ぼくのお日さまのレビュー・感想・評価
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リンクの凛とした空気と差し込む光の中で舞う眩しい二人
タクヤはさくらに憧れに近いほのかな恋心を抱く。つい目で追ってしまう。それは観ているこちらも微笑ましくなるほどのピュアな恋。荒川の「羨ましかったのかも。」という気持ちがわかる。
荒川コーチがアシストして二人はアイスダンスのペアに。スラっとして美しい2人。とても画になる。そんな2人がリンクに差し込む光の中、「月の光」の美しい旋律に合わせ、照れながらも手を取り合って氷の上を舞う。2人のドキドキがこちらにまで伝わる。この年代だからこそのドキドキ。キャンプファイアーのフォークダンスで好きな女の子と真っ赤になりながら手をつないで踊ったあの頃の空気感が蘇る。(ここに男女の肉体的な欲望が入り込む余地はない。)
荒川コーチ演じる池松もいい。池松が出演するとその映画は、雰囲気がゆったりで、静かで、優しくて、美しくなる。口調がゆったりがいい。(ぜひ真似したい。。)タクヤとサクラと荒川コーチ。この3人のキャスティングがあってこそ。絶妙。
タクヤの笑顔のように、純粋で、無垢で、月の光のように輝く3人の関係。
これを壊したのは、、、ある一言。ドロっとしたものが垣間見えた瞬間。一気に現実に引き戻された。子供&おとなしくみえて芯は強い。女性はすごい。。。タクヤが能天気なだけに、余計に男と女の差を強く感じた。荒川コーチも観ている我々もバケツで冷や水をかけられた気分。
最後のシーンは「そこで終わるかー」という感じ。でも確かにそれが一番綺麗かも。
高評価だから足を運んだこともあり、期待値が高すぎて、映画としては物足りなく感じてしまった。
ただ、幼いころの淡い想いと澄んだ光景を想い出させるあの奇跡の映像描写に関しては、確かに高評価をつけられる方が多いのも納得である。
※美しい風景をバックに滑る屋外の天然リンクのシーンもまた同様に格別だった。
※店員がガソリンを入れてくれていた頃のお話なんだな。車でカセットテープ聞く、古いボルボ、ガラケー、防具もステイックもひょっとして古かったかな。ザンボも?
※ザンボかけてる時に滑ったらあかんよ!
※タクヤがいい。そしてタクヤの友達がいいヤツでいい!
誰かを好きになってしまう、ぼくの原罪
「ぼくのお日さま」というタイトルは二重の意味で罪深いと思う。他人を神格化させて、救いを与えてくれる「お日さま」にする罪。さらにそのお日さまを格助詞「の」で「ぼく」とつなげて、「ぼく」の所有物にする罪。
だからこのタイトルからして、本作には不穏な空気が漂っていたのだが、その予感は的中した。ポスタービジュアルや光のやわらかさに反して、とても残酷な物語である。でもよかったとも思う。吃音の少年・タクヤが、「男の子がやらない」フィギュアスケートを習ううちに、さらにゲイのコーチ・荒川との交流を通して、自分らしさを見つける物語だったら、綺麗すぎると思ったからだ。その綺麗さこそ、障害や性的マイノリティーのウォッシングでしかない。
そしてこのような物語化は、普遍的なテーマを浮かび上がらせる。すなわち〈私〉の好意の問題である。「誰かを好きになること」を素朴に良いことだと信じられたら、人生はとても生きやすいと思うが、そのことに罪の意識を持ってしまう人は深刻だ。でも好意を持つことは、他人に危害を加えることと切り離せない。好意には、他人に対する選択と排除が伴っている。さらに上述のように、好意は〈私〉のエゴイズムによって他人の人格を剥奪する。一方的に救いを与えてくれる神にさせることも、操作可能でないがしろにできる物にもさせる。
でも私たちは好意なしに他人と関わることはできない。そして自分の理性や損得勘定でどうにかできるわけでもない。荒川だってゲイであることを選択してはいない。それなら、この誰かを好きになってしまうことは、私たちが背負わなければならない原罪ではないだろうか。
さらに他人の好意を〈私〉が目撃してしまったら?
他人は〈私〉を好きではない。さらにその他人が好意を向ける対象は、〈私〉の規範を逸脱する他者である。その時、生じる感情はどのようなものか。それを現前させたのが本作である。
以下、ネタバレを含みます。
まず、本作の好意は性愛に必ずしも結びつかない。
本作では、タクヤ→さくら、さくら→荒川、荒川→タクヤと好意が向けられているのだが、それぞれ好意のありようは全く違う。
タクヤがさくらに向ける好意は憧憬に近い。光の中をフィギュアスケートする美しさに見惚れ、まさに神が現れた感覚だ。
さくらが荒川に向ける好意は、恋愛未然だけれど、同級生に荒川の魅力を伝えられて、気づいてしまった感覚である。
荒川がタクヤに向ける好意も、自身の幼少期を投影した愛おしい感覚だろう。彼はガソリンスタンドで働く五十嵐と恋愛し、同棲関係でもあるのだが、劇中にセックスは存在しない。これらからも、本作の好意は性愛と結びついておらず、恋愛未然の感覚といってよいだろう。そんな印象は、本作に特徴的なぽわぽわな光とも共振する。だが彼らの好意は対象が一致しないズレが生じている。そんな様も、カットによる視線の不一致で巧みに描かれている。
タクヤが野球ーアイスホッケーでは停止しているのだが、フィギュアスケートでは氷上を滑り出すことからも、彼らの好意の滑り出しを感じれてとてもいい。そして彼らは、荒川が強引に二人をアイスダンスの試験にトライさせることで近づき合うのだ。
だが、トライの最中にさくらは、荒川がスーパーの駐車場で五十嵐といちゃいちゃするのを目撃してしまう。そして彼女は、荒川が五十嵐に向ける好意を、タクヤへの好意と同様と錯覚し、気持ち悪いと言い放つ。さらに、彼女はトライ当日も来ず、3人の親密さは冬の一時で終わってしまうのだ。
さて、さくらが、荒川が五十嵐やタクヤに向ける好意を気持ち悪いと思ったことは罪なのだろうか。
私は気持ち悪いと思うこと自体は仕方ないこととは思う。直感に近い感情は拭い去ることはできない。彼女の生きる街は都会以上に、マイノリティーは不可視化されているし、異性愛が当然だと思っているのなら許容できる余地はない。思うこと自体は罪ではない。しかしそれが加害に転じたら罪だ。荒川に直接言い放つことが、即時的な加害になったとは言えないかもしれない。だが、さくらには「お日さま」の資格を失った荒川を物のようにないがしろにしてもいいという明確な悪意がある。そして結果的に彼は職を失い、五十嵐も失い、街を出て行かなければならなくなったのだから、彼女の行為は重大な加害と言わざるを得ない。
荒川は好意をわきまえていた。駐車場に止めてある車内を、公共ともプライベートとも区分しがたいところが悩ましいところではあるが、それでも配慮していたことは言えるだろう。だから物語として、彼が原罪のために街を追放されたことは、時代性を言い訳にしても世俗感覚に追従したただの現状肯定という名の不正としか言いようがない。
もちろんさくらが自力で気持ち悪さを解消する必要もない。そのために、コーチングという行為があるのではないだろうか。さくらの偏見を正すコーチングがないことも、時代性や土地柄と言っていいのだろうか。もちろん荒川がそのコーチングを担う必要はない。だから荒川とさくらを仲介する母がその役目を担ってもいいはずなのに、なんだか露悪的な姿に留まってしまう。
タクヤがその役目を担ってもいい。というか、タクヤはいつまでも受け身過ぎる。本作の登場人物は言いっ放し、やりっ放しでリアクションが欠如していることは指摘できると思うが、そのドラマの果てに雪解けの和解が起こりうるのではないかと思ってしまう。
だからタクヤは何も言わず/言えず、荒川の謝罪もなかったことにして街から追放する、そしてさくらがフィギュアスケートに回帰し、綺麗に滑ることで物語を終わらせてはいけないはずなのだ。
このような不十分さから、本作を手放しに傑作とは言えないのだが、タクヤとさくらの次のドラマは準備されている。春になって、タクヤは中学生となり制服を来て登校する。そして大地でさくらと再会する。きっとタクヤがさくらと再会する場所が、スケートリンクではなく大地であるのは、さくらからお日さま性を取り除き、さくらその人に眼差しを向けるためだ。タクヤとさくらは、同じ中学生となって人と人との対等な関係になりだしている。さくらが「ぼくのお日さま」でなくなったとしたら、タクヤはさくらとどう向き合うのだろう。そして二人にはどんなドラマが起こるのだろうか。さらにさくらの気持ち悪さは解消されるのだろうか。もしかしたらさらなる葛藤を呼び起こし、罪を重ねてしまうかもしれない。どこまでもいっても赦しは存在しないかもしれない。だが荒川を歓待できる未来を私は期待したい。
成る程納得!カンヌも認めた「その視点」!!「目は口ほどに物を言う」その視線の先にあるものは?
