ラ・カリファのレビュー・感想・評価
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使い回しのマエストロ
冒頭、労働争議のさなか、夫を殺された主人公(LA CALIFFA=女指導者)の独白で物語は始まる。背景の映像は、広場に残る夥しい血痕や、搬送される遺体と、容赦なく生々しい。イタリア映画伝統のネオ・リアリスモの手法を引き継ぐこの作品は、救いようのない結末で幕を閉じる。
「ラ・カリファ」が製作された1970年頃からの約10年、現実のイタリア社会は、「鉛の時代」と呼ばれる不幸な時期を経験することになる。鉛とは、暗くて重苦しい、希望の見えない世相の比喩であるとともに、直接的には、銃弾を意味している。
東西冷戦下のイタリアはこの頃、政局の混迷と政財官の癒着や腐敗を契機に、極右・極左、さらにはマフィアまでが入り乱れて実弾が飛び交うテロの応酬に苛まれていた。フランコ・ネロ主演の名作「警視の告白」や、実際の事件を題材にジャン・マリア・ヴォロンテが主演した「首相暗殺」などの映画はこうした時代背景のなかで生まれているが、本作品はそれらの嚆矢というべきかも知れない。
この映画、「エンニオ・モリコーネ特選上映」の肩書で公開されているので、音楽についても触れておきたい。
「ラ・カリファ」は今回が本邦初公開にもかかわらず、モリコーネ作曲の主題曲だけは日本でも広く知られ、ファンの多い作品である。上映に併せて発行されたパンフレットにも詳しい経緯が記されているとおり、同じ曲がかつてNHKのシリーズ「ルーブル美術館」に用いられていたからだ。
おなじみの名画「モナリザ」をバックにさざ波を連想させるピアノの旋律から始まる美しいオープニング曲は、ずいぶん前に買ったCDの発売時に、何故か「LA CALIFFA」のタイトルが付けられていた。
なので、観る前から確信に近い予感はあった。
実はモリコーネ、今回の件に限らず、自作品の流用が指摘されることが多い作曲家でもある(彼の出世作「さすらいの口笛」も自作のポップス曲「みのりの牧場」をモチーフにしている)。マエストロは使い回しの名手でもあったのだ。
映画自体は画期的な主題を用いている点は評価したいが、作品としての完成度は高いとは思えない。
唐突に結末を迎えて終わるパターンは当時としても古い映画の手法で秀逸とは言えないだろう。せっかくモリコーネを起用しながら、彼の曲で余韻の残る印象的なラストシーンを作れなかったものかと思うと残念でならない。
併映された「死刑台のメロディ」も(こちらは作品の評価はともかく)、ジョーン・バエズの熱唱ばかりが耳朶に残って、モリコーネの代表作品というイメージが薄いように感じる。「モリコーネ特選上映」と銘打って選考するには、二作品ともにやや疑問が残ったのは、自分だけであろうか。
今後、「モリコーネ特選上映」の第二弾以降があるのなら、個人的には「夕陽のギャングたち」を推したい。
近年、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト(ウエスタン)」やドル3部作が次々と劇場公開されるなか、セルジオ・レオーネ監督作品で唯一取り残されているこの作品、音楽は抜群に美しく、モリコーネの代表作として、「特選上映」の名にふさわしいと思うのだが?!
モリコーネの美メロに彩られた、麗しき女闘士とモーレツ社長の労使紛争版「ロミ」ジュリ!
『死刑台のメロディ』に引き続いて、「エンニオ・モリコーネ特選上映」の一本としてこれを観て、いよいよ確信するに至った。
新宿武蔵野館は、エンニオ・モリコーネを口実にして、政権交代が叫ばれる昨今の日本の政治事情や、いよいよ近づいてきたアメリカ大統領選に向けて、「左派系の社会派映画」を上映したかっただけじゃねーか!!
