ぼくのお日さまのレビュー・感想・評価
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リンクの凛とした空気と差し込む光の中で舞う眩しい二人
タクヤはさくらに憧れに近いほのかな恋心を抱く。つい目で追ってしまう。それは観ているこちらも微笑ましくなるほどのピュアな恋。荒川の「羨ましかったのかも。」という気持ちがわかる。
荒川コーチがアシストして二人はアイスダンスのペアに。スラっとして美しい2人。とても画になる。そんな2人がリンクに差し込む光の中、「月の光」の美しい旋律に合わせ、照れながらも手を取り合って氷の上を舞う。2人のドキドキがこちらにまで伝わる。この年代だからこそのドキドキ。キャンプファイアーのフォークダンスで好きな女の子と真っ赤になりながら手をつないで踊ったあの頃の空気感が蘇る。(ここに男女の肉体的な欲望が入り込む余地はない。)
荒川コーチ演じる池松もいい。池松が出演するとその映画は、雰囲気がゆったりで、静かで、優しくて、美しくなる。口調がゆったりなのがいい。(ぜひ真似したい。。)タクヤとサクラと荒川コーチ。この3人のキャスティングがあってこそ。絶妙。
タクヤの笑顔のように、純粋で、無垢で、月の光のように輝く3人の関係。
これを壊したのは、、、ある一言。ドロっとしたものが垣間見えた瞬間。一気に現実に引き戻された。子供&おとなしくみえて芯は強い。女性はすごい。。。タクヤが能天気なだけに、余計に男と女の差を強く感じた。荒川コーチも観ている我々もバケツで冷や水をかけられた気分。
最後のシーンは「そこで終わるかー」という感じ。でも確かにそれが一番綺麗かも。
高評価だから足を運んだこともあり、期待値が高すぎて、映画としては物足りなく感じてしまった。
ただ、幼いころの淡い想いと澄んだ光景を想い出させるあの奇跡の映像描写に関しては、確かに高評価をつけられる方が多いのも納得である。
※美しい風景をバックに滑る屋外の天然リンクのシーンもまた同様に格別だった。
※店員がガソリンを入れてくれていた頃のお話なんだな。車でカセットテープを聞く、古いボルボ、ガラケー、防具もステイックもひょっとして古かったかな。ザンボも?
※ザンボかけてる時に滑ったらあかんよ!
※タクヤがいい。そしてタクヤの友達がいいヤツでいい!
誰かを好きになってしまう、ぼくの原罪
「ぼくのお日さま」というタイトルは二重の意味で罪深いと思う。他人を神格化させて、救いを与えてくれる「お日さま」にする罪。さらにそのお日さまを格助詞「の」で「ぼく」とつなげて、「ぼく」の所有物にする罪。
だからこのタイトルからして、本作には不穏な空気が漂っていたのだが、その予感は的中した。ポスタービジュアルや光のやわらかさに反して、とても残酷な物語である。でもよかったとも思う。吃音の少年・タクヤが、「男の子がやらない」フィギュアスケートを習ううちに、さらにゲイのコーチ・荒川との交流を通して、自分らしさを見つける物語だったら、綺麗すぎると思ったからだ。その綺麗さこそ、障害や性的マイノリティーのウォッシングでしかない。
そしてこのような物語化は、普遍的なテーマを浮かび上がらせる。すなわち〈私〉の好意の問題である。「誰かを好きになること」を素朴に良いことだと信じられたら、人生はとても生きやすいと思うが、そのことに罪の意識を持ってしまう人は深刻だ。でも好意を持つことは、他人に危害を加えることと切り離せない。好意には、他人に対する選択と排除が伴っている。さらに上述のように、好意は〈私〉のエゴイズムによって他人の人格を剥奪する。一方的に救いを与えてくれる神にさせることも、操作可能でないがしろにできる物にもさせる。
でも私たちは好意なしに他人と関わることはできない。そして自分の理性や損得勘定でどうにかできるわけでもない。荒川だってゲイであることを選択してはいない。それなら、この誰かを好きになってしまうことは、私たちが背負わなければならない原罪ではないだろうか。
さらに他人の好意を〈私〉が目撃してしまったら?