今注目の新進気鋭の若手映画監督、奥山大史監督が、監督・脚本・撮影・編集まで手がけた商業映画デビュー作品です。
是枝裕和監督からも一目おかれ、主演の池松壮亮さんが「凄まじい才能」と絶賛する奥山大史監督は、第77回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に、日本人監督としては史上最年少で選出されました。日本映画の未来を担う監督とあらば、
これはもう、
観るしかないっしょ!!!
勇んで仕事終わりに映画館へ。
連日の疲れが溜まってか、
まさかの開始5分からの爆睡…。
目覚めた時には、エンドロールという大失態を…😭😭😭久々の全寝でした…。映画を観に行って寝るとか信じられん!!と、よく人からお叱りを受けますが、映画館って本当に心地いい場所なのよ、私にとって。一番リラックスできる場所。どんなに寝不足でも、寝室に行くと逆に目が覚めちゃうのに、なんて映画館って心地よいんだろう?
私だけかなぁ…🙄
で、体調整えて
「リベンジお日さま」して参りましたよ!!
感想は、
「やっぱり観ておいてよかった〜」というのが、まず率直な感想です。終始派手さはなく、物語は淡々と静かに進んでいきます。(寝不足の人は要注意よ!)でも退屈なんかじゃ、決してないのよ!!(一回寝た人が説得力ないね😅)全部必要な静けさ。不必要な音楽やセリフは一切必要ない。余白すら演出。大好きな池松壮亮さんと、恋人役にこれまた大好きな若葉竜也さん。ふたりの掛け合いのシーンを見てるだけで幸せになれます。子役のお2人もとってもナチュラルでよかったです。
その視線から、表情から
全て理解できます。
言葉などなくても。
ある人が、
ある人に向けたその熱い視線
またある人が、
ある人に向けた軽蔑の視線
そしてまたある人が
ある人に向けた失望の眼差し
などなど
「目は口ほどに物を言う」
まさにそれを存分に感じる映画でございました。主題歌は、ハンバート ハンバートの代表曲「ぼくのお日さま」で、この映画のタイトルにもなっています。監督がこの曲からイメージを膨らませたとコメントしているように、本作品の大事なキーとなっています。エンドロールまで見逃せません。
こんなにも優しく、
こんなにも痛い映画を
私は今年初めて観た気がします。
いやぁ、いい映画を観させていただきました。合掌🙏
*ご鑑賞は十分に体調を整えて🙄
今年の邦画で私的暫定1位。予備知識は少なめ推奨
映画「ぼくのお日さま」に惚れ込んだ。脚本・撮影・編集も手がけた奥山大史監督、長編第1作「僕はイエス様が嫌い」は自主制作だったからこの長編第2作で商業映画デビューとなるが、弱冠28歳にしてこの完成度に驚かされる。冬の始まりを告げるひとひらの雪の結晶のように、完璧で無駄のない美しさ。映画は光を操る芸術形式だということを改めて思い出させる、光と影の見事なコントロールに、スモークも活用した空間と空気感の演出の巧みさ。
可能であれば予備知識なしで登場人物たちに出会い、彼らを知り、寄り添うような気持ちでひと冬の出来事と感情を一緒に体験してもらえたらと願う。とはいえ人によって映画の好き嫌いは異なるし、時間もお金も有限なので、事前に自分の好みに合うかどうかを知っておきたいというのもよくわかる。最初に、これらの過去の映画が好きだったら本作もきっと気に入るはず、というのをいくつか挙げてみると、まず奥山監督が影響を受けたと明言しているイギリス映画「リトル・ダンサー」。ほかに共通要素があるのは、岩井俊二監督作「花とアリス」、橋口亮輔監督作「恋人たち」、押見修造原作・湯浅弘章監督作「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」あたりか。
本作はミステリ仕立てでもないしどんでん返しなどももちろんないのだが、以降は当レビューを読む方の意向や状況に合わせて【1】ネタバレなしのトリビアなど【2】予告編や解説文でも分かる程度のストーリーの鍵になる要素【3】軽いネタバレを含むレビュー、の3段階で構成するので、鑑賞前・鑑賞後などそれぞれの事情で読み進めていただければありがたい。(あと、だいぶ長いので、できればお時間のあるときに)
【1】ネタバレなしのトリビアなど
・主要な登場人物は、小学6年生のタクヤ(越山敬達)、中学1年生のさくら(中西希亜良)、スケートリンクでさくらをコーチする元フィギュアスケート選手の荒川(池松壮亮)の3人。彼らが氷上を滑る姿を並走しながらスムーズに流れるようにとらえるカメラワーク(そのおかげで一緒に滑っているような気分になれる)が本作の見所のひとつでもあるが、奥山監督がスケート靴で滑りながら撮影している(映画公式サイトにメイキング動画あり)。監督自身が幼少期にフィギュアスケートを習っていたそうで、その頃の経験が脚本に反映されている。
・越山敬達は2009年生まれ、中西希亜良は2011年生まれ。それぞれ13歳と11歳だった撮影当時は中西の方が背が高かったので、さくらが1学年上という役の設定に違和感がなかったが、2年ほどの間に越山の背が伸びて中西を抜いてしまったとか。元々キャスティングには運や縁がつきものだが、2人のキャスティングと撮影時期のタイミングの良さには奇跡的な巡りあわせも感じてしまう。
・舞台は雪国の架空の町という設定だが、本編中に実在の施設の名称が映るので、北海道のどこかだろうとたいていの観客は思うはず。たとえば荒川が同居人と買い出しに行く南樽市場(なんたるいちば)はJR南小樽駅の近く、アイスダンスのテスト会場になるセキスイハイムアイスアリーナは札幌市中心部から少し南の真駒内にある(さらに詳しいロケ地の情報については、小樽フィルムコミッションのサイトでロケ地マップが公開されている)。
・時代設定について。フィギュア選手時代の荒川の写真が掲載された1993年のカレンダーが映るので、その数年後だろうとまず推測できるが、その後スケートリンクの事務室内に映る2月のカレンダーの曜日から、うるう年の1996年だと特定できる。ちなみに奥山監督の誕生日は1996年2月27日で、時代を決める1つの材料にはなったかもしれない。とはいえ、この時代を選んだのにはより重要な理由があると考えられるが、それについては後述。
【2】予告編や解説文でも分かる程度のストーリーの鍵になる要素
・タクヤに軽い吃音があるのは、当サイトの解説文などでも触れられている通り。吃音があると他者とのコミュニケーションが難しくなることもあるだろうが、だからこそ誰かに出会い心と心が通うときの喜びも特別になる。その点で、「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」に通じる魅力がある。
