「「美しさと残酷さ」」ぼくのお日さま かなさんの映画レビュー(感想・評価)
「美しさと残酷さ」
タクヤは、美しく光り輝きフィギュアスケートをしている少女さくらをうっとりと見つめ続ける。まるでなにかにとらわれたように見つめ続ける。さくらへの憧れから、タクヤもフィギュアスケートを始め荒川の指導をうけていく。タクヤと荒川にはいつしか信頼関係が築かれていく。
さくらのコーチをしている荒川は、さくらにタクヤとアイスダンスのペアを組む提案をしさくらは同意し荒川の指導のもと二人の練習が始まる。リンクには西日が差しこみ綺麗な光につつまれている。まさに冬の「お日さま」を浴びているようだ。そこで二人が手をつなぎ、タクヤがさくらの腰に手をまわし。足を手を振り滑る、シンクロして滑る姿は美しく目を奪われる。二人がうまく滑れたときタクヤとさくらの笑顔、ハイタッチ、心がなごむ。特に川の氷での練習は解放感にみち荒川、さくら、タクヤが一つのチームとなって強固な信頼関係で結ばれ目標であるバッチテストにむかっていた。すべてが順風満帆なとき、さくらは、荒川の「実態」を見てしまう。
多感な思春期にある中学生のさくらには、荒川の「実態」を受け止められない。さくらは、はっきりと荒川に自分の想いを伝え荒川から離れ、タクヤと再びペアを組むこともなかった。荒川もさくらに「実態」を突き付けられたとき、なに一つ言い訳をしなかった。それが「現実」だから。
タクヤはバッジテストに現れないさくらに自分が嫌われたと思う。ただタクヤは吃音で自分の想いをしっかり伝えられない。さくらになぜ来なかった問えず、心ここにあらずにリンクにいる姿が切なく描出される。
奥山監督は光り輝く三人の美しいコラボレーションを見る者の脳裏に刻み付け、吃音障害とLGBTQの「実態」を提示する。さくらの若さが「理解不能」をうみ、単に善悪ではなく、奥山監督の描出するさくらの荒川に対する「拒否反応」が一瞬にして残酷な結末に転じる。この厳しい終焉には輝く光はない。春をむかえても暗澹としたタクヤと荒川の姿に胸をえぐられる。終幕、道で再会したタクヤとさくらの笑顔に救われた。