「目線と表情と、吃音」ぼくのお日さま オニオンスープさんの映画レビュー(感想・評価)
目線と表情と、吃音
まず第一印象としては、抜群の雪景色と雪解け後の自然豊かな田舎風景、スケートリンクとスケーターの華麗さ、男の子の淡い恋、どのシーンも最高に絵になるし、たいへん綺麗でした。
ただ、綺麗という一言ではこの映画を全くもってまとめきれない、繊細で、非常に奥深い、見応えのある映画でした。
この映画はセリフよりも「目線や表情」で観客に強く語りかけてくる作品でした。
まず、この映画の時代設定はおそらく、スマホではなくガラケーである事や、ブラウン管のテレビやカセットテープが使われている事、荒川がスケーターの頃の写真を収めたカレンダーが1993年となっていた事や小学校のクラスの後ろの壁にあった皆んなの書き初めが「税金」であった事から、消費税が3%から5%に上がった97年ごろではないかと考えられる。(追記、荒川と五十嵐が食事してる場面、荒川とさくらの母親が事務室で話し合っている場面の後ろに写っていたカレンダーから95〜96年の出来事だと概ねの予想がついた。
追記、インタビューで2001年ごろの設定と仰っていました。)
この時代設定が物語後半に於いて非常に巧く機能する。
物語前半は、タクヤがリンク際で、ふと顔を見上げだ先にいた、さくらに目が止まる。その瞬間、タクヤの目にはさくら以外の人が見えなくなり、幻想的な光が射し、華麗なスケート姿に目が釘付けになり、絵に描いたような一目惚れをする。
そして次に、個人的には最も深く印象に残った、タクヤが初めてスケート教室に体験?(追記、体験ではなく、アイスダンスとホッケーの合同練習だったと考えられる)に来たシーンである。
荒川はコーヒー片手にタクヤを気にかける様子で見て、タクヤは、周りは滑っているなか棒立ちで、まさに目を奪われた状態で呆然と、たださくらだけを見つめる。そして、さくらは練習の最後の決めポーズをして、荒川がこっちを見てくれていると期待しながら振り向くと全く違う方向に顔を向けている事が分かり、落胆した様子で肩を落とし、観客に背中を向け、みんなが滑っている輪の中に加わろうとする。
荒川はタクヤを見つめ、タクヤはさくらに見惚れ、さくらは荒川を見るという視点の切り替えが非常にスムーズで見事なまでに綺麗で、あのワンシーンで三人の関係性を一瞬にして示した圧巻のシーンであった。
また、荒川は後々に真相が分かるが、上記のシーンでさくらの練習中にも関わらず、タクヤの方ばかり見る。
また、教室が終わってもなお一人で残り、必死に練習しているタクヤを遠目から柔らかな笑顔を浮かべながら眺める。
さくらに関しては、序盤に荒川と母親が話している様子を車のサイドミラー越しに荒川だけを見つめる。それも母親が車に乗ってくるまでずっとである。また、湖での練習を終え車で帰る際に、喋りかける事もないのに荒川の運転している横顔を少し見る。そして街中で荒川の車を見つけ、若干の笑みを溢しながら小走りで駆け寄ろうとする。
これらのシーンから、さくらは確実的な好意が含まれている感情を荒川に抱いているのは十分に伝わってくる。
上記のようにセリフが無くとも、三人の関係性が視点と表情だけで見事に表現され、素晴らしい演出の数々を写してくれた。
そして後半、さくらは荒川が同性愛者だと知るところで物語の大きな転換点を迎える。
これもまた、うまい演出で物語序盤から中盤まで、荒川と五十嵐の仲は恋仲であるかは確定的ではなかった。所々匂ってはくるのだが、めっちゃ仲の良い友達、もしくは兄弟や親戚とルームシェアしている、という線も捨てきれずにいた。
ただあの車内での、頬を触ったり、アイスの分け方は完全な恋人同士のイチャつきで、恋仲である事が確定的になる。(ただ、観客はダブルベットであることや、ベランダのシーンで五十嵐が荒川の肩に顎を乗せ、タバコを一服欲しがるシーンでほぼ確定的にはなるのだが)
荒川が同性愛者だと分かったさくらは、時代的な意味でもショックが大きかった事を想像するのは難しくない。
「時代的な意味でもショック」と言うのは、決して差別的な意味では無く、LGBTQの認知が広がったのは(体感であるが)ここ10年くらいの出来事ではないかと思う。
人は往々にして理解、認知の及ばない事柄は、歴史の流れからも分かる通り拒絶、排除してしまうモノであると思う。
