ルックバックのレビュー・感想・評価
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友達は要らない。共に戦う仲間を集え。
などという受け売りを何処かで聴いたことがあります。これは極端な考えです。極端に尖った人生を送りたければ、友達は要らない。一緒に協力して目標を目指すための仲間が必要だということです。
ここでいう友達とは、一緒に遊んで共感しあい、日々の生活の楽しみや愚痴や思い出話に浸る遊び仲間のことです。学校の帰りにアイスを食べたり、家族と一緒にテレビを見たり。主人公・藤野が途中で漫画を書くのを止めて送った日々がそれです。
漫画を書く。芸術を極める。誰よりも上手くなり、自分の希少価値を高めて、収益を得られるほどの専門家となる。この映画でいう「漫画家を目指す」という道はそういうことではないかと思いました。遊びも勉強も何もかも捨てて、一心不乱に書き続ける。ただ、書き続けるバカになれ。さっさと書け、バカ。ということでしょう。
勿論、そういう人生ではなく友達と遊び、家族と共に過ごして人間関係を大切にする人生を送る方がよっぽど素晴らしいかも知れません。主人公・藤野のお姉さんが苦言した通りです。お姉さんのいうことは実に正しい。
そこに引きこもり・京本が現れた。京本は藤野を「藤野先生」と呼んでいたが、画力に関してだけは京本が圧倒的に上。その理由は劇中で描かれていた通り、ただ書くだけの生活を送っていた京本が上なのは当たりまえ。画力に限れば京本の方が「先生」と呼んだ方が良さそうだけど、書くばかりで普通の生活を知らず、漫画を書いてもオチもストーリーも皆無に近い。それと比べて、ある程度は社会に適合していた主人公・藤野の方が漫画家としての持ちネタが豊富。世間を知ることも漫画家には大事。だから、本物の漫画家が取材のため休載するのはその理由。専門家じゃないんだから料理や警察、競馬に競艇、格闘技など知識が必要。
そういえば、劇中でテレビをつけっぱなしで仕事をしていたけど、そういうのも必要なんだそうですね。無意識に知識を流し込む。日々、ネタ集めの勉強が必要で、ネタ帳片手などもそのため。お笑い芸人さんだってJR環状線回りっぱなしで人間観察するのだとか。
いろいろ長文を並べちゃいましたが、劇中の彼女達の動向がいちいち納得できるということです。この作品はアニメーター自身の自分語りに相当するお話で、自分達が送ってきた自分達の物語を描いているから、取材不要でリアリズムにあふれた作品づくりが出来たのでは無いかと思います。いや、本当のところ、作家さんの生活はそこまで詳しくないけど。
入選して貰った賞金でお祝いする二人の様子も、なんだか判る気がするなあ。10万円用意して、結局、5千円しか使えなかった点。遊びを知らない二人だから、どんなに頑張っても、それぐらいしか無駄遣いが出来ないんでしょう。いや、よく頑張ったと思います。美味しいもの食べても話が弾む二人なのかどうか。ぜったい間が持たずに「次行こう。えっと何処行こう」って迷っているはずw これから書く作品のネタとか、そういう話なら弾みそうだけど。常に遊びを知らず延々と作業に勤しむ二人だからこそ、無駄遣いの仕方も知らない。
そんな目標に進むだけの二人が唯一、過去を振り返ったシーン。それがラストの走馬灯ではなかったかと思います。IFの世界にタイムスリップした引きこもり・京本が、主人公・藤野が鍛えた空手で助けられ、そのタイムスリップならぬタイムトリップから我に返って見た走馬灯。それが唯一、藤野が京本と共に思い出話に浸った走馬灯ではなかったか。死に至り、最後だからこそ二人で振り返った走馬灯。遊びを知らず、ひたすら書き続けた二人の思い出。さぞ、「あのときはこうだったね」と語り明かしたかったことでしょう。作画の使い回しではなく、二人で過ごした日々が生き生きと描かれていたシーンが、とてつもないほど愛おしかった。
でも振り返るのは其処まで。藤野はまた、タブレットに向かって走り出す。その姿を見続けるスタッフロールで幕が閉じられましたが、何の苦も無く、夜明けまで書き続ける彼女の姿を、最後まで見届けることが出来ました。上映中の他のお客さんもそうだったのかな。今回、劇場では灯りが付くまで誰一人立ち上がる人は居ませんでした。
勿論、劇中の事件は例の京アニ事件がモデルでしょう。経緯は知りませんが、あの事件のやりきれなかった悔しさをぶつけたのがこの作品だったのかも知れません。
