ルックバックのレビュー・感想・評価
全764件中、1~20件目を表示
君の笑顔を見たいから
原作で号泣した人間なので、映画化は不安でいっぱいだったのですが、、、思い切って観に行ってよかった。
声優、音楽、動きともに脳内のイメージと大きく変わらない。いやあ、なかなかないよ、そういうの。
どちらが良かったか?と問われれば、そこはコミックの方になる。ただ先に出会った方がどうしてもインパクトあるので厳密に比較することはできない。逆だったら、この映画の方だった可能性も高い。というか、比較することに意味はない。言いたいのはそれぐらい原作コミックの「間」「行間」「雰囲気」をうまく掬い取っていた映画だということ。
二人の協同作業のシーンが眩しい。
「だいたい漫画ってさあ…私描くのはまったく好きじゃないんだよね。楽しくないしメンドクくさいだけだし、超地味だし。一日中ずーっと描いてても全然完成しないんだよ。読むだけにしといたほうがいいね。描くもんじゃないよ。」
「じゃあ、藤野ちゃんはなんで描いてるの?」
この作品が「アニメ化をして良かった」と思える理由。
◯作品全体
本作がアニメ化されると聞いたとき、果たしてアニメ化する必要があるか、と思った。物語としても足し引きがこれ以上いらないように感じたし、マンガを題材にしている作品だからこそ、マンガという媒体で表現した時点で完成されているのではないかと感じた。そしてなにより原作が公開されたタイミングこそが、自分の心の中に深く刺さる理由だったからだ。
ただ、監督が押山清高さんだと発表された時に、それだけではない何かが見られることを予感したし、実際に本作を見て、そのとおりだったことが嬉しかった。
この作品にはアニメだからこその原作とは異なる表現があった。それは「喜び」だ。
物語としてはほとんど原作と同じだが、原作の雰囲気では表現しきれない喜びの場面や表現は、アニメーションを活かしたものだった。
なにより「アニメだからこそ」と言い切りたいのは、京本に褒められたあと藤野が家へ帰るシーン。スケール感あるカメラワークとバラバラのフォームでスキップする藤野の大げさな感じが、藤野の心で爆発する喜びに直結していた。いろいろな角度やカメラの距離感で藤野を映しているのも素晴らしい。どこから見ても溢れている藤野の喜びは水たまりや背中のランドセルに反射する光ともリンクしていて、カメラの位置や藤野の動きによって光り方が変化する。アニメーションで描くには非常に難易度のあるレイアウトだが、破綻させず、そして押山監督のタイミングとタッチを加え、唯一無二の「喜び」を表現していた。
藤野の「喜び」に対して京本の「喜び」の表現は、外へ出かける二人のつないだ手と、手を引く藤野を見る京本の主観カットだ。絵を描く楽しさと、自分の世界を広げてくれる道しるべのような存在である藤野。その藤野との時間を京本だけが感じることができる「喜び」を主観カットで表現する巧さ。京本から見た藤野とその周りとのディティールや色味、彩度の差異は、アニメーションだからこそできる強弱の付け方だ。
原作を読んだ時、「京本が死んだの私のせいじゃん」という言葉が完璧に払しょくされたラストとは感じなかった。藤野の下へ落ちてきた4コマを受取り、「京本の分まで」というような決意を含んでいたように見えた。原作者・藤本タツキの描く人物は、そういう「影」とか「重さ」を眼に宿しているからだと思う。それが藤本作品の好きな部分でもあり、原作の持ち味でもあるのは確かだ。
しかし本作では「喜び」の表現があったことで、4コマを受取った藤野の回想が「それでも今まで京本と感じた喜びや経験は消えずにある」という前向きな感情を含んだもののように映った。振り返ることを贖罪のように「背負う」とした原作と、自分を形作るかけがえなのない時間として「胸に抱く」とした本作の差異が、この場面で強く出たように感じた。
物語の筋はほとんど変わらない原作と本作。しかしそれぞれの媒体の特徴と、それぞれの作家性によって受取るものは大きく異なっていて、それぞれに説得力がある。こういう作品を見た時、私は「この作品がアニメ化して良かった」と、心の底から思うのだ。
〇カメラワークとか
