「頂点に立って見えたのは、静かな理解と受容の世界だった。」国宝 座布団さんの映画レビュー(感想・評価)
頂点に立って見えたのは、静かな理解と受容の世界だった。
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「血に翻弄され、血に抗い、血に回帰するしかなかった物語」。それが、映画『国宝』を貫く深層であり、本質ではないか。
喜久雄は、ヤクザの家に生まれ、暴力と孤独の中で育ち、自身の中に流れる「血」——出自、性質、宿命——に抗うようにして芸の世界へ身を投じていく。血縁のない歌舞伎界で「血筋」の代わりに彼が頼ったのは、ただひたすらに芸を極めることだった。しかし、そこに待っていたのは救済でも赦しでもなく、ただ静かな“理解”だった。
対になる半弥(俊介)は、血筋を持つ者として家の重圧と伝統を背負い続ける。
「血」に守られ、「血」に縛られる者と、「血」から弾かれ、それでも「血」へ向かう者。二人は、芸を通じて理解し合いながらも、決して交わることのない道を歩んでゆく。
血に抗いそれに打ち勝つという構図は幻想でしかない。それがわかっているこの映画は、「血を超える」という美しい物語に仕立てることをしない。
むしろラストに現れる娘の存在が血から逃れられなかった者の皮肉な帰結であると同時に、芸と人生のすべてを受け入れたひとつの肯定にも見える。
喜久雄は刺青を消さなかった。ヤクザの生まれで、刺青のある人間が人間国宝になれるのか――そんなツッコミは、“野暮”でしかない。この映画では、刺青が「血の象徴」であり、そして「抗ってきた証」であるという強烈なアイコンだ。彼は制度に取り込まれながら、刺青という反制度の刻印を背負ったまま“頂”に立たされた。そこにこの作品の最大の皮肉と美しさがある。
血の物語でありながら、“血を超える”という幻想を描かない。
それが物語としての限界ではなく、逆に誠実な到達点なのだと思う。
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