・奥山監督はハンバート ハンバート(佐藤良成と佐野遊穂の夫婦デュオ)が2014年に発表した「ぼくのお日さま」を聴き、自身がフィギュアを習った体験を反映した主人公の少年に吃音持ちという設定を加えた。その後奥山監督は佐藤良成に手紙を書き、主題歌としての同曲の使用と映画のタイトルとしての使用を快諾してもらえたという。「ぼくはことばが うまく言えない/はじめの音で つっかえてしまう」という歌い出しの同曲が流れるエンドロールでは、歌詞の文字がアイスダンスを踊っているかのようにくるくる、すいすいと流れて表示される。歌の内容と優しい歌声に相まって、この遊び心もまた映画の余韻に貢献している。
・ハンバート ハンバートの佐藤良成は劇中音楽でも参加。オリジナル曲2曲を提供したほか、3人が天然のスケートリンク(ロケ地は苫小牧市の丹治沼で、地元の建設会社が除雪し水を張って氷面を平らにした)で滑るシーンで流れるThe Zombiesの「Going Out of My Head」も提案したという。同曲のオリジナルはLittle Anthony&The Imperialsという米国のR&Bボーカルグループが1964年に発表したものだが、これを英国バンドのThe Zombiesが1967年にカバー。結果、60年代ブリティッシュロックとモータウンサウンドが混じったような明るいポップナンバーとなり、「君のことばかり考えて頭がおかしくなる」と繰り返される歌詞も相まって、陽光が降り注ぐ氷上で3人がはしゃぐ多幸感に満ちたシーンにぴたりとはまっている。
【3】軽いネタバレを含む解説など
ここから先で触れる内容は、事前に知っていると本編中で観客が自ら気づいたり驚いたりする楽しみを損ねてしまうので、できれば鑑賞後に読んでもらえたらと願う。
・90年代に設定された理由・その1:先述のように1996年2月を含む冬の数か月間(より正確には95年の冬の始まりからタクヤが中学に進学する96年4月まで)に時代が設定されているが、この年に生まれた奥山監督が実際にフィギュアスケートを習ったのは2000年代のはず。実体験の時代よりも前にしたのには、主に2つの理由が考えられる。第1は、荒川の台詞にもあったように、日本でのフィギュアの競技人口における男女比にまつわる事情。2000年代に入ると髙橋大輔選手や織田信成選手などの活躍で徐々に男子の競技としても広く認知されていくが、90年代にはまだ「女子がやる競技」という世間一般の偏った認識があった。そうした時代背景が、フィギュアを始めたタクヤに対する周囲の反応に描き込まれている。
・90年代に設定された理由・その2:これについては序盤から少しずつ繊細に伏線が張られているので、本当なら観客それぞれに鑑賞中のどこかで気づいてほしい要素。たとえ見過ごしていたとしても、やがてはさくらと同じタイミング、南樽市場の前の橋で知ることになるだろう。その要素とは、荒川が同性愛者であり、同居人の五十嵐(若葉竜也)とパートナーの関係であること。映画後半は、同性愛者への偏見から発せられる心ない言葉(言葉の暴力と言ってもいい)が3人の物語を大きく変えていく。そうした性的マイノリティーに対する偏見と差別は90年代から2000年代にかけて徐々に減っていったと思われるが、たとえば2006年にはアカデミー賞で監督賞を含む3部門を受賞した「ブロークバック・マウンテン」が日本でも公開され話題になるといった画期的な出来事もあった。地方の町での同性愛者に対する偏見という意味でも、2000年代より90年代のほうがより説得力を持つという判断があっただろうと推測する。
・荒川が自身の性的傾向にいつ気づいたかは語られないが、自認してからはおそらく一人で悩み苦しみ、周囲に好きな男性ができてもたいていは打ち明けられないまま終わり、勇気を出して告白したのに拒絶されたこともきっとあったはず。若い頃にそうした思いをしたからこそ、タクヤについて「うらやましかったんだよ。ちゃんと恋してるっていうかさ」と五十嵐に吐露したのだろう。
・ローティーンの2人を支える役割も担った池松壮亮の演技は安定感と繊細さを兼ね備えていて実に見応えがある。特にラスト近くのキャッチボールの場面で、タクヤが捕れない球を投げてしまった後、「タクヤ、ごめん」と微妙に声を震わせた台詞が絶品。もちろん暴投のことだけではなく、タクヤの恋を応援するつもりで始めたアイスダンスが結果的にタクヤとさくらを傷つけてしまったことを詫びる気持ち、不意に沸き上がった感情の表れなのだろう。
・本作の“光”と“輝き”を担ったのは間違いなく、中西希亜良のフィギュアスケートのパフォーマンスと愛らしい表情だ。父親がフランス人で、フランス語、英語も話すマルチリンガルだそう。映画初出演作でカンヌデビューを果たしただけに、ぜひ国際派スターを目指して精進してほしい。フィギュアができること自体が大きな武器だし、高い身体能力はきっと活劇でのアクション演技にも応用がきくはず。今後の活躍に大いに期待する。
すごいリアルな映画
さくらの気持ちも理解は出来るけど、荒川が一番傷つく言葉言われてて凄い悲しくなった。あの時代設定なら当然とも言えるかもしれないけど、でも凄く現実味があって感情移入もしやすい凄く良い映画だと思う。
最後の解釈お任せって感じも好き。
美しい師弟関係の裏にある危うさ
優雅にスケートを滑る女の子(さくら)に憧れる、不器用な男の子(タクヤ)。タクヤにスケートを教えることに生きがいを感じるコーチ。そしてさくらはそのコーチにひそかに憧れる。3者が出会い、スケートに打ち込んだある冬のストーリー。
凍った湖で3人が練習するシーンが前半のクライマックスだ。3人の距離が縮まり、美しいシーンになればなるほど、何か不吉な予感が漂う。さくらが目撃したコーチのある行動に幻滅し、ついに3人は離れ離れになってしまう。
さくらがコーチに突きつける言葉(「お気に入りの男の子を踊らせていただけなのか。気持ち悪い」という主旨)には、コーチの恋人への嫉妬、タクヤとペアを組むことへの疑念など、色々な感情が入り混じっている。そこにはさくらのコーチへの(無自覚な)独占欲もうかがえる。そもそもコーチがタクヤとさくらにペアを組ませたことは、お気に入りの2人と一緒にいるためのエゴのようにも見える。
つまり師弟関係というものは美しければ美しいほど、そこには互いへの独占欲がある。これぞと思った子に熱を入れるからこそ互いの成長もあるのだが、危ういバランスのうえに成り立つ、いずれ終わりを迎える関係なのかもしれない。
可愛そうなのは、唯一独占欲や嫉妬と無縁なタクヤである。そのタクヤが最後にさくらに再会し、成長した姿で互いに向き合う(何か、背の高さも対等になっていた気がした)。師は去っていく運命にあるが、残された子どもは成長するという結末のように見えた。
弱い人がつながりあう一瞬の美しさとはかなさを描く作品だと思うが、さくらの背景や成長がもう少し示唆されていればもっと満足感が高かったかもしれない。
傷
メインキャラ3人それぞれが傷を追うけれど、それでも前を向いて生きていく。
監督はそういうことが伝えたかったのかなと思いました。
吃音のタクヤが主人公ですが、
