「人生はどこまで「成る」ことが許されるのか」盤上の向日葵 暁の空さんの映画レビュー(感想・評価)
人生はどこまで「成る」ことが許されるのか
本作は将棋をモチーフにしたミステリーでありながら、実際には「人生の可動域」を描いた作品だ。将棋の駒のようにそれぞれの人間には「決まった動き方」があり、思ったように進めない局面もある。だが、どこで、誰によって、どう配置されるか。その「盤」の方が人生を規定してしまうという冷徹な世界観が本作を貫いている。
そして、この作品の核心は「裏返す」という行為にある。成る、昇格する、一発逆転する。その一手は、必ず“代償”を伴う。東明、上条、幼い頃に駒のように扱われた者たちが、誰のために、何のために「成ろう」としたのか。映画はこの問いを静かに置いていく。
しかし本作の最大の弱点は心理描写の掘り下げ不足だ。特に、余命わずかな東明が「なぜ自ら殺される道を選んだのか」という重要な感情線が曖昧なまま終わる。
結果、「彼は救われたのか?」「それとも投げ出したのか?」の判断が難しいままエンディングを迎える。
さらに、説明的すぎる回想シーンのインサートは演出として後ろ向きで、テーマの余韻を効果的に減じてしまう。ここは明らかに監督の力量が試される部分であり、彼の“観客を信じきれない姿勢”が露呈してしまっている。
そして、おそらく多くの方がこの映画で「向日葵=希望」「母親の愛情」といった読存在だと感じると思う。確かにそう見えるし、そう読める。
ただ、私にはこの映画の向日葵はもっと残酷な意味を持つように感じた。
向日葵は太陽に向かう。だが、将棋の世界には「太陽」は存在しない。
光の方向がわからない世界で、ただ“向かされる”花であるという意味合い。
つまり向日葵は、
「主体的に生きることを許されない者の象徴」
と感じてしまった。
東明も上条も、光ではなく、光“らしきもの”に向かうしかなかった人生。
その象徴としての向日葵が、物語全体に冷たい反照を与えている気がしてならない。
本作はひまわりが向く光ではなく、影のかたちを描く。
ミステリー映画としての完成度は十分とは言い難い。
人物の内面への踏み込み不足、説明に頼る演出は明確な弱点だ。
だが、映画が投げかける「人生という盤の上でどこまで“成る”ことが許されるのか」という問いは鋭い。
ラストの曖昧ささえ、
“詰みの瞬間は、当事者にさえ分からない”
という将棋的な真理に回収されていく。
作品の完成度に揺らぎはあるが、
人生の不自由さと、そこに残るわずかな「成る」可能性を描いた希少な映画である。