あの犯人が何を奪ったのか。若い頃からひたすら書き続ける日々を送っていた漫画家やアニメーター、イラストレーターがどれほどの研鑽を重ねてきたのか。自分の思い込みだけで全てを台無しにしてしまったのだぞ、と。
こうした画力のみならず、音楽家・芸術家やスポーツなど、専門の技術で生きていくためには、並大抵の努力と経験では成し得ない人生を歩むほかはないのでしょう。いや、自分はそうでないけど、なんとなく判る気がします。仕事は希少価値です。例えば、絵描きになりたければ少なくとも全国で100位以内ぐらい絵が上手くなければ名は売れないでしょう。100位です。1億ウン千万人中のトップ100位です。100人以上、絵描きの名をあげれますか? 上手くなるだけでなく、売れっ子になるというのはそういうことだと私は思います。
本当に何かを目指している人。頑張って。
描く理由と喜びと、そしてレクイエム
これは、映画だ。原作を初めて読んだ時、そう思った。
藤本タツキの漫画は「ルックバック」「さよなら絵梨」の読切2作しか読んでいないので、作者について十分に語る言葉を持たないが、カット割や絵で語る表現など、そのままスクリーンに落とし込んでも違和感がないように思えた。
そんな原作のアニメ化。尺は58分と短い。余計なものが付け加えられることはなさそうだとは思ったが、想像以上に原作に忠実だった。それでいて、既に内容を知っている私にも改めて刺さるものがあり、2時間の佳作映画に引けを取らない見応えに心が震えた。
やはり、「ルックバック」の語り方は映画だった。忠実な映像化でそれが証明された気がする。
物語の主題はふたつあると私は受け止めている。
ひとつは、藤本タツキの創作衝動の原点だ。何が彼に作品を描かせるのかということを、主人公の藤野の言動に仮託して語っている。絵の上手い京本への健全なライバル心に突き動かされるところから始まり、やがては彼女と創作の喜びを分かち合い、その分かち合い自体がモチベーションになってゆく。
小学生の藤野は、ちょっと共感性羞恥を覚えるようなキャラだ。井の中の蛙であるがゆえの万能感……とはいえ、あの4コマ漫画の起承転結は、藤野の方が最初から十分上手いのだ。この才能の方が漫画家には重要だと思うが、藤野は京本の絵を見て落ち込み、やがては描くことをやめてしまう。
その後、卒業式の日に京本と出会わず、あの賞賛を受けなかった世界線では、大学生くらいの年齢になるまで漫画を描かないまま空手を嗜むなどして過ごしている。誰かから認められること、喜ばれることが、いかに人に勇気を与えるか。また、そこから得られる喜びは時に人生をも変え得る力を持つということが、2つの世界線の対比から伝わってくる。
終盤の、「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」という問いへの答えとして流れる走馬灯は、原作よりも多くの場面を描き出している。だから自分は描くんだ、という藤本タツキの声が聞こえてくるようだ。彼にとっての京本は、似たような関係の身近な誰かかもしれないし、あるいは読者なのかもしれない。そしてその動機は、多くのクリエイターに共通するものでもあるだろう。
もうひとつは、京アニ事件の鎮魂だ。私個人の解釈に過ぎないことを前置きしておく。
物語終盤で京本を襲う通り魔の台詞や表現。原作が発表された当時「統合失調症を想起させる表現」「京アニ事件の遺族・関係者に対し無遠慮だ」といった声が一部であがった。また、精神科医の斉藤環氏が、藤本ファンを公言し本作を称賛しながらも「通り魔の描写だけネガティブなステレオタイプ、つまりスティグマ的になっている。単行本化に際してはご配慮いただければ」とツイートし、noteでもその主張を補足する記事をあげた。そういった意見を受けてか、通り魔の台詞は2回に渡り変更された。ただ、最終的に単行本に収録されたバージョンは、1回目の修正で別の言葉に変更されていた「元々俺のをパクったんだっただろ!?」が「パクってんじゃねえええええ」となって(ある程度)復活し(直前の台詞も変化しているが、長くなるので割愛)、映画でもそのまま使われている。
多くの人に読まれた作品だからこそ、さまざまな見方が出てくるのは仕方ない。誤った見方が広まるのではという心配も、わからなくもない。だが個人的にはあのシーンは京アニ事件に向けたもので、修正前の通り魔の台詞は、あのキャラクターから事件の犯人個人を想起させるためのものに見えた。だからあの台詞には必然性があった。心を病んだ人の単なるステレオタイプだとは思わない。
