「吉沢亮の圧巻の演技力!頂の先に見える景色」国宝 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
吉沢亮の圧巻の演技力!頂の先に見える景色
【イントロダクション】
吉田修一の同名原作を、吉沢亮、横浜流星、渡辺謙ら豪華キャストで映像化。任侠の一門に生まれた喜久雄が、歌舞伎界の血筋や自身の生い立ちに翻弄・苦悩させられながらも、やがて“国宝”として日本一の歌舞伎役者になるまでを描く。
監督は、『フラガール』(2006)で第30回日本アカデミー賞・最優秀監督賞を受賞した、『怒り』(2016)、『流浪の月』(2022)の李相日。脚本は、『学校の怪談』(1995)、『サマーウォーズ』(2009)の奥寺佐渡子。
【ストーリー】
1964年、長崎。任侠一家・立花組に生まれた喜久雄(黒川想矢)は、歌舞伎の「女形」としての類稀なる才を持っていた。組の新年会に招かれた歌舞伎の名門の当主・花井半二郎(渡辺謙)は、余興を演じた喜久雄の才を見出し、彼と話をしようとしていた。しかし、その日の晩、組は敵対する組の襲撃を受け、雪降る中で頭であり喜久雄の父である権五郎(永瀬正敏)が喜久雄の目の前で命を引き取った。
残された喜久雄は、親友である任侠者・早川徳次(下川恭平)と共に仇打ちを決意し、恋人の春江(高畑充希)の反対を押し切って敵組を奇襲した。
やがて、喜久雄の歌舞伎の才を見抜いていた半二郎は、彼を引き取る事を決意し、大阪へと招いた。家族を失い、頼れる親戚もなく、奇襲を失敗した喜久雄には、既に長崎に居場所など無かったのだ。
歌舞伎の世界に足を踏み入れた喜久雄は、半二郎の息子・俊介(越山敬達)と出会う。同い年であり、また2人共女形の才を宿していた事から、半二郎は2人を女形として舞台に立たせる事を思い描く。
厳しい稽古の中、喜久雄と俊介は友情を育んでいき、互いに切磋琢磨し合っていく。そんな中、喜久雄の行方を追って春江が上坂してきた。
成長し、歌舞伎の舞台に立つ事になった喜久雄(吉沢亮)と俊介(横浜流星)。喜久雄は、半二郎から東一郎の名を与えられ、マスコミは彼らを「東半コンビ」として取り上げ囃し立てた。俊介は時に、御曹司という肩書きから傲慢さを伺わせる事もあった。一方、歌舞伎の世界に魅了されている喜久雄は、自らの才をただひたすらに磨き続けていた。
ある日、半二郎が事故によって入院してしまい、舞台の公演の代役が求められる事になる。歌舞伎の世界は、父親から息子へと代々受け継がれる世襲制であり、名門の出でなければスターになれないのが当たり前。だからこそ、誰もが息子である俊介の抜擢を疑わなかった。しかし、半二郎が指名したのは、俊介ではなく喜久雄だった…。
【感想】
私は原作未読、また歌舞伎観劇経験も無く、李相日監督作品も初鑑賞である。
175分という長尺ながら、原作小説は上下巻計約800ページにも及ぶという大長編の為、物語展開はダイジェスト感が強く(但し、原作読者によると、原作すら尺が足りていないダイジェスト感があるという)、50年に及ぶ喜久雄の人生は、まるで彼の駆け抜けるかの如き人生を表したように矢継ぎ早に描かれていく。
その為、本作を鑑賞すれば、喜久雄と俊介の友情とライバル関係、春江をはじめ、喜久雄の才を見出した芸者の藤駒(見上愛)、喜久雄が役を求めて籠絡する彰子(森七菜)といった女性陣との関係性、その他様々な登場人物に描写不足な印象を抱く事は必定であろう。
しかし、本作がそれでも尚、圧倒的な輝きと魅力を放つのは、ひとえに主演の吉沢亮の圧巻の演技力によるものである。本作は、彼の役者としての評価を決定付ける一作となったのではないだろうか。共演者もまた日本を代表する演技派俳優ばかりであるにも拘らず、まさに作中の喜久雄のように、吉沢亮の“芸”がそれら全てを圧倒し上回って見せて(魅せて)いるのだ。
また、彼はまさに喜久雄のように女形が抜群に似合う。ライバルである俊介役の横浜流星が女形として舞台に立つ際、やはり強烈な美しさを放つのだが、しかしそこにはどうしても「男」を感じさせるのに対して、彼は「女」として存在しているのだ。その凄まじさは、彼が作中で地方巡業するまでに身を落とした際、結婚式の余興で男性客から女性だと勘違いされてしまう程の説得力である。
また、歌舞伎に疎い私だが、本作で描かれる美しく壮大な歌舞伎の世界には心奪われた。それは、本来なら客席から舞台を眺めるしかないはずの歌舞伎において、役者の表情に寄ったアップや舞台の俯瞰ショット、役者の動きを追うカメラワークといったフィクションならではの大胆な演出が、この世界を悉く魅力的に映しているからだろう。特に、ラストの『鷺娘』のシーンは圧巻である。