家庭では同じ吃音の父親だけが味方。お兄ちゃんは当たりが強い。
学校でも、アイスホッケーでも、バカにしたような扱いを受けてすでに傷を負っているんですね。
で、池松壮亮演じる荒川の目につき、アイスダンスを教わることに。
アイスダンスの予選会でパートナーのさくらにすっぽかされ、さらに傷を負うわけです。
(タクヤはさくらが好きなのがわかった荒川が手を差し伸べているんですよね)
さくらは荒川が好きだけれども、荒川とそのパートナーである五十嵐が車の中で
仲良くしているのを見て、猛烈な嫌悪感を覚えるわけです。
そしてタクヤのことも好きなんだろうと荒川にぶつけ、しまいには「気持ちわるい」と言ってしまう。
そしてアイスダンスの予選会をすっぽかし、これらのことで傷を負ってしまうわけです。
若さゆえでしょうかね。
さらにこの物語の時代を考えても、LGBTQの理解は進んでいないものと予想できます。
荒川は、自分の性的嗜好によるものなのか、東京にいられず北海道にきて、またしても北海道から
出ていくことに。彼が平穏に暮らせる地はないのか?と思えるほどにせつないですね。
みんなが傷を負うなかでも、タクヤのさくらへの想いは最初から最後までブレない。
そういうエンディングかなと受け取りました。
最後にタクヤとさくらが出会うシーンで、ふたりともやわらかな表情をしているので、そう捉えましたね。
上述したような、登場人物の心の“傷”がとても印象的でしたし、
各ショットについても、日差しが印象的にうつしだされていて、終始映像にやわらかさ&あたたかみを感じました。
加えて、本作独特の“間”もこの映画の世界観をよりやわらかに、あたたかくしていたと思います。
それにしても、池松壮亮の演技の幅が広くて本当にすごいなと思います。
宮崎では本作よりも『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』が先に公開されましたので、その時の池松壮亮と
本作とのギャップに驚きました(笑)
さらにもうすぐ池松壮亮主演作『本心』も公開を控えていますが、こちらも楽しみです。
光の魔術師
北海道の田舎で、フィギュアに取り組む女の子とアイスホッケーからフィギュアに転向した運動神経がよくない年下の男の子が世界的フィギュア選手だった荒川から教えてもらい、少しずつ上達していく。
だが、そこには田舎のゲイカップルの閉塞感、小学生の女の子のゲイに対する偏見、吃音、などの要素が入ってくる。
大切な場面では余計な音も少なく光あふれる。それは心情も表しているし、瑞々しさも加わっていく。
どんでん返しだったり、爆発だったりのような大きなことは起きないが、全体的に抑え気味の声で淡々と話が進んでいくものの、引き込まれていく。さりげない会話の中で感情がさらっと読み寄れたりしてなんだか心地よい時間だった。
実は他の作品を見たいがためのつなぎの空き時間で鑑賞したものの、これも印象に残る作品になった。
まっすぐで、ちゃんと恋してる。追記︰光の魔術
ロケ地の白糠って何処だ?と思って北海道の地図を開いたら鵡川から襟裳までの日高本線がもう無いのに気付く。昔は日高本線に乗って静内や浦河の牧場を訪ねたのだが…。
あ、白糠は釧路のそばでした。
10月9日(水)
TOHOシネマズシャンテで「ぼくのお日さま」を。
(カレンダーが作られるほど)人気フィギュアスケーターだった荒川(池松壮亮)は、リンクの管理とフィギュアのコーチでさくら(中西希亜良)にスケートを教えている。
タクヤ(越山敬達)はあまり運動は得意ではないが、夏は野球、冬はホッケーをやっている。ホッケーの帰りにリンクを滑るさくらの姿に見惚れる。ホッケーのシューズでさくらのスピンを真似てみるが転倒ばかり。さくらを見つめるタクヤの視線に気が付いた荒川は転倒ばかりしているタクヤに家の荷物の中から自分が履いていたフィギュアのシューズを引っ張り出してタクヤに貸し、フィギュアの滑り方を教える。
滑れるようになってきたタクヤと、ちょっと頭打ちのさくらに二人で組んでアイスダンスをやる事を提案する。練習が進み二人の息が合って様になって来る。それを見ていたタクヤの友達から拍手が来る。
荒川は競技参加のための資格審査を受ける事を提案し、二人は練習を重ねる。
しかし、さくらは、荒川の別の姿をみてしまい失望し嫌悪し、資格審査の会場に来ない。タクヤのせいではないのだが。
三人はどうなるのか…。
1996年と言う舞台設定をもっとはっきりと出しても良かったのではないか。リンクの部屋のカレンダーとか荒川の使っているガラケーとかでは観客は認識出来ない。
この物語が1996年を舞台にしている事で今よりも男性がフィギュアスケートをやる事のハードルの高さ(ましてやアイスダンス)、同性愛に対する嫌悪感が高い事が強調されるのだ。
ちなみに高橋大輔がバンクーバーで銅メダルを取ったのが2010年、アイスダンスを始めるのが2019年、羽生結弦がソチで金メダルを取ったのが2014年である。
1972年札幌オリンピックのジャネット・リンが日本で大人気だった事などジジイじやないと知らないよね。フィギュアスケートといえば女子だったのだ。
この映画は暗い。タクヤの家の食事のシーンは節電中?と思う程である。家族が一緒にあんなに暗い中で食事はしないだろうと
思う。その他でも室内では暗いシーンが多い。これは明るいシーンとの対比のためでもあるのだが、暗すぎる。確かにリンクに差し込む陽光の中で滑るさくらは美しく撮れていたし、明るい抜けたシーンがラストには用意されていたけれど。
私は、「ぼく」はタクヤで「お日さま」はさくらだと思う。タクヤがさくらと一緒にいる時は陽がさしている。リンクで練習している時、荒川と3人で湖にスケートに行く時、そして、ラストでさくらと再会した時に最も明るい陽射しに包まれているのだから。
タクヤは、さくらに何と声をかけたのだろう。
タクヤの家の前の犬小屋にいる柴犬がかわいい。もっと見たかった。中西希亜良は今後注目だな。え、父親はフランス人!
追記︰光の魔術
あのリンクに差し込む陽光は自然の光だと思っていたらリンクの窓の数だけライトを用意して調光したものだった。おお、日本のサム・メンデスか。やられたな。
撮影は2年程前だったようで、舞台挨拶の写真だとタクヤの身長はさくらよりもかなり大きくなっている。二人のバランス的に映画の撮影が最高のタイミングで行なわれたと思った。
私も中学1年の時、1年で身長が10cm伸びたのを思い出した。
評価を4から4.5に変更します。
観て良かった
すごい良い映画。
優しい時間が流れてて、セリフは少ないけど気持ちが溢れてて伝わってくる。
スケートのシーンもすごく綺麗。
ただ、あんなに練習したのに披露できなかったのほほんとにもったいない。
素晴らしさある映画でした!
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと素晴らしさある映画でした!
