ルックバックのレビュー・感想・評価
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この作品が「アニメ化をして良かった」と思える理由。
◯作品全体
本作がアニメ化されると聞いたとき、果たしてアニメ化する必要があるか、と思った。物語としても足し引きがこれ以上いらないように感じたし、マンガを題材にしている作品だからこそ、マンガという媒体で表現した時点で完成されているのではないかと感じた。そしてなにより原作が公開されたタイミングこそが、自分の心の中に深く刺さる理由だったからだ。
ただ、監督が押山清高さんだと発表された時に、それだけではない何かが見られることを予感したし、実際に本作を見て、そのとおりだったことが嬉しかった。
この作品にはアニメだからこその原作とは異なる表現があった。それは「喜び」だ。
物語としてはほとんど原作と同じだが、原作の雰囲気では表現しきれない喜びの場面や表現は、アニメーションを活かしたものだった。
なにより「アニメだからこそ」と言い切りたいのは、京本に褒められたあと藤野が家へ帰るシーン。スケール感あるカメラワークとバラバラのフォームでスキップする藤野の大げさな感じが、藤野の心で爆発する喜びに直結していた。いろいろな角度やカメラの距離感で藤野を映しているのも素晴らしい。どこから見ても溢れている藤野の喜びは水たまりや背中のランドセルに反射する光ともリンクしていて、カメラの位置や藤野の動きによって光り方が変化する。アニメーションで描くには非常に難易度のあるレイアウトだが、破綻させず、そして押山監督のタイミングとタッチを加え、唯一無二の「喜び」を表現していた。
藤野の「喜び」に対して京本の「喜び」の表現は、外へ出かける二人のつないだ手と、手を引く藤野を見る京本の主観カットだ。絵を描く楽しさと、自分の世界を広げてくれる道しるべのような存在である藤野。その藤野との時間を京本だけが感じることができる「喜び」を主観カットで表現する巧さ。京本から見た藤野とその周りとのディティールや色味、彩度の差異は、アニメーションだからこそできる強弱の付け方だ。
原作を読んだ時、「京本が死んだの私のせいじゃん」という言葉が完璧に払しょくされたラストとは感じなかった。藤野の下へ落ちてきた4コマを受取り、「京本の分まで」というような決意を含んでいたように見えた。原作者・藤本タツキの描く人物は、そういう「影」とか「重さ」を眼に宿しているからだと思う。それが藤本作品の好きな部分でもあり、原作の持ち味でもあるのは確かだ。
しかし本作では「喜び」の表現があったことで、4コマを受取った藤野の回想が「それでも今まで京本と感じた喜びや経験は消えずにある」という前向きな感情を含んだもののように映った。振り返ることを贖罪のように「背負う」とした原作と、自分を形作るかけがえなのない時間として「胸に抱く」とした本作の差異が、この場面で強く出たように感じた。
物語の筋はほとんど変わらない原作と本作。しかしそれぞれの媒体の特徴と、それぞれの作家性によって受取るものは大きく異なっていて、それぞれに説得力がある。こういう作品を見た時、私は「この作品がアニメ化して良かった」と、心の底から思うのだ。
〇カメラワークとか
・極端な俯瞰やあおりのカットは前半と後半で割合が異なっていた。前半は俯瞰が多い。ファーストカットもそうだし、京本の家へ行くシーンや、藤野が喜びを爆発させるシーンも。個人的には後半と対比する「世界の小ささ」の演出に感じた。ファーストカットは宇宙から藤野の家へとクローズアップしていく。小さな日本の、小さな町の、小さな家の小さな部屋。そこから始まる小さな物語…というような。
一方で後半はあおりのカットが印象に残った。例えば京本が美大へ行くことを藤野へ伝えるカット。京本の横顔をあおりで捉え、奥には夕空から夜へと変わりつつある空を映す。物語の予兆でもあり、「宇宙の入り口」のような夜空を感じさせる空でもあった。
〇その他
・一番好きなカットは、京本の描いた4コマが藤野の足元へと落ちるシーンのカーテンのカット。この作品の一番のファンタジーは4コマを流す風だと思うんだけど、フィクションでたまに見るこの表現は実写だと凄く嘘くさくなるし、マンガでは静止画でしか表現できない。でも、アニメだと嘘くささがないし、その動きを表現できる。このカットの風は絶望に沈み切った藤野を救う風であって、その風が誰かを救うことができるのは前半で証明してる。ここで風が吹くということを視聴者側も含めてみんなが願っている中で、ふわっとカーテンが揺れて風が流れていく。その風には藤野が再び前を向くことを願う感情が乗っているような気がして、とてもグッときた。カーテンのなびき作画もとても良かった。部屋の中へ風を押し込もうとする透明な手が見えるような、そんななびき方だった。