いや、それで別に全然かまわないんですが(笑)。
まだ「なんの映画」で「どんな映画」かくらいの予備知識はあった『死刑台のメロディ』と違って、ロミ・シュナイダーが主演している以外は一切の情報がないまま、わくわくしながらのゼロベース視聴。
有り体に言って「まるで意味不明」のウルトラみょうちきりんな映画ではあったが(笑)、こういうの、自分は意外と嫌いじゃない。
すくなくとも『死刑台のメロディ』のアナーキスト×2より、僕は本作のモーレツ社長のほうに数等倍、共感してしまった。
僕もこの社長をいざ前にしたら、ちょっとよろめいてしまうかもしれない(とくん❤)。
60年代末~70年代初頭の激しい労使間闘争を背景に、物語は展開する。
ストやピケをはって対立姿勢を激化させる組合側と、それに対抗しようとする経営者側のぎりぎりの攻防のなかで、企業家側のボスと労働運動の女闘士が恋に落ちる……こんな粗筋の映画、ストやらデモやらがほぼ下火になってしまった今の日本じゃ、そうそう作れないよね(笑)。
その意味では、実に目新しいというか、新鮮な映画体験だった。
映画としては、根本的な部分でナラティヴが歪んでいるので、端からきちんと筋が追えるようには作られていない。
大抵のシーンが解決もないまま尻切れトンボに終わり、唐突に話が飛んだり、時系列が遡ったり、逆にずいぶん時間が進んだりするので、正直まともに筋を追っかけてもあまり仕方がない感じがする。
いちばん顕著だったのは、工場内のどことも知れない無菌室みたいな部屋に、なぜかロミ・シュナイダー演じるイレーネが閉じこもっていて、社長のドベルドも一緒に巻き添えにして閉じ込め、もうすぐ酸素が切れるわとか言ってるシーンがあって、意味不明な展開ながらさてどうなるんだろうと思って緊張しながら観ていたら、本当に何事もなかったかのように、まるで関係のない次のシーンにふつうに切り替わって、ガチで驚倒した。どういうモンタージュなんだよ、これ(笑)。
二人が恋に落ちるきっかけ自体、ボンヤリ者の僕にはまったくわからなかった。
ドベルドが男と寝ているイレーネの部屋に乱入するあたりで、「強引なの、好き!」ってなったのか? その後、いきなりなぜかイレーネがドベルドを連れて、ドベルドのお父さんのところ(丘の上のボロい一軒家でハイジの爺さんみたいに隠棲している)に行って、「あなたの息子だから信用したのよ」とか言いながら、いまだに二階に残っているらしいドベルドのベッドで彼とセックスをする。
労働争議は進行中なのだが、二人は優雅に高そうなランチをともにしていたりして、今なにがどうなっているのか、最後まで判然としない(笑)。
ラストのハードで酷薄な展開は僕はとても好きだが、なんでそうなったかも、イレーネがそのことをどう思っているかも、すべてが放りっぱなしで映画はすうっと終わってしまう。
他にも、イレーネがおばちゃん軍団を煽動して、ドベルドの工場の電化製品を次々と崖から湖に放り込むというひどい不法投棄&環境汚染のシーン(70年代であってもあんなことしたらメチャクチャ怒られると思うよw)とか、中盤でイレーネのやっている策動が単なるあからさまな御法度のスト破りに過ぎないとか、監督が良かれと思ってやらせている言動にドン引きせざるを得ないシーンも散見される。
総じて、すべてのシーンが「ニュアンス」と「直観」で「なんとなく」出来ていて、映画としては非常に緩やかな構成感と断片化されたロジックによって成立している。
熱で浮かされて見る白昼夢のようにあやふやな語り口で、オヤジの偉丈夫ぶりとロミ・シュナイダーの美貌をひたすら愛でる。そういう映画だ。
これを、独りよがりだ、作劇がおかしいなどと叩くのは簡単だが、ふと振り返ってみるとこの時期のイタリア映画というのは大抵こんな感じで、ちょっと頭のおかしな映画ばかりが揃っていることに気付く。