・極端な俯瞰やあおりのカットは前半と後半で割合が異なっていた。前半は俯瞰が多い。ファーストカットもそうだし、京本の家へ行くシーンや、藤野が喜びを爆発させるシーンも。個人的には後半と対比する「世界の小ささ」の演出に感じた。ファーストカットは宇宙から藤野の家へとクローズアップしていく。小さな日本の、小さな町の、小さな家の小さな部屋。そこから始まる小さな物語…というような。
一方で後半はあおりのカットが印象に残った。例えば京本が美大へ行くことを藤野へ伝えるカット。京本の横顔をあおりで捉え、奥には夕空から夜へと変わりつつある空を映す。物語の予兆でもあり、「宇宙の入り口」のような夜空を感じさせる空でもあった。
〇その他
・一番好きなカットは、京本の描いた4コマが藤野の足元へと落ちるシーンのカーテンのカット。この作品の一番のファンタジーは4コマを流す風だと思うんだけど、フィクションでたまに見るこの表現は実写だと凄く嘘くさくなるし、マンガでは静止画でしか表現できない。でも、アニメだと嘘くささがないし、その動きを表現できる。このカットの風は絶望に沈み切った藤野を救う風であって、その風が誰かを救うことができるのは前半で証明してる。ここで風が吹くということを視聴者側も含めてみんなが願っている中で、ふわっとカーテンが揺れて風が流れていく。その風には藤野が再び前を向くことを願う感情が乗っているような気がして、とてもグッときた。カーテンのなびき作画もとても良かった。部屋の中へ風を押し込もうとする透明な手が見えるような、そんななびき方だった。
友達は要らない。共に戦う仲間を集え。
などという受け売りを何処かで聴いたことがあります。これは極端な考えです。極端に尖った人生を送りたければ、友達は要らない。一緒に協力して目標を目指すための仲間が必要だということです。
ここでいう友達とは、一緒に遊んで共感しあい、日々の生活の楽しみや愚痴や思い出話に浸る遊び仲間のことです。学校の帰りにアイスを食べたり、家族と一緒にテレビを見たり。主人公・藤野が途中で漫画を書くのを止めて送った日々がそれです。
漫画を書く。芸術を極める。誰よりも上手くなり、自分の希少価値を高めて、収益を得られるほどの専門家となる。この映画でいう「漫画家を目指す」という道はそういうことではないかと思いました。遊びも勉強も何もかも捨てて、一心不乱に書き続ける。ただ、書き続けるバカになれ。さっさと書け、バカ。ということでしょう。
勿論、そういう人生ではなく友達と遊び、家族と共に過ごして人間関係を大切にする人生を送る方がよっぽど素晴らしいかも知れません。主人公・藤野のお姉さんが苦言した通りです。お姉さんのいうことは実に正しい。
そこに引きこもり・京本が現れた。京本は藤野を「藤野先生」と呼んでいたが、画力に関してだけは京本が圧倒的に上。その理由は劇中で描かれていた通り、ただ書くだけの生活を送っていた京本が上なのは当たりまえ。画力に限れば京本の方が「先生」と呼んだ方が良さそうだけど、書くばかりで普通の生活を知らず、漫画を書いてもオチもストーリーも皆無に近い。それと比べて、ある程度は社会に適合していた主人公・藤野の方が漫画家としての持ちネタが豊富。世間を知ることも漫画家には大事。だから、本物の漫画家が取材のため休載するのはその理由。専門家じゃないんだから料理や警察、競馬に競艇、格闘技など知識が必要。
そういえば、劇中でテレビをつけっぱなしで仕事をしていたけど、そういうのも必要なんだそうですね。無意識に知識を流し込む。日々、ネタ集めの勉強が必要で、ネタ帳片手などもそのため。お笑い芸人さんだってJR環状線回りっぱなしで人間観察するのだとか。
いろいろ長文を並べちゃいましたが、劇中の彼女達の動向がいちいち納得できるということです。この作品はアニメーター自身の自分語りに相当するお話で、自分達が送ってきた自分達の物語を描いているから、取材不要でリアリズムにあふれた作品づくりが出来たのでは無いかと思います。いや、本当のところ、作家さんの生活はそこまで詳しくないけど。
入選して貰った賞金でお祝いする二人の様子も、なんだか判る気がするなあ。10万円用意して、結局、5千円しか使えなかった点。遊びを知らない二人だから、どんなに頑張っても、それぐらいしか無駄遣いが出来ないんでしょう。いや、よく頑張ったと思います。美味しいもの食べても話が弾む二人なのかどうか。ぜったい間が持たずに「次行こう。えっと何処行こう」って迷っているはずw これから書く作品のネタとか、そういう話なら弾みそうだけど。常に遊びを知らず延々と作業に勤しむ二人だからこそ、無駄遣いの仕方も知らない。