他人は〈私〉を好きではない。さらにその他人が好意を向ける対象は、〈私〉の規範を逸脱する他者である。その時、生じる感情はどのようなものか。それを現前させたのが本作である。
以下、ネタバレを含みます。
まず、本作の好意は性愛に必ずしも結びつかない。
本作では、タクヤ→さくら、さくら→荒川、荒川→タクヤと好意が向けられているのだが、それぞれ好意のありようは全く違う。
タクヤがさくらに向ける好意は憧憬に近い。光の中をフィギュアスケートする美しさに見惚れ、まさに神が現れた感覚だ。
さくらが荒川に向ける好意は、恋愛未然だけれど、同級生に荒川の魅力を伝えられて、気づいてしまった感覚である。
荒川がタクヤに向ける好意も、自身の幼少期を投影した愛おしい感覚だろう。彼はガソリンスタンドで働く五十嵐と恋愛し、同棲関係でもあるのだが、劇中にセックスは存在しない。これらからも、本作の好意は性愛と結びついておらず、恋愛未然の感覚といってよいだろう。そんな印象は、本作に特徴的なぽわぽわな光とも共振する。だが彼らの好意は対象が一致しないズレが生じている。そんな様も、カットによる視線の不一致で巧みに描かれている。
タクヤが野球ーアイスホッケーでは停止しているのだが、フィギュアスケートでは氷上を滑り出すことからも、彼らの好意の滑り出しを感じれてとてもいい。そして彼らは、荒川が強引に二人をアイスダンスの試験にトライさせることで近づき合うのだ。
だが、トライの最中にさくらは、荒川がスーパーの駐車場で五十嵐といちゃいちゃするのを目撃してしまう。そして彼女は、荒川が五十嵐に向ける好意を、タクヤへの好意と同様と錯覚し、気持ち悪いと言い放つ。さらに、彼女はトライ当日も来ず、3人の親密さは冬の一時で終わってしまうのだ。
さて、さくらが、荒川が五十嵐やタクヤに向ける好意を気持ち悪いと思ったことは罪なのだろうか。
私は気持ち悪いと思うこと自体は仕方ないこととは思う。直感に近い感情は拭い去ることはできない。彼女の生きる街は都会以上に、マイノリティーは不可視化されているし、異性愛が当然だと思っているのなら許容できる余地はない。思うこと自体は罪ではない。しかしそれが加害に転じたら罪だ。荒川に直接言い放つことが、即時的な加害になったとは言えないかもしれない。だが、さくらには「お日さま」の資格を失った荒川を物のようにないがしろにしてもいいという明確な悪意がある。そして結果的に彼は職を失い、五十嵐も失い、街を出て行かなければならなくなったのだから、彼女の行為は重大な加害と言わざるを得ない。
荒川は好意をわきまえていた。駐車場に止めてある車内を、公共ともプライベートとも区分しがたいところが悩ましいところではあるが、それでも配慮していたことは言えるだろう。だから物語として、彼が原罪のために街を追放されたことは、時代性を言い訳にしても世俗感覚に追従したただの現状肯定という名の不正としか言いようがない。
もちろんさくらが自力で気持ち悪さを解消する必要もない。そのために、コーチングという行為があるのではないだろうか。さくらの偏見を正すコーチングがないことも、時代性や土地柄と言っていいのだろうか。もちろん荒川がそのコーチングを担う必要はない。だから荒川とさくらを仲介する母がその役目を担ってもいいはずなのに、なんだか露悪的な姿に留まってしまう。
タクヤがその役目を担ってもいい。というか、タクヤはいつまでも受け身過ぎる。本作の登場人物は言いっ放し、やりっ放しでリアクションが欠如していることは指摘できると思うが、そのドラマの果てに雪解けの和解が起こりうるのではないかと思ってしまう。
だからタクヤは何も言わず/言えず、荒川の謝罪もなかったことにして街から追放する、そしてさくらがフィギュアスケートに回帰し、綺麗に滑ることで物語を終わらせてはいけないはずなのだ。
このような不十分さから、本作を手放しに傑作とは言えないのだが、タクヤとさくらの次のドラマは準備されている。春になって、タクヤは中学生となり制服を来て登校する。そして大地でさくらと再会する。きっとタクヤがさくらと再会する場所が、スケートリンクではなく大地であるのは、さくらからお日さま性を取り除き、さくらその人に眼差しを向けるためだ。タクヤとさくらは、同じ中学生となって人と人との対等な関係になりだしている。さくらが「ぼくのお日さま」でなくなったとしたら、タクヤはさくらとどう向き合うのだろう。そして二人にはどんなドラマが起こるのだろうか。さらにさくらの気持ち悪さは解消されるのだろうか。もしかしたらさらなる葛藤を呼び起こし、罪を重ねてしまうかもしれない。どこまでもいっても赦しは存在しないかもしれない。だが荒川を歓待できる未来を私は期待したい。
成る程納得!カンヌも認めた「その視点」!!「目は口ほどに物を言う」その視線の先にあるものは?
今注目の新進気鋭の若手映画監督、奥山大史監督が、監督・脚本・撮影・編集まで手がけた商業映画デビュー作品です。
是枝裕和監督からも一目おかれ、主演の池松壮亮さんが「凄まじい才能」と絶賛する奥山大史監督は、第77回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に、日本人監督としては史上最年少で選出されました。日本映画の未来を担う監督とあらば、
これはもう、
観るしかないっしょ!!!
勇んで仕事終わりに映画館へ。
連日の疲れが溜まってか、
まさかの開始5分からの爆睡…。
目覚めた時には、エンドロールという大失態を…😭😭😭久々の全寝でした…。映画を観に行って寝るとか信じられん!!と、よく人からお叱りを受けますが、映画館って本当に心地いい場所なのよ、私にとって。一番リラックスできる場所。どんなに寝不足でも、寝室に行くと逆に目が覚めちゃうのに、なんて映画館って心地よいんだろう?
私だけかなぁ…🙄
で、体調整えて
「リベンジお日さま」して参りましたよ!!