わからなさ加減の「塩梅」が良いフェリーニやアントニオーニあたりは、なんだか文芸的な感じがして勝手に「名作」扱いされているけど、実はルチオ・フルチやダリオ・アルジェントの撮るようなカスみたいなホラー映画だって、まともに観ていても筋がちゃんと追えない作りというのは何ら変わりないのだ。
とくにルチオ・フルチとコンビを組むことの多かったダルダーノ・サケッティという脚本家の書くホンは、とにかく不整合かつ意味不明なことで悪名高く、どうでもいいようなゾンビ話が常に、驚くほどに前衛的で難解きわまる不条理譚へと変貌していた。
まあ、フルチの『墓地裏の家』やアルジェントの『インフェルノ』のことを考えれば、『ラ・カリファ』の演出&脚本のいい加減さなんて、ぶっちゃけ屁みたいなもんである。
さらに言えば、同時代に活躍していた鈴木清純や池田満寿夫や寺山修司や橋本忍のような日本人監督だって、格段に程度のひどい「不条理劇」を撮っていたわけで、『ラ・カリファ』の根本的な歪みと捻じれは、むしろ「時代に浮かされた結果」だと言ってもいい。
要するに、単にわかりやすい骨太なドラマを呈示するのは「ダサくて」、適当に不条理だったり話が途切れているほうが「粋」だと考えられていた時代の産物として、『ラ・カリファ』は扱われるべき映画だということだ。
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とにかく全編を通じて、ロミ・シュナイダーは脱ぎまくり&やりまくりでよく奮闘している。ロミ本人は素人監督(もともとアルベルト・ベヴィラックァは作家で、本作は自作の映画化で監督第一作。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』みたいなもんですね)の手腕にかなり不満を持っていたらしいが、しなやかな獣のような肢体と、炎のように燃える心を持った、美しき寡婦を毅然と演じていて、その女優根性はやはり素晴らしい。
大半の人は、この映画のことを「ロミ・シュナイダーを愛でるための映画」と称するはずだ。でも、僕は相方の社長ドベルドを演じるウーゴ・トニャッツィにも、結構ぐっと惹かれたのだった。
僕は、働く男の映画が好きだ。
自分も働くのが好きだし、20代のころは週6日勤務で1日12時間くらい働いていた時期が2年くらいあった(まあ、ひどいプロジェクトだったw)。会社に連泊はざらで、3徹になったときに初めて幻聴を聞いた。
大学の友人にも、法曹や官公庁、大学内で出世している人間は多く、彼らの献身的で立派な仕事ぶりを見ていると、無条件に権力への反感を募らせる感覚をどうしても持てない。
それもあって、自分は企業家サイドにも心情としては宥和的だし、魅力的な人物がいたらそれはそれで好きになれるタイプである。
ウーゴの演じるドベルドは、たたき上げの社長だ。
経営者として冷徹にふるまうが、非情には徹しきれない。
どんなときでも身の危険を顧みず、現場に足を運んで直接行動する。
立てこもる労働争議の闘士たちにも、自分なりの言葉で熱く語りかける。
自らの決断の結果死にゆく男の静かな復讐に、敢えて朝まで付き合って見せる。
いい男じゃないか。そう思う。
言っていることも、たいがい正しい。
なにより、決断力とリーダーシップに長けているし、
長くトップにあっても「情」を失っていないのは立派だ。
僕の大好きな映画に『プレステージ』というのがある。
クリストファー・ノーランの有名なヤツではない。
アラン・ドロンが主演している、1976年のフランス映画である。
(ご存じの通り、アラン・ドロンはロミ・シュナイダーとかつて同棲して浮名を流したことがある。)
病的なワーカホリックの美術品ディーラーが、作中ずっと早回しのように働いて、働いて、働いて、働いて、めまぐるしく働きづめに働き倒して、最後に唐突に●●●●で●ってしまうという、壮絶で珍奇で摩訶不思議な「お仕事映画」。
誰がなんといおうと、こんなにロマンティックな夢物語はない。