だから96年〜97年当時のLGBTQに対しても、現在ほどの理解や認知が及ばなかったのではないかと思う。(当時を生きていた訳ではないため、見当違いでしたらすいません)
また逆にさくらの視点で荒川を見ると、前半のシーンにあった練習の最後の決めポーズも見てくれず、やけにジャンプやらスケーティングなどのエコ贔屓に近い扱いを新入りの男の子にしており、荒川からの提案で急に入ってきた初心者の男の子とペアを組まされ、荒川達がイチャついてた車が自分の目の前を通った直後のシーンで、荒川とタクヤが並んでストレッチしている姿を眺める場面へと至る。
眺める場面までの出来事を組み立てると「女のスポーツを男にやらせて楽しんでるんですか?気持ち悪い」と邪な発言ではあるが、さくらが拒絶してしまう事は分からなくはない。その発言が「良いか」「悪いか」ということは置いといて、その考えに至るのは「仕方がなかった」のではないかと、情報を少ないながらもしっかりと絶妙に描かれていた。
少し脱線するが、それら行為を現在の価値観と擦り合わせて、私たちの物差しで、さくらは「加害者」ではあるかもしれないが、「差別する者」と位置付け非難してしまうのはやや傲慢な気がしてしまう。
さくらが荒川へ抱いた考えは否定しないが、ただ発言するという行為自体は、もちろん全くもって肯定出来ない。むしろ強く否定していかなければならない。それは過去から先人達が学び現在までに繁栄しくれた、または教育してくれた賜物であるし、感謝すべき事だとも言える。
そして自分は純粋に少年の恋を応援していただけだと思っていたが、さくら側から見るとそう見えてしまっていた、かもしれないという疑惑からの先の発言に答えるかのように、荒川は「羨ましかったんだ。ちゃんと恋してるのが」と吐露する。
荒川の言う「ちゃんとした恋」は今まで出来てこなかったであろうし、もし荒川がタクヤぐらいの年齢であったなら、同性愛はまず周りからは受け入れられなかったであろう。下手したらいじめなどの排除の対象にもなっていたかもしれない。だから「ちゃんとした恋」をしているタクヤを羨ましいと言った気持ちも理解できる。
それをあの短い一言のセリフと物悲しい表情で表していたのは圧巻の他言いようがない。
またタクヤとのキャチボールのシーンで「タクヤ、ごめん」と若干の涙目と声を震わせながら言う。その発言でボールのことも含まれているが、これまでの行いに対しての謝罪だと一発で分かる。あそこに池松さんの俳優としての凄さが十分に感じ取れた。
また、荒川がドライブする何気ないシーンにも音楽がかかるのに、前半で印象的だった各々の視線がすれ違うシーンと物語の転換点である車内でのシーンは音楽がかからずに、この映画の中でもたいへん際立った場面へと、より昇華していたのではないだろうか。
また、逆にこの映画の純粋性が最も高められていた、湖での練習のシーンは「going out of my head (君に夢中)」という曲が鳴り響き、周りの音は一切しない。
緩急が凄すぎる。度肝抜かれた。脱帽。
また瑣末な事ではあるが、登場人物の映画の本筋とは関係ない些細なセリフが良い。
食事中に母が「タクヤ、左手」と注意した事や、ガソスタで「社長」と声をかけ、「うぜぇーw」と返した所、車内で肉まんを食べる時に「いただきマンモス」と言って肉まんを頬張った場面。どれも似たような事を言われた事もあるし、言った事もある。
セリフが説明的では無く、演技してる役者と言うよりも、普段いる人間を写しているかのような気がして素晴らしかった。
ただ少々分からない点もあり、タクヤの父親も吃音を抱えていた事。これに関しては意図がよく分からなかったうえに、必要性も感じなかった。誰かこの意図が分かる方がいたら教えて頂きたい。
また、後半は主に荒川を軸にした物語なのに、結末はエンディングの歌もあいまってタクヤの吃音に軽く戻り帰結する事。荒川を軸にしたまま、船の上での汽笛を聞きながら終わるというエンディングでもよかったのではないかと少々感じた。(もちろん今作でのエンディング、春のあたたかな風景と、タクヤがさくらに何か言いそうな場面で終わるのも、最高によかった)
まぁでもこれまで書いた通りに、卓越した脚本と演出、自然なセリフと演技とで、たいへん素晴らしい見応えのある最高の映画でした!!
