「綺麗なお顔に喰われちまいました」国宝 mangoさんの映画レビュー(感想・評価)
綺麗なお顔に喰われちまいました
「その綺麗なお顔は役者にとって邪魔も邪魔。お顔に喰われちまいますからね。」とは、人間国宝の万菊が喜久雄にかけた言葉。しかしこの台詞て吉沢亮本人を連想した方も多いのではないか。
駆け出しの頃は顔が目立ちすぎるとエキストラに選ばれず、端役を得ても顔が良すぎるとメガネをかけさせられ、オーディションは顔が役に合わないと落とされ、キラキラスイーツ系映画なのに下手したら共演アイドル女優より美しい始末。
吉沢本人も、演技を見て欲しいのに顔のことしか言われないと吐露することもあったようだ。
そして作中ではたびたび前髪を伸ばし、メガネをかけ、視線を落とし、背中を丸めた。まるで自らの美貌にリミッターをかけるように。今回「この世ならざる美貌の歌舞伎役者」という役を得たことにより、それらのリミッターは完全に取り払われた。
本作は主人公喜久雄の少年時代から始まる。子役の黒川想矢の演技で最も印象的だったのは、人間国宝万菊が踊る鷺娘を見つめる目であった。「美しいバケモンや」と言いながらも、その目は輝いており、視線は舞台に釘付けで、芸という魔物に魅入られてしまっていた。後の「悪魔はんと取り引き」の伏線になっている。
そして月日が流れ、お待ちかねの吉沢亮と横浜流星が登場。化粧前も化粧中も化粧後も絵になるのは流石。
二人道成寺では、舞台に立つ二人に対して、二代目半二郎から声がかかる。俊介は血が守ってくれる、喜久雄は踊りが骨に染み付いていると。本作にも出演している寺島しのぶのインタビューでは、舞台に立つ前に、自分には受け継がれてきた血があると己を奮い立たせることがあるとのことであった。実際に血とは大きな心の支えなのだろう。二代目半二郎の精一杯の優しさは、図らずしも、喜久雄に血を持たざる者という烙印を与えてしまった。
舞台では喜久雄が恋の手習いを、俊介が振り笠を用いた舞を披露するが、歌舞伎においては、演技巧者の方が恋の手習いを踊るのが通例だとか。ここも後の伏線になっていたのかもしれない。
物語は二代目半二郎が怪我により舞台出演を断念し、代役に俊介ではなく喜久雄を指名することで、大きく転換していく。184cmの堂々たる体躯の渡辺謙が曽根崎心中のお初役というのはかなり無理があるが、そこには目を瞑ろう。
二代目半二郎の病室で稽古が始まる。まずは喜久雄の発声に驚かされた。素人の耳にはいかにも歌舞伎の女形らしい発声で、吉沢亮はこんなことができるのかと驚かされる。
しかし二代目半二郎からは叱責される。死への恐怖も、愛する男と死ねる喜びも感じない。お初として生きていない、と。歌舞伎とは単なる様式美ではなかったのか。しかし稽古を経て、喜久雄はお初を掴んでいく。
舞台当日、喜久雄は楽屋で一人重圧に震える。直前まで酒を飲んでいても、楽屋に来れば甲斐甲斐しく世話を焼いてもらえる俊介との違いが切ない。楽屋を訪ねた俊介に対して、喜久雄は目にいっぱい涙を溜めながら、俊介の血が欲しいと訴える。血がありながら芸で選ばれなかった俊介の心には思い至らないのが喜久雄らしい。
俊介は複雑な思いが入り混じる中、「芸があるやないか」と優しく語りかける。ここで俊介に大きく心を掴まれた。
そして舞台に現れた喜久雄お初は、遊女としての色香と退廃的な美貌で観客の度肝を抜いた。愛する徳兵衛が奸計に落ち、最早自死でしかその汚名をそそげないと理解したお初。その覚悟があるのかと問うお初の気迫は、先日の病室で初めに見せた芝居とは全く別物であった。技術の巧拙ではない。役に生きるという点で、俊介は完全に喜久雄に負けたのだ。堪えきれずに席を離れた俊介を追ったのは、なぜか喜久雄の恋人の春江。この展開は予想できなかったが、伏線らしきものはある。
本作は映画であるため、当然時間と予算に限りがある。そこで喜久雄の一代記という点に焦点を当て、長編の原作を再構築している。喜久雄を取り巻く女性達の心情を丁寧に説明することは難しい。