僕のなかでは、アラン・ドロンが最も美しく輝いている映画として、折を観てはDVDを観直すくらい偏愛している作品である。
今回のドベルドには、この映画のアラン・ドロンと同じ香りを感じる。
こういう「出来る社長」のヴァイタリティは、なぜか僕の内側のこそばゆいところを、いたくくすぐってくるのだ。
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この映画のもう一つのメインディッシュは、エンニオ・モリコーネの甘美で切ない音楽だ。
正直言えば、僕は併映された『死刑台のメロディ』より、こちらのほうが映画音楽としてのモリコーネ・ミュージックがしっくりはまっていたように思うし、使い方にも違和感がなかった気がする。
モリコーネならではの息の長い美メロが、オーボエによって切々と吹かれて、これを聴けば誰しもが『ミッション』の「ガブリエルのオーボエ」を想起することだろう。
のちにチェリストのヨーヨー・マや、歌姫サラ・ブライトマンによってカヴァーされているくらいの有名な楽曲(僕は知らなかったが、日本ではNHKのドキュメンタリー『ルーブル美術館』のテーマ曲として知られていたらしい)で、自分も海外輸入のベスト盤で昔から聴き知っていたが、まさかこんな映画のこういうシーンで流されていたとはもちろん知らなかった。数十年を経て実際に確認できて、本当にうれしく思う。
その他、細かいことなど。
●イタリアの労働争議がどういうものかは正直まったく詳しくないが、自分のイタリアのイメージは、フェリーニやヴィスコンティやアルジェントといった昔の映画以外だと、けっこう相田裕のコミック『ガンスリンガー・ガール』によって形作られている部分が大きく(笑)、街中でしょっちゅう極左と官憲が銃撃戦を展開したり、アナーキストが爆弾を仕掛けまくったりしていても、さもありなん、やりそうやりそうとしか思えない。
そういや新婚旅行でイタリアに行ったミレニアムの頃、メーデーの日にミラノに居たら、ほぼすべての観光施設が休んでいて墓地すら入れなかったことを思い出す。昔から左派や組合が強くて労働争議が盛んな土地柄なんだよね。
●パンフを見ていると、アルベルト・ベヴィラックァ監督って、マリオ・バーヴァの『ブラック・サバス 恐怖!三つの顔』と『ヴァンパイアの惑星』の脚本も書いているんだな。後者はそれほどでもないが、『ブラック・サバス』(脚本はバーヴァとベヴィラックァにマルチェロ・フォンダートを加えた三者の連名になっている)のほうは、間違いなく世界のホラー史上に残る大傑作であり、特にオムニバス2話目の「吸血鬼ブルダラック」は必見の名作。それを考えるとやはり、ベヴィラックァを『ラ・カリファ』だけで「ダメな監督/脚本家」として断罪するのは早計な気がする。
●パンフの巻末に「まだまだあるエンニオ・モリコーネ未公開傑作選」と題したコーナーがあって、とくに『ヴェルゴーニャ・スキフォージ』(全裸の男女10人が円卓を囲む謎ビジュアル)、『カニバル~自由への鎮魂歌』(街中に死体の転がる超全体主義の某国で、死体を片付けて回る男女をアメリカン・ニューシネマ風に描く!?)、『女にシッポがあった時』(ジュリアーノ・ジェンマが原始人!)の三本はぜひ観てみたい(笑)。
ストライキ労働側のリーダーの美しい女性と経営側の代表男性が恋に堕ちる
LA CALIFFA ラ・カリファ
神戸市内にある映画館「シネ・リーブル神戸」にて鑑賞 2024年5月2日(水)
パンフレット入手
北イタリアの地方都市パルマ。
ひとりの男の遺体が聖堂前の広場に横たわっている。傍らには大量の血液と、遺体を取り囲む3台のジープに乗った軍人風の警官たち、そして遺体を見て声なくしゃがみ込んでいる女、イレーネ(ロミー・シュナイダー)である。彼女のモノローグが浮かび上がる。
「これが私の夫。名前はグイド。数年前ストライキで殺された。理想や愛、怒りがこもった彼の血液は、今や地面で乾く犬の尿のよう」
