伎役者を苦労して演じてはみたもののやはり本物の歌舞伎役者の技量にはかなわない不自然さが目に付くとかそういう部分ではない。自分は歌舞伎や能はよく見に行くが、歌舞伎役者であろうとなかろうと、やはり美形が演じる女形のほうが圧倒的に美を感じるものなのだと、つくづく納得した。渡辺謙の毛ぶりはなかなかであったし、たとえ多くの不自然さが目立たないように撮影・編集されていてもそれは当然だろう。
原作を読んでいないので、原作にはきちんと描かれているのかもしれないが、
喜久雄とともに生きるために自らも背中に彫り物をしたほど喜久雄を愛した春江が、俊介のあとを追い、そのまま二人で姿を消してしまう春江の心情がきちんと観客に伝わるように描かれておらず、なぜ二人で消えた??? その???でしばらく頭がいっぱいになった。
あと、この映画を初日に観た理由は、自分が崇拝して止まない世界的ダンサー田中泯が出演しているからなのだが、その『鷺娘』の踊りに全く感動できなかった。玉三郎の『鷺娘』の足元にも及ばない。残念である。国宝を演じているわけだから、これではまずいだろうと思う。
あと、みすぼらしい狭い部屋で万菊が横たわり、喜久雄と再会するシーンで、「ここには美しいものがない。」と語り、美から解放されたという境地が、国宝であることからのストレス開放なのか、芸を極めたもののみが達することができる境地なのか、どちらなのか???理解できずにまた???であった。それに加えて、どうして歌舞伎の舞台に立てずにドサ回り中の喜久雄をその芸の上達も直接見ることなく万菊が「ようやく認める気になったのか」まったく理解できずに??だった。
それから、最後のシーンで喜久雄が国宝として観た景色がわけのわからない雪吹雪のような桜吹雪のようなものが散って、日本的美で誤魔化されてしまったような気分になって映画は気まずく終わった。
ここまで説明不可能な奇々怪々なシーンが次から次へとあると、
日本のメディアのプロパガンダにだまされてしまうことなく、
この作品がコンペティション部門で出品されなかった理由がはっきりする。
邦画の監督たちの映画の論理的思考や論理的構築の欠如があらわになった作品だと思う。
正直な感想です。ごめんね。
鋭い眼光が射る才能、しなやかに手招かれたただならぬ運命
血筋と実力が交差する世界で
魂を削り挑み続けること、
その孤高の陰で揺れ惑う思いの数々
舞台の真正面で眩い光を浴びた選ばれし者は、その時はじめてそこに映り込む心模様と変容を受け止めるのかも知れない
儚さや切なさを携えるからこそ美しい雪の舞の尊さのように脚光のなかで昇華される変遷
そこで去来する敬意と感謝が喜久雄の人としての心に湧きあがったのを目撃したとき、それまでの出来事が心を駆け巡る
なかでも喜久雄の迷いに多大なる影響与えることになった万菊との関係だ
それは感動と言う言葉では何か違う、もっと重苦しいもので掴み今もなお余韻をもたらす
俊介に稽古をつけるのをそっと見ていた喜久雄に気付きあえて放った言葉
質素な部屋の寝床に伏す消え入りそうな肉体を晒して伝えようとした姿
でもそれでいいの
それでもやるの
あの言葉に、孤独な道を生きる喜久雄の心情を察した万菊の人生の深さが重なる
そこには先をいく者の厳しさ、ありがたいほどの優しさがこもっているのだ
渡された扇子を受けて舞う喜久雄は悟り、それを感じ確かに継ながれゆく伝統を見届けようやくひとりの人間に戻らんとする万菊
安堵が包むその時、万菊の心の奥に煌びやかな緞帳が下ろされていったのだろう
二人だけに通ずるこの時間の貴重さ
これがなかったなら喜久雄は先の見えない暗闇に潰されていただろう
そして冒頭の長崎の夜の衝撃
そのシーンを除いては考えられない喜久雄の人生のそばで春江の愛情の在り方はとても印象的だった
芸に没頭し秀でた才能が認められていくほどに引き割かれてれていく無情
喜久雄の夢が素質の上に特異な生い立ちによって固く結ばれたものだと知り尽くす彼女ならではの思いの境地が、募る葛藤や孤独を徐々に慈しみにと変えていく
それが、喜久雄への愛を貫く唯一の術でもあったように思うのは喜久雄の舞台を観にきた俊介が、その輝きにいたたまれず席を離れていくのを追いかけるシーンだ
春江は、俊介の気持ちを和らげることがすなわち喜久雄の夢を守ることになる、今それができるのは自分しかないと本能で感じ動く
〝わかっとるよ〟
こらえてきた自分自身をもなだめながら心の奥からこぼれ落ちてきた言葉が繰り返される
あのとき姿をかえていく永く静かな愛をみた気がしたのだ
また、目を奪われるような美しいシーンが点在している今作において、青白い屋上でのいまにも散り果てそうな喜久雄の精神の危うさは怖いほどだった
そこに向き合う彰子の眼差しが悪魔に魂を売った男の限界を物語る
立場を捨てて喜久雄に尽くしてきた彼女が翻る時、そこにのこしたあの強さ、それこそ彼女にしかできない喜久雄への最後のメッセージだったのだろう
「国宝」その神がかった領域のすばらしさ、潜む苦しみの特殊さを、生きながらじりじりと焼かれるようみせた演者の皆さんの精神力、表現を最大限にいかす技術の力に脱帽しながら、やはりどんなときも深く爪痕をつけていくのは、ひとの思いの行き来がそこにみえるからなのだと改めて思った
酷法と果報
世襲より、実力主義より、世襲が当たり前の世界での実力主義が最も酷だった。
俊介には血が、喜久雄には跡目を奪ってしまったことが、それぞれ呪いとなり役者に取り憑かれたか。
途中まではそうだっただろうが、最期はそうでなかったと思いたい。
演者のこの上ない表情芝居を、じっくりたっぷり見せてくれるため、心情の描写はとても丁寧。
しかし些か丁寧過ぎた気もする。
反面、描ききれてない部分はかなり多い。
春江が俊介を選んだ理由や竹野が助勢に回るきっかけ、藤駒とは籍を入れてたかすらも不明。
彰子に至っては想像する材料すらなくフェードアウト。
喜久雄と俊介の関係修復の流れも一切が省かれ、終盤の娘の愛憎は瀧内公美の芝居でギリギリ成り立ってた。
仇討ち失敗とかその時の相棒とかはその後にまったく関わらないので、あの辺は省いてよかったのでは。
とは言え、画面の切り取り方や抑えた演出、無音の使い方なんかは非常に巧みで見応えは抜群。
歌舞伎のことはまったく分からないが、素人目には所作も発声も違和感ゼロ。
役者の演技は文句のつけようもなく、吉沢亮と横浜流星は鬼気迫る熱演。
今年は何故か“予告に出ない女”化してる森七菜は、色気も醸す新境地。
田中泯は今まで好みでなかったが、声も高く口調も荒げないのに迫力と説得力を感じて素晴らしい。
黒川想矢と越山敬達も末恐ろしいほどの奥行きを見せた。
吉沢亮なら表情だけで伝えられるハズなので、最後の一言は完全に余計だった。
監督が役者や脚本や観客をもっと信用できていたら…そのぶん脇の補足が行き届いてたら…
名作だけど、傑作には半歩届きませんでした。
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