感想は、
「やっぱり観ておいてよかった〜」というのが、まず率直な感想です。終始派手さはなく、物語は淡々と静かに進んでいきます。(寝不足の人は要注意よ!)でも退屈なんかじゃ、決してないのよ!!(一回寝た人が説得力ないね😅)全部必要な静けさ。不必要な音楽やセリフは一切必要ない。余白すら演出。大好きな池松壮亮さんと、恋人役にこれまた大好きな若葉竜也さん。ふたりの掛け合いのシーンを見てるだけで幸せになれます。子役のお2人もとってもナチュラルでよかったです。
その視線から、表情から
全て理解できます。
言葉などなくても。
ある人が、
ある人に向けたその熱い視線
またある人が、
ある人に向けた軽蔑の視線
そしてまたある人が
ある人に向けた失望の眼差し
などなど
「目は口ほどに物を言う」
まさにそれを存分に感じる映画でございました。主題歌は、ハンバート ハンバートの代表曲「ぼくのお日さま」で、この映画のタイトルにもなっています。監督がこの曲からイメージを膨らませたとコメントしているように、本作品の大事なキーとなっています。エンドロールまで見逃せません。
こんなにも優しく、
こんなにも痛い映画を
私は今年初めて観た気がします。
いやぁ、いい映画を観させていただきました。合掌🙏
*ご鑑賞は十分に体調を整えて🙄
今年の邦画で私的暫定1位。予備知識は少なめ推奨
映画「ぼくのお日さま」に惚れ込んだ。脚本・撮影・編集も手がけた奥山大史監督、長編第1作「僕はイエス様が嫌い」は自主制作だったからこの長編第2作で商業映画デビューとなるが、弱冠28歳にしてこの完成度に驚かされる。冬の始まりを告げるひとひらの雪の結晶のように、完璧で無駄のない美しさ。映画は光を操る芸術形式だということを改めて思い出させる、光と影の見事なコントロールに、スモークも活用した空間と空気感の演出の巧みさ。
可能であれば予備知識なしで登場人物たちに出会い、彼らを知り、寄り添うような気持ちでひと冬の出来事と感情を一緒に体験してもらえたらと願う。とはいえ人によって映画の好き嫌いは異なるし、時間もお金も有限なので、事前に自分の好みに合うかどうかを知っておきたいというのもよくわかる。最初に、これらの過去の映画が好きだったら本作もきっと気に入るはず、というのをいくつか挙げてみると、まず奥山監督が影響を受けたと明言しているイギリス映画「リトル・ダンサー」。ほかに共通要素があるのは、岩井俊二監督作「花とアリス」、橋口亮輔監督作「恋人たち」、押見修造原作・湯浅弘章監督作「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」あたりか。
本作はミステリ仕立てでもないしどんでん返しなどももちろんないのだが、以降は当レビューを読む方の意向や状況に合わせて【1】ネタバレなしのトリビアなど【2】予告編や解説文でも分かる程度のストーリーの鍵になる要素【3】軽いネタバレを含むレビュー、の3段階で構成するので、鑑賞前・鑑賞後などそれぞれの事情で読み進めていただければありがたい。(あと、だいぶ長いので、できればお時間のあるときに)
【1】ネタバレなしのトリビアなど
・主要な登場人物は、小学6年生のタクヤ(越山敬達)、中学1年生のさくら(中西希亜良)、スケートリンクでさくらをコーチする元フィギュアスケート選手の荒川(池松壮亮)の3人。彼らが氷上を滑る姿を並走しながらスムーズに流れるようにとらえるカメラワーク(そのおかげで一緒に滑っているような気分になれる)が本作の見所のひとつでもあるが、奥山監督がスケート靴で滑りながら撮影している(映画公式サイトにメイキング動画あり)。監督自身が幼少期にフィギュアスケートを習っていたそうで、その頃の経験が脚本に反映されている。
・越山敬達は2009年生まれ、中西希亜良は2011年生まれ。それぞれ13歳と11歳だった撮影当時は中西の方が背が高かったので、さくらが1学年上という役の設定に違和感がなかったが、2年ほどの間に越山の背が伸びて中西を抜いてしまったとか。元々キャスティングには運や縁がつきものだが、2人のキャスティングと撮影時期のタイミングの良さには奇跡的な巡りあわせも感じてしまう。
・舞台は雪国の架空の町という設定だが、本編中に実在の施設の名称が映るので、北海道のどこかだろうとたいていの観客は思うはず。たとえば荒川が同居人と買い出しに行く南樽市場(なんたるいちば)はJR南小樽駅の近く、アイスダンスのテスト会場になるセキスイハイムアイスアリーナは札幌市中心部から少し南の真駒内にある(さらに詳しいロケ地の情報については、小樽フィルムコミッションのサイトでロケ地マップが公開されている)。
・時代設定について。フィギュア選手時代の荒川の写真が掲載された1993年のカレンダーが映るので、その数年後だろうとまず推測できるが、その後スケートリンクの事務室内に映る2月のカレンダーの曜日から、うるう年の1996年だと特定できる。ちなみに奥山監督の誕生日は1996年2月27日で、時代を決める1つの材料にはなったかもしれない。とはいえ、この時代を選んだのにはより重要な理由があると考えられるが、それについては後述。
【2】予告編や解説文でも分かる程度のストーリーの鍵になる要素
・タクヤに軽い吃音があるのは、当サイトの解説文などでも触れられている通り。吃音があると他者とのコミュニケーションが難しくなることもあるだろうが、だからこそ誰かに出会い心と心が通うときの喜びも特別になる。その点で、「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」に通じる魅力がある。
