コンセント 同意のレビュー・感想・評価
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時代に見過ごされた性被害に時代の追い風が吹く時
赤子の手をひねるよう、という言い回しがあるが、マツネフにとってヴァネッサはまさに赤子だっただろう。彼にはヴァネッサをひとりの人間として愛する気は最初からなく、性行為を目的に文学少女の有名作家への憧憬を利用し、言葉巧みに籠絡した。
マツネフの振る舞いが終始胸糞悪い話ではある。だが、性被害を受けた人間が被害を自覚し、相手の罪を告発するまでに何年も、時には何十年もかかるのは何故なのか、その理由を本作は垣間見せてくれる。
露骨ではないが、行為のシーンがわりとあるのはちょっと複雑な気分になった。映画のテーマに関係なく、そのシーン目当てに鑑賞する輩が出てくるようでは本末転倒な気がする。彼らの関係のリアリティを求めるとああいう表現に傾くのかもしれないが、難しいところだ。なお、ヴァネッサ役のキム・イジュランは当然成人である。
1970年代から80年代にかけて、ガブリエル・マツネフは挑発的な言動で知られる文学界の寵児だった。作品においては少女たちとの性的関係を体験した通りにあからさまに描くだけでなく、少女が彼に贈った手紙をそのまま引用するという不道徳ぶり。また彼は文壇において自らの嗜好を公言していたのみならず、テレビ出演時にも度々臆面もなく少年少女との性的関係を語った。
しかしこの時代のフランスでは、作家やアーティストのこういったふるまいは、界隈ではむしろ好意的に受け止められていた。性の解放、芸術の探究。タブーを犯すことが芸術的美徳とされた時代だった。
母親は最初こそマツネフとの関係に反対していたが、やがてなし崩しになる。
原作によると、ヴァネッサはのちに自分を守らなかった母親を責めたが、彼女は「彼と寝たのはあなたなのに、私が謝らなければならないの?」と返し、自分を恨むのは筋違いだ、あなたの思いを尊重するしかなかった、自分の思い通りの人生を送らせるしかなかったといった主張をしたそうだ。
子どもの意思を尊重すると言えば聞こえはいいが、判断力が未熟で結果責任を負う力もない子どもにこういった判断を丸投げするのは、保護者責任の放棄と言った方が正確だろう。
マツネフの留守中に、読むことを禁じられていた彼の著作を読んだヴァネッサが自分とマツネフのセックスを傍観するシーンは、ぞっとするが映像ならではの表現だ。彼女が初めて自分たちの関係を客観視し、そのグロテスクさを自覚したことがひと目でわかる。
精神的に荒れ、髪を脱色し真っ赤な服を着たヴァネッサが、マツネフの出演するテレビ番組を見るシーンがある。
あれは1990年に放送された「アポストロフ」という文学番組で、マツネフの主義に反論していた女性はカナダの作家ボンバルディエ氏だ。
彼女は「あなたのしていることはひどいことで、名声を利用して少女を餌食にしているだけだ。文学を言い訳に使うべきではない」と主張したが、他の参加者は誰一人として賛同しなかったばかりか、この発言によりフランスの知識層から袋叩きにされた。
(発言の実際の場面をYouTubeで見たが、映画に出てきたボンバルディエ氏の姿はYouTubeの映像とそっくりだった。実際の映像を使ったのだろうか?)
このような時代に生きた14歳のヴァネッサが、老獪なマツネフの蜘蛛の巣にかかって彼に示した「同意」など、到底フェアなものとは言えない。
ヴァネッサがマツネフの正体を知るまでの彼への恋慕にも似た感情は、実態としては洗脳に近い。少なくとも、対等な恋愛関係からはかけ離れている。
マツネフの所業には、いわゆるロマンス詐欺に近いものを感じた。ただし、一般的なロマンス詐欺の被害者は成人であり騙し取られるものは金だが、マツネフは卑怯にも子どもを騙し、彼らの初体験や年齢相応の人間関係の中で過ごす時間といった、金よりはるかに取り返しのつかないものを盗み取った。
その上、ヴァネッサとの関係が事実上終わった後も、マツネフは彼女との日々を赤裸々に描いた作品「日記」を発表。ヴァネッサは面識のない人間からも奇異の目を向けられた。ヴァネッサが成人になってからも、彼は嫌がらせの手紙やメールを送り続けた。
そんなマツネフに、2013年にはフランスで名誉とされる文学賞のルノドー賞が授与された。
だが、時代の潮目は静かに変わりつつあった。1990年の国連による「児童に関する権利条約」発効、隣国ベルギーでのペドフィリアによる虐待殺人事件などをきっかけにした、子どもの権利についての意識の高まりや小児性愛者へのイメージの変貌。そして2017年から始まった#MeToo運動。
