国宝のレビュー・感想・評価
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芸か血筋か、二人の歌舞伎役者の人生
ヤクザの息子・喜久雄、梨園の跡取り息子・俊介。役者の才能を持った二人青年の愛憎入り乱れる半生を描く。果たして国宝となるのはどちらなのか。育ての親の代役として、最後の夢の舞台として、上方歌舞伎の名作「曽根崎心中」のお初を主演の二人が演じるのですが、吉沢亮は台詞と佇まい、横浜流星は何とも言えぬ表情、それぞれに胸を打つ特徴が出ていて見ごたえがありました。老女形役の田中泯も良かった。さすがダンサー、所作のひとつひとつが意味を持って重く感じられる。高畑充希と見上愛の関係性は去年の大河ドラマも思い出されて興味深い。
あと、糖尿怖い。親子二代ってことは体質もあったのかな。歌舞伎俳優、体を使う商売なので運動不足にはならなさそうだけど、いろんな宴席に呼ばれたりして食生活が乱れるのだろうか。「曽根崎心中」では縁の下に隠れていた徳兵衛が心中の覚悟を示すために、お初の足に縋りつく山場があるので、糖尿で壊死した足を切る切らないのところに意味があるのかな。
そっちは鉛中毒だけど、足を切っても舞台に立ち続けたという三代目澤村田之助のエピソードも思い出しました。
没頭する作品
最初から最後まで時間を忘れて
没頭して見ていた作品でした。
これは映画館で見るべき作品です。
家のテレビではこの作品の良さが半減してしまうと思います。
大画面で見る歌舞伎の迫力もそうですし、まるで客席にいるかのように錯覚するカメラワークもあり、静けさの中で燃え続ける火を体現したような作品でした。
俳優陣の演技力も素晴らしかったです。
吉沢亮さんのアドリブシーンもそうですし、
横浜流星さんも素晴らしいです、
歌舞伎を知らない私でも、真剣に見続けることができるくらい、リアルを感じました。
血がほしい、血を飲みたいと訴える姿をみたときは
気づいたら涙が出てしまっていました。
見て良かったなと思う作品でした。
私は良かった‼︎
才能
人生を捧げること
美術、いや芸術作品
運命的な出会いで人生を共にする二人の
歌舞伎役者の苦楽をベースに3時間の芸術作品は
進行します。
歌舞伎を観たことがなくても、興味がなくても
関係ありません。圧倒的な美の世界に、引きづり込まれ
ます。
これを映画観賞チケット代金で堪能できるのは、
安過ぎる感じすらします。役者とは何であるのか、
それを観る側にも十分伝えつつ、その成果物が
安っぽさのない本物として迫ってきます。
あまりもの出来栄えに、本当の歌舞伎役者はむしろ
複雑な気持ちになりそうな(ここは歌舞伎を知らない
無知故の感想ですが)、そんなことを考えてしまいました。
メークも邪魔して特に女性関係がやや読み取り辛かった
ですが、まぁそんなの関係ねぇ!
これはテレビで見てはダメです。映画館で観て下さい。
きっと元は取れます。
この奇跡を見逃すな!今すぐ映画館へ!
初めての映画投稿で恐縮。読みにくければすみません。ただ、この映画は日本人が出会える芸術作品の一つの「宝」のような存在に思えるので、あえて投稿させていただきました。
本年度の日本アカデミー賞の総なめは容易に想像がつくが、それよりも、今後上映される日本映画作品は、「あの『国宝』と比べて」と枕詞をつけて評されるような、日本の代表作として、少なくとも国内では評価されることになると想像される。それほどの出来栄えだ。
自分は年に30本程度の映画しか見ないのでとても映画通とは言えないが、それでもこの映画の構成、脚本、俳優選出、演出、演技、音楽、撮影、等々、各要素ごとの磨かれ方と、それらのバランスをとりつつ、原作を映画という世界へ展開するギリギリの刈込みと原作にはないオリジナルな創造が施されている。通でない私もでも分かる。
巨匠と言われる人はともすると自らの作品に感情移入してしまい、上記の要素をそろえながらも最後に作品を壊してしまうケースもままある中で、(コッポラさん、高畑さん、ごめんなさい)李監督はこれらを見事に制御したうえで三時間の内容に見事に収めており、その意味でこの作品は「奇跡」と言っていいのではないか。(李監督は撮影ごとに歯が一本づつなくなるんだそうだ。理由は撮影の際に歯を食いしばるせいらしい。)
今後、テレビ放送やメディア配信で茶の間でも観られるようになるのだろうが、吉沢亮、横浜流星の舞台上のあの艶めかしいほどの演技を鑑賞するのに、テレビでの鑑賞では日常空間が入り込むところとなり、その鑑賞j時間そのものが勿体ない。やはり、映画館という、そのためだけに費やす、暗闇に囲まれた映像のためだけの空間でしか得られない贅沢な体験を味わうべきなのだ。これはそういう作品だ。刺身用の食材をわざわざ煮物にしていただくようなものになってしまう(かな?)