追記、パンフレットが非常に可愛らくて、素敵です。ぜひ買う事をおすすめします!
以下、この映画と自分の事を多分に踏まえて書いています。
首を上下にリズムを取りながら発話したり、言葉の一音目を連発した後、一音目を伸ばしながら言葉を発したり、一音目が出た後は割とスラスラと言葉が出たりとタクヤの吃音の演技が大変素晴らしかったです。
僕自身、幼い頃から吃音を抱えていまして、今はだいぶマシにはなったのですが、まだ発音しにくい行があったり、人の目を強く意識してしまうと吃音が出てしまったりと日々苦労しています。
これは吃音症あるあるだと思うのですが、人と喋る時は発音しやすい言葉を選んだり、タイミングや抑揚を付けながら話したり、また発音を手助けしてくれるルーティンにも近いような動作をしながら喋ったりと、割と自由度が高くまだマシになるのですが、それらを全て制限されてしまう音読の時間は本当に苦痛でしかありませんでした。そして、音読のシーンの周りの反応がリアルでした。小学校低学年の時は笑われるんです。ただ、小学校高学年くらいからは周りも理解、または慣れからか、笑われなくなるんです。むしろやけに静かになって、危険物を扱うかのように教室全体の緊張感が増すんです。
それをタクヤが音読をしている姿のアップから、小さな笑い声も一切ない静かな教室を引いて写すという形でしっかりと表現されていて非常にうまいなと感じると同時に、当時のトラウマ的記憶も蘇り、昔の自分と完璧に重なって辛くなってしまいました。
また、吃音持ちとして印象深いシーンがあります。
それは、荒川とタクヤが初めてちゃんと会話をした、スケート靴を貸した時です。
「あげるんじゃないよ、貸すんだよ」とスケート靴を差し出し「使い方分かる?」と聞いた後に、吃りながら「ホッケーの靴と似てるから」とタクヤが答えます。
僕自身の経験上、その後の返しは吃音を気遣うような「大丈夫?」とか「そんな緊張しなくて良いよ」「ゆっくりで大丈夫」などの声がかかります。
僕としては、そのような反応は相手から自分への最大の配慮がなされていてありがたいのですが、おこがましいことに、やっぱり「自分の喋り方は変で、気を遣わせてしまうよね」と自覚してしまう瞬間でもあるのです。
それを荒川は特に触れずに(時代や認知度の低さから初めて吃音症に接したかもしれないという状況の中で)何かを悟ったような顔とコンマ数秒の間をおいて、受け入れるかのように「そうだね」とだけ返します。
そこの場面で、荒川という人となり、受容度の高さが垣間見れる非常に優しい良質なシーンでした。
上記のように、友達やコーチなどの登場人物が特に吃音に触れる事もなく、逆に過干渉的な行動や哀れみの目を向ける事もなく、また制作側の健全に話せる人達のエゴ的な偽善や、タクヤに何か成し遂げさせて美談に仕上げ商業的に消費するような事もせず、ただ淡々と吃音を抱えるタクヤを映していたのが、会話をしていてつっかえた時に待っていてくれた、自分が言いたい言葉を察してリードして少し言葉を言ってくれた理解ある友人の様な安心感というか、そっと寄り添ってくれ、ただ肯定して、励まされた気がして嬉しい気持ちになれました。
だからこの映画を作ってくれたことに感謝を申し上げたいです。
ありがとうございました。