そんな目標に進むだけの二人が唯一、過去を振り返ったシーン。それがラストの走馬灯ではなかったかと思います。IFの世界にタイムスリップした引きこもり・京本が、主人公・藤野が鍛えた空手で助けられ、そのタイムスリップならぬタイムトリップから我に返って見た走馬灯。それが唯一、藤野が京本と共に思い出話に浸った走馬灯ではなかったか。死に至り、最後だからこそ二人で振り返った走馬灯。遊びを知らず、ひたすら書き続けた二人の思い出。さぞ、「あのときはこうだったね」と語り明かしたかったことでしょう。作画の使い回しではなく、二人で過ごした日々が生き生きと描かれていたシーンが、とてつもないほど愛おしかった。
でも振り返るのは其処まで。藤野はまた、タブレットに向かって走り出す。その姿を見続けるスタッフロールで幕が閉じられましたが、何の苦も無く、夜明けまで書き続ける彼女の姿を、最後まで見届けることが出来ました。上映中の他のお客さんもそうだったのかな。今回、劇場では灯りが付くまで誰一人立ち上がる人は居ませんでした。
勿論、劇中の事件は例の京アニ事件がモデルでしょう。経緯は知りませんが、あの事件のやりきれなかった悔しさをぶつけたのがこの作品だったのかも知れません。
あの犯人が何を奪ったのか。若い頃からひたすら書き続ける日々を送っていた漫画家やアニメーター、イラストレーターがどれほどの研鑽を重ねてきたのか。自分の思い込みだけで全てを台無しにしてしまったのだぞ、と。
こうした画力のみならず、音楽家・芸術家やスポーツなど、専門の技術で生きていくためには、並大抵の努力と経験では成し得ない人生を歩むほかはないのでしょう。いや、自分はそうでないけど、なんとなく判る気がします。仕事は希少価値です。例えば、絵描きになりたければ少なくとも全国で100位以内ぐらい絵が上手くなければ名は売れないでしょう。100位です。1億ウン千万人中のトップ100位です。100人以上、絵描きの名をあげれますか? 上手くなるだけでなく、売れっ子になるというのはそういうことだと私は思います。
本当に何かを目指している人。頑張って。
描く理由と喜びと、そしてレクイエム
これは、映画だ。原作を初めて読んだ時、そう思った。
藤本タツキの漫画は「ルックバック」「さよなら絵梨」の読切2作しか読んでいないので、作者について十分に語る言葉を持たないが、カット割や絵で語る表現など、そのままスクリーンに落とし込んでも違和感がないように思えた。
そんな原作のアニメ化。尺は58分と短い。余計なものが付け加えられることはなさそうだとは思ったが、想像以上に原作に忠実だった。それでいて、既に内容を知っている私にも改めて刺さるものがあり、2時間の佳作映画に引けを取らない見応えに心が震えた。
やはり、「ルックバック」の語り方は映画だった。忠実な映像化でそれが証明された気がする。
物語の主題はふたつあると私は受け止めている。
ひとつは、藤本タツキの創作衝動の原点だ。何が彼に作品を描かせるのかということを、主人公の藤野の言動に仮託して語っている。絵の上手い京本への健全なライバル心に突き動かされるところから始まり、やがては彼女と創作の喜びを分かち合い、その分かち合い自体がモチベーションになってゆく。
小学生の藤野は、ちょっと共感性羞恥を覚えるようなキャラだ。井の中の蛙であるがゆえの万能感……とはいえ、あの4コマ漫画の起承転結は、藤野の方が最初から十分上手いのだ。この才能の方が漫画家には重要だと思うが、藤野は京本の絵を見て落ち込み、やがては描くことをやめてしまう。
その後、卒業式の日に京本と出会わず、あの賞賛を受けなかった世界線では、大学生くらいの年齢になるまで漫画を描かないまま空手を嗜むなどして過ごしている。誰かから認められること、喜ばれることが、いかに人に勇気を与えるか。また、そこから得られる喜びは時に人生をも変え得る力を持つということが、2つの世界線の対比から伝わってくる。