また、今後、上映期間延長や再演であった場合、映画館の都合で三時間をさらに縮小される可能性も高く、このギリギリの編集でしか観られない作品は早く映画館に足を運ぶべきだろう。それが、タイトルをようにした理由である。
なお、映画の世界には理屈抜きで本当に映画でしか表現のできない内容の作品もある。(例:「サチリコン」)あるいは主人公の魅力だけが切り立って成立しているものもある。(例:「燃えよドラゴン」)こうした芸術品の存在を認めるために、これを考慮し、あえて満点はおかなかったのでご了承願いたい。
なお、なぜ印象のマークに「美しい」や「複層的」がないのか映画ドットコムにお尋ねしたいところである。本来、この映画の印象はこれららの既存のマークに当てはまらない気がするので。
歌舞伎役者の人生は命懸け…凄いものを魅せられた
私は歌舞伎ファンです。好きだったのは八十助(三津五郎)その前にときめいのは若くして亡くなられ辰之助さんでした。
その立場でこの作品を観るととても切ない作品でした。私自身は泣くことはありませんでしたが、グッときたのは2代目半次郎の死に際に息子の名を呼んだりしたところ、
そして曽根崎心中の横浜流星の死ぬ覚悟で演じたお初でした。そこは本当に万感こみ上げます。
吉沢亮の怪演が話題となっておりそれは認める所ですが、横浜流星吉沢亮のお初徳兵衛にはみんな持ってかれました。
歌舞伎指導の鴈治郎の凄さとそれを演じ切った2人を観るとポスター通り横浜流星と吉沢亮の二人の怪演無くして成り立たない作品です。
あまりに横浜流星のお初が佳いので、途中大向うの掛け声が無いのが誠に演出の最大のマイナスポイントに思いました。「あれ?」と何故大向うがないの…とこれが映画である事に引き戻された程です。前半の横浜流星の日常シーンにはあまり良い場面はないのですが、彼自身その浮かれた役が腑に落ちず違和感ある役だったそうなのでそこが原因かもです。現実の歌舞伎役者を思い浮かべて演じられればまた違っていたでしょう。
この作品は吉沢亮の演じる役者が16から70代に人間国宝となるまでの一生をわずか3時間に詰め込んだ作品で描ききらないことの方が多いのです。なので展開の描写について不足を思う皆さんの感想はもっともですが、仕方ありません。
また、私は若手が歌舞伎役者を演じるなんてなんぼのものよ、位の気持ちで観てました。
少年期はいや違うな、と思っていたら確かに上達してきているし、歌舞伎舞踊は全編舞うわけではないものの、大根役者とは思わせぬほどに、しっかり踊っているし、芝居も(声がいかほど劇場で本当に響いたかはわかりませんが)佳い声で歌舞伎らしい芝居、そして現代生活の中でも歌舞伎役者らしい芝居を魅せてくれて、正に怪演、凄いものを魅せてもらったと慄いています。
老齢の人間国宝である歌舞伎女形を演じた田中泯さんはとても歌右衛門さんに似ていらっしゃり、
存在感もある良い役者だとは思いしたが、舞台上の演じる歌舞伎には私は特には心動かされませんでした。恐らく彼の矜持を持つ舞踊と歌舞伎は本質に違いがあるのでしょう。しかし歌舞伎役者の重鎮として見事な存在感でした。