今作の映画『ぼくのお日さま』は、きつ音の主人公・タクヤ(越山敬達さん)が、フィギュアスケートの練習をしているさくら(中西希亜良さん)にどこか憧れの眼差しを向けて、自分もフィギアスケートを見よう見まねで始め、それを見ていたさくらのコーチの荒川(池松壮亮さん)がタクヤをフィギュアスケートの世界に導くという物語です。
さくらはコーチの荒川に好意を持っているのですが、なぜコーチの荒川がその後にタクヤを熱心に教えているのか、さくらは初め疑問を持っています。
しかし、主人公・タクヤの次第に上達するスケートによって、さくらとスケートがシンクロして行き、さくらが初め荒川に抱いていたタクヤに対する疑問も乗り越えられ解消されて行きます。
そして主人公・タクヤとさくらとコーチの荒川の3人の関係性は、美しいスケートによってシンクロ的に良好になって行きます。
ところが、タクヤとさくらとのアイスダンスのバッジテストの直前に、さくらはコーチの荒川が五十嵐(若葉竜也さん)と荒川の車の中で親密にしている場面を見てしまいます。
そしてさくらは、荒川が同性愛者であることを認識し、荒川が同性を好んでいるからこそタクヤにフィギュアスケートを教え始めたのではないか、との当初の疑問の答えらしきものに行きつきます。
その結果、さくらは荒川に「気持ち悪い」と言って荒川から立ち去り、タクヤとのバッジテストにも行かないで、荒川とのコーチの関係も解消します。
なぜなら、さくらはこの時、コーチの荒川に抱いていた淡い恋心と、タクヤとの美しいスケートを通しての私心ない関係性を、同時に壊されたと感じてしまったと思われるからです。
荒川は、タクヤに真っすぐなさくらへのあこがれを感じ、そのタクヤの想いを守りたいと、タクヤをフィギュアスケートの練習に導いたことを、後に五十嵐に告白しています。
つまり、さくらの荒川へのタクヤに対する疑念は、実際は誤解でした。
しかしさくらはそれを知らないまま、荒川もコーチの職を失い、この地を立ち去ることになります。
主人公・タクヤも、さくらが(きつ音でもある)自分とスケートを一緒にするのが嫌だったのかな、との思いを、さくらが来なかったバッジテストの会場で口にします。
今作は、荒川が現役のフィギュアスケーターだった時の1994年のカレンダーが劇中で出て来ますが、おそらく映画の時代設定はそこから考えると2000年前後で、舞台は北海道だと推察されます。
この映画の作中では、2000年前後の設定でありながら、きつ音の主人公・タクヤは周りから受け入れられているように描かれています。
しかしながらこの時代は、荒川のような同性愛者に対しては、さくら含めて無理解が横行していたと映画の後半でも描かれていたと思われます。
その後、春になって主人公・タクヤは中学生になり、荒川はタクヤとのキャッチボールの後にこの街を去ります。
そしてタクヤは、久々にバッジテストに来なかったさくらと映画のラストシーンの路上で再会します。
もちろん直接のこの映画後半の顛末のトリガーは、荒川と五十嵐との関係を目撃したさくらが、誤解の上に荒川とタクヤに引いてしまっています。
しかしながら私には、2000年前後の時代の同性愛者に対する偏見の雰囲気の責任を、全て今作のさくらに負わせられないとも感じながら、映画を最後まで観ていました。
おそらく今作の奥山大史 監督もそう考えて、映画ラストシーンのタクヤとさくらとの互いの正面のカットバックは、最後にタクヤの表情からさくらには切り替わらず、タクヤの視線が2024年の現在に生きる観客である私達に向けられたカットのままで映画の本編は終わりを告げます。
この映画『ぼくのお日さま』は、前半は3人が作り出す美しいスケートによってちょっとした疑問は解消され芳醇で良好な3人の関係性を作り出していたのですが、後半の荒川の同性愛に関する疑念を解消させる美しい解決策に関しては、映画の中で示されないまま映画は終了してしまいます。
しかしながら、2000年代のこの映画の舞台では不可能だった後半の美しい解決策は、現在を生きる観客の私達であれば、映画の中のさくらに代わって(あるいは、さくらと共に)生み出すことが出来てタクヤたちに伝えられるのではないか、そのような可能性が現在の私達に期待されて映画は終わったと考えられます。
前半のやさしさと、後半の残酷さと、未来(現在)への希望が、この映画を優れた作品にしていると思われました。
劇的な展開がもう少しあればとも思われ今回の点数にはなりましたが、作風的にはこれで正解とも言え、やはり素晴らしい映画だったと、鑑賞後にも僭越思われました。
北海道の小さな街。 吃音をもつ少年タクヤ(越山敬達)は、あまりスポ...
北海道の小さな街。
吃音をもつ少年タクヤ(越山敬達)は、あまりスポーツが得意でない。
夏場の野球ではライトを守るが、ちょっとしたことに気を取られ、簡単なフライも捕球できない。
冬場はアイスホッケー。
ポジションは、チーム競技でのできない選手の定位置ゴールキーパー。
相手チームにどんどん得点を決められてしまう。
ホッケー試合後のある日、同じリンクでフィギュアスケートを練習する少女さくら(中西希亜良)の姿に魅了された。
のち、タクヤはホッケー用シューズでスピンの練習をするようになった。
さくらのコーチ・荒川(池松壮亮)はタクヤの健気な様子に思うところがあり、かつて使っていた自分のシューズをタクヤに貸与し、コーチをするようになり、結果、タクヤのスケーティングは格好がつくようになった。
さくらのシングルスケーターとしての壁を感じていた荒川は、タクヤとさくらを組ませてのアイスダンスに挑戦させることにした・・・
といった物語で、全編にドビュッシーの名曲『月の光』が流れ、タクヤやさくらのスケートを丁寧に撮った好感の持てる映画。
主題からみると、タクヤの吃音はうまく心を伝えられないことのモチーフであり、アイスダンスは、何事も一人ではできないことを表していると思われる。
淡いトーンの映像も好感の持てる作品なのだが、一言に「良い」といえないもどかしさを感じる映画でもあり、原因を探ると、少年少女に加えて、コーチの荒川の描写が多すぎるのかもしれない。
コーチの同性愛設定は、ほぼ不要。
(ただし、そうすると、思春期前半のさくらの異性に対する感情を表すのに、もうひとつ工夫が必要になってくるのだが)
思春期前期の少年少女の成長物語としては、ラスト、しばらく不通だったタクヤとさくらの再会、タクヤにはさくらに吃音なく挨拶する描写がほしいところだが、そうするとちょっと嘘くさくもなるかもしれず、さらに「吃音なく」に至る設定や工夫が必要となってくるので、それも映画としては雑味になるかもしれない。
ということでかなりの夾雑物を取り払って物語を組み立てる上での荒川コーチの設定か・・・
と納得する。
鑑賞後、思い出したことがふたつ。
ひとつは個人的なことで、冒頭の飛球を捕れない少年は自分だぁと思い、アイスホッケーでゴールキーパーをやらされるのは、サッカーでキーパーやらされてた自分を思い出すわけで。
当時、器械体操はできて、走力などはあったので、体育の評価は悪くなかったが、アイスダンスみたいなペア競技はなかったなぁ、あれば、どうだったんだろうか、と。
もうひとつは、映画的記憶。
少女のアイススケート映画といえば『時計 Adieu l'Hiver』。
主役少女の、まさにドキュメント、成長記録の一部=アイススケートが用いられていた。
ゆえにあまり上手くならなかったのだが、本作では「タクヤもさくらもスケート上手いなぁ」と思った。
『時計~』も、大人の夾雑物的エピソードが多かったなぁ、とも。
と、いくつか思うところはあるけれど、好感の持てる映画でした。
映画館にいるのに空気が美味しいなって
映画館にいるのに空気が美味しいなって感じました.こんな愉快な経験初めてです.
タクヤ,さくら,荒川の3人が凍った池で踊っている場面,純粋に楽しむことを思い出させてくれました.
タクヤの友達のコウセイは良い子です.そしてタクヤとさくらのアイスダンスを通しで見ることができたラッキーボーイです.荒川がタクヤとさくらのアイスダンスを通しで見た場面がなかったのが気がかりです.見れたのでしょうか.
おそらくタクヤは面白い子なんだろうなっていうのが荒川とのレッスンでのやりとりで回見えました.だからコウセイはそんなタクヤの本質を見抜いて友達になっているのかもしれないな.
私はさくらが報われてほしいって思いました.荒川があの地に居られなくなった原因を作った張本人ですが,さくらは色々と我慢してきていたと思います.荒川の前でダブルアクセルの練習をしているのに,荒川の目線の先はタクヤだったし,なんならタクヤにシューズを貸して,無料でレッスンしてあげて,挙句の果てにはタクヤとアイスダンスのペアを組まされて.私がさくらだったらかなり堪えるな.そしてとどめの荒川と五十嵐のツーショットを見てしまったらそう考えるし,そういう行動を取ってしまうのも頷けます.これは,別に荒川が同性愛者だったから,その嫌悪感でさくらは行動したのではないと思います.タクヤが女子で,荒川が同性愛者だったとしても,はたまた,タクヤが男子で荒川が異性愛者だったとしても,さくらが感じた荒川が他の子に興味を持つことに対する嫉妬は同じだったと思います.