遺体が救急車両によって運ばれるのを見届けると、イレーネは静かに立ち去っていく。
数年後のパルマ。炎が立ち上がる工場前で、大勢の従業員がストライキを行っている。口々に連呼しているのは経営者側のトップ、ドベルト(ウーゴ・トニャッツィ)の名前だ。
そのころ、ドベルトは自宅の箪笥に手を突っ込み、何かを探していた。そこへ「銃はないよ、僕が持っている」と声をかけたのは息子のジャンピエロ(マッシモ・ファネッリ)。そのころ、ドベルトは自宅の箪笥に手を突っ込み、何かを探していた。そこへ「銃はないよ、僕が持っている」と声をかけたのは息子のジャンピエロだ。「僕は父さんみたいになりたくない。自分の人生を楽しみたい」と素っ気なく返すジャンピエロは現在、行先を決めない気ままな旅行の計画しているところである、ドベルトは妻クレメンティーネ(マリーナ・ベルティ)に対する情もすっかり失っていた。ドベルトが抱えているのは労働ストライキの問題だけではなかったのだ。
占拠された工場にやってきたドベルトは労働者たちに直接話しかけた。「私に損害を与えたいのはわかる、でも君たち自身にも害が及ぶんだぞ」と、かつてはドベルトも彼らと同じ立場に立ったことがあるのだ。しかし説明もむなしく、警官隊と労働者たちはぶつかり始めた。ストライキは労働組合の代表でも抑えが効かない状態だった。資金援助受けていた工場主が破産し、実に600人もの工場作業員が失職していたのである。警察は数人の労働者を署に連行するも、彼らの勢いには警察署長もお手上げの様子。スト側のリーダー格のイレーネも、その場を去ろうとするドベルトの車の前でに立ちはだかり、窓にツバを吐きかけることしかできない。彼女もまた好転しない事態に疲れ始めていたのである。
会議室では、破産した工場主が委員会の重鎮たちの吊し上げに遭っていた。工場主は「私も従業員も切り捨てるつもりか?」と目をむく。ドベルトは工場主から目をそらし、ただ黙っていた。経営委員会は工場主への援助の打ち切る決議をする。
雨の中、自宅に戻ったドベルトの前に工場主がずぶ濡れで立っていた。夜を徹し窓越しに見つめあう両者。同じ夜、留置所から戻ったイレーネは若い男とベットを共にしていた。体の関係しかない相手である。シャワーで何かを洗い流そうとするが、どうにもならない。「誰もが主気を失っている、きっと恐ろしいことが起こる」とつぶやいた。
朝、ドベルトの自宅の前に工場主の姿はなかった。自死の道を選んだのだ。
一部の従業員が戻った工場前で、ドベルトは出勤してきたイレーネに会う。「ツバかけるなら今だぞ」「わたしをクビにすれば?」「僕ならボスにツバ吐いた翌日、爆弾くらい持ち込むがな」「今日はダメでも明日があるわ、明後日も一か月後も、急ぐことはないわ」一見、敵対状態の会話、しかし、両者の間では微妙な心の変化がみられる。
ある夜、労働者からの投石で窓ガラスが割られ続ける中、ドベルトとイレーネは食事を共にする。
ドベルトがただの冷酷な経営者ではないことを感じたイレーネは「好きになってきたわ」とドベルトにささやく。それを聞いたドベルトは、若い男とベットを共にしているイレーネの部屋へ押しかける。若い男が出ていったあと、イレーネは尋ねる「最後に好きな相手と寝たのはいつ?」と、「私と寝るかね?」とドベルトは返す。
翌日、イレーネはドベルトをある家に案内する。そこはどんなお金を束ねても動かない男の家。ドベルトの父が住む彼の実家。その一室のベッドにロベルトが横たわると、イレーネも服を脱ぎ捨て、スッと彼の隣に入っていく。白いシーツの下からあらわになったイレーネの美しい肢体にドベルトは優しく口づけえをする。これに応じるようにイレーネも情熱的にドベルトを求め、彼の背中にツメを立てた。そしてお互いを何度も求めあったのだった。
実家を後にするドベルトを見送りながら、イレーネは彼の父親に呟く「あなたの息子だから信じたのよ」