・奥山監督はハンバート ハンバート(佐藤良成と佐野遊穂の夫婦デュオ)が2014年に発表した「ぼくのお日さま」を聴き、自身がフィギュアを習った体験を反映した主人公の少年に吃音持ちという設定を加えた。その後奥山監督は佐藤良成に手紙を書き、主題歌としての同曲の使用と映画のタイトルとしての使用を快諾してもらえたという。「ぼくはことばが うまく言えない/はじめの音で つっかえてしまう」という歌い出しの同曲が流れるエンドロールでは、歌詞の文字がアイスダンスを踊っているかのようにくるくる、すいすいと流れて表示される。歌の内容と優しい歌声に相まって、この遊び心もまた映画の余韻に貢献している。
・ハンバート ハンバートの佐藤良成は劇中音楽でも参加。オリジナル曲2曲を提供したほか、3人が天然のスケートリンク(ロケ地は苫小牧市の丹治沼で、地元の建設会社が除雪し水を張って氷面を平らにした)で滑るシーンで流れるThe Zombiesの「Going Out of My Head」も提案したという。同曲のオリジナルはLittle Anthony&The Imperialsという米国のR&Bボーカルグループが1964年に発表したものだが、これを英国バンドのThe Zombiesが1967年にカバー。結果、60年代ブリティッシュロックとモータウンサウンドが混じったような明るいポップナンバーとなり、「君のことばかり考えて頭がおかしくなる」と繰り返される歌詞も相まって、陽光が降り注ぐ氷上で3人がはしゃぐ多幸感に満ちたシーンにぴたりとはまっている。
【3】軽いネタバレを含む解説など
ここから先で触れる内容は、事前に知っていると本編中で観客が自ら気づいたり驚いたりする楽しみを損ねてしまうので、できれば鑑賞後に読んでもらえたらと願う。
・90年代に設定された理由・その1:先述のように1996年2月を含む冬の数か月間(より正確には95年の冬の始まりからタクヤが中学に進学する96年4月まで)に時代が設定されているが、この年に生まれた奥山監督が実際にフィギュアスケートを習ったのは2000年代のはず。実体験の時代よりも前にしたのには、主に2つの理由が考えられる。第1は、荒川の台詞にもあったように、日本でのフィギュアの競技人口における男女比にまつわる事情。2000年代に入ると髙橋大輔選手や織田信成選手などの活躍で徐々に男子の競技としても広く認知されていくが、90年代にはまだ「女子がやる競技」という世間一般の偏った認識があった。そうした時代背景が、フィギュアを始めたタクヤに対する周囲の反応に描き込まれている。
・90年代に設定された理由・その2:これについては序盤から少しずつ繊細に伏線が張られているので、本当なら観客それぞれに鑑賞中のどこかで気づいてほしい要素。たとえ見過ごしていたとしても、やがてはさくらと同じタイミング、南樽市場の前の橋で知ることになるだろう。その要素とは、荒川が同性愛者であり、同居人の五十嵐(若葉竜也)とパートナーの関係であること。映画後半は、同性愛者への偏見から発せられる心ない言葉(言葉の暴力と言ってもいい)が3人の物語を大きく変えていく。そうした性的マイノリティーに対する偏見と差別は90年代から2000年代にかけて徐々に減っていったと思われるが、たとえば2006年にはアカデミー賞で監督賞を含む3部門を受賞した「ブロークバック・マウンテン」が日本でも公開され話題になるといった画期的な出来事もあった。地方の町での同性愛者に対する偏見という意味でも、2000年代より90年代のほうがより説得力を持つという判断があっただろうと推測する。
・荒川が自身の性的傾向にいつ気づいたかは語られないが、自認してからはおそらく一人で悩み苦しみ、周囲に好きな男性ができてもたいていは打ち明けられないまま終わり、勇気を出して告白したのに拒絶されたこともきっとあったはず。若い頃にそうした思いをしたからこそ、タクヤについて「うらやましかったんだよ。ちゃんと恋してるっていうかさ」と五十嵐に吐露したのだろう。
・ローティーンの2人を支える役割も担った池松壮亮の演技は安定感と繊細さを兼ね備えていて実に見応えがある。特にラスト近くのキャッチボールの場面で、タクヤが捕れない球を投げてしまった後、「タクヤ、ごめん」と微妙に声を震わせた台詞が絶品。もちろん暴投のことだけではなく、タクヤの恋を応援するつもりで始めたアイスダンスが結果的にタクヤとさくらを傷つけてしまったことを詫びる気持ち、不意に沸き上がった感情の表れなのだろう。
・本作の“光”と“輝き”を担ったのは間違いなく、中西希亜良のフィギュアスケートのパフォーマンスと愛らしい表情だ。父親がフランス人で、フランス語、英語も話すマルチリンガルだそう。映画初出演作でカンヌデビューを果たしただけに、ぜひ国際派スターを目指して精進してほしい。フィギュアができること自体が大きな武器だし、高い身体能力はきっと活劇でのアクション演技にも応用がきくはず。今後の活躍に大いに期待する。
ほろ苦くてすっぱい
いろんな雪景色と、
日光の差し込むリンクで
音無く滑る2人のスケートが
印象的だった
きっと、この監督は
雪景色とスケートの美しさを知っていて
それを撮りたいのだなと思った
性的マイノリティに対する偏見が
あんな若い女の子の心の中にも
入り込んでいて
人間には
自分の知っている多数派が当たり前で
そこから外れている少数派を
おかしいと感じる性質が
きっとあるのだろう
最後にタクヤがさくらに
言おうとした言葉は
何だったんだろう
「あ・あ・あ・・・・・」
あから始まる言葉
会いたかった
会えてうれしい
見終わると
レモンを皮ごと
かじったような後味がした
お日さまの光
話題性だけのコミックやTVドラマの映画化、アニメーションばかりヒットする昨今の日本映画だが、まだまだこんなにもピュアな作品が生まれる。