俊介役の横浜流星の演技も素晴らしく、特に女形として舞台に立つ際、白粉を塗って紅を挿した口元に、名門の御曹司ならではの何処か得意気な笑みが見て取れる姿が印象的。喜久雄の舞台を観て、その圧倒的な才能に打ち負かされ、涙ながらに劇場を後にする姿も良い。
更に、本作は根底に「スポ根魂」を宿してもいる。喜久雄と俊介の友情とライバル関係、そんな2人が、終盤で再び共に舞台に立つ姿は、スポ根モノらしい熱量を感じさせる。
そして、やはり圧巻なのは、クライマックスで2人が演じる『曽根崎心中』だろう。糖尿病により、既に左足を切断して義足になりながらも、尚も舞台に立ちお初を演じたいと願う俊介の思いを汲んで、喜久雄は徳兵衛を演じる。そして、俊介はかつて喜久雄の演技に圧倒されたお初を演じるのだが、病は確実に俊介の残りの身体と寿命も蝕んでおり、喜久雄は徳兵衛としてお初の右足に縋り付く瞬間に、彼の病の進行を目の当たりにする。演目のラストで、徳兵衛としてお初と心中する瞬間は、本当に舞台の上で俊介を殺してしまうのではないかとすら感じさせる迫力があった。
また、俊介の演じるお初の姿が、絶妙なまでに、しかし確実に「喜久雄の方が上」だと感じさせるのだが、その塩梅を表現し切った横浜流星の演技力には脱帽だ。
その他のキャスト陣の熱演も見事だが、一つ気になったのは、少年期の喜久雄を演じた黒川想矢だ。同じく少年期の俊介を演じた越山敬達は、なるほど成長した先に横浜流星があるのは頷ける。だが、黒川想矢の成長した先にあるのは吉沢亮ではなく菅田将暉なのではないかと感じた。演技云々ではなく、成長後の顔が吉沢亮になるとは思えない点が、序盤の物語への没入感を少々阻害していたのは残念だった。
また、才能が血筋を凌駕するのが本作だが、血筋もまた立派な才能である以上、喜久雄と俊介が互いに無いものねだりをしている様子は、何処か滑稽にも映ってしまう。喜久雄が任侠一門の出として、才能なくとも情熱や怒りを胸に頂に辿り着いたのなら、より感動も増したと思うのだが。
更に言えば、ラストで喜久雄を許すカメラマンとなった娘は、藤駒の息子ではなく、かつて役欲しさに籠絡した彰子との間の娘とした方が、“赦し”を得る意味も深みが増すはずなのだが。
【才能、血筋、羨望、嫉妬etc. 様々な思いが入り混じった世界で、尚も頂を目指すという事】
「貴方、歌舞伎が憎くて憎くて仕方ないんでしょ?でも、それでいいの。それでもやるの。
それが、私達役者なの」
田中泯演じる小野川万菊が、稽古中の俊介、そして稽古を目撃していた喜久雄に気付いて放つこの台詞は、本作の白眉であり本質であろう。
俊介は喜久雄の持つ才能に、喜久雄は俊介の持つ血筋に、羨望と嫉妬を持っている。だからこそ、この台詞は両者それぞれに向けられたものである。
また、互いに役者人生の中で憂き目を経験し、踠き苦しんでいるからこそ、最早若かりし日に抱いていた歌舞伎への純粋な憧れだけを胸に舞台に立つ事は不可能なのだ。そして、そんな彼らが抱える思いを、先輩である万菊は見抜き、肯定する。どんな思いも受け入れ、芸の肥やしにせよと説くのだ。
だからこそ、ラストで喜久雄が頂の光景を目にして呟く、「嗚呼、綺麗やなぁ…」という台詞と、舞台の上で一人孤独に存在する締めの美しさが素晴らしい。それは、時に家族や友を犠牲にし、また別れを繰り返し、経験してきた喜怒哀楽の全てを芸の肥やしにし、役者人生に捧げてきた果てにあったもの。誰と共有するものでもなく、ただひたすらに芸を極め続けた喜久雄が己一人で目にすべき景色なのだ。
そして、エンドロールで流れるKing Gnuの井口理のよる『Luminance』の歌詞は、喜久雄の辿り着いた景色の情景を代弁しているかのようである。
「あぁ、透きとおる。光に溶けていく」
「そう、永遠に。ただ、満ち足りて。今、喜びの果てまで」
【総評】
吉沢亮の圧巻の演技、歌舞伎という日本の伝統芸能を魅力的に切り取って映し出すカメラワークは、劇場の大スクリーンで“体験”すべき最高の美しさだ。本作をキッカケに、歌舞伎の観劇に訪れる人も増える事だろう。
また、本作が日本アカデミー賞をはじめ、海外興行でどれほどの旋風を巻き起こすのかも楽しみにしたい。
余談だが、吉沢亮は自身の起こした不祥事によって、公開が本作より後回しになった7月の『ババンババンバンバンパイア』で「童貞喪失、絶対阻止!」なんて宣言するバンパイアを演じているが(本作の上映前にも予告編が流された)、本作の鑑賞中「本当に同一人物!?」と思わせてくれて面白かった。本来なら、順番が逆であったはずなのに、こうした作品外の部分に意図せずして面白味が生まれてしまうのだから、吉沢亮という俳優は面白い。
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