終盤の、「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」という問いへの答えとして流れる走馬灯は、原作よりも多くの場面を描き出している。だから自分は描くんだ、という藤本タツキの声が聞こえてくるようだ。彼にとっての京本は、似たような関係の身近な誰かかもしれないし、あるいは読者なのかもしれない。そしてその動機は、多くのクリエイターに共通するものでもあるだろう。
もうひとつは、京アニ事件の鎮魂だ。私個人の解釈に過ぎないことを前置きしておく。
物語終盤で京本を襲う通り魔の台詞や表現。原作が発表された当時「統合失調症を想起させる表現」「京アニ事件の遺族・関係者に対し無遠慮だ」といった声が一部であがった。また、精神科医の斉藤環氏が、藤本ファンを公言し本作を称賛しながらも「通り魔の描写だけネガティブなステレオタイプ、つまりスティグマ的になっている。単行本化に際してはご配慮いただければ」とツイートし、noteでもその主張を補足する記事をあげた。そういった意見を受けてか、通り魔の台詞は2回に渡り変更された。ただ、最終的に単行本に収録されたバージョンは、1回目の修正で別の言葉に変更されていた「元々俺のをパクったんだっただろ!?」が「パクってんじゃねえええええ」となって(ある程度)復活し(直前の台詞も変化しているが、長くなるので割愛)、映画でもそのまま使われている。
多くの人に読まれた作品だからこそ、さまざまな見方が出てくるのは仕方ない。誤った見方が広まるのではという心配も、わからなくもない。だが個人的にはあのシーンは京アニ事件に向けたもので、修正前の通り魔の台詞は、あのキャラクターから事件の犯人個人を想起させるためのものに見えた。だからあの台詞には必然性があった。心を病んだ人の単なるステレオタイプだとは思わない。
そして、あのパラレルワールドは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のオマージュだ。
(以下、「ワンス・〜」の結末を書きます)
史実では人違いでシャロン・テートを殺害したマンソン・ファミリーを、映画ではクリフとリックが完膚なきまでにボコボコにし、凶行が起こらない世界が描かれた。
現実世界の理不尽な悲劇に、フィクションの世界でだけでもささやかに、せめてもの仇討ちをする。そして、クリエイターたちの情熱はそんな理不尽になど負けないと、高らかに宣言する。本作は、そんな切実な思いのこもった物語でもあるのではないだろうか。
その物語が映像として動き出し、そういったメッセージとともにアニメーション表現の素晴らしさをも伝えてゆく。そんな熱い58分間なのだと思う。
反語的に「前を向こう」と励ます、心の友のような大傑作
Prime Videoでの鑑賞となったが、劇場公開と同じ年に出会えたことに感謝したい。アニメシリーズ「チェンソーマン」は大のお気に入りとはいえ、藤本タツキについてはその原作者としてしか知らなかったが、自身の半生と現実の事件をこんなふうに投影し紡ぎ合わせて力強いフィクションを創作できるのかと驚嘆し、今さらながら敬服。原作未読だが、脚本も担った押山清高監督の仕事も的確だったに違いない。キャラクターたちの画としての魅力、アニメーションのダイナミックな動きの面白さと繊細な変化の情感、そしてストーリーの味わい深さが完璧に凝縮された奇跡のような本編58分。(なおアマプラでの視聴だとエンドロールが始まった途端に「次のエピソード」とか表示が出て放っておくと数秒で自動的に飛ばされてしまうのだけど、あれは本当に余計なお世話! 藤野がひとり向かうデスクの前の窓に映る街の景色がエンドロール数分の間にゆっくりと夜景に変化するまでが作品であり、繊細な描写と余韻を味わう豊かな時間なのに)
鑑賞後、原作漫画についての考察記事やWikipediaの項などを読んで、オアシスの代表曲「Don't Look Back in Anger」や映画「バタフライ・エフェクト」などからの影響やオマージュが指摘されているのを知り、そういえば「バタフライ~」のエンディングにはやはりオアシスの「Stop Crying Your Heart Out」が流れていていい感じだったなとか、関連して思い出したこともいくつかあった。考えてみると「バタフライ~」のラストでの主人公の選択と、この「ルックバック」での終盤に展開する「あり得たかもしれないもう一つの世界線」は近いものがあるが、具体的に書くと両作品のネタバレになるのでここまでにとどめておく。