これが長編2作目、デビュー作『僕はイエス様が嫌い』でいきなり注目された俊英・奥山大史の確かな才。主演二人の初々しさ。それらの賜物。美しい白銀の世界が拍車をかける。
しかし、ただピュアなだけじゃない。
優しさ、温もり、愛おしさの中にも、ピュア故の切なさ、残酷さ…。
それがまた胸に染み入る。
北国の雪深い田舎町。
吃音症のアイスホッケー少年・タクヤはフィギュアスケートをする少女・さくらに心を奪われる。
一人で不器用に滑っていた所をさくらのコーチ・荒川が気に掛け、個人レッスンを受けるように。
少しずつ上達し、やがてペアを組むまでにもなり、さくらとの距離も縮まるが…。
フィギュアスケートを通して描かれる少年少女の淡い恋。氷上版『小さな恋のメロディ』。
そこにコーチも加わり、三者の交流が紡がれていく。
情報や説明過多の作品が氾濫する昨今、話の方も至ってシンプル。
それが本作の作風にぴったり。
シンプルな物語に身を委ね、見る者は心行くまで三人の感情に寄り添える。
野球も下手、ホッケーもあまり上手くない。吃音で上手く喋れない。
自身に対し劣等感を抱きつつも、その眼差しや佇まいは素朴。
越山敬達くんのナチュラルさ。奥山監督は彼に台本を渡さず、現場で即興演出。これに見事応えた。子役からのキャリアと自然体がマッチ。
彼が自然体なら、彼女は輝かんばかりのフレッシュさ。
ドビュッシーの『月の光』に乗せてスケートをしながらのさくらの初登場シーン。まさに氷上の天使。神々しいほど。タクヤでなくとも見惚れる。
本作で映画デビューどころか、演技も初という中西希亜良。子供の頃から習っていたフィギュアスケートが見る者を魅了する。顔立ちも小松菜奈を彷彿させる美少女っぷり。
二人共、順調なキャリアを築いていって欲しい。荒川でなくとも見守りたくなる。
池松壮亮も好演。『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』ではアクションのプロに見え、本作では本物のコーチに見えるさすがの芸達者ぶり。
新人賞や助演男優賞も納得の、三人が織り成すケミストリー。
映像の美しさは特筆。
開幕からの雪国白銀の世界の美しさ、氷上を滑るさくら、ペアでアイスダンスをするタクヤとさくら…。ため息が漏れるほど。
絆や交流が深まり、三人で練習やドライブ。氷の湖のシーン…。その一つ一つが、美しく楽しい思い出として見る者の心にも残る。
このまま温かさに包まれていたかった…。
本作、ピュアなだけのジュブナイル・ラブストーリーではないのは見ていて分かってくる。
各々が抱える悩みや陰…。
吃音症のタクヤ。父親も吃音症。母親はまたアイスホッケーをやらせたいが、父親は息子のやりたい事の背中を押す。
元プロの選手だった荒川。が、夢諦め…。完全に諦めた訳ではない。まだ未練が…。
同性愛者でもある荒川。プロを辞め地元に戻り、コーチをしながら恋人の青年と慎ましく…。
一見幸せそうだが、関係は秘密。田舎町、噂はすぐ広がる。
おおっぴらに出来ず、内に秘めた想い。
それがさくらに片想いしたタクヤにシンパシーを感じたのであろう。
さくらは感情表現が苦手。密かに荒川に憧れている。
ある時、荒川が恋人と一緒にいる所を見てしまい…。
愛の形は様々。が、無垢な少女にそれはショックな事…。
荒川がタクヤにスケートを教えた訳、荒川自身にも酷い言葉を…。
悪気はない。悪気はないのだ。無垢でピュア故、つい出てしまった事。
しかし、それがまた残酷でもあるのだ。悲しい事に。
三人の交流もそれっきりに。
荒川は自身の将来を、さくらは練習に来なくなり、タクヤはまたアイスホッケーを…。
“ぼくのお日さま”というタイトルから終始温かい作風だと思っていた。
が、雪が解け、春の温かさがやって来る。奥山監督の彼らへの眼差しも温かい。
春の陽光がまた美しい。
タクヤは荒川と再会。
そして、さくらとも。
再びスケートを滑り始めたさくら。
三人がまた集うかどうかは分からない。
しかしそこに、三人の間に紡がれたものは確かにあった。
ラストシーン。タクヤはさくらに何と声を掛けたのだろう。
言葉に詰まりながらも、きっとそれは温かく包み込んでくれるだろう。
お日さまの光のように。
ジェンダー平等
私の感じ方は長々と解説している方とは違い、同性愛について異論を唱えた
それもソフトに と言う感想です。小さな恋のメロディみたいとか言う意見
も有りますがそれ違うでしょうと思う。主人公二人の純粋な初恋を見て、俺
何やってるんだと気が付いた先生と言うのが含まれているのでは?
ジェンダーに反対ではないが、持ち上げられるのも嫌だと同性愛者言っている
エンドロールの歌イイね。それと「本末転倒虫」最高❤
ドビュッシーの「月光」いやいや、「月の光」が流れる。
「ダニエルがメロディーに出会う場面」❤
この映画の主題は言うまでもない。
まぁ、すれ違いの純愛タネ。第二成長期にはいる少女と少年の姿を見事に表していると思う。
でも、ファンタジーだけどね。だって、周りのク●ガキどもが黙って見ているわけがない。
「月の光」をバックに少し露出過多の「日の光の中」を踊る少女の姿を少年は見て迷わず「美しい❤」って言えたんだろうね。
もっと若い内に出会いたかった作品である。
追記
この演出家には毒されないように育って貰いたいと思った。
あえて苦言を呈するなら。。。
具体的には言えないが、映画を制作する動機づけになった歌をテーマだと思ってしまう鑑賞者がいると思うから。そこに触れなくとも充分な脚本で、演出も申し分ないと思う。若い頃の岩井俊二さんみたいだと感じた。
追記
最後のカットも含めて、小津安二郎監督に対するオマージュもあるかなぁ。
月とお日様も月が満月の時、お日様は反対にある。間には地球。このコーチは地球って事だ❤
監督は女性が嫌いなのか?