友達は要らない。共に戦う仲間を集え。
などという受け売りを何処かで聴いたことがあります。これは極端な考えです。極端に尖った人生を送りたければ、友達は要らない。一緒に協力して目標を目指すための仲間が必要だということです。
ここでいう友達とは、一緒に遊んで共感しあい、日々の生活の楽しみや愚痴や思い出話に浸る遊び仲間のことです。学校の帰りにアイスを食べたり、家族と一緒にテレビを見たり。主人公・藤野が途中で漫画を書くのを止めて送った日々がそれです。
漫画を書く。芸術を極める。誰よりも上手くなり、自分の希少価値を高めて、収益を得られるほどの専門家となる。この映画でいう「漫画家を目指す」という道はそういうことではないかと思いました。遊びも勉強も何もかも捨てて、一心不乱に書き続ける。ただ、書き続けるバカになれ。さっさと書け、バカ。ということでしょう。
勿論、そういう人生ではなく友達と遊び、家族と共に過ごして人間関係を大切にする人生を送る方がよっぽど素晴らしいかも知れません。主人公・藤野のお姉さんが苦言した通りです。お姉さんのいうことは実に正しい。
そこに引きこもり・京本が現れた。京本は藤野を「藤野先生」と呼んでいたが、画力に関してだけは京本が圧倒的に上。その理由は劇中で描かれていた通り、ただ書くだけの生活を送っていた京本が上なのは当たりまえ。画力に限れば京本の方が「先生」と呼んだ方が良さそうだけど、書くばかりで普通の生活を知らず、漫画を書いてもオチもストーリーも皆無に近い。それと比べて、ある程度は社会に適合していた主人公・藤野の方が漫画家としての持ちネタが豊富。世間を知ることも漫画家には大事。だから、本物の漫画家が取材のため休載するのはその理由。専門家じゃないんだから料理や警察、競馬に競艇、格闘技など知識が必要。
そういえば、劇中でテレビをつけっぱなしで仕事をしていたけど、そういうのも必要なんだそうですね。無意識に知識を流し込む。日々、ネタ集めの勉強が必要で、ネタ帳片手などもそのため。お笑い芸人さんだってJR環状線回りっぱなしで人間観察するのだとか。
いろいろ長文を並べちゃいましたが、劇中の彼女達の動向がいちいち納得できるということです。この作品はアニメーター自身の自分語りに相当するお話で、自分達が送ってきた自分達の物語を描いているから、取材不要でリアリズムにあふれた作品づくりが出来たのでは無いかと思います。いや、本当のところ、作家さんの生活はそこまで詳しくないけど。
入選して貰った賞金でお祝いする二人の様子も、なんだか判る気がするなあ。10万円用意して、結局、5千円しか使えなかった点。遊びを知らない二人だから、どんなに頑張っても、それぐらいしか無駄遣いが出来ないんでしょう。いや、よく頑張ったと思います。美味しいもの食べても話が弾む二人なのかどうか。ぜったい間が持たずに「次行こう。えっと何処行こう」って迷っているはずw これから書く作品のネタとか、そういう話なら弾みそうだけど。常に遊びを知らず延々と作業に勤しむ二人だからこそ、無駄遣いの仕方も知らない。
そんな目標に進むだけの二人が唯一、過去を振り返ったシーン。それがラストの走馬灯ではなかったかと思います。IFの世界にタイムスリップした引きこもり・京本が、主人公・藤野が鍛えた空手で助けられ、そのタイムスリップならぬタイムトリップから我に返って見た走馬灯。それが唯一、藤野が京本と共に思い出話に浸った走馬灯ではなかったか。死に至り、最後だからこそ二人で振り返った走馬灯。遊びを知らず、ひたすら書き続けた二人の思い出。さぞ、「あのときはこうだったね」と語り明かしたかったことでしょう。作画の使い回しではなく、二人で過ごした日々が生き生きと描かれていたシーンが、とてつもないほど愛おしかった。
でも振り返るのは其処まで。藤野はまた、タブレットに向かって走り出す。その姿を見続けるスタッフロールで幕が閉じられましたが、何の苦も無く、夜明けまで書き続ける彼女の姿を、最後まで見届けることが出来ました。上映中の他のお客さんもそうだったのかな。今回、劇場では灯りが付くまで誰一人立ち上がる人は居ませんでした。
勿論、劇中の事件は例の京アニ事件がモデルでしょう。経緯は知りませんが、あの事件のやりきれなかった悔しさをぶつけたのがこの作品だったのかも知れません。
