「国宝」国宝 ぴゅーんさんの映画レビュー(感想・評価)
国宝
本当に吉沢亮と横浜流星始め、俳優さんたちの演技力の高さに度肝を抜かれました。とても薄い感想のように聞こえると思うのですが、冗談抜きで今まで見てきた映画の中で本当に1番と言える映画でした。
わたしにとって歌舞伎という存在は遠い、教科書に載っているものという認識しかなく、歌舞伎俳優さんたちがドラマや映画で出ていると演技すごいなあという感想しかなかったです。ただ、この映画ではその歌舞伎俳優たちが何を目指し、何を想いながら演じ、何を叶えるのか、何を犠牲にするのか、など描かれていました。特に、喜久雄がお初を演じたシーン。師匠である半二郎のお初の代役を任せられた覚悟、化粧する時の手の震え、本当に自分にお初が勤まるのか、俊ぼんでなくていいのかの葛藤、台が上がっていくときの沈黙、観客が見えた時の緊張感、そのシーン全て全てに臨場感があって気づいたら息をするのも忘れ、目に焼き付けていました。幕が上がる瞬間、まるで自分が喜久雄の立場に立っている感覚に陥り、心臓が口から出そうなほどでした。化粧しようとしても震えが止まらなくなっているときに俊ぼんがきて、喜久雄の「怒らんで聞いてくれるか」という言葉に微笑みながら紅を指し、「今、1番俊ぼんの血がほしいねん」(セリフ曖昧でごめんなさい)のシーン、胸が苦しくなりました。その後の俊ぼんの「芸があるやないか」という言葉でさらにやられました。血筋はないけれど天性の女形の才能を持つ喜久雄に対して、大きな血筋と地位はあるけれど喜久雄に芸は劣る俊ぼんという対照的な描写が本当に苦しかったです。良くも悪くも「血」でした。半二郎が糖尿病にかかり、舞台の上で吐血し、最期であろうときに口にしたのは「俊ぼん」だったのも、その俊ぼんが戻ってきて2人で道成寺をやったときに倒れて同じく糖尿病になったのも、舞台の上で倒れたのも、結局血でした。喜久雄には極道の「血」が流れていて、周りを全て犠牲にしてでも不幸にしてでも人間国宝になっていくのも、息子ではなく娘(綾乃)がいたのも、病気にかからなかったのも全てが血だということを感じました。
屋上のシーンはアドリブだと聞いて震えました。彰子が泣きながら「どこ見てんの?」と言って離れていったあと「どこ見てんねやろ」と泣きながら笑い、舞うシーン、本当に辛くて虚しくて、ただただ美しかったです。
吉沢亮の演技を見ている、というより喜久雄の人生をぎゅっと纏めたもの、いわば走馬灯のような3時間でした。役者というのはこんなに汚く美しいものなのか、これほどまでに残酷で虚しくやるせなく、美しい世界があるのかというぐちゃぐちゃな感情になりました。
本当に素晴らしい作品だったのですが、何個か気になった点がありました。森七菜演じる彰子はどこに行ってしまったのか、藤駒も舞台を見に来たりしているのか(綾乃が舞台を見て気づいたらめいっぱい拍手をしていたと言っていたため)、なぜ最初抗争が起きてしまったのか、春江はどんな気持ちで俊ぼんのところへ行ったのか、どうやって俊ぼんと喜久雄は仲直りしたのか、などというところが細かいのですが気になる点でした。
わたしなりに春江が俊ぼんのところに行ったのはきっと喜久雄の演技をずっと傍で見ていたかったからなのかなと思いました。喜久雄の結婚しよっかに対して、「今は喜久ちゃんの役者としての上り坂やねん。今よりいっぱい稼いで1番のご贔屓さんになろ。(略)ペルシャ絨毯買うたろ」とやんわり断ってそれを理解した喜久雄が家を出ていき、春ちゃんが泣いてるシーン。きっと、春江的には喜久雄の奥さんになりたかっただろうけれどこれからどんどん歌舞伎に夢中になって自分のことをいつか見てくれなくなるのでは無いのだろうか、という気持ちでいたときに喜久雄のお初を見て劇場を抜けた俊ぼんの「逃げるんとちゃうで、本物の役者になりたい」という言葉に同じ気持ちを見出して2人で逃げ出す=心中したのではないかと思いました。血筋がない喜久雄と結婚したとしてもどうやったって歌舞伎の血は流れず跡継ぎはできないから、それならば確実に血が流れていて、地位のある俊ぼんの丹波屋に嫁いで喜久雄を入れることでずっと喜久雄の演技を見ることができると判断したのかなあと。映画終盤の喜久雄が演じた鷺娘のシーンの春江の表情はきっと、昔の喜久雄を見てる時と同じ表情をしていると思いました。喜久雄と同じように背中に刺青を入れた春江は、大好きな喜久雄の夢を叶えるためなら、離れていようが、自分も喜久雄のためになんだってする、という気持ちがあったのではないのでしょうか。
という本当に感情がぐちゃぐちゃになる素晴らしい映画でした。今年の色んな賞を総なめするでしょう。楽しみです。
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