映像は綺麗で、前半の内容もあり、終始ウットリするような優しい気分で見ることが出来ました。
しかし、同性愛者と知ってからの女の子とその親御さんの対応に、嫌な人たちだなーとしか感じませんでした。90年代(?)当時は同性愛者に無理解があったにしても、もう少し配慮があっても良かったのではないかと。テストに参加しないにしても、電話ひとつ入れるとか。感情的になったとしても、参加しなかった事をあとで一言くらい謝るとか。
なので最後のシーンも、「嫌な女が来た」と思ってしまい、そこから良い展開を想像できませんでした。
素晴らしいライティング
本作は、奥山大史監督(弱冠27歳!)の商業映画デビュー作であり、彼の卓越した才能が余すところなく発揮されています。物語は、雪深い田舎町を舞台に、吃音に悩む少年タクヤが、フィギュアスケートに情熱を注ぐ少女さくらに心惹かれる姿を描いています。彼らの関係を優しく見守るコーチの荒川の存在も、物語に深みを与えています。
奥山監督は幼少期にフィギュアスケートを学んだ経験を持ち、その知識と感性が作品全体に息づいています。特に、ドビュッシーの「月の光」に合わせて滑るシーンは、視覚と聴覚の美しい融合を体験させてくれます。さらに、主題歌としてハンバート ハンバートの「ぼくのお日さま」が使用され、物語のテーマと深く共鳴しています。
キャスト陣の演技も見事です。越山敬達は、吃音に悩みながらも純粋な心を持つタクヤを繊細に演じ、その内面の葛藤と成長を見事に表現しています。中西希亜良は、フィギュアスケートに情熱を注ぐさくらの強さと脆さを巧みに演じ、観客の共感を呼び起こします。池松壮亮は、二人の若者を優しく見守る荒川役を自然体で演じ、その存在感が物語に深みを加えています。
物語は、タクヤの初恋を中心に展開しますが、その背後には多様性や自己受容といった深いテーマが織り込まれています。タクヤの吃音、荒川の性的指向など、現代社会が抱える課題を繊細に描き出し、観客に深い感慨を与えます。しかし、これらのテーマは決して押し付けがましくなく、物語の中で自然に表現されています。
映像美も特筆すべき点です。雪景色の中でのスケートシーンや(三人が凍った湖で触れ合うシーンは素敵でした「小さな恋のメロディ」を思い出しました劇伴もジャストマッチ)
光と影のコントラストを巧みに利用した撮影は、観る者の目を楽しませるだけでなく、物語の感情的な深みを増しています。奥山監督自身が撮影と編集を手掛けたことで、彼のビジョンが隅々まで行き渡った作品となっています。
無意識の傷
知らない世界に夢中になっていくタクヤを応援しつつ寂しさを抱く親友
そんな気持ちにまったく気がつかないタクヤ
さくらに足されていくある感情が
理解しがたい気持ちの悪さに触れたときにとった行動
言葉の選択と
荒川が突きつけられた 他人からみた〝自分〟
眠れぬ部屋の空気を沈ませる大切なひと
私たちは生傷をつけあいながら生きている
ポストや白樺につもった雪が
時間をかけとかされるように
今ある不安も
いつかは過去になって
ほしいと祈りながら
離れていく船や
再会の坂道は知っている
陽を求め
未来に向かう
道の途中にいること
修正済み
あの二人はあの後何を話したんだろうか。
途中まで、それこそ胸の前で手を組み合わせて目をキラキラさせてスクリーンを見つめてしまうような、幸せすぎる場面が続いてたから、絶対どっかで何かあるんだろうなあ、と思って半ばびくびくしてたんだけど、、あんな風になるとはなあ・・・TT
最後ほんとは、コーチとあの子が再び邂逅するところまでたどり着いて欲しかったんだけど。。
しかしもちろん、この映画の終わりはあれで良いのだと思う。
もう少しこうなって欲しいかな、と思うところを敢えて足さない、絶妙なストーリー運び。
セリフもそうだったんだけど、もう一つ二つ、何か付け足してしまいそうなところを、そこで止めるが故の余韻がすごくいい味わいになっていたように思います。
あの少年の吃音も、こういう言い方はおかしいかもしれないけど、その少ない言葉なりの余韻にプラスに働いていたと思う。
終わり良ければ全て良し、というけれど、じゃあ終わりが良くなければ、それまでの全ては色褪せて、ダメになってしまうのか。
決してそうではなくて、そのひとつひとつのきらめきは、確かにそこにあって、人の心を、時間を、価値あるものにするのだということ。
その大切な事実に、光を当てる映画だったと思います。
ラスト、あの二人は、あの後どんな会話を交わしたのだろうか・・・すごく知りたい!!