あの犯人が何を奪ったのか。若い頃からひたすら書き続ける日々を送っていた漫画家やアニメーター、イラストレーターがどれほどの研鑽を重ねてきたのか。自分の思い込みだけで全てを台無しにしてしまったのだぞ、と。
こうした画力のみならず、音楽家・芸術家やスポーツなど、専門の技術で生きていくためには、並大抵の努力と経験では成し得ない人生を歩むほかはないのでしょう。いや、自分はそうでないけど、なんとなく判る気がします。仕事は希少価値です。例えば、絵描きになりたければ少なくとも全国で100位以内ぐらい絵が上手くなければ名は売れないでしょう。100位です。1億ウン千万人中のトップ100位です。100人以上、絵描きの名をあげれますか? 上手くなるだけでなく、売れっ子になるというのはそういうことだと私は思います。
本当に何かを目指している人。頑張って。
描く理由と喜びと、そしてレクイエム
これは、映画だ。原作を初めて読んだ時、そう思った。
藤本タツキの漫画は「ルックバック」「さよなら絵梨」の読切2作しか読んでいないので、作者について十分に語る言葉を持たないが、カット割や絵で語る表現など、そのままスクリーンに落とし込んでも違和感がないように思えた。
そんな原作のアニメ化。尺は58分と短い。余計なものが付け加えられることはなさそうだとは思ったが、想像以上に原作に忠実だった。それでいて、既に内容を知っている私にも改めて刺さるものがあり、2時間の佳作映画に引けを取らない見応えに心が震えた。
やはり、「ルックバック」の語り方は映画だった。忠実な映像化でそれが証明された気がする。
物語の主題はふたつあると私は受け止めている。
ひとつは、藤本タツキの創作衝動の原点だ。何が彼に作品を描かせるのかということを、主人公の藤野の言動に仮託して語っている。絵の上手い京本への健全なライバル心に突き動かされるところから始まり、やがては彼女と創作の喜びを分かち合い、その分かち合い自体がモチベーションになってゆく。
小学生の藤野は、ちょっと共感性羞恥を覚えるようなキャラだ。井の中の蛙であるがゆえの万能感……とはいえ、あの4コマ漫画の起承転結は、藤野の方が最初から十分上手いのだ。この才能の方が漫画家には重要だと思うが、藤野は京本の絵を見て落ち込み、やがては描くことをやめてしまう。
その後、卒業式の日に京本と出会わず、あの賞賛を受けなかった世界線では、大学生くらいの年齢になるまで漫画を描かないまま空手を嗜むなどして過ごしている。誰かから認められること、喜ばれることが、いかに人に勇気を与えるか。また、そこから得られる喜びは時に人生をも変え得る力を持つということが、2つの世界線の対比から伝わってくる。
終盤の、「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」という問いへの答えとして流れる走馬灯は、原作よりも多くの場面を描き出している。だから自分は描くんだ、という藤本タツキの声が聞こえてくるようだ。彼にとっての京本は、似たような関係の身近な誰かかもしれないし、あるいは読者なのかもしれない。そしてその動機は、多くのクリエイターに共通するものでもあるだろう。
もうひとつは、京アニ事件の鎮魂だ。私個人の解釈に過ぎないことを前置きしておく。
物語終盤で京本を襲う通り魔の台詞や表現。原作が発表された当時「統合失調症を想起させる表現」「京アニ事件の遺族・関係者に対し無遠慮だ」といった声が一部であがった。また、精神科医の斉藤環氏が、藤本ファンを公言し本作を称賛しながらも「通り魔の描写だけネガティブなステレオタイプ、つまりスティグマ的になっている。単行本化に際してはご配慮いただければ」とツイートし、noteでもその主張を補足する記事をあげた。そういった意見を受けてか、通り魔の台詞は2回に渡り変更された。ただ、最終的に単行本に収録されたバージョンは、1回目の修正で別の言葉に変更されていた「元々俺のをパクったんだっただろ!?」が「パクってんじゃねえええええ」となって(ある程度)復活し(直前の台詞も変化しているが、長くなるので割愛)、映画でもそのまま使われている。
多くの人に読まれた作品だからこそ、さまざまな見方が出てくるのは仕方ない。誤った見方が広まるのではという心配も、わからなくもない。だが個人的にはあのシーンは京アニ事件に向けたもので、修正前の通り魔の台詞は、あのキャラクターから事件の犯人個人を想起させるためのものに見えた。だからあの台詞には必然性があった。心を病んだ人の単なるステレオタイプだとは思わない。