鴈治郎さんは最近拝見していなかったのですが、舞台を降りた現代の場面も良いのですが少しふくよかになられて、しっかりダイエットして長生きして欲しいとおもってしまいました。彼は原作者にも黒衣を渡し小説を作るのにも大きな役割を果たした方で上方歌舞伎を代表する役者の一人なので彼の導き指導のおかげで出来上がった作品です。
歌舞伎役者は良い役者が次々と病に倒れており、悲しみに暮れるばかりです。皆肉体と精神を削って、正に悪魔に操られるかのように芸の道に生きています。原作者もその様な想いと共に作品を作りその世界を多くの人々と共有したかったのでしょう。
継ぐ名前があるかどうかも役者には大きい問題です。ご贔屓に喜ばれるのは役者の息子が見事に成長して役者になること。血筋が大事とは思っていないけれど現実にお子さんや兄弟の初舞台や共演は本当に楽しみなものです。
ただ、一方で本名や新しい名前で活躍する役者も当然いますが、引き立てる師匠たる名題役者がいてこそです。この作品では師匠を亡くしその跡継ぎたる若旦那も家出された部屋子は普通はほかの部屋子になるところなのではないでしょうが、大きな名前を継いで半次郎になったので家を離れる事はできなかったのでしょう。
寺島しのぶさん演じる2代目半次郎(渡辺謙)の妻が息子(横浜流星)が継ぐべき名を吉沢亮のきくちゃんに奪われるのは配役の妙があり過ぎます。(現実の歌舞伎界では甥が菊之助になりましたが、寺島しのぶももしも己が男に生まれていたならば息子に菊之助の名前を渡したかったでしょう。)
2代目半次郎(渡辺謙)も半弥(横浜流星)も糖尿病とは…です。2代目半次郎の最期は大量の吐血でしたが、原作未読ですが、肝硬変による食道静脈瘤破裂かもと医療に詳しい身内に言われました。生活の乱れがあったら肝臓も悪いかも、と。
令和ならば糖尿病から失明や脚が壊死する危険性も十分知られているでしょうに親子2代を襲った病魔は憎いものです。
女性との関係、親子関係等描ききっていませんがそこを描くと5時間は掛かるでしょう。ならばドラマにすれば、という問題ではなく3時間に凝縮したからこそ描いていない部分を想像する余白があります。
吉沢亮の半次郎の人力車でのお練りに「お父ちゃん」と駆け寄る娘になんと言うことができましょうか。嫡出の娘やご贔屓が駆け寄ってもあの様な素振りになるでしょうし、あれが娘にとっては悲しいかもしれませんが、仕事中の親を邪魔しており、内縁の妻の芸鼓のささやかな思惑まで想像します。愛人はこういうものとは思いませんが、あれは仕方ない場面だと思います。
鷺娘の映像演出は美しかったです。クライマックスシーンでしょう。でも、本当の日本の宝である玉三郎さんの鷺娘を知っていると、それに敵う人など居ないのです。
海老反りはやはり全然違ってました。斜めからの見返り美人の様な海老反りでした。なので音楽とカット割り等で美しく仕上げていました。
しかし心の目でここは玉様の鷺娘と変換して鑑賞しました。皆さんも心の目で見たでしょう?