荒川はタクヤを恋愛対象で見ていないと思います.ただ,真っ直ぐに恋愛していて羨ましいなと思っただけなのではないでしょうか.もちろん,綺麗な顔した男の子だから目に留まったのかもしれませんが,それはきっかけに過ぎないのではないでしょうか.タクヤはさくらしか見ていなかったし,さくらのためにフィギュアスケートをしていたのですから.それを助けてあげたいと思ったのではないでしょうか.さくらからしてみればタクヤからの一方的な恋愛感情なんてほんと迷惑だっただろうなと思います.アイスダンスの練習で周りからの冷やかしとか,やめてほしかっただろうな,とか考えてしまいます.
この話は淡い三角関係が描かれていますが,他者からの一方的な好意は一種の暴力になり得ること,これは大人も子供も関係ないことなんだと思います.
最後,タクヤの口からは「久しぶり」みたいな言葉が出れば良いなと思います.タクヤはさくらに裏切られたけれど,さくらはタクヤ以上に犠牲にしてきたものが多いと思う.だからあれはお互い様だったんだよって.
お日さまの陽
氷上を舞うさくらの姿を食い入るように見つめるたくや。彼は恋をしていた。さくらに、そしてスケートに。そのまっすぐな彼の思いに触発されたコーチの荒川は無償でたくやにスケートを教える。
自分がスケートを習い始めた時のこと、滑るのが楽しくて夢中で練習したこと、練習すればするほど上達していくことに喜びを感じたこと、淡い初恋をした時のこと。荒川にとってはたくやとの出会いは過去の自分との邂逅であった。自分がかつて味わった人生での楽しい思い出を今まさにそれを感じているたくやとともに味わうことができた。普段はクールな彼がたくやとともに無邪気な笑顔を見せる。
たくやにとって荒川がお日さまであるように、荒川にとってもたくやはお日さまだった。
事務的にしていたさくらへのコーチングもたくやとのペアダンス習得に向けたことで充実したものとなり、戸惑いを隠せなかったさくらも次第にも打ち解けてやがて三人の心は一つになった。しかしペアダンス試験直前にさくらは恋人と過ごす荒川の姿を見てしまう。荒川に淡い恋心を抱いていたのか、まだ幼いさくらにとってはその恋人の存在は受け入れられないものだった。彼女はペアダンスをやめてしまう。
コーチの仕事を失い恋人とも別れて街を去る荒川。中学生になったたくやと別れのキャッチボールをする。
性的マイノリティや吃音症にとってはまだまだこの世は冬の時代。でもいずれは雪解けの時が必ず訪れる。お日さまは差別しないからお日さまの陽はたくやにも荒川にも分け隔てなく降り注ぐ。そして彼らにもやがて本当の春が訪れる。闇の中で月の光を浴びていた彼らにも陽の光を浴びる時がきっと訪れるだろう。
お日さまのタイトル通り練習場にさすやわらかで暖かみのある陽の光がとても印象的であり、まさにその陽の光に包まれたかのような暖かい気持ちにさせられる。
性的マイノリティや障害者の問題をあまり前面には出さず、さりげなく観客に訴えかける演出もお見事。
主演を演じた三人の役者さんたちもとても素晴らしかった。話題通りの素晴らしい作品。
雪どけ
評判の高さと公開前に流れていた鑑賞中のマナー映像が癒しすぎて超楽しみにしていました。
先日は血みどろの池松壮亮でしたが今作ではのほほんとした池松壮亮を楽しめるだなんてなんてお得なんだと勝手に1人で興奮していました。
ところが蓋を開けてみれば良い映画ではあるけど…思っていたものと違うと何度も引っかかてしまうところがあり、好みの合う合わないがはっきり分かれた作品だなぁと思いました。
序盤は雪国で過ごす子供達の淡い恋模様が描かれ、とてもウブな感じが良かったですし、色々なところにある優しさが映像も相まって沁みる仕上がりになっていました。
ただ途中から平成初期というLGBTなんて言葉がなかったような時代に生きる人々の無意識的な差別が生まれて関係性が崩れていくという思っていたものとは全然違う方向へ進んでいくのはどーにもモヤモヤしました。
年齢や年代は違えど今作と近しいテイストの作品があって、「先輩はおとこのこ」という作品でも同性愛を拒絶する人物の描写があって、今作ではさくらの年齢が年齢なので先生を突き放すだけだったり、親がやんわりと断りを入れたりと時代背景的にまだ同性愛が変わりものに見られていたとはいえやんわりすぎるなと思ったところが「先輩はおとこのこ」では拒絶する理由が本当に明確に描かれていて、それに対しての決着も描けるところまで描いていたので同時期に近いジャンルで秀でた描き方をしていたのがどうにも比較対象になってしまいました。
意地悪な見方になってしまうのですが、ゲイという事が責められるのであれば、少し前なら吃音も笑われてしまうのでは?と思ってしまいましたし、変に引きのショットになったのに何も起こらなかったのは違和感がありました。
ラストシーンで再会した2人が見つめ合って何かを言いそうでスパッと終わる感じはとても好きでした。
観ている側の想像に投げるのではなく委ねる感じの終わり方は受け取り手によってますます物語が広がっていくのでアニメでは多い手法ですが実写ではあまりない手法なので新鮮でした。
シンプルな恋の始まりの物語だけでも成立しそうなお話だっただけにちょっと要素盛り込みすぎたかなぁと思いました。
絵作りはとても綺麗ですし、役者陣の魅力を引き出すという事はできていたので次回作に期待したいです。
LGBTを絡めずに映画はできないものか…。
鑑賞日 9/30
鑑賞時間 18:35〜20:10
座席 C-12
これは凄い作品だ
いやぁこれは凄い作品でした。
北海道の田舎町が舞台の作品。時代背景としては平成初期というところでしょうか。
フィギュアスケートの上手な女子中学生さくらと、それに憧れる吃音の小学生タクヤ、そしてそれを見守る荒川の3人のストーリー。
美しい北海道の景色がとても印象的な映画でしたが、ストーリーは懐かしく、美しく、でもとても残酷でした。
多様性が今ほど無く、男の子らしい/女の子らしい習い事というのが、自然とあった時代でしたね。
年齢も志向も異なる3人の三角関係を美しく描いた作品でした。三角関係といっても決してありきたりな恋愛ではなく、神々しい存在への憧れ、歳上男性への漠然とした憧れ、自分が叶えられない青春時代を送る2人への憧れが描かれていて、北海道の冬の透き通った空気と相待って、本当に美しい作品。
終盤は本当に残酷でした。アイスダンス会場にさくらが来ることは無く、自分が受け入れられないことを悟った荒川は、恋人も仕事も失い、この町を後にしました。
本当はとても悔しくて悲しかっただろうに、それをタクヤには決してぶつけず、2人の幸せを祈っていたようでした。
あれから約30年、性的マイノリティの方にとって当時よりは住みやすい世の中になったでしょうか。一方で、SNS等に縛られ、子供にとってはもしかしたら窮屈な世の中になったかもしれません。
中学生になったタクヤ、道で会ったさくらに、何を話し掛けるでしょうか。観客の想像に任せるラストシーンが本当に印象深い作品でした。
青春というのは残酷で苦しく、でも本当に美しい思い出なのですね。
このような素晴らしい映画は本当に久し振りでした。映画館で観れて本当に幸せでした。
キラキラ青春
雪の降る田舎町
リンクを駆ける少年と美しく舞う少女
淡い恋心と突きつけられた現実も醜い嫉妬
全てがキラキラと輝いて眩しい青春。
視線の向こう側に気がつくのは、やはり少女
恋する乙女はひとつひとつの所作に敏感だ。
それも含めて初々しくもあり、
純粋さ故の容赦ない言葉さえ可愛くもある。
演技デビューとは思えない堂々たる存在感の
中西希亜良
演技と言うより自然体過ぎて愛らしさ爆発の