イレーネへの愛に目覚めたドベルトは、労働者に占拠された工場の再開を決め、組合との妥結の道を模索しようとする。しかし政府の役人はどこか不満げな顔つきだ。
ドベルトは労働者たちと再び向き合う。異論を唱える若い労働者にイレーネは叫んだ「前は憎んでいたけど、今は信じている。彼は血の通った人間。理解しようとしてくれる」と この声に大半の労働者は心を開いたが、依然としてドベルトに反抗する勢力は残った。
ドベルトは労働者たちに「共同で経営をしよう」と大胆な提案をする。だがそれは彼に新たな敵をつくる発言でもあった。過激な労働者たちだけでなく、経営者たちの中にも彼は裏切り者だとののしる者が出始めた。「労働者に与してもも生産性が落ちるだけだ」と。
何者かによって、ドベルトの飼い犬は無惨にも殺されて、イレーネの考え方に敗北感を抱いた妻クレメンティーネも夫の元から去り、息子も旅立っていった。もはやドベルトにとってイレーネとのひとときだけが平和な時間だった。
ある日、イレーネをベットに残して外出したドベルトは、サングラスをかけた謎の男たちに銃撃、拉致され、ついには見せしめのように工場の入り口にゴミのように放り出されてしまう。壁に寄り掛かるように死んでいるドベルト。
(映像は冒頭の夫グイドを失った際の呆然と涙を流すイレーネが挿入される)
愛する人がまた失われた。労働者と資本家の和解は難しいのか。両者の溝は永遠に埋まらないのだろうか。
監督・脚本アルベルト・ベヴィラクア
音楽 エンニオ・モリコーネ
1970年 イタリア・フランス
感想
イレーネのあまりにも美しさに圧倒されました。小麦色の肌があらわになって、しかも濃厚なベットシーンはたまらないです。
テーマは労働者の話ですので、ラブロマンスとのギャップ感がまたイイ感じです。
ロミーをモリコーネのメロディで愛でるのみ
2年前の回顧上映で、知性と色気が共存した魅力でファンになったロミー・シュナイダーの未公開作です。さらに音楽がエンニオ・マエストロ・モリコーネと来たら見逃せません。ストーリーは、労働運動のリーダーのロミーと対立関係の会社の社長とのベタなメロドラマなんだけど、キャラ設定がブレブレの上、エピソードやカットもぶつ切りで何がどうなってるのかさっぱりわかりません。キャスト、音楽は超一流なんだけど、監督・脚本が素人の作ったようなしまりのなさで、まさにリラの無駄遣い。エンニオ・モリコーネのメロディは、後年の代表作『ニュー・シネマ・パラダイス』を彷彿とさせるのに、とんだマエストロの無駄遣い。役者では、ロミー・シュナイダーの美しさと凛々しさはパーフェクトだし、ベッドシーンもいっぱいあるけど、とんだロミーの無駄遣い。
二人ともお人好し?
イタリアの1968年は日本ともドイツともフランスとも北米とも違うようだ。労働組合、ストライキなど労働者運動がメインであることかなあと思う。2年前のイタリア映画祭で見た「赤い砂漠」(公開1964年・アントニオーニ監督)を思い出した。
労働者と経営者の分断、経営者間の軋轢を描く社会派映画にロミー・シュナイダー、というのはいいけれど恋愛が絡むとは想像外だった。彼女は顔が広く仲間からも信頼されている肝っ玉姉さんである。でもまさか彼女が仲間と共に糾弾している経営トップのドベルドと恋仲になるとは!でもドベルドOKと思えるようになった。理由は彼がだんだん若々しく見えてきたこと、素直になったこと、彼女の気の強さを愛する男であること、自分自身もかつては労働者で苦労してきたことを忘れずにいる人間であったこと、友達を大事にする(一晩中庭に立っていた友を寝ずに見守っていた)人・・・だから。それでも彼女もドベルドもいい人過ぎるというかお人好しだった。経営者側は全く甘くなかった。
チグハグ感が気になってしまってモリコーネの音楽が印象に残らなかった!残念。シュナイダーの眼と鼻と唇、美しかった。
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