吉沢亮が客席の景色を見て感嘆するのは、歌舞伎ファンにはわかります。
八十助(三津五郎)さんは「昔死ぬ前に『八十助のあの舞台を観れて良かった』と思う人が一人でも居てくれたら嬉しい」と話された事があるのですが、「死の間際に自分の人生や家族の事ではなく演劇について思いを馳せる人がいるものかしら?!」と、その発想に驚きましたが、次第にその言葉が理解できました。
歌舞伎役者はそう思う位、人生命懸けで舞台に立っています。
観客にも命懸けで鑑賞して欲しい位に。
そして一期一会の素晴らしい舞台に出会った時、観客の一人一人は感動に打ち震えます。舞台の感動が観客に伝わる様に観客の感情も舞台に届くはずです。それこそ役者冥利に尽きる瞬間でしょう。
それは玉三郎の鷺娘とそれを観れて感動する観客が居ればその風景が表現できたでしょう。
それを映画俳優や舞台ファンでないエキストラが再現する事は困難です。だから心の目でラストは観るのです。
歌舞伎への想いがあるとこの作品の見方感じ方は違うと思いますが、吉沢亮、横浜流星、そして周りの人々皆良く、間違いなく日本映画史に残すべき1作品だと思います。
マイナス0.5は歌舞伎役者以外が演じる限界分で、そこは皆さん心の目で補っていきましょう。
20年ぶりの映画館
余りの評判に「20年ぶり」に『国宝』を観て来ました。但し歌舞伎役者に評価を聞いたら「大絶賛」と言うのは当たり前の反応。歌舞伎役者が「他人を貶す」ことは「自分をリスクに晒す」ことを意味しますからね。それこそ、大師匠でもない限り(直弟子は別として)たの役者に対する本心は決して言わない筈です。歌舞伎も舞踊もやったことがないであろう俳優たちがこの映画で頑張ったのは流石です。私は第一作目から市川猿翁の大ファンでしたから、3代目が四代目猿之助を亀治郎にするのか、市川右近にするのかの騒動を、この映画を見て思い出しました。これからは、血筋だけではなく、愛之助や尾上右近などの活躍を見るにつけ、時代の変遷、歌舞伎社会の現実を思い知らされた映画でした。
美しき化け物
とにかく圧巻の一言。
一生をかけて、ありとあらゆるものを犠牲にして、
血を巡る愛憎も友情も、その何もかもを包み込んでひたすら舞台に打ち込み続ける。
手足がもげようとも、光を失っても、
身体のあらゆる自由を失っても、
役者としての更なる高みを探求する瞳の輝きは何よりも美しく、そして底のない闇のような不穏な異質さも合わせ持っておりこちらを覗き込む度に心底ゾッとした。
舞台上で見る華やかな役者としての顔。
しかし、その内側には、夥しい数の呪いが渦巻いており、役者自身も知らず知らずのうちにその一部に飲み込まれていく。
歴史という狂気に取り憑かれた化け物のようである。
その美しさと恐ろしさの相反する2面性に人は感化され、
おもわず目を奪われてしまうのかもしれない。
国宝が国宝たる所以、しかと脳裏に焼き付きました。
平日昼間でも満員!
心に残ります。
これは本当に凄い。日本映画史に残りますね
予告編を超えた稀有な映画
実は映画「ルノワール」を観ようと思ってたのだが、こちらの映画の評判がやたらに良かったので、その真偽をどうしても確かめたくなり、平日の昼間に鑑賞。長時間映画の割に高齢者率高し。
うーん、やられた(笑)。ほんと、こりゃ圧巻だ。お金を払って映画館で映画を観るという行為をこれまでのいろんな駄作のせいで放棄しそうになっていたが、がんばって続けてきた甲斐がある。
今までどれだけ巧みな宣伝や予告編にどれだけやられてきたことか。もちろんこの映画も事前に予告編を見た。ちなみにこの映画の予告編、そんなに面白そうじゃない。あんまりピンと来ないし、期待できない。しかし、これほどまでに予告編にいい意味で裏切られた映画も珍しい。予告編がかすむくらい本編が圧倒的なのだ。
とにかくいろんな人に観てほしい。きっと観た時の年齢や経験、置かれた状況によっていろんな感想が生まれるであろう映画だ。個人的にはもっと若い時にこの映画に出会っていたらとも思うし、もっと歳を取ってからまた観てみたいとも思う。間違いなく5つ星。
良い映画
カメラは悪魔の目線