ぼくのおひぃさま
小学生の恋愛を描いた作品は珍しく、あっても子供向けか演技が拙いものだが、本作はどちらでもなかった。
越山敬達くんもだが、中西希亜良ちゃんの魅力が凄い。
清原果耶の凛々しさに芦田愛菜の愛らしさをちょい足ししたような感じで、横顔の綺麗さは特筆もの。
スケートも、越山くんは徐々に上達する様子が、中西ちゃんは神々しいまでの美しさが印象的。
なかなか3人が絡まないので心配になったものの、荒川がタクヤを教えるあたりで俄然良くなる。
2人が次第に活き活きしてくる様がとても自然。
技が成功した時の喜び、特に教えた側のそれが真っ直ぐ伝わってきてこちらまで笑顔になる。
アイスダンスをやる流れは、本当にさくらのためになるか、タクヤの応援が先に立っていないか少しモヤる。
そして、2人の練習を不満気に見つめていたさくらが心を許す段階がなかったのは残念。
しかしその後の3人の交流はそれを忘れるほど眩しく、特に湖のパートは多幸感に溢れていて目が潰れた。
光の差し込むリンクで演技を合わせるシーンは美しすぎて目玉が溶けた。
というか、小学生で女の子とあんな距離なんて、たとえ好きなコじゃなくてもドキドキ堪らんだろ。
まぁタクヤからそういう疚しさは感じないので、純粋にスケートも好きなのだと思う。
ただ、後半の展開は正直好みじゃなかった。
恋人と察するには弱く、逆に理解したならタクヤに邪な感情があるなんて勘違いしないと思うが、そこはいい。
それでも、さくらと荒川が決裂したままで、アイスダンスの本番にも挑めない幕切れはスッキリしない。
荒川は一応前進と捉えてもいいし、タクヤとさくらはまた何かが始まりそうなラストではある。
決してバッドエンドではないが、ストレートに幸せな3人が見たかったです…
タクヤの友達も、もっと絡ませてほしかったなぁ。
ただ一緒に居たいだけなのに、、、
イヤータクヤくんとサクラちゃん可愛すぎて、あんなに一生懸命練習したのに、、、タクヤくんにはアイスダンスを続けて欲しかったなー。サクラちゃんは出て来た時からスケートが上手いのは充分分かっていましたが、タクヤくんは本当に上手くなっているようで、アイスダンス出させてあげたかったなー。タクヤくんの爽やかな淡い気持ちを思うと切ないなー。タクヤ役の越山敬達くんサクラ役の中西希亜良さん2人の演技が凄すぎます。タクヤくんは本当にきつ音に見えてしまいます。最後に流れる主題歌も反則ですよー。最後にあの感じでエンドロールにいかれて、自然に涙が出てきます。ハンバートハンバートさんのぼくのお日さまものすごく素敵な曲でした。最後久しぶりに会ったサクラちゃんにタクヤくんは思っている事言えたかな?観終わった後の余韻の残り方がすごいなー。これだけ感想が出て来るくらい映画館で観て良かったです。今年観た映画で1番良かったです。
テアトル新宿でまだ観る事が出来たので2度目の鑑賞致しました。映画の中の風景が素晴らしく、特に自然光や光入れ方がMVみたいです。ゆっくりした時間の流れがあり、空気感すら感じます。何回観ても、良かった。やはり今年1番心に沁みる映画でした。3人でカップラーメンを食べながら足をカタカタやる所や先生の居ない所でサクラちゃんと合わせて友達が拍手するシーン等素晴らしいシーンの連続です。本当にありがとうございました。
すごいリアルな映画
さくらの気持ちも理解は出来るけど、荒川が一番傷つく言葉言われてて凄い悲しくなった。あの時代設定なら当然とも言えるかもしれないけど、でも凄く現実味があって感情移入もしやすい凄く良い映画だと思う。
最後の解釈お任せって感じも好き。
美しい師弟関係の裏にある危うさ
優雅にスケートを滑る女の子(さくら)に憧れる、不器用な男の子(タクヤ)。タクヤにスケートを教えることに生きがいを感じるコーチ。そしてさくらはそのコーチにひそかに憧れる。3者が出会い、スケートに打ち込んだある冬のストーリー。
凍った湖で3人が練習するシーンが前半のクライマックスだ。3人の距離が縮まり、美しいシーンになればなるほど、何か不吉な予感が漂う。さくらが目撃したコーチのある行動に幻滅し、ついに3人は離れ離れになってしまう。
さくらがコーチに突きつける言葉(「お気に入りの男の子を踊らせていただけなのか。気持ち悪い」という主旨)には、コーチの恋人への嫉妬、タクヤとペアを組むことへの疑念など、色々な感情が入り混じっている。そこにはさくらのコーチへの(無自覚な)独占欲もうかがえる。そもそもコーチがタクヤとさくらにペアを組ませたことは、お気に入りの2人と一緒にいるためのエゴのようにも見える。
つまり師弟関係というものは美しければ美しいほど、そこには互いへの独占欲がある。これぞと思った子に熱を入れるからこそ互いの成長もあるのだが、危ういバランスのうえに成り立つ、いずれ終わりを迎える関係なのかもしれない。
可愛そうなのは、唯一独占欲や嫉妬と無縁なタクヤである。そのタクヤが最後にさくらに再会し、成長した姿で互いに向き合う(何か、背の高さも対等になっていた気がした)。師は去っていく運命にあるが、残された子どもは成長するという結末のように見えた。
弱い人がつながりあう一瞬の美しさとはかなさを描く作品だと思うが、さくらの背景や成長がもう少し示唆されていればもっと満足感が高かったかもしれない。
傷
メインキャラ3人それぞれが傷を追うけれど、それでも前を向いて生きていく。
監督はそういうことが伝えたかったのかなと思いました。
吃音のタクヤが主人公ですが、
家庭では同じ吃音の父親だけが味方。お兄ちゃんは当たりが強い。
学校でも、アイスホッケーでも、バカにしたような扱いを受けてすでに傷を負っているんですね。
で、池松壮亮演じる荒川の目につき、アイスダンスを教わることに。
アイスダンスの予選会でパートナーのさくらにすっぽかされ、さらに傷を負うわけです。
(タクヤはさくらが好きなのがわかった荒川が手を差し伸べているんですよね)
さくらは荒川が好きだけれども、荒川とそのパートナーである五十嵐が車の中で
仲良くしているのを見て、猛烈な嫌悪感を覚えるわけです。
そしてタクヤのことも好きなんだろうと荒川にぶつけ、しまいには「気持ちわるい」と言ってしまう。