越山敬達
こんな新人ふたりのこれからが楽しみ。
それにしても池松壮亮ってスケコマシならぬ
ヒトコマシ(そんな言葉ある??(笑))じゃないですか?(笑)
あの喋り方、声、醸し出すオーラ。
人を惹きつける魅力、色気がダダ漏れ。
スケート初ってのもすごい。←語彙力(苦笑)
若葉竜也とのシーンがもっと欲しかった。
眩
作中で説明が無くとも、各登場人物の表情や画面の光によってそれぞれの感情が鋭いほど伝わる映画だった。
「さくらのスケートに視線を奪われたたくや」
「スケートが上達して喜ぶたくやと先生」
「初めてペアの姿勢になった時の恥ずかしいたくやとそれに微笑むさくら 」
「湖の上で笑顔でいる3人」
それ以外にも全ての描写が真っ直ぐに感情を伝えてくれて、眩しくて、涙が出た。
前半での3人が楽しく笑顔でいる場面とは反対に、後半では突然現れる終わりに、誰も何も悪くないからこそ誰のせいにも出来ないもどかしさと、ずっとあの笑顔を見ていたかった悲しさが止まらなかった。
先生の恋人の「俺にはここしかないけど、ここにいていいの?」といった言葉は先生のことを想う優しさに溢れていたし、スケート選手という華々しい過去を持つ彼の未来を案じていたのだろう。
他の人も言っていたが、これはハッピーエンドとは言えない。 いつかくる終わりが早く来すぎてしまっただけである。
彼女は先生に恋をしていたのかもしれない、作中に何度か先生を目で追いかけたり、たくやを見ている先生に自分を見て欲しそうにしていた。
いやただ単純に、3人でいるのが好きだったのかもしれない。さくらが何を感じていたのかはさくらにしか分からない。
しかし、偶然見てしまった同性の恋人に見せる先生をしている時とは別の表情は、彼女が先生に対して抱いていた感情を拒絶や混乱に変化させるのに十分過ぎてしまったのだろう。
たくやとさくらの人生の中で一瞬しかない貴重な思春期に起こった 「3人でいた冬」は彼らの成長の糧となる。
彼らがまた共にリンクで滑っていたらいいな 先生の優しい眼差しと一緒に。
ずっと綺麗で暖かくて光に包まれた眩しい作品だった。
目線と表情と、吃音
まず第一印象としては、抜群の雪景色と雪解け後の自然豊かな田舎風景、スケートリンクとスケーターの華麗さ、男の子の淡い恋、どのシーンも最高に絵になるし、たいへん綺麗でした。
ただ、綺麗という一言ではこの映画を全くもってまとめきれない、繊細で、非常に奥深い、見応えのある映画でした。
この映画はセリフよりも「目線や表情」で観客に強く語りかけてくる作品でした。
まず、この映画の時代設定はおそらく、スマホではなくガラケーである事や、ブラウン管のテレビやカセットテープが使われている事、荒川がスケーターの頃の写真を収めたカレンダーが1993年となっていた事や小学校のクラスの後ろの壁にあった皆んなの書き初めが「税金」であった事から、消費税が3%から5%に上がった97年ごろではないかと考えられる。(追記、荒川と五十嵐が食事してる場面、荒川とさくらの母親が事務室で話し合っている場面の後ろに写っていたカレンダーから95〜96年の出来事だと概ねの予想がついた。
追記、インタビューで2001年ごろの設定と仰っていました。)
この時代設定が物語後半に於いて非常に巧く機能する。
物語前半は、タクヤがリンク際で、ふと顔を見上げだ先にいた、さくらに目が止まる。その瞬間、タクヤの目にはさくら以外の人が見えなくなり、幻想的な光が射し、華麗なスケート姿に目が釘付けになり、絵に描いたような一目惚れをする。
そして次に、個人的には最も深く印象に残った、タクヤが初めてスケート教室に体験?(追記、体験ではなく、アイスダンスとホッケーの合同練習だったと考えられる)に来たシーンである。
荒川はコーヒー片手にタクヤを気にかける様子で見て、タクヤは、周りは滑っているなか棒立ちで、まさに目を奪われた状態で呆然と、たださくらだけを見つめる。そして、さくらは練習の最後の決めポーズをして、荒川がこっちを見てくれていると期待しながら振り向くと全く違う方向に顔を向けている事が分かり、落胆した様子で肩を落とし、観客に背中を向け、みんなが滑っている輪の中に加わろうとする。
荒川はタクヤを見つめ、タクヤはさくらに見惚れ、さくらは荒川を見るという視点の切り替えが非常にスムーズで見事なまでに綺麗で、あのワンシーンで三人の関係性を一瞬にして示した圧巻のシーンであった。
また、荒川は後々に真相が分かるが、上記のシーンでさくらの練習中にも関わらず、タクヤの方ばかり見る。
また、教室が終わってもなお一人で残り、必死に練習しているタクヤを遠目から柔らかな笑顔を浮かべながら眺める。
さくらに関しては、序盤に荒川と母親が話している様子を車のサイドミラー越しに荒川だけを見つめる。それも母親が車に乗ってくるまでずっとである。また、湖での練習を終え車で帰る際に、喋りかける事もないのに荒川の運転している横顔を少し見る。そして街中で荒川の車を見つけ、若干の笑みを溢しながら小走りで駆け寄ろうとする。
これらのシーンから、さくらは確実的な好意が含まれている感情を荒川に抱いているのは十分に伝わってくる。
上記のようにセリフが無くとも、三人の関係性が視点と表情だけで見事に表現され、素晴らしい演出の数々を写してくれた。
そして後半、さくらは荒川が同性愛者だと知るところで物語の大きな転換点を迎える。
これもまた、うまい演出で物語序盤から中盤まで、荒川と五十嵐の仲は恋仲であるかは確定的ではなかった。所々匂ってはくるのだが、めっちゃ仲の良い友達、もしくは兄弟や親戚とルームシェアしている、という線も捨てきれずにいた。
ただあの車内での、頬を触ったり、アイスの分け方は完全な恋人同士のイチャつきで、恋仲である事が確定的になる。(ただ、観客はダブルベットであることや、ベランダのシーンで五十嵐が荒川の肩に顎を乗せ、タバコを一服欲しがるシーンでほぼ確定的にはなるのだが)
荒川が同性愛者だと分かったさくらは、時代的な意味でもショックが大きかった事を想像するのは難しくない。
「時代的な意味でもショック」と言うのは、決して差別的な意味では無く、LGBTQの認知が広がったのは(体感であるが)ここ10年くらいの出来事ではないかと思う。
人は往々にして理解、認知の及ばない事柄は、歴史の流れからも分かる通り拒絶、排除してしまうモノであると思う。
だから96年〜97年当時のLGBTQに対しても、現在ほどの理解や認知が及ばなかったのではないかと思う。(当時を生きていた訳ではないため、見当違いでしたらすいません)
また逆にさくらの視点で荒川を見ると、前半のシーンにあった練習の最後の決めポーズも見てくれず、やけにジャンプやらスケーティングなどのエコ贔屓に近い扱いを新入りの男の子にしており、荒川からの提案で急に入ってきた初心者の男の子とペアを組まされ、荒川達がイチャついてた車が自分の目の前を通った直後のシーンで、荒川とタクヤが並んでストレッチしている姿を眺める場面へと至る。
眺める場面までの出来事を組み立てると「女のスポーツを男にやらせて楽しんでるんですか?気持ち悪い」と邪な発言ではあるが、さくらが拒絶してしまう事は分からなくはない。その発言が「良いか」「悪いか」ということは置いといて、その考えに至るのは「仕方がなかった」のではないかと、情報を少ないながらもしっかりと絶妙に描かれていた。
少し脱線するが、それら行為を現在の価値観と擦り合わせて、私たちの物差しで、さくらは「加害者」ではあるかもしれないが、「差別する者」と位置付け非難してしまうのはやや傲慢な気がしてしまう。