そして、あのパラレルワールドは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のオマージュだ。
(以下、「ワンス・〜」の結末を書きます)
史実では人違いでシャロン・テートを殺害したマンソン・ファミリーを、映画ではクリフとリックが完膚なきまでにボコボコにし、凶行が起こらない世界が描かれた。
現実世界の理不尽な悲劇に、フィクションの世界でだけでもささやかに、せめてもの仇討ちをする。そして、クリエイターたちの情熱はそんな理不尽になど負けないと、高らかに宣言する。本作は、そんな切実な思いのこもった物語でもあるのではないだろうか。
その物語が映像として動き出し、そういったメッセージとともにアニメーション表現の素晴らしさをも伝えてゆく。そんな熱い58分間なのだと思う。
反語的に「前を向こう」と励ます、心の友のような大傑作
Prime Videoでの鑑賞となったが、劇場公開と同じ年に出会えたことに感謝したい。アニメシリーズ「チェンソーマン」は大のお気に入りとはいえ、藤本タツキについてはその原作者としてしか知らなかったが、自身の半生と現実の事件をこんなふうに投影し紡ぎ合わせて力強いフィクションを創作できるのかと驚嘆し、今さらながら敬服。原作未読だが、脚本も担った押山清高監督の仕事も的確だったに違いない。キャラクターたちの画としての魅力、アニメーションのダイナミックな動きの面白さと繊細な変化の情感、そしてストーリーの味わい深さが完璧に凝縮された奇跡のような本編58分。(なおアマプラでの視聴だとエンドロールが始まった途端に「次のエピソード」とか表示が出て放っておくと数秒で自動的に飛ばされてしまうのだけど、あれは本当に余計なお世話! 藤野がひとり向かうデスクの前の窓に映る街の景色がエンドロール数分の間にゆっくりと夜景に変化するまでが作品であり、繊細な描写と余韻を味わう豊かな時間なのに)
鑑賞後、原作漫画についての考察記事やWikipediaの項などを読んで、オアシスの代表曲「Don't Look Back in Anger」や映画「バタフライ・エフェクト」などからの影響やオマージュが指摘されているのを知り、そういえば「バタフライ~」のエンディングにはやはりオアシスの「Stop Crying Your Heart Out」が流れていていい感じだったなとか、関連して思い出したこともいくつかあった。考えてみると「バタフライ~」のラストでの主人公の選択と、この「ルックバック」での終盤に展開する「あり得たかもしれないもう一つの世界線」は近いものがあるが、具体的に書くと両作品のネタバレになるのでここまでにとどめておく。
オアシスの「Don't Look Back in Anger」の題がデヴィッド・ボウイとブライアン・イーノの共作「Look Back in Anger」への返歌的につけられたこともWikipediaで知った。オアシスの2曲と「ルックバック」(look backを直訳するなら、後ろを見ろ、振り返れ)に共通するのは、過去の選択を悔み続けたり、起きてしまった悲劇に怒りや恨みを抱き続けたりしても何も変わらない、きちんと受け止めたうえで、前を向いて将来のため自分にできることをやっていこう、というポジティブなメッセージ。その意味で、「ルックバック」は反語的に「前を向こう」と私たちを励ましてくれる、心の友のような大傑作なのだ。
絵は人の心を動かす
いきなり手描きの背景動画で魅せてくれる。最近は3DCGで背景を動かすことが多いけれど、手で動かす背動をあえてやることが、この作品の映画化には必要だった。手で描くことがこの作品には重要。絵を描く二人の軌跡を手で描くことにこだわることがこの作品には必要だった。それによって、物語には収まらない「絵描き」に対する賛美があふれることになった。
漫画は絵で構成される、アニメも絵で構成される。しかし、絵の上手さとマンガの上手さは異なる。京本は絵が上手い。藤野はマンガが上手い。藤野のマンガの上手さに京本は心を動かされる。京本の絵の上手さに一度心が折れかける藤野は京本との共同作業でマンガへの情熱を取り戻す。絵の上手さとマンガの上手さが共鳴しあって、二人は駆け上っていく。