そして、あのパラレルワールドは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のオマージュだ。
(以下、「ワンス・〜」の結末を書きます)
史実では人違いでシャロン・テートを殺害したマンソン・ファミリーを、映画ではクリフとリックが完膚なきまでにボコボコにし、凶行が起こらない世界が描かれた。
現実世界の理不尽な悲劇に、フィクションの世界でだけでもささやかに、せめてもの仇討ちをする。そして、クリエイターたちの情熱はそんな理不尽になど負けないと、高らかに宣言する。本作は、そんな切実な思いのこもった物語でもあるのではないだろうか。
その物語が映像として動き出し、そういったメッセージとともにアニメーション表現の素晴らしさをも伝えてゆく。そんな熱い58分間なのだと思う。
反語的に「前を向こう」と励ます、心の友のような大傑作
Prime Videoでの鑑賞となったが、劇場公開と同じ年に出会えたことに感謝したい。アニメシリーズ「チェンソーマン」は大のお気に入りとはいえ、藤本タツキについてはその原作者としてしか知らなかったが、自身の半生と現実の事件をこんなふうに投影し紡ぎ合わせて力強いフィクションを創作できるのかと驚嘆し、今さらながら敬服。原作未読だが、脚本も担った押山清高監督の仕事も的確だったに違いない。キャラクターたちの画としての魅力、アニメーションのダイナミックな動きの面白さと繊細な変化の情感、そしてストーリーの味わい深さが完璧に凝縮された奇跡のような本編58分。(なおアマプラでの視聴だとエンドロールが始まった途端に「次のエピソード」とか表示が出て放っておくと数秒で自動的に飛ばされてしまうのだけど、あれは本当に余計なお世話! 藤野がひとり向かうデスクの前の窓に映る街の景色がエンドロール数分の間にゆっくりと夜景に変化するまでが作品であり、繊細な描写と余韻を味わう豊かな時間なのに)
鑑賞後、原作漫画についての考察記事やWikipediaの項などを読んで、オアシスの代表曲「Don't Look Back in Anger」や映画「バタフライ・エフェクト」などからの影響やオマージュが指摘されているのを知り、そういえば「バタフライ~」のエンディングにはやはりオアシスの「Stop Crying Your Heart Out」が流れていていい感じだったなとか、関連して思い出したこともいくつかあった。考えてみると「バタフライ~」のラストでの主人公の選択と、この「ルックバック」での終盤に展開する「あり得たかもしれないもう一つの世界線」は近いものがあるが、具体的に書くと両作品のネタバレになるのでここまでにとどめておく。
オアシスの「Don't Look Back in Anger」の題がデヴィッド・ボウイとブライアン・イーノの共作「Look Back in Anger」への返歌的につけられたこともWikipediaで知った。オアシスの2曲と「ルックバック」(look backを直訳するなら、後ろを見ろ、振り返れ)に共通するのは、過去の選択を悔み続けたり、起きてしまった悲劇に怒りや恨みを抱き続けたりしても何も変わらない、きちんと受け止めたうえで、前を向いて将来のため自分にできることをやっていこう、というポジティブなメッセージ。その意味で、「ルックバック」は反語的に「前を向こう」と私たちを励ましてくれる、心の友のような大傑作なのだ。
絵は人の心を動かす
いきなり手描きの背景動画で魅せてくれる。最近は3DCGで背景を動かすことが多いけれど、手で動かす背動をあえてやることが、この作品の映画化には必要だった。手で描くことがこの作品には重要。絵を描く二人の軌跡を手で描くことにこだわることがこの作品には必要だった。それによって、物語には収まらない「絵描き」に対する賛美があふれることになった。
漫画は絵で構成される、アニメも絵で構成される。しかし、絵の上手さとマンガの上手さは異なる。京本は絵が上手い。藤野はマンガが上手い。藤野のマンガの上手さに京本は心を動かされる。京本の絵の上手さに一度心が折れかける藤野は京本との共同作業でマンガへの情熱を取り戻す。絵の上手さとマンガの上手さが共鳴しあって、二人は駆け上っていく。
そういう物語をものすごく上手いアニメーション映像で描くことで、絵の上手さとマンガの上手さにアニメの上手さが重なり共鳴しあう、多層的な作品として完成している。
「絵による映像」であることに徹底的に自覚的な作り方をしており、その快楽が全編にみなぎっている。絵は人の心を動かす。
これはアカン!