オアシスの「Don't Look Back in Anger」の題がデヴィッド・ボウイとブライアン・イーノの共作「Look Back in Anger」への返歌的につけられたこともWikipediaで知った。オアシスの2曲と「ルックバック」(look backを直訳するなら、後ろを見ろ、振り返れ)に共通するのは、過去の選択を悔み続けたり、起きてしまった悲劇に怒りや恨みを抱き続けたりしても何も変わらない、きちんと受け止めたうえで、前を向いて将来のため自分にできることをやっていこう、というポジティブなメッセージ。その意味で、「ルックバック」は反語的に「前を向こう」と私たちを励ましてくれる、心の友のような大傑作なのだ。
絵は人の心を動かす
いきなり手描きの背景動画で魅せてくれる。最近は3DCGで背景を動かすことが多いけれど、手で動かす背動をあえてやることが、この作品の映画化には必要だった。手で描くことがこの作品には重要。絵を描く二人の軌跡を手で描くことにこだわることがこの作品には必要だった。それによって、物語には収まらない「絵描き」に対する賛美があふれることになった。
漫画は絵で構成される、アニメも絵で構成される。しかし、絵の上手さとマンガの上手さは異なる。京本は絵が上手い。藤野はマンガが上手い。藤野のマンガの上手さに京本は心を動かされる。京本の絵の上手さに一度心が折れかける藤野は京本との共同作業でマンガへの情熱を取り戻す。絵の上手さとマンガの上手さが共鳴しあって、二人は駆け上っていく。
そういう物語をものすごく上手いアニメーション映像で描くことで、絵の上手さとマンガの上手さにアニメの上手さが重なり共鳴しあう、多層的な作品として完成している。
「絵による映像」であることに徹底的に自覚的な作り方をしており、その快楽が全編にみなぎっている。絵は人の心を動かす。
尺は短いけど心に沁みる良作
大いなる人間讃歌を感じる話
感想
大評判の作品。気になっていたがやっと観れたー。
だけど私はアニメファンではない。ただの映画好きだ。しかし、
人が想いを馳せその先の目標に向う姿。
さらにひたむきに何かに取り組む姿。
一心不乱にのめり込む。
絵が上手くなりたい一心で描き続ける。
描き続ける。描き続ける。描き続ける。
描き続ける。
とにかく描く。それでも描く。描き続ける。
描き続ける。
描き続けるー。
一つのことをやり続ける事。どんな事でもやり続け、その事を極めた者だけが見ることの出来るその先の景色。
真摯に真面目に取り組んで創るからこそ、そこには人が感動する何かが必ず生まれる。
真摯に真面目に。悶え這いつくばりながらー。
それでも描き続ける。
一心不乱に取り組んでいるからこそ、生きる意味を意識し、喜び、悲しみ、苦しみを実感することが出来る。そこから搾り出された様々な想いが作品として反映され素晴らしい絵になり、漫画となり、更にアニメーションになり、そして映画という総合芸術作品となっていく。
その最も基本的で重要な、且つ熱量を持って創造する事の意味ときっかけとなる原点を再び思い出させてくれる作品がこのルックバックであると感じた。
原作・演出・脚本・音楽全てがバランス良く配合され其々が素晴らしい作用をもたらしている。本質論をダイレクトにかまされた感じで鑑賞後清々しい程に気持ちが良い。手塚作品以来久しぶりに見るカットなしで手描きにこだわりを見せたオープニングの夜景全景から天地逆となり上空から地上の建物へ俯瞰される多次元的なシーンや机上の4コマ漫画へのズームシーン、そして(秋田鳥海山?)季節毎の変わりゆく美しい風景。藤野歓喜の躍動と激走など数々のシーンに制作者の真摯で真面目な気持ちが伝わってきて素直に驚き感動した。
また、藤野と京本双方がお互いを思い遣る気持ちが二人が初めて出会った場所(京本の部屋の入口の扉)に於いて現在の世界線とは別の(世界線って複数あるのか)世界線で生きる京本へ繋がるワームホールポイントである話が亡くなってしまった者へもう一度会いたいという気持ちが強くあるのだという事を観るものに印象深く感じさせ涙を誘う。京本の部屋の中で後を振り返ると藤野が初めてサインをした褞袍が!
... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ...
私自身は今までノールッキンバックの精神で人生を生きてきた。その生涯も半ばを過ぎる頃には様々な社会的、身体的ハプニングが起きたりして、時間的停滞による生活の変化や気持ちの変化が現れて迷いを生じさせることもあった。しかし人生をルックバックすることで自分の原点は何だったのか、置いてきた大切なものはないか、忘れていることはないか。を本当に今一度再確認する事も悪くない!と本作を夜中にひとりで観て力を与えられたような気持ちになり感動し、人間の行動の素晴らしさを大いに賛美しその登場人物達に自分の人生を重ねて共感したのだ。
制作者の皆様へ、素晴らしい作品を創造していただきありがとうございました。本作を鑑賞して素直に生きる希望を与えられた気持ちになりました。ありがとうございます。
歴史的大傑作の予感 ⭐️5
食わず嫌いは勿体無い
アニメ見ない、興味ないという人にも是非すすめたい作品。
1時間だし軽く観れるかなと思いきや、中身はぜんぜん軽くなかった。
とても濃厚な1時間だと感じた。
声優を務めたお二人も良かった。
河合優実さんが出演する作品って本当に良い。
私の中では今のところハズレなし。
ヒーローとルックバック
何も前情報もなく1時間程度だと気軽に観始めてこれは反則でしょ。最高でした。
漫画と言えば、特にジャンプ漫画と言えば、弱きを助けるヒーローでしょうか。
京本にとっては、卒業のときに出会っていても仮に出会わなくても、藤野はヒーローだった。
ヒーローは背中を見せて人を導くけど、ヒーローだって過去を見つめ、もがきながらも前を向いていく、そんな生身なヒーローを、とても1時間とは思えない濃厚な時間で堪能できました。
ありがとうございます。
あぁなんという素晴らしい映画を
2時間以上に感じる58分
本作はめちゃくちゃ素晴らしい映画です。
本作を見た人のほとんどは長く感じ、たった58分の映画とは思えなかったと思います。
何故実際は短い映画なのに長く感じるかと言うと、映画内での時間の経過の表現の仕方が非常に上手いからです。
ただブツ切りに時間を経過させるのでは無くて視聴者も一緒に作中人物と一緒に時間経過した気にさせるからです。
こんな映画は他には無いです。
キャラクターの表情も素晴らしいです、他の映画だと登場人物の感情を分かりやすくセリフで表現しがちですが、この映画は表情だけでも痛いぐらいその感情が伝わってきます。
スティーブンスピルバーグは「面白い映画は音声を消しても面白い」と言っていましたが、この映画は実際に音声を消しても面白かったです。
抽象的だけど甘酸っぱい物語。
上演時間1時間弱という点や漫画というところもあってぶっちゃけ舐めていた。
だがまさに「濃縮液」とも思われるほど濃密な映画だった。鑑賞時間の都合上前後編に分けて見たがいまだに分けたことを後悔している。
中盤(の途中)まではただの甘酸っぱい青春劇かと思ってみたが本当は違った。
京本は無差別殺人の被害者というポスターの画とは裏腹な設定にびっくりした。そして「戸の隙間からはいる」や
「藤野の作業しているときの姿」など様々な「ストーリとは違った」伏線回収にさすがと思った。これはアニメ、漫画の垣根を
越えてすべての人に「創作活動とは」「生きる・進路って」を問いかける多世代に向けたすばらしい作品だと言えるだろう。
京アニ事件、だから何?
