国宝のレビュー・感想・評価
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みんな美しすぎる!!
歌舞伎の世界の厳しさを描いた作品でもあり、青春映画のようでもあり…人間の妬みや嫉妬などを描きつつ、、それを上回る美しさの世界を見せつけられました✨
横浜流星も吉沢亮も本当にため息出る美しさで、二人の踊る二人藤娘、なんと瑞々しいことか✨
そして、少年時代の喜久雄のなんと美しいことか!!
今まで歌舞伎の女形の方の映像を見てもなんとも思いませんでしたが、この少年時代の喜久雄の美しさには圧倒されました✨
良い映画
最高傑作とはいえないけど、良かったです。
日本の美満載
ほんと美しかったです。
おそらくはと思ったけど、公開したくない人達がいたんじゃないのかと
歌舞伎は日本の美を詰め込んだようなもの。
はかなくて、力強くて、みんなの息があって協力していかないとできないし、ある意味職人芸の集大成のような。
着物や舞台の美しさとか、うっとりしますね。
役者さんもそれを壊すような人は使えないわけで、ちゃんとそこに応えるだけのものも兼ね備えてて。まあ、その筋の人からはツッコミどころはあるんでしょうけど、それもねじ伏せる事ができるだけの。
人気が出てお客さんが増えれば悪いことはないですもんね。
美しさに感激してしまいましたね、
けど、やはり伝統芸だし、テーマとして、GIFTとしての才能は、ご先祖から血筋として受け継がれた世襲からが大きいけれども、全くそうでないところから見つかることもある。
それを見つけた時に、血筋じゃないからと排除しようとするのは、家を守るというと聞こえはいいけど、
文化や芸術って、本当に感動させる力のある人っているのでそういう人がやるべきだと思いますね。
今外国人問題とかあるから
生まれて育ったルーツは大事だけど、そこに差別が生まれたり、固執するのは違うと思うので
とにかくいいものを作る、良い世の中にする、
そこを外さずやるべきではと思いますね。
美しいって、結構、深いというか、大事じゃないかと思いますね。
高カロリー&高コスパな少年ジャンプ的世界
高カロリー&高コスパな少年ジャンプ的世界
魅了された
長くない
2001年歌舞伎の旅
映画は観客の想像力で完成する。
観客は敵ではない。
監督がやるべきことは、
観客を味方につけ、観客を信頼し、
映画に、戦略的に観客の想像力に委ねる余白を作ることだ。
そのためにディテールでは手を抜かない。
そして良い音楽を使う。
この映画はそれが出来ている。
唐突な展開や欠落した心理描写は、観客の脳内で補完され、それぞれの観客固有の物語を生み出す。
イケメン俳優の資質とは相反する、歌舞伎の退廃的でストレンジな美しさは、観客の想像力で創り出せる。
主人公が全てを犠牲にして求めたレベルの「景色」は、スクリーンではなく、観客の脳内でしか再生できない。
ほとんど観客に丸投げのようにも取れるが、キューブリックほどではない。
映画は、観客を味方に付ければ勝ち。
ドロドロの男世界。ウ~ン マンダ●
松竹系で鑑賞するのが義理だが、
日比谷のゴズィラシアターで鑑賞せし。
さぁ。この監督はこの作品をどう料理してくれるか?楽しみでもあり、期待するのだが、やはり、彼にも大日本帝国のルシファー毒が回っているだろうか。何れにしても、3時間か!コストパフォーマンスは良くとも映画だからねぇ。14時10分
そろそろ幕あいの時間も終わりです。
それでは夢のある映画をお楽しみ下さい。
苦痛にならにゃいいのだが。
そもそも、日本の映画産業は貧困だよ。
ポップコーンだぞ。
「鷺娘」か!サンサーンス「瀕死の白鳥」だね。
小学校の下校の時の音楽。
原作では違う演目のようだが「鷺娘」は特筆だよ。かなり、坂●玉三郎に迫っていたと思う。
でも。映画の演出効果であったと後で気付く。
なぜか、五木寛之先生の「青春の門」を思い出した。
まだ昭和のど真ん中で、任侠が生きていたタニマチから、一人のデラシネが梨園に根を張る。