そういう物語をものすごく上手いアニメーション映像で描くことで、絵の上手さとマンガの上手さにアニメの上手さが重なり共鳴しあう、多層的な作品として完成している。
「絵による映像」であることに徹底的に自覚的な作り方をしており、その快楽が全編にみなぎっている。絵は人の心を動かす。
またね
初対面の二人の去り際の言葉が圧倒的期待感を持たせてくれて最高。
58分だけで映画として超傑作を作れるんだということを提示してくれる意欲作。映画内におけるダイジェストシーンって「君の名は」とかで象徴されるように演出的にも凝っていて面白いことが多いんで、「それだけで完成させればいいんじゃね」という狙いかどうかはわからないけど、メインに据えることで上手くハマって成功している。
初対面で尊敬しすぎて同級生を先生と呼んじゃう場面が序盤の名場面。後半の名場面はブラックコメディな4コマを実は相方も制作しており、それがけっこうクオリティ高いところ。オチの背中を見ろ=タイトルにもリンクするという構成が綺麗。個人的な心情だけど、あの4コマ切り取りが時空を越え、空手少女の主人公が正史になる終わりかたでも良かった気がするんだけどなー。
タツキはおそれている。
自身の出世作第二章を前に、今一度過去を振り返る様な自伝的漫画(だと勝手に思っている)。
とにかく病的に描く描く描く、その喜びと苦しみのループは、そっくりそのまま作者の頭の中なのだろう。突然挿入されるあの事件の描写は、漫画的に都合良く成敗する結末を選ばず、現実を突き付けて終わる。死んだ人は帰って来ない。
漫画から感じたそんな想いが全く表現されていない映画。
描き続ける丸めた背中がレクイエム
人気漫画家藤本タツキの自伝的漫画をアニメ化した作品で、1時間程度の中編ながらクリエイター達の苦悩と解放を凝縮した作品でした。漫画を描くのが大好きな小学生の女の子が、抜群の画力を持つ引きこもり少女と出会い、二人して漫画家を目指すお話しです。ところが、単なる予定調和的なストーリーではなく、二人のクリエイターの喜びや苦悩,悔恨、慟哭など怒涛の展開に呆然としながらも作品世界にのめり込んでしまいました。京本の部屋の机に置いたままの少年ジャンプの今週分の人気アンケートハガキには、京本の藤野への変わらぬ想いが感じられて思わず泣けてきました。全編通じて、黙々と原稿を描き続ける主人公の背中が映し出されるのは、何があっても何が起こっても真摯に地道にひたすら描き続けるのが、クリエイターとしての真実の姿でありスタンスだからだと思います。原作を映画ならではの演出を活かして映像にした、押山清高監督のタッチも素晴らしかったと思います。役者では、河合優美、吉田美月喜ともに、感情たっぷりの吹き替えがキャラを生き生きさせていましたね。
皆んなが憧れた世界の舞台裏。
内容は、週刊少年ジャンプの人気連載作家藤本たつきの読切単行本を忠実に映画化した作品。
当時の社会的背景を漫画家世界に落とし込んだ自伝的見方のできる作品。この作品で、藤本先生が作家とはこんな一面があるんだと叙事詩的に語った物語。
印象的な台詞は、『でも!絵もっと上手くなりたい!』京本の言葉。2人の決別のシーンであると同時に、その次の言葉を聞きたくなく生唾を飲む藤野の口元が号泣を誘う。この場面、言葉と裏腹な強気な藤野の台詞も非常に泣ける。
印象的な場面は、『出てこないで!』と4コマ漫画の、一場面が時を超えて妄想として蘇った場面。
もし?!の世界を描く漫画家にとって良くある妄想が、作家本人を勇気づける場面も号泣に値する。ありえない虚実の世界に生きる楽しさと辛さと息苦しさが伝わってくる様だ。
印象的な立場は、2人の対照的な性格と色合いだ。藤野と京本の才能の違いと性格の違いは、映画アマデウスのモーツァルトとサリエリを彷彿とさせる様で非常に息苦しかった。
才能と努力の狭間で苦悩する2人の関係性は、非常に対照的で、美しく感動的な其々の心象風景が映像で伝わり良かった。
自分的に一番好きな場面は、小学校の卒業式後、京本宅を訪問する藤野を追いかける、引きこもり京本の発する言葉。
『藤野先生サイン下さい!』
ここの場面から雨が降り始め、藤野の今まで誰にも本当に!認められてなかった!思いが満たされる様に、感動の涙となって降り注ぎ、雨の中踊りながら走る藤本の場面が好きだ。
鬱屈した思いが1人のファンの言葉によって報われる『絆』が深まるシーンは一番の見どころ。
