「「二度見」の畳み掛けでのめり込ませてくれる仕掛け。 三時間の幕の凄み。 そして李相日。」国宝 きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
「二度見」の畳み掛けでのめり込ませてくれる仕掛け。 三時間の幕の凄み。 そして李相日。
曽根崎心中「天満屋の段」。
縁の下の徳兵衛とお初、
恥ずかしいけれど泣いてしまった。
糖尿病での下肢の壊死だ。
苦楽を共にしてきた俊坊の「こんなになってしまった右足!」。
もうじき切断しなくてはならない俊坊のその足を掻き抱き、喜久雄が宿敵の足に、万感を込めて頰ずりするあの場面・・
もうダメだった。もう鼻水で、
前の席の背もたれにしがみついて泣いた。
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【”生体間移植“の引き起こすもの】
◆チェニジア系フランス人が伝統芸能の舞台に鮮やかなカメラを繰り、
◆男が女を演じる異光景だ。
◆さらに歌舞伎役者ではない門外漢の彼らがその役を請けて立つのだが、
◆その二人は同年でありながら「孤児の部屋子」と「梨園の御曹司」という関係。
― それら、十重二十重に、「異る性別」と「異民族・異文化」と「異業種」が入り乱れての、この檜舞台への挑戦だ。
才能ゆえの喜久雄の抜擢が、名門の血の名跡に打ち負かされてしまう残酷さが、紛れもない吉田修一。
この沢山の歪みとイレギュラーさがあってこそ、
明らかにされて成し得る世界が有るのだ。
◆加えてもう一つ特筆すべき一大事があると僕は見る、
女形が=つまり「男が女を演じてはるかに女を際立たせる」ように
朝鮮人の監督がこれを撮ってはるかに日本を際立たせる事件がここには起こった事だ。
つまり
日本の「国宝」を撮ったのが在日朝鮮人であるがゆえの、光の当たり方が本当に大きい。
李相日が監督である事。
4世5世の時代を異国=日本で生きる彼らである現在。
自らの「名前」と「言葉」と「家」をつなぐ たゆまぬ努力は
物心ついてからの、ずっと彼らの一日たりとも忘れられない闘いだ。
日々、文化の継承と、文化が廃れていく土壇場の双方を自分で意識して見ざるを得ない寄留の民。そこをこそ立て直して生きなくてはならない在日であるがゆえに
「滅び廃れゆく危機にある日本の歌舞伎の世界」をば、「がっつりとサポートし得る特殊な立場に」彼は在る。
「血」によって差別され、
「血」が分断(ワ)かつ喜久雄と俊介の無惨を李相日は体験している。
しかし日本人吉田修一がつけたこの難儀な原題を、監督は改題せずにそのまま使った。何故だろう。
「君らの国宝をたいせつにしなよ」と監督から突きつけられた挑戦状であり
また、圧倒的恋文でもあったと思うのだ。
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近松の「曽根崎心中」が2回、
「娘道成寺」が2回、
そして
「鷺娘」が2回だ。
同じ演目を2回ずつ繰り返して見せてくれるこの映画の構造は、歌舞伎初心者への絶弾の配慮。
「もはや知っている演目」で、鑑賞者たちは1度目が伏線の契機であり、後半の2度目が伏線回収の、涙の大山場になる姿を目撃出来るからだ。
実は原作では「曽根崎心中」は1回のみ。二人の最期の共演は別演目になっている。
そこを監督は敢えてもう一度「曽根崎心中」を持ってくる改変によって原作を超えた。
ヒットにはちゃんと理由がある。
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吉沢亮は剣道を、
横浜流星は空手をやっていたそうだ。
素地あっての本作。
この撮影のために「一年半」の血反吐を吐くような稽古を経てきたのだと。
ああ、そうだったか、
そうだろう。
僕は「その時」「その同じ一年半」を、どんなふうに過ごしていたのだったか・・
自省と激しい悔悟まで起こる
迫真の「国宝」だった。
コメントありがとうございます。
やはり「曽根崎心中」で亮が両方を演じる方が良かったですね。
「リライト」もそうらしいですが、原則の改変が良い方に行ってると思います。
きりんさんのレビュー読んで、私の意地悪なレビューを恥ずかしく思いました。それから文化庁の仲間と思われたくないから、姑息にタイトルその他、変えちゃった。きりんさんは原作読まれてご覧になったんですね。きりんさんのレビューは相変わらず深く、心うたれました
きりんさん、コメントありがとうございます。レビュー配列が変わって私も不自由さを感じてます。国立劇場をほったらかしにしといて、何が伝統芸能盛り上げか、と思います。「さらばわが愛」風な絵を並べてカンヌか何かでなんとやらが欲しいという欲丸出しのように見えました。歴史も社会も貧しさも何にも描かない薄い映画でした、私にとっては。それより原作のが良さそうだから読んでみます!
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