文芸映画並
1時間映画なのにハンパない
1時間で完成されたドラマティックストーリー
まさか見られるとは思わなかった。胸が熱くなる。藤野は最後まで、京本...
まさか見られるとは思わなかった。胸が熱くなる。藤野は最後まで、京本に嫉妬したことを話さない。空手のラストシーンはそれこそ漫画の夢だ。背中の凶器も含め。大事なコミュニケーションが4コマ漫画でやり取りされるのも素晴らしい。出なかったら死ななかっと嘆く気持ちもわかる。
1時間に込められた高い表現力と雄弁さ。
直向きな思春期のスピード感と熱量、直向きさ。そしてアニメーション業界のみならず社会を震撼させた、2度とあってはならない事件に対するオマージュ。
たった1時間なのに人生の大切な期間を雄弁に描けるチカラに、実写映画とは違うアニメーションのさらなる可能性を感じられた。
アニメ作品は積極的に観る機会はないものの、エールと良い余韻が残る作品だった。
つん、と立ち昇る女の子の汗感
あるきつづけよう
河合優美
評価の高さが理解できなかった
60分足らずでこんなに中身の濃い作品が出来るとは。
ここ数年で一番良かった
映画のレビューはいつもまあおもろいかな3点、うまい+0.5、すげーや+0.5点、個人的に好きすぎる+0.5~1点という感じでつけているが、これはすべてを計算して5点だった。それくらいよかったな。
ルックバックは読み切りが掲載されたときにも読んだのだが、「まあおもろいね、流石だね」という感じ。それから映画化して、レビューがいいというのは耳にしていたが、元来漫画派の私は「うーん、まあええやろ」と見るのを先延ばしにした。それからも先延ばしにしていたが、年が明ける瞬間寝る前、なにか映画を見よう。このタイミング、このおふとんがふかふかの状態に最適なものを見ようと思った。それがルックバックである。
正直最初はまあ、普通だなー、普通だなーという感じだった。まあ無難におもろいなーという感じ。それが衝撃的な事件がいきなりナイフのように降ってきて、おいおいハッピーエンド信者の私もそこからどうやってこっからハッピエーエンドになるんじゃと目が釘付けになった。後半は「ルックバック」というテーマとも伏線とも取れるすべてが回収され、「あーこれはこれはもう完璧や」となった。トドメを指したのはエンドロールである。
エンドロール丸ごと含めて、これは「映画」なんだと思った。単なるアニメ化じゃなくて、監督がクリエイターがアニメーターが解釈して、表現した映画なんだと思った。昨今は生成AIでそれっぽい映像がすぐ作れるぜ、アニメ制作にも取り入れようぜと新興企業がニョキニョキ出てきているが、このシーンのこの山の形、色味、このアングル、すべてが表現者の意図がある中で、それっぽいなにかじゃなくて、「これじゃないといけない」なにかがあるような「表現」が凝縮されていて、これが表現するということの一つの意味なのだろうと思った。
2025年のはじめにこれを見れたのはとてもいい感じだ。
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