2020年、本作の原作が出版された5日後に、フランス国内の複数の出版社はマツネフの書籍の販売を中止した。政府は、マツネフに支給されていた文学者手当を打ち切った。パリ検察庁は、未成年者へのレイプ罪の容疑で捜査を開始した。
過去の時代の空気を、現在の価値観で断罪することはずるいことだろうか。しかし、当事者のヴァネッサは今も生きて、トラウマに苦しんでいる。
彼女がマツネフの餌食になってから30数年を経て「同意」を上梓したのは、彼への復讐のためではない。マツネフの作品の中で、彼の視点と言葉に縛られて世間に晒され続けた自分の過去を自身の言葉で定義し直すことが、彼女のアイデンティティのためにはどうしても必要だった。
時代の価値観によって被害を見過ごされた彼女に、自分の過去を再構築する勇気を与えたのもまた時代だったのかもしれない。
告発した被害者女性と映画監督が信頼関係を築いたことは喜ばしい
少ない予備知識で観始め、ヴァネッサ・スプリンゴラ役の女優が本当に10代に見えたので、きっと性描写は間接的なものにとどめるのだろうなと予想していたら、胸の露出を含め直接的なセックスのシーンが何度も出てくるので驚いた。鑑賞後に確認したら主演のキム・イジュランは2000年生まれで、2022年の撮影時は21か22歳。劇中でヴァネッサが13歳から18歳まで成長する過程を演じ分けていることに改めて感心した。
スプリンゴラが2020年に作家ガブリエル・マツネフと14歳で関係を持った事実を告発した著書が原作。偶然にもファーストネームが同じヴァネッサ・フィロ監督(2019年に日本でも公開されたマリオン・コティヤール主演作「マイ・エンジェル」で長編デビュー)が自らスプリンゴラにコンタクトし映画化の許諾を得て、脚本の開発段階でも意見交換をしながら改稿を重ねたという(共同脚本にスプリンゴラも名を連ねている)。センシティブなテーマだからこそ、当事者と映画の作り手がこうした信頼関係が築けたことは喜ばしいし、作品の質にも貢献したと思う。
フランスの作家マツネフは著作が邦訳されておらず日本ではほぼ無名だが、小児性愛者を自認し未成年の少女や少年との性行為の体験を小説に書き、本国では一部の著名人からも支持され有名になっていったという。映画でもテレビ討論にマツネフが出演するシーンが描かれているが、スプリンゴラが告発本を発表するまではフランスのインテリ層にマツネフの小児性愛癖を擁護する傾向があったようだ。
10代半ばで年の離れた作家から性加害を受けた女性が成人してから告発した勇気に敬意を表する。告発を真摯に受け止め変わろうとしているフランスの社会にも期待したい。本国では昨年10月の映画公開後、若年層の観客がSNSで拡散したことが息の長い興行に一役買ったそうで、そんな若い世代の動きも頼もしく思う。
なぜ胸クソ悪いのかをしっかり整理
フランス文学界における自身の盛名を利用して14歳の文学少女の心と体を弄んだ実在の50歳の小説家を告発した作品です。物語映画なのですが、全て実名で語られています。「芸術と言う名の下では全てが認められる」と言わんばかりのこの小説家、及びそれを称賛する文学ファンの人々には唯々胸クソが悪くなるのですが、そんな価値観がつい数十年前までは、いやもしかしたら今も当たり前として通用して来た事が醜悪です。
でも、その「醜悪」を腑分けしてみると、
・ 36歳差もの少女と恋愛関係になったのが問題なのか
・ 相手が14歳だったのが問題なのか
・ その少女と肉体関係を持った事が問題なのか
・ 年長者としての抑圧が問題なのか
・ 有名文学者としての優位性を利用した事が問題なのか
・ 男の言葉が嘘っぱちだったからなのか
が、僕自身の中でもゴッチャになっていると気が付きました。「醜悪」という思いは大切にしつつ、それを僕も整理しなくては自分自身がいつどんな抑圧者になるのか分かりません。
わたしがヴァネッサを救いに入っていきたい
大人から承認されたい、女として承認されたい、実年齢より大人びた振る舞いや経験で優越感を得たい、周囲から一目置かれたい…などなどの感情と、微量の性への関心。
14歳のそれらに浸け入るなんて、まあだいたい30年も生きてる人間には容易なことで、「支配欲」を「性欲」に置き換え、相手を勝手に「性対象」とし、「愛」という言葉でラッピングするのタチが悪すぎて、
もう結構序盤から、『ラストナイト・イン・ソーホー』のエリーのごとくこの画面を拳で叩き割って入っていって、『ルックバック』の藤野のごとくジジイ蹴飛ばしてやりたかった。
ヴァネッサのこと、抱きしめてあげたい。