芸道映画という映画ジャンルがあります。刻苦勉励して芸の道を究める主人公とそれを支える周囲との人間関係を緯糸に、見事芸の頂点に達する姿を描くパターンの映画です。
日本の三大巨匠の一人・溝口健二監督が1939年に監督した『残菊物語』が、このジャンルの最高傑作といわれていますが、86年を経て漸くこれを凌駕する作品=本作が生まれました。
芸道で頂点(=人間国宝)に昇りつめた、一人の男の波乱万丈の半生記といえますが、周知のように高評価で客の入りも頗る良い作品です。最近の日本映画ではあまり類のない、175分という長尺にも関わらず、全く飽きることなく、間怠いこともなく、一気にほぼ3時間を見終えました。
しかし本作はスジを見せる映画ではなく、飽きさせない映像を巧妙に組み合わせて構成した見事な成果だと思います。
3時間、ほぼ寄せアップのフィックスでのカットで終始しています。ミドルレンジのカットも殆どなく、引きロングは、各劇場の舞台を俯瞰したシーンのみです。
最近の作品で多用される手持ちカメラは殆ど使われず、僅かに吉沢亮扮する主人公の東一郎こと喜久雄が、三代目半二郎を襲名する口上の舞台で起きた、先代半二郎吐血に伴う、ドラマにとって重要な事件の描写シーン、そして三代目半二郎が落ちぶれてドサ回りの演舞後に暴行された後の宴会場ビルの屋上で自暴自棄に陥るシーンのみです。つまり観客が酔うような揺れるカメラワークは殆どなく、どっしり落ち着いて見据えられた、換言すると凝視せざるを得ない映像ばかりで組み立ててあったといえます。
寄せアップのカットは長回しせず、短く切ってテンポ良くつないでいるので、観客はその映像に惹き付けられたままです。更にカメラアングルは殆どが、やや仰角気味で、観客は少し見上げるような映像が続き、少しずつ心理的にその人物に圧倒されていきます。
寄せアップばかりなので、観客にはその人物のその時々の感情のみが具に伝わります。引きロングは情報、即ちその前後関係やその周辺の人間関係や環境等を伝えるのですが、それが殆どないため、観客は専ら人物の感情のみを見せつけられ、客観情報がないままです。完全に感情の起伏に踊らされるがままになり、人物に自然と感情移入してしまい、スクリーンに没入させられていました。
その上、登場人物が非常に絞り込まれています。3時間の長尺にも関わらず、喜久雄、横浜流星演じる初代半二郎の息子・俊介の二人の尺が大半です。これに渡辺謙演じる初代花井半二郎が前半、寺島しのぶ演じるその妻が中盤以降に2人に絡み、少し限定的に高畑充希演じる俊介の妻、見上愛演じる祇園の芸妓・藤駒、森菜々演じる喜久雄のパートナー・彰子、三浦貴大演じる興行会社スタッフ・竹野が、エピソードによって絡むだけです。
今一人、登場シーンはごく僅かですが、物語の転機で重要なリード役を果たしたのが田中泯演じる女形役者・小野川万菊です。喜久雄の初めての舞台見学の時、楽屋での万菊の手招きには不気味なオーラが充満していました。ギリシア神話のサイレーンの如く、喜久雄を怪しく辛く苦しい歌舞伎の世界へ陥れたともいえます。
更に、ドサ回りからの復帰を促す手招きにもゾクッとする怖さが漂っていました。既に臨終間際の寝たきり状態であり、しかもどういう経緯を経たのか、簡易宿泊所の4畳半の薄汚い部屋の中の粗末な布団からであり、喜久雄を魑魅魍魎が跳梁跋扈する歌舞伎界に引き戻そうとする悪魔のような手招きでした。
万菊は、三代目半二郎襲名披露の口上のシーン、先代半二郎が吐血し舞台がパニックになるシーンにも、終始無表情でそこに立会っており、物語の重要な転機での舞台回し役、恐ろしくも無気味な役回りを果たしていました。女形らしく凛として、六代目歌右衛門を彷彿させる演技でした。
万菊の辿った履歴は一切出て来ませんが、これは彼に限ったことではなく、他の人物の私生活や周辺情報は全く触れられず、のみならず喜久雄の私生活も最低限のエピソードを間接的に描くのみです。
全シーンには4W1Hの情報は皆無で、唯一Whatのみ、つまりそこでその時に起きていることのみ伝えられ、あとは観客の想像力に委ねられます。スジの根幹以外は、観客から完全にシャットアウトされていて、あくまで主役2人の言動のみにフォーカスしていましたので、自ずと感情移入し没入していかざるを得ません。