そしてアイスダンスの予選会をすっぽかし、これらのことで傷を負ってしまうわけです。
若さゆえでしょうかね。
さらにこの物語の時代を考えても、LGBTQの理解は進んでいないものと予想できます。
荒川は、自分の性的嗜好によるものなのか、東京にいられず北海道にきて、またしても北海道から
出ていくことに。彼が平穏に暮らせる地はないのか?と思えるほどにせつないですね。
みんなが傷を負うなかでも、タクヤのさくらへの想いは最初から最後までブレない。
そういうエンディングかなと受け取りました。
最後にタクヤとさくらが出会うシーンで、ふたりともやわらかな表情をしているので、そう捉えましたね。
上述したような、登場人物の心の“傷”がとても印象的でしたし、
各ショットについても、日差しが印象的にうつしだされていて、終始映像にやわらかさ&あたたかみを感じました。
加えて、本作独特の“間”もこの映画の世界観をよりやわらかに、あたたかくしていたと思います。
それにしても、池松壮亮の演技の幅が広くて本当にすごいなと思います。
宮崎では本作よりも『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』が先に公開されましたので、その時の池松壮亮と
本作とのギャップに驚きました(笑)
さらにもうすぐ池松壮亮主演作『本心』も公開を控えていますが、こちらも楽しみです。
光の魔術師
北海道の田舎で、フィギュアに取り組む女の子とアイスホッケーからフィギュアに転向した運動神経がよくない年下の男の子が世界的フィギュア選手だった荒川から教えてもらい、少しずつ上達していく。
だが、そこには田舎のゲイカップルの閉塞感、小学生の女の子のゲイに対する偏見、吃音、などの要素が入ってくる。
大切な場面では余計な音も少なく光あふれる。それは心情も表しているし、瑞々しさも加わっていく。
どんでん返しだったり、爆発だったりのような大きなことは起きないが、全体的に抑え気味の声で淡々と話が進んでいくものの、引き込まれていく。さりげない会話の中で感情がさらっと読み寄れたりしてなんだか心地よい時間だった。
実は他の作品を見たいがためのつなぎの空き時間で鑑賞したものの、これも印象に残る作品になった。
まっすぐで、ちゃんと恋してる。追記︰光の魔術
ロケ地の白糠って何処だ?と思って北海道の地図を開いたら鵡川から襟裳までの日高本線がもう無いのに気付く。昔は日高本線に乗って静内や浦河の牧場を訪ねたのだが…。
あ、白糠は釧路のそばでした。
10月9日(水)
TOHOシネマズシャンテで「ぼくのお日さま」を。
(カレンダーが作られるほど)人気フィギュアスケーターだった荒川(池松壮亮)は、リンクの管理とフィギュアのコーチでさくら(中西希亜良)にスケートを教えている。
タクヤ(越山敬達)はあまり運動は得意ではないが、夏は野球、冬はホッケーをやっている。ホッケーの帰りにリンクを滑るさくらの姿に見惚れる。ホッケーのシューズでさくらのスピンを真似てみるが転倒ばかり。さくらを見つめるタクヤの視線に気が付いた荒川は転倒ばかりしているタクヤに家の荷物の中から自分が履いていたフィギュアのシューズを引っ張り出してタクヤに貸し、フィギュアの滑り方を教える。
滑れるようになってきたタクヤと、ちょっと頭打ちのさくらに二人で組んでアイスダンスをやる事を提案する。練習が進み二人の息が合って様になって来る。それを見ていたタクヤの友達から拍手が来る。
荒川は競技参加のための資格審査を受ける事を提案し、二人は練習を重ねる。
しかし、さくらは、荒川の別の姿をみてしまい失望し嫌悪し、資格審査の会場に来ない。タクヤのせいではないのだが。
三人はどうなるのか…。
1996年と言う舞台設定をもっとはっきりと出しても良かったのではないか。リンクの部屋のカレンダーとか荒川の使っているガラケーとかでは観客は認識出来ない。
この物語が1996年を舞台にしている事で今よりも男性がフィギュアスケートをやる事のハードルの高さ(ましてやアイスダンス)、同性愛に対する嫌悪感が高い事が強調されるのだ。
ちなみに高橋大輔がバンクーバーで銅メダルを取ったのが2010年、アイスダンスを始めるのが2019年、羽生結弦がソチで金メダルを取ったのが2014年である。
1972年札幌オリンピックのジャネット・リンが日本で大人気だった事などジジイじやないと知らないよね。フィギュアスケートといえば女子だったのだ。
この映画は暗い。タクヤの家の食事のシーンは節電中?と思う程である。家族が一緒にあんなに暗い中で食事はしないだろうと
思う。その他でも室内では暗いシーンが多い。これは明るいシーンとの対比のためでもあるのだが、暗すぎる。確かにリンクに差し込む陽光の中で滑るさくらは美しく撮れていたし、明るい抜けたシーンがラストには用意されていたけれど。
私は、「ぼく」はタクヤで「お日さま」はさくらだと思う。タクヤがさくらと一緒にいる時は陽がさしている。リンクで練習している時、荒川と3人で湖にスケートに行く時、そして、ラストでさくらと再会した時に最も明るい陽射しに包まれているのだから。
タクヤは、さくらに何と声をかけたのだろう。
タクヤの家の前の犬小屋にいる柴犬がかわいい。もっと見たかった。中西希亜良は今後注目だな。え、父親はフランス人!
追記︰光の魔術
あのリンクに差し込む陽光は自然の光だと思っていたらリンクの窓の数だけライトを用意して調光したものだった。おお、日本のサム・メンデスか。やられたな。
撮影は2年程前だったようで、舞台挨拶の写真だとタクヤの身長はさくらよりもかなり大きくなっている。二人のバランス的に映画の撮影が最高のタイミングで行なわれたと思った。
私も中学1年の時、1年で身長が10cm伸びたのを思い出した。
評価を4から4.5に変更します。
観て良かった
すごい良い映画。
優しい時間が流れてて、セリフは少ないけど気持ちが溢れてて伝わってくる。
スケートのシーンもすごく綺麗。
ただ、あんなに練習したのに披露できなかったのほほんとにもったいない。
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