「鷹の眼の中に背番号17が見えた。」国宝 アツサミーさんの映画レビュー(感想・評価)
鷹の眼の中に背番号17が見えた。
映画「国宝」を昨日見た。朝イチでもその他情報番組でもここ最近、よく取り上げられていた。脳が疲れたのか昨夜はよく眠れた。
私が興味を持ったのは「なぜこの映画がこれ程、観客を惹きつけ興行収益を上げてきたのか?」だ。
一番感じたのは緊迫感、隙のなさ、張り詰めた空気感。上演時間が3時間弱にも関わらず私には1時間半くらいの体感だった。
・まず脚本が良い。
糖尿病、歌舞伎の演目、娘との会話、人間国宝の継承等、伏線が幾層にも散りばめられそれが見事に回収されていく。一回見ただけでもそれが分かりやすい。
喜久雄、俊介、春江、半二郎らが織りなす人間ドラマの大ドンデン返しの中に、もしかしたら自分も辛抱すればチャンスが巡ってくるのではないか、と希望を抱かせてくれる。
・物語の中核に分かりやすい対立軸がある。葛藤は人を惹きつける。例えば
「友情vsライバル」喜久雄と俊介は表と裏を繰り返す。一方が表舞台の時、片方は地方でドサ回り、それを陰で女が支える。
成功する要素は「家柄、血統vs 才能、努力」
一途に道を極めた方が良いのか、それとも家族と過ごす普通の暮らしの方が幸せなのか。
・普遍的なテーマがある。
「生きていくとはどういう事か」
「自分は何者なのか」
「幸せとは何か」
「美しさとは何か」→それを歌舞伎の中に見出そうとする時、ここにも「伝統vs 革新」の対立軸が描かれていたと思う。
映画の冒頭で喜久雄の父親はヤクザの抗争で弾丸に倒れる。正月の祝いの席で上方歌舞伎の大スター、花井半二郎は親分と盃を交わしていた。反社勢力との付き合いはホワイト化した今なら一発アウトだ。でもこのシーンが緊迫感の基底となった。一瞬に生きる美学を作り出した。
そもそも日本の芸能と差別の歴史は深く関わり、能の祖である観阿弥・世阿弥の先祖も被差別身分であったとされる。だから「普通」からはみ出たアウトサイダー同士も相性がいい。芸能界の中居問題もこの文脈の中にある。本来ならブラックボックスの中で処理され表には出てこなかったはずだ。そういう一般社会の外側に芸能、芸の道はあり、ファナティックなものは芸の本質だ。一般人なら気が狂う、そういう世界だ。
映画のラストで人間国宝になった喜久雄を取材するカメラマンは自分の娘だ。彼女はこういう。
私はあなたを一度たりとも父親とは思わなかった。でもあなたの舞台は浮世を忘れさせ夢の国に連れて行ってくれる。「お父ちゃん、日本一の役者になりはったな。」と。
桜吹雪が天井から舞い落ちるシーンは喜久雄が求めた美のメタファーだと思う。伝統と形式の美に対して、「揺らぎ」や「不確実さ」「刹那性」は根無し草だから表現できる。その妖艶さが見てる人を底無し沼に引きずり込む。
私には鷹の眼の中に背番号17が見えた。
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