何とも言えない誰しもが抱いて挫折したであろう様々な好きなことへの贖罪と諦観が後悔を呼び、もう一つの未来を予感させ感動させる。
藤本たつきの漫画は、難解でわかりにくいとは言われる。
しかし、この『ルックバック』単体だと分かりにくくても、『さよなら絵梨』と対になっている漫画なので、楽しみたい人にはオススメしたい。二つを読むと世界観が、よりよく分かりもう一度『ルックバック』してしまいそうな素晴らしい作品です。
京アニ事件を題材ではなくテーマとして捉えなければ駄作になる気がします。
コミックス版は、京アニ事件に対するクリエータとしての気持ち、自分事というか創作に携わるものとしてあの事件の消化という意味が感じられたし、そこに共感できたので評価しました。そこが重要であってクリエータ論としてはそれほど目新しくはないと思います。漫画表現としては見るべきものはありましたけど。
背景がすさまじく上手いという絵の才能と、漫画の内容・アイデアが面白いという才能がお互い認め合った。ちょっとしたハプニングが原因であきらめていた漫画の道に戻った。そのときクリエータの道に相手も引っ張り込んだ。それがかなり間接的な要因だけれど一人の命を奪った。それでも創作は続けざるを得ない。なぜなら創作者だから…ですね。
そこまでならいいですけど、明確な京アニ事件を題材とした出来事が含まれます。これが単なる創作論なら論外です。交通事故でも火事でも他の事故ならなんでもいいですけど、京アニ事件を取り上げるのは他の何かを描くためだとしたら内容的にはアウトだと思います。
藤野と京本ですからね。2人合わせて「藤本」の他に「京」の文字が入っています。つまり、そこにテーマがあるのは意図的なんだと読んでいました。
京アニの犠牲者を自分事として捉えた漫画家が自分の気持ちを消化しつつ、犠牲者を鎮魂する。そういう意味においてのみ許される描写かなと思いました。それ以外の意味性をこの映画に見るにはまだまだ時間の経過が足りないし、単なる才能やその道を進まざるを得ない的な創作論だけではあの事件を取り上げる必然性が弱すぎる気がしました。
その点でいえば2019年の事件に対して2021年の1巻で完結する漫画版だからこそ、その意味を感じられましたが、2024年の映画は演出過多だし尺として水膨れだし、意味として京アニ事件の消化のマインドが見当たらなくなっており、かなり意味も品も落ちたかなという気がします。
結論としてはコミックスとほぼ同じ内容ですが、その時期や商業的製作意図として映画は駄作と言える気がします。原作既読だから感じたことかもしれませんが、映画は京アニ事件に対する気持ちが漫画版に比べてかなり薄くなっている気がしたので、あまり評価できませんでした。
意味のある・なのか
面白かったです。
登場人物が亡くなる演出はあまり好きではなくて、なんというか、死なさずに感動させてくださいと思ってしまう。特にこの話ならその必要ある?と思ってしまうのですが。
犯人の動機がそのままあの事件と同じということは、ここにもこの映画のメッセージの一つがあるのでしょうね。ここでの死は突拍子のない出来事ではなくて、描かなくてはならないものだったということなのか。
結局、主人公は背中を見ることで前を向くことが出来た。
誰もが出来るとは限らないけど、利用出来そうなものがあればなんでも利用して、それを燃料にして進んでいけたらいいのですけどね。
とか感じました。
終盤の助けれるストーリーの方に変わったらよかったのに。
と、どんなに思っても現実は変わらない。
その厳しさも受け入れないといけないんだろうな。
Primeですが。
映画で上映してた時は、
まあチェーンソーマン売れたからね。
程度の感覚で見てませんでしたが。
なんとびっくり。単純に良い作品です。
ストーリーも映像も音楽もとにかく上手い。原作あるんですよね?短編ですか?ストーリーの完成度高いでした。
最後は少し切ないラストでしたがラストの回し方も美しく。
完成度の高さを感じた作品でした。
◎◎です。
漫画家を目指す者たちに捧げた作品
漫画家を目指す少女たちの世界
アニメーション
でも彼女らの表情にはリアルさがある。
タイトルのルックバック
直訳すれば背中を見ろだが、意訳して背後に気を付けろとでも言いたいのだろうかと思いながら見ていたが、それは4コマ漫画のオチにもなっていた。
集英社の企画だろうか?