2024年の映画評価が高い作品。
この作品が京都アニメーション事件を
元にしているのは誰にでも判る事です。
それは殺された共に漫画家を目指していた女の子が襲われた時の「俺の作品をパクったろう!」と言う台詞でも判ります。
事件が起こった時に被害者がいて、その人にも人生があった事は解ります。
でも事件が起きた事を描いて、悲劇を描いて、
だから何?なんです。
世の中に悲惨な事件はいっぱいあります。
それを忘れない為に描いたんですか?
それとも鎮魂ですか?
主人公の成長を丹念に小学生から描くなら
事件に遭ったから、そこを乗り越えて成長する姿が観たかった。
唯、友人が殺されて沈んでいるだけの主人公にして欲しくなかった。(妄想で犯人を倒す描写はありましたが)
私は見つからなかったですが、友人が殺されて、その先に少しでも希望がある描写はあったのでしょうか?
未来と現在、決して元には戻れないからこその決断の重要性を教えてくれる
クリエイティブな仕事における才能、情熱、そして人との繋がりを軸として物語が展開される非常に奥深いものでした。
単なる青春ドラマではなく、ビジネスの成長やリーダーシップの本質に通じるテーマが数多く見えました。
一見、対照的な2人の少女(藤野と京本)が、それぞれの得意分野や情熱を活かしてお互いに切磋琢磨しながら夢を追いかける姿はチームワークの在り方を描いているようでした。
藤野の行動力や結果に対するこだわりは、ビジネスで言えば「プロジェクトを前進させる実行力」。一方、京本の職人的な集中力や繊細な技術は、「製品やサービスの品質を高める専門性」と捉えることが出来ます。
何かを成し遂げるために必要なのは、才能やスキルだけではなく「人との相互関係」だということを教えてくれました。しかしながら、後半ではバランスが崩壊し、関係に亀裂が生じます。自分の力を試したい京本の気持ち、一緒にやっていきたい藤野の気持ち、両方のことが大切だと思う反面、どこかで人生にとって選択を迫られるものだと感じました。
結果的には人は一人では生きていけないものの、選択は自分自身で行っていく必要があります。そのときに信関係がどう働くのか、、、物凄く考えさせられる展開でした。
過去の決断が現在にどのような影響を与えるかを問いかける構成は、長期的なビジョンを見据える大切さと、目の前で前進していくために突っ走る行動力の両方が必要であることを教えてくれました。
創造性やチームワーク、時間の使い方を考えさせられるこの作品では、
時に立ち止まり「過去を振り返る」ことで、未来をより良いものにするヒントが得られる。そんなメッセージを儚さを含みながらも静かに力強く描いているそんな作品でした。
良いです。
河合さんが声をやっているの、後から知ってびっくりしました、プロの声優さんだと思っていたので、すごいです。
そしてチェンソーマンの作者さんのアニメと知ったのがきっかけで見ましたが、すごく胸がぎゅぅと締め付けられるけど暖かくなる映画でした。
あの時部屋から出ていなくても、違う世界線だったとしても2人は違う形で出会えていると思います。
でもあの時出会って、あの日部屋から出たからこそ京本が外の世界への希望を持てたと思います。
2人が過ごした時間に決して無駄な時間は一つもありませんでした。
最後は決意をして絵をまた書き進めていって終わったのが良かったです。
前を向かせてくれるアニメでした。
アニメの映像もすごく綺麗で、ずっと見ていられました。変なスキップよ田んぼを走るシーンとかすごく大好きです。
藤野歩
世界にたった一つしかない藤野歩名義のサイン
一度は止めた歩みを前に進めたきっかけが今度は「藤野キョウ」という天才の背中を押す
京本がいてよかった
本当によかった
様々な映画のオマージュが散りばめられた作品とのことだが、私がわかったのはリズと青い鳥だけだった
全764件中、1~20件目を表示