カメラの目線はどこにあったのか、てっきり主人公・喜久雄目線だと思って観ていました。しかし寄せアップばかりで映すにも関わらず、喜久雄の本音の思惑は、実は見えてきません。殆ど喜怒哀楽が表情に出て来ない、又は敢えて出してきません。これは俊介とは好対照で、俊介は都度都度感情を剥き出しにしています。喜久雄目線ゆえに自分以外を客観視して映し出しているせいか、と思っていました。
喜久雄が願掛けして祈るのは神仏ではなく“悪魔”に対してであり、ひょっとするとカメラは、歌舞伎の神様ならぬ歌舞伎の悪魔の目線なのかと思い直しています。将に本作では田中泯扮する万菊の目線だったのではないかという気もしています。
アクションなし、ラブロマンスなし、美しい自然描写なし、そもそも映像の9割方が屋内であり、さらに舞台の演技シーンがその内の半分くらいは占めていました。そんな退屈な構成のはずが、3時間を飽きさせずに惹きつけ続けたのは、一つには脚本の力であり、二つ目は巧みな映像の組み立て、そして何より大きいのは、寄せアップで映され続けた主役2人の、指先まで神経が研ぎ澄まされた技量、更に演技がスクリーンいっぱいに滾るように溢れかえった熱量です。
1972年上演の「曽根崎心中」で喜久雄が演じたお初には、スクリーンに食い入って見入ってしまい、その真に迫った劇中劇の演技には、思わず感極まって全身に震えがきてしまいました。
二人の舞台共演シーン、二人藤娘、二人娘道成寺は、華麗で優美で妖艶で、しなやかな風でいてはんなりと、たおやかで、寄せアップの細かいカット割りで見せられるので、つい前のめりにスクリーンに見入ってしまいました。
また劇場舞台の映し方が秀逸でした。殆どが舞踊、つまり台詞がなくて演者がひたすら舞台上を激しく動き回る演目です。通常公演での舞踊は、狂言と異なり、単に見ているだけではなかなか意味が理解できず、やや退屈することが多いのですが、本作では舞い踊る様の寄せアップを短いカットで切り替えて、その上、演者を360度回転して映し、更に観客席からのアングルに加えて舞台後方からも映し、その熱く激しい動きと表情がリアルにビビッドに観客に伝わってきました。この迫力をスクリーン上で増幅するために、撮影に使用された劇場は、京都・南座と京都・先斗町歌舞練場という、それほど舞台上が広くない劇場です。東京・歌舞伎座は舞台上が広すぎて、映像にすると間延びしてしまったと思います。それゆえに歌舞伎座はファサードのみ使い、劇場内部は南座であり、先斗町歌舞練場のやや狭苦しいロビーや楽屋でした。築98年の先斗町歌舞練場のレトロで重厚な時代感が巧く使われていました。
今の歌舞伎は松竹が興行元であり、歌舞伎座、南座は松竹の劇場です。またスタジオ撮影はほぼ東映京都撮影所で行われ、従い殆どの仕出しは東映京都の俳優です。
にも関わらず配給は東宝という、奇妙な組み合わせの作品でもあります。
3時間目が離せない静かな緊迫感と映像美
ガブガブ飲みたいんや
以前王様のブランチで紹介してたのと評判がいいので遅ればせながら9:30より観ました。いやぁ~良かった。余韻を感じられる素晴らしい作品でした。任侠に生まれ、芸の道に人生を捧げる喜久雄の50年の物語。国宝までたどり着くまで幸福に見えたのは少年時代、ライバルであり親友の俊介と芸に勤しんでいるとき、共に舞台に上がっている時、春江と過ごす時間。誰かといる幸せや、心休まることを全て犠牲にして、芸に向き合う。ラストシーンで人生の全てを芸にかけたからこそ見れる景色。本当に何かを成し得ようとするならば、全てを投げうる覚悟が必要。吉沢亮、横浜流星、渡辺謙、みなさん素晴らしい演技。吉沢亮と横浜流星は、複雑な関係性を見事に表現した。本音と建前と思いやりや葛藤する思いがすごく伝わった。「曽根崎心中」を演じる吉沢と横浜の演技にはグッときた。観て損しない作品です。日本中の方にお勧めする映画です。糖尿病は怖い。みなさん健診で血糖値を測り気をつけましょう。
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