「「砂の器」のような「宿命」が感じられなかったのが残念でならない」盤上の向日葵 tomatoさんの映画レビュー(感想・評価)
「砂の器」のような「宿命」が感じられなかったのが残念でならない
ベテランと若手の刑事のコンビが殺人事件の捜査のために全国を行脚し、世間で脚光を浴びる有名人が被疑者として浮かび上がるという、「砂の器」を彷彿とさせるようなクラシカルは作りは、1970年代から1990年前後という時代背景に合わせたものなのだろうか?
確かに、現代を舞台にして「賭け将棋」の世界を描くのは難しいだろうし、主人公の不幸な生い立ちに現実味を持たせるためには、虐待を受けている児童を保護する制度が整っていなかった時代を舞台にする必要があったのだろう。
ただ、せっかく昭和の末期を描くのであれば、バブル景気に浮かれていた当時の世相を、(主人公が東大を卒業して外資系企業で稼ぐというエピソードは紹介されるものの)もっと物語に反映させてもよかったのではないかと思ってしまった。
主人公の人生に父親のような影響を及ぼす3人の男達にしても、渡辺謙が演じる真剣師は、悪人でありながら人間的な魅力を放っていて、深みのあるキャラクターになっているのだが、小日向文世が演じる元校長と、音尾琢真が演じる育ての親は、それぞれ「善い人」と「クズ男」過ぎて、人物造形が平板に感じられた。特に、育ての親については、自分とは血の繋がっていない子供を育てていた訳だし、息子に飴をやったり、景品の将棋盤を渡したりする時に垣間見せる優しさが印象的だっただけに、そうした面がもっと強調されても良かったのではないかと思えてならない。
殺人事件の全容については、終盤までに、大方の予想がついてしまうし、わざわざ、捜査本部で、ベテラン刑事が説明してくれるのだが、だったら、最後にあっと驚くような「どんでん返し」があるのかもしれないと期待していると、ほとんど刑事の説明の通りで、何だか拍子抜けしてしまった。刑事の説明と違うところは、殺人教唆の証人を抹殺したのではなく、嘱託殺人だったということくらいで、主人公が殺人を犯して、今後、プロ棋士として生きていけなくなるという事実に変わりはない。
そもそも、余命が短く、間もなく死を迎えようとしていた真剣師が、どうして、主人公に「自分を殺してくれ」と頼んだのかがよく分からない。そんなことをしたら、主人公が犯罪者になってしまうのは明らかで、主人公にプロ棋士になることを勧めたり、「生き抜け」と訴えたりすることと、まるで辻褄が合っていないのである。
その一方で、主人公は、真剣師が育ての親を殺すのを黙認したことで、自分が殺人犯になったことを自覚していたし、すぐにアシがつくような将棋の駒を真剣師の遺体と共に埋めた時点で、警察から逃げおおせるつもりもなかったのだろう。
そうであるならば、「育ての親を殺したのは、自らの出生の秘密を隠蔽しようとした主人公だった」という筋立てにして、それでも、真剣師が、主人公に「生き抜け」と訴えた方が、よほどシンプルで筋の通ったストーリーになったのではないだろうか?
高速ビルの手すりの向こうに、母親の思い出と重なる向日葵を見て、一瞬、投身自殺の誘惑に駆られた主人公が、それでも思いとどまり、生きることを決意するラストシーンが印象的だっただけに、そこに至る経緯に、「砂の器」のような人間の「宿命」を感じることができなかったのが、残念に思えてならなかった。