さくらが荒川へ抱いた考えは否定しないが、ただ発言するという行為自体は、もちろん全くもって肯定出来ない。むしろ強く否定していかなければならない。それは過去から先人達が学び現在までに繁栄しくれた、または教育してくれた賜物であるし、感謝すべき事だとも言える。
そして自分は純粋に少年の恋を応援していただけだと思っていたが、さくら側から見るとそう見えてしまっていた、かもしれないという疑惑からの先の発言に答えるかのように、荒川は「羨ましかったんだ。ちゃんと恋してるのが」と吐露する。
荒川の言う「ちゃんとした恋」は今まで出来てこなかったであろうし、もし荒川がタクヤぐらいの年齢であったなら、同性愛はまず周りからは受け入れられなかったであろう。下手したらいじめなどの排除の対象にもなっていたかもしれない。だから「ちゃんとした恋」をしているタクヤを羨ましいと言った気持ちも理解できる。
それをあの短い一言のセリフと物悲しい表情で表していたのは圧巻の他言いようがない。
またタクヤとのキャチボールのシーンで「タクヤ、ごめん」と若干の涙目と声を震わせながら言う。その発言でボールのことも含まれているが、これまでの行いに対しての謝罪だと一発で分かる。あそこに池松さんの俳優としての凄さが十分に感じ取れた。
また、荒川がドライブする何気ないシーンにも音楽がかかるのに、前半で印象的だった各々の視線がすれ違うシーンと物語の転換点である車内でのシーンは音楽がかからずに、この映画の中でもたいへん際立った場面へと、より昇華していたのではないだろうか。
また、逆にこの映画の純粋性が最も高められていた、湖での練習のシーンは「going out of my head (君に夢中)」という曲が鳴り響き、周りの音は一切しない。
緩急が凄すぎる。度肝抜かれた。脱帽。
また瑣末な事ではあるが、登場人物の映画の本筋とは関係ない些細なセリフが良い。
食事中に母が「タクヤ、左手」と注意した事や、ガソスタで「社長」と声をかけ、「うぜぇーw」と返した所、車内で肉まんを食べる時に「いただきマンモス」と言って肉まんを頬張った場面。どれも似たような事を言われた事もあるし、言った事もある。
セリフが説明的では無く、演技してる役者と言うよりも、普段いる人間を写しているかのような気がして素晴らしかった。
ただ少々分からない点もあり、タクヤの父親も吃音を抱えていた事。これに関しては意図がよく分からなかったうえに、必要性も感じなかった。誰かこの意図が分かる方がいたら教えて頂きたい。
また、後半は主に荒川を軸にした物語なのに、結末はエンディングの歌もあいまってタクヤの吃音に軽く戻り帰結する事。荒川を軸にしたまま、船の上での汽笛を聞きながら終わるというエンディングでもよかったのではないかと少々感じた。(もちろん今作でのエンディング、春のあたたかな風景と、タクヤがさくらに何か言いそうな場面で終わるのも、最高によかった)
まぁでもこれまで書いた通りに、卓越した脚本と演出、自然なセリフと演技とで、たいへん素晴らしい見応えのある最高の映画でした!!
追記、パンフレットが非常に可愛らくて、素敵です。ぜひ買う事をおすすめします!
以下、この映画と自分の事を多分に踏まえて書いています。
首を上下にリズムを取りながら発話したり、言葉の一音目を連発した後、一音目を伸ばしながら言葉を発したり、一音目が出た後は割とスラスラと言葉が出たりとタクヤの吃音の演技が大変素晴らしかったです。
僕自身、幼い頃から吃音を抱えていまして、今はだいぶマシにはなったのですが、まだ発音しにくい行があったり、人の目を強く意識してしまうと吃音が出てしまったりと日々苦労しています。
これは吃音症あるあるだと思うのですが、人と喋る時は発音しやすい言葉を選んだり、タイミングや抑揚を付けながら話したり、また発音を手助けしてくれるルーティンにも近いような動作をしながら喋ったりと、割と自由度が高くまだマシになるのですが、それらを全て制限されてしまう音読の時間は本当に苦痛でしかありませんでした。そして、音読のシーンの周りの反応がリアルでした。小学校低学年の時は笑われるんです。ただ、小学校高学年くらいからは周りも理解、または慣れからか、笑われなくなるんです。むしろやけに静かになって、危険物を扱うかのように教室全体の緊張感が増すんです。
それをタクヤが音読をしている姿のアップから、小さな笑い声も一切ない静かな教室を引いて写すという形でしっかりと表現されていて非常にうまいなと感じると同時に、当時のトラウマ的記憶も蘇り、昔の自分と完璧に重なって辛くなってしまいました。
また、吃音持ちとして印象深いシーンがあります。
それは、荒川とタクヤが初めてちゃんと会話をした、スケート靴を貸した時です。
「あげるんじゃないよ、貸すんだよ」とスケート靴を差し出し「使い方分かる?」と聞いた後に、吃りながら「ホッケーの靴と似てるから」とタクヤが答えます。
僕自身の経験上、その後の返しは吃音を気遣うような「大丈夫?」とか「そんな緊張しなくて良いよ」「ゆっくりで大丈夫」などの声がかかります。
僕としては、そのような反応は相手から自分への最大の配慮がなされていてありがたいのですが、おこがましいことに、やっぱり「自分の喋り方は変で、気を遣わせてしまうよね」と自覚してしまう瞬間でもあるのです。
それを荒川は特に触れずに(時代や認知度の低さから初めて吃音症に接したかもしれないという状況の中で)何かを悟ったような顔とコンマ数秒の間をおいて、受け入れるかのように「そうだね」とだけ返します。
そこの場面で、荒川という人となり、受容度の高さが垣間見れる非常に優しい良質なシーンでした。
上記のように、友達やコーチなどの登場人物が特に吃音に触れる事もなく、逆に過干渉的な行動や哀れみの目を向ける事もなく、また制作側の健全に話せる人達のエゴ的な偽善や、タクヤに何か成し遂げさせて美談に仕上げ商業的に消費するような事もせず、ただ淡々と吃音を抱えるタクヤを映していたのが、会話をしていてつっかえた時に待っていてくれた、自分が言いたい言葉を察してリードして少し言葉を言ってくれた理解ある友人の様な安心感というか、そっと寄り添ってくれ、ただ肯定して、励まされた気がして嬉しい気持ちになれました。
だからこの映画を作ってくれたことに感謝を申し上げたいです。
ありがとうございました。
ハンバートハンバート
元々ハンバートハンバートが好きで、
この「ぼくのお日さま」も、
コピーとかカラオケとか歌ってました🎤
「虎」「横顔しか知らない」
とかも良い曲だし、
往年のヒット曲をアコースティックでカバーしてる曲も多数あり、米米クラブ「浪漫飛行」大江千里「格好悪いふられ方」などもお勧めなので、是非聞いてみて下さい🙏
今の人たち、大江千里なんて知らんだろうなあ💦
あ、映画の話😅
タクヤとサクラがぎこちないダンスから、
コーチが居なくても2人で練習する所、
そこで拍手するタクヤの友だち、
あそこからずっとウルウル🥹
凍った池での3人の練習?戯れ?
あんな多幸感溢れる映像は
間違いなく今年一番👍😭
確かに敏感な思春期だと、
男同士のイチャイチャは受け入れられないだろう。
でもサクラは、タクヤの事は悪く思ってないだろう。
ラストは色んな事思わせる。
やられたー😱
サクラ演じた中西さんは、
今後本当の競技の方でも出てきそうな技術と、
抜群のビジュアル😍
タクヤは偶に女の子にも見える位だから、
女子人気出るだろうな👌
池松の配役は抜群👍
元フィギュアの選手っぽい。
若葉がまさか出てるとは意外でした😳
でも適役でした。
冒頭の話含め、
真っ先に観ようと思ってたのに、
上映回数が少ない❗️💢
「ス○○」とか減らしてもっとやって❗️
全62件中、1~20件目を表示