心が冷え切るクライムヒューマンドラマである。
旧国営放送出身の美人女優(俳優)を、微塵の如く使いきる。
演出家のアイデンティティは僕の心を癒やしてくれた。
最初のシーンを再び。つまり、彼に欠点があるとすれば「間」。つまり、瞬間。だから、最初のシーンをキル・ビルの如く殺陣ていればね。歌舞伎は殺陣のような、間のような。
チェン・カイコー監督
の「さらば、わが愛/覇王別姫」をリスペクトしている。
但し、大相撲と同様に世界の歌舞伎役者にはなれないよ。
朝ドラを二週間分見たような清々しさはないが、睡眠薬ではなかった。
玉三郎の鷺娘は必見ですぞ。でも、化け物のような美しさが本当の鷺娘何じゃないかなぁってこの映画見て思った。実際の歌舞伎役者で、綺麗な女方って玉三郎だけでしょ。オードリー・ヘップバーンが鷺娘踊ってくれたら、そっちのほうが綺麗だと思うけどね。
「ウ~ン マ⭕️ダム)
オール・ザ・ワールド・・・・
初めての歌舞伎に、この映画を
本物の歌舞伎は観たことがなく、お家制度についてもよく知らない素人ですが、ぐっと引き込まれました。
歌舞伎に関しては、最小限の歴史的背景が冒頭に文字で示される程度で、あとは役者たちの演技を通して、その世界の華やかさと厳しさが自然と伝わってきます。
物語としては、家に生まれながら芸を継ぐ者と、家の外から芸に惹かれていく者。
2人の青年が切磋琢磨しながら成長していく中で、ある出来事をきっかけに、それぞれが「自分にはないもの」の重さに苦しみます。
対照的な立場で歩む2人の姿には、それぞれに同情したくなるような厳しさがあり、世界の外にいる者には計り知れない重圧の中で、葛藤と覚悟を繰り返していることが伝わってきました。
舞台のシーンもとても美しく、目を奪われる瞬間がいくつもあります。
主演の吉沢亮さんと横浜流星さんは、見た目の美しさだけでなく、歌舞伎の所作や空気感を表現するために、相当な努力を重ねられたのだろうと感じました。
歌舞伎にまったく触れたことがなかった私でも、「生の舞台を観てみたい」と思えるほど、強く惹かれる作品でした。
フィクションではありますが、今も歌舞伎界で活躍されている方々も、多かれ少なかれこのような思い悩みを抱えているのではないか――と、つい想像してしまいます。
日本の文化の一端を知るという意味でも、とても学びの多い作品でした。
映画館で見るべき作品
ストーリー展開は承知してるものが大筋で、それに肉付けされている程度。
それを観せるーー魅せる その企みに脱帽する。
原作が吉田修一でなければ 見に行ってはなかったかもしれない。私の吉田修一に対する信頼度は大きい。
今回の作品の映画化は 彼の「悪人」を勝る出来になっているように思う。
歌舞伎の女形
これを演じる男たちの 血を吐き肉を切る生き様。
演技は圧巻。
特に 国宝に指定された後の吉沢亮の踊りは凄まじかった。
いっときも目を離せない劇場で 息をのんで 見つめるように三時間 座って観覧するのである。
早く行きたいと思っていたが 随分人気が急上昇しての今日。
朝の9時に日本橋に出向いた。
お客さんは99%が女性 男性は一人しか見なかった。
満席の劇場で隣に見知らぬ人がいるのだが、さすが女性たちだらけ、時折 控えめな良いコロンの匂いも漂い ポップコーンなど買い求めてるのも見かけたが 誰も咀嚼音も立てないし 飲み物を啜る無粋なじゅじゅーーーっというのも全くなかった。
ただ 朝からの三時間
もう 抗いようがないのが お腹のぐううううっという音。
終盤 あちらこちらから ぐう〜っ という音がする。
私のお腹も ハイチュウ程度では鳴り止まず。
吉沢亮 横浜流星 お二方の妖艶な姿を見ても 無関係に腹の虫は鳴るものよ。
原作読んで楽しみにしてました
原作読んで楽しみにしてました。吉沢くん、流星くん、綺麗ですね。短い間に歌舞伎の所作を身に着けて、役者ってすごいと思いました。
でも、ストーリーは • • •え!いじめ?