漫画家を目指す人は年々多くなっているのだろうか?
漫画家を目指す姿勢
苦悩と苦労とその生活スタイル
これらを教えたかったのか?
学校もろくに行かずに漫画と格闘している。
やがて起きること
それはどんなジャンルの仲間たちにも起こること
別の道
しばらく前から感じていた違和感
それが何なのかがわかったとき、自分が進むべき道を選択するとき。
さて、
順調に連載を続けた藤野
美大へ進学した京本
その美大で事件は起きた。
京アニ事件と同じ構造
藤野は漫画の道に京本を巻き込んだことを激しく後悔する。
彼女の家 あの日と同じスケッチブックが廊下にまで積み重ねられている。
その上に置かれた少年ジャンプ 藤野の連載 そしてあの日京本に書いた4コマ漫画
それこそが、すべてのきっかけだったことに、藤野は激しく動揺し、それを破り捨てた。
その時、あの日と同じようにその一辺がドアの向こう側へと吸い込まれていった。
さて、
京本は、彼女の意思はどこにあったのだろう?
彼女には偏屈さのかけらもない。
優しさが満ち溢れている。
背景画
物語のない佇まい
そこに感じる京本だけのシーンがあるのかもしれない。
物語のない風景
その角度や天気やモノだけで、京本の想像が大きく膨らむのだろう。
漫画とは少し違う世界
ちょっとそこに立ち寄ってみたくなっただけなのかもしれない。
ちぎられた一片の漫画を見た「あの日」の京本は、その続きを描いてみた。
そこには藤野の知る世界がコメディタッチで描いてあった。
それを見た藤野は思わず部屋のドアを開ける。
誰もいない京本の部屋
ドアにかけられていたあの日のどてら
その背中には、あの日彼女が書いたサイン 藤野歩
「背中を見ろ」
おそらくそれは、天国の京本が私の背中を見ろと言っているのと同時に、その背中に書いてある自分自身を見ろと言うことなのだろう。
つまり、自分自身を信じて、これからも漫画を描けと言うことだろう。
そして連載の「シャークキック」
藤野の漫画の内容はわからないが、足のないサメのキックというのがポイントなのだろう。
空手のキック
もしもの世界
この藤野自身が作った漫画が、もしリアルであったなら、きっと京本を襲ったあのサイコをやっつけてくれたかもしれない。
その物語を、京本が描いて見せた。
ぐるぐると回る思考のように、現在と過去とがつながった感覚
その不思議さとリアルさに、藤野の心が揺れている。
少し考えさせられて、少しじわっと来る作品だった。
シャークキックって
サメには足が無いのに、蹴ってるから、
自分には無いものでも、得意技にできるって事だとすると、
背景だけを頑張って描いてるようなあのエンドロールは、藤野もシャークキックができるようになれたのかな
作り手も読者も尊敬し合う世界
私は子供の頃から絵を描くのが好きで、35歳をすぎてからたった8ページですが漫画を描いたことがある身です。
そんな境遇からか藤野の衝動を解像度高く共感できました。
と言いながらも自分の境遇の要素はほんの小さなことで、このプロット、ストーリー、情景、声、キャラの表情、アニメ映画としては少し崩れるくらい誇張した動き、すべてが藤野と京本の心境を増幅して伝える映像だったことが自分も多くの人も原作者の魂に触れる体験をしたのだと思います。
いろいろな意見を言われる題材を漫画作品、映画作品に仕立て上げた作り手に感謝と尊敬です。
振り返る
四コマ漫画を描くことが好きな子供の成長、人生を描いた青春もの
ラストシーン、窓から見える空がだんだんと夜になるまでずっと藤野が漫画を描いている姿を見ると漫画家は孤独な仕事なんだと思う一方、その窓には亡くなった京本の部屋で見つけた4コマ漫画が貼られていて決して一人ではない、京本との思い出があるからこそ頑張れるのでないかと思った
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