吉沢亮は、以前のインタビューで、ナンパをするならどうやって声をかけるかと問われ「『顔見て』って言います笑」とジョークで返していた。まだ10代の春江が「喜久ちゃんがいないと生きていけない」と大阪まで追ってきたのも、藤駒が「2号、3号でも」と子を成したのも、説明はいらない。顔を見れば良いのだ。だって吉沢亮だから。何という割り切り。
しかし喜久雄の美貌に魅せられ、愛情を一身に注ぐ女性達は、いずれ気づく。ただでさえ言葉少なである喜久雄の心は芸で占められており、どんなに愛しても、喜久雄とは心が通わないと。もちろん喜久雄に愛がないわけではない。自分を追ってきてくれた春江とは結婚すべきだろうと考えている。しかしそれは愛というよりむしろ義理である。恋人として暖簾に腕押しするような愛を注ぎ続けることより、ご贔屓として応援することを春江は選んだ。だから俊介にも「わかっとうよ」と言えたのだろう。
この辺りから物語の構成は原作と大きく異なっていく。演目も大胆に変更されているが、これにより歌舞伎の知識がない観客でも「さっきの演目だ」と理解できる。数を絞ることで、一つの演目に時間と予算をよりかけることができる。映画化に当たっての英断である。
後半で驚いたのは、森七菜演じる彰子の登場だ。突然「喜久にいちゃん!」と馴れ馴れしく現れた女の子が、程無くして大開脚で喜久雄と絡むのだから。
恍惚の表情で「お嫁さんにしてね」と囁く彰子に「覚悟は決めてんで」と返す喜久雄の表情はどこか冷たい。喜久雄の決めた覚悟とは、愛する人を生涯守るという覚悟ではなく、役に繋がるなら籍くらい入れてやるという悪魔との契約だったのだろう。だから、大物役者である彰子の父親の激昂にも、喜久雄と出て行くという彰子の宣言にも、激しく狼狽する。
そこからの二人は多くの屈辱を経験する。しかしどんなに辛くても、喜久雄の体には何千回、何万回と稽古した踊りが骨まで染み付いている。喜久雄が見たい景色も生の実感も舞台の上であり、喜久雄は舞台でしか生きられない人間なのだ。屋上での狂気の舞はそのことを痛感させる。
周囲の手助けにより、喜久雄は再び俊介と舞台に上がる。しかし糖尿病という血の病により、俊介は片足を失う。それでも再度舞台に立ちたいと選んだ演目は、あの曽根崎心中であった。初の立役姿もまた美しい。
かつて喜久雄が演じたお初は、恋の業火に身を投じる激情を纏っており、仇敵九平次に向ける視線に込められた殺気からは、喜久雄の任侠の血が感じられた。一方俊介のお初は、残る片足にも壊死が見つかったことと相まって、自分の運命を受け入れるような諦観を感じる健気なお初であった。
出色は心中の場面。お初の表情からは、既に悩み苦しみ恐れを通り越して、あの世で徳兵衛と一緒になれるという喜びすら感じた。そこに「喜久ちゃんに引導渡してもらえるなら本望や」という俊介の声が聞こえてくるようであった。徳兵衛の落涙には、愛する女に手をかけなければならないという辛苦を感じた。そこに「俊ぼん…なんちゅう顔で見とんねん…」という喜久雄の声が聞こえてくるようであった。
歌舞伎役者に歌舞伎を演じてもらうのではなく、俳優に歌舞伎役者を演じてもらい、その上で歌舞伎を演じる。李監督の采配がピタリとはまった名場面である。
最後に人間国宝となった喜久雄が踊るのは、少年の日に魅せられた鷺娘である。大量の紙吹雪の中、恋に身を焦がし舞う白鷺。その目は何を見ているのか。悪魔と契約した人間は、次第に人ではいられなくなっていくのだろう。長い睫毛に留まった紙吹雪が動きと共に舞い落ち、やがて白鷺は力尽きた。
目を開けた喜久雄が見たものは、空っぽの客席とあの綺麗な景色。喜久雄はどこへ行ったのだろう。
この作品で吉沢亮は、自分の綺麗な顔に食われてしまう役者から、自分の綺麗な顔で見るものを喰いちぎる役者へと飛躍を遂げた。
初めて鑑賞したときは、ただただ何か凄く美しいものを見たと圧倒され、なぜか勝手に涙が流れていた。きっと私は吉沢亮の綺麗な顔に喰われちまったのだ。
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