救いの徳次は初めしかいないし、終わりの「河を白くする」って原作の話好きなんですけどね。
一家でいじめです。
恩義を感じている人に向かっていいたい放題のおかみさん、名跡継がせときながら息子の名前をつぶやいて倒れる半二郎。俊介だって出たり入ったりして喜久雄の立場も考えない(原作は葛藤がありますが、映画は感じられない)
ほんと、襲名興行のときの幕を閉められた後の「俊ぼう〜」と聞かされて喜久雄のどうしていいのかわからない顔、吉沢君の演技が心に残ります。
少年時代の喜久雄の演技(黒川くん)素晴らしいですね。
カメラは悪魔の目線
芸道映画という映画ジャンルがあります。刻苦勉励して芸の道を究める主人公とそれを支える周囲との人間関係を緯糸に、見事芸の頂点に達する姿を描くパターンの映画です。
日本の三大巨匠の一人・溝口健二監督が1939年に監督した『残菊物語』が、このジャンルの最高傑作といわれていますが、86年を経て漸くこれを凌駕する作品=本作が生まれました。
芸道で頂点(=人間国宝)に昇りつめた、一人の男の波乱万丈の半生記といえますが、周知のように高評価で客の入りも頗る良い作品です。最近の日本映画ではあまり類のない、175分という長尺にも関わらず、全く飽きることなく、間怠いこともなく、一気にほぼ3時間を見終えました。
しかし本作はスジを見せる映画ではなく、飽きさせない映像を巧妙に組み合わせて構成した見事な成果だと思います。
3時間、ほぼ寄せアップのフィックスでのカットで終始しています。ミドルレンジのカットも殆どなく、引きロングは、各劇場の舞台を俯瞰したシーンのみです。
最近の作品で多用される手持ちカメラは殆ど使われず、僅かに吉沢亮扮する主人公の東一郎こと喜久雄が、三代目半二郎を襲名する口上の舞台で起きた、先代半二郎吐血に伴う、ドラマにとって重要な事件の描写シーン、そして三代目半二郎が落ちぶれてドサ回りの演舞後に暴行された後の宴会場ビルの屋上で自暴自棄に陥るシーンのみです。つまり観客が酔うような揺れるカメラワークは殆どなく、どっしり落ち着いて見据えられた、換言すると凝視せざるを得ない映像ばかりで組み立ててあったといえます。
寄せアップのカットは長回しせず、短く切ってテンポ良くつないでいるので、観客はその映像に惹き付けられたままです。更にカメラアングルは殆どが、やや仰角気味で、観客は少し見上げるような映像が続き、少しずつ心理的にその人物に圧倒されていきます。
寄せアップばかりなので、観客にはその人物のその時々の感情のみが具に伝わります。引きロングは情報、即ちその前後関係やその周辺の人間関係や環境等を伝えるのですが、それが殆どないため、観客は専ら人物の感情のみを見せつけられ、客観情報がないままです。完全に感情の起伏に踊らされるがままになり、人物に自然と感情移入してしまい、スクリーンに没入させられていました。
その上、登場人物が非常に絞り込まれています。3時間の長尺にも関わらず、喜久雄、横浜流星演じる初代半二郎の息子・俊介の二人の尺が大半です。これに渡辺謙演じる初代花井半二郎が前半、寺島しのぶ演じるその妻が中盤以降に2人に絡み、少し限定的に高畑充希演じる俊介の妻、見上愛演じる祇園の芸妓・藤駒、森菜々演じる喜久雄のパートナー・彰子、三浦貴大演じる興行会社スタッフ・竹野が、エピソードによって絡むだけです。
今一人、登場シーンはごく僅かですが、物語の転機で重要なリード役を果たしたのが田中泯演じる女形役者・小野川万菊です。喜久雄の初めての舞台見学の時、楽屋での万菊の手招きには不気味なオーラが充満していました。ギリシア神話のサイレーンの如く、喜久雄を怪しく辛く苦しい歌舞伎の世界へ陥れたともいえます。
更に、ドサ回りからの復帰を促す手招きにもゾクッとする怖さが漂っていました。既に臨終間際の寝たきり状態であり、しかもどういう経緯を経たのか、簡易宿泊所の4畳半の薄汚い部屋の中の粗末な布団からであり、喜久雄を魑魅魍魎が跳梁跋扈する歌舞伎界に引き戻そうとする悪魔のような手招きでした。
万菊は、三代目半二郎襲名披露の口上のシーン、先代半二郎が吐血し舞台がパニックになるシーンにも、終始無表情でそこに立会っており、物語の重要な転機での舞台回し役、恐ろしくも無気味な役回りを果たしていました。女形らしく凛として、六代目歌右衛門を彷彿させる演技でした。
万菊の辿った履歴は一切出て来ませんが、これは彼に限ったことではなく、他の人物の私生活や周辺情報は全く触れられず、のみならず喜久雄の私生活も最低限のエピソードを間接的に描くのみです。
全シーンには4W1Hの情報は皆無で、唯一Whatのみ、つまりそこでその時に起きていることのみ伝えられ、あとは観客の想像力に委ねられます。スジの根幹以外は、観客から完全にシャットアウトされていて、あくまで主役2人の言動のみにフォーカスしていましたので、自ずと感情移入し没入していかざるを得ません。
カメラの目線はどこにあったのか、てっきり主人公・喜久雄目線だと思って観ていました。しかし寄せアップばかりで映すにも関わらず、喜久雄の本音の思惑は、実は見えてきません。殆ど喜怒哀楽が表情に出て来ない、又は敢えて出してきません。これは俊介とは好対照で、俊介は都度都度感情を剥き出しにしています。喜久雄目線ゆえに自分以外を客観視して映し出しているせいか、と思っていました。
喜久雄が願掛けして祈るのは神仏ではなく“悪魔”に対してであり、ひょっとするとカメラは、歌舞伎の神様ならぬ歌舞伎の悪魔の目線なのかと思い直しています。将に本作では田中泯扮する万菊の目線だったのではないかという気もしています。
アクションなし、ラブロマンスなし、美しい自然描写なし、そもそも映像の9割方が屋内であり、さらに舞台の演技シーンがその内の半分くらいは占めていました。そんな退屈な構成のはずが、3時間を飽きさせずに惹きつけ続けたのは、一つには脚本の力であり、二つ目は巧みな映像の組み立て、そして何より大きいのは、寄せアップで映され続けた主役2人の、指先まで神経が研ぎ澄まされた技量、更に演技がスクリーンいっぱいに滾るように溢れかえった熱量です。
1972年上演の「曽根崎心中」で喜久雄が演じたお初には、スクリーンに食い入って見入ってしまい、その真に迫った劇中劇の演技には、思わず感極まって全身に震えがきてしまいました。
二人の舞台共演シーン、二人藤娘、二人娘道成寺は、華麗で優美で妖艶で、しなやかな風でいてはんなりと、たおやかで、寄せアップの細かいカット割りで見せられるので、つい前のめりにスクリーンに見入ってしまいました。
また劇場舞台の映し方が秀逸でした。殆どが舞踊、つまり台詞がなくて演者がひたすら舞台上を激しく動き回る演目です。通常公演での舞踊は、狂言と異なり、単に見ているだけではなかなか意味が理解できず、やや退屈することが多いのですが、本作では舞い踊る様の寄せアップを短いカットで切り替えて、その上、演者を360度回転して映し、更に観客席からのアングルに加えて舞台後方からも映し、その熱く激しい動きと表情がリアルにビビッドに観客に伝わってきました。この迫力をスクリーン上で増幅するために、撮影に使用された劇場は、京都・南座と京都・先斗町歌舞練場という、それほど舞台上が広くない劇場です。東京・歌舞伎座は舞台上が広すぎて、映像にすると間延びしてしまったと思います。それゆえに歌舞伎座はファサードのみ使い、劇場内部は南座であり、先斗町歌舞練場のやや狭苦しいロビーや楽屋でした。築98年の先斗町歌舞練場のレトロで重厚な時代感が巧く使われていました。
今の歌舞伎は松竹が興行元であり、歌舞伎座、南座は松竹の劇場です。またスタジオ撮影はほぼ東映京都撮影所で行われ、従い殆どの仕出しは東映京都の俳優です。
にも関わらず配給は東宝という、奇妙な組み合わせの作品でもあります。
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