支配・消費してきた側の「傷ついた」「傷つけるのか」みたいな被害者ムーブ、自分がその関係の最中にいるとわたしが悪いのかもって思っちゃうのすごくわかるんだけど、こうやって傍から見ると、なに寝ぼけたこと言ってんだぼけお前が一回飛び降りてこいよ、ってかんじだよねえ
自分を責めてしまうヴァネッサのことをわたしは責められないから、やっぱりわたしが二人の間に入っていってジジイに一発言ってやりたい。
「女性は若いときはやわらかくて優しいのに、人生の荒波に揉まれるときつくなる」みたいなこと言ってたけど、それを相手の成長・成熟と思えない自分がいい歳して未熟すぎることに気づいてほしい。
14歳が16や18になったくらいで“君はもう母親に似てきてる”って、こっちからしたら今も4年前も介護だよ🥵🙏🏻
離れようと思ってもそう上手くいかないところとか、別の相手とも性的に繋がろうとしちゃうところとか、苦しかったなあ
ヴァネッサ役のキム・イジュランさん、調べたら出演作がこれ以外出てこなくて撮影つらくなかったかなって心配になった。まあでももちろんこの内容であの前書きだから、十分配慮して撮影も行われているんだろうけど。
配慮された環境で、あれだけつらそうな演技ができてると思うとそれはそれで彼女がすごすぎる。
あと、個人的には母親の酷いときもあれば、常に酷いわけでもないのがめちゃ絶妙だった。
とても肯定できないこともたくさんしてるんだけど、放棄しているわけでもない。
もし娘がヴァネッサと同じ状況になったら、たぶん、わたしにできることってあんまりないんだろうなって気がした。
こういう問題において、娘って母の言うことは一番聞く耳持たないことは、どの母もかつてはだれかの娘だったからわかるんだよね。
『20センチュリーウーマン』みたいにできそうな人を頭の中で何人か思い浮かべたりした。
正直言って内容は本当におぞましく実話だとはショックでした。 ただヴ...
正直言って内容は本当におぞましく実話だとはショックでした。
ただヴァネッサ役の女優さんが本当に素晴らしいです。この女優を選んだ監督も天才では?。
調べた所この撮影当時で20歳すぎだそうで、そりゃ本当に未成年を使うはずありませんが、童顔で身体も細く胸も小振りなので14歳に見えてしまってそこが凄くリアルでした。妙に感動しました。
相手役のガブリエルもスキンヘッドで絡みシーンは気持ち悪くてヴァネッサダメよっ!と心で叫んでしまう自分でした。かなり赤裸々な描写が逆にこの作品にリスペクトを感じました。
なので私的には高スコアです、おすすめはしませんが、役者のみにフォーカスして観ると素晴らしいと思います。
14歳の少女と同意は……
ちょっと離れた単館映画館での鑑賞。
スクリーンと距離が近いせいか、引き込まれた。
景色も良くて雰囲気あった。
主演女優さんの独特の雰囲気が、危うい少女感を出していて先が気になった。
しかし、14歳ってやっぱり子供なんだよ。
ちょっと大人に大人扱いされたらコロッと……。
お父さんの存在が希薄なのも、憧れが増す原因かも。
お母さん目線で見ると、何度か平手打ちしたくなった。
目を覚ましなさい、大人の甘い言葉は子供を騙すものなのよ!と……。
これ、当事者が全員ご存命とのこと。
どういう心境になるのか……
ヴァネッサが書くこと、吐き出すことで少しでも救われたらいいな。
この作品を作り、世に送りだす勇気に拍手
マツネフの手口は非常に狡猾で、マツネフの周りを取り囲む大人達(学があって、お金もありそう)もマツネフのやり口を知りながら許してる事が怖い。これは今、この世の中の性虐待に対する扱いと同じだと思う。権力のある人。多くの若者に支持される人。人生の成功者。の裏に暗く、うごめいている弱者の搾取。それもまだ未熟な完成されていない判断力の14、5歳のヴァネッサの自己肯定感を満たし、取り込んだマツネフ。あれが自分でも逃げられる自信はない。でも大人になったヴァネッサの、マツネフから変な意味、与えられた書く事の才能を磨いて反撃した行動力はカッコいい。言葉は充分に相手を打ち負かす最高の武器だ。ヴァネッサの勇気にこぶしを挙げたい。
未熟で多感な年代にも鑑賞して欲しい
初めての映画の感想。
他の人の感想を読んだし、自分の感想も残しておきたいと思った。
自分は37歳男なので、大人の視点でこの映画に出てくる違和感について、母親や同級生の気持ちがすぐに理解できる。
ある大人が社会的にどのように言われているかという外的な評価だけでなく、
(映画では小児性愛者としての風評がすでにある)
普通の大人が子どもという未熟な相手に対して恋に落ちるというのがあり得ないと、
自分自身の頭や心でわかっているからだ。
今の自分は「こんな大人には近づいてはいけない」と本能でわかる。
しかし、それと同時に、主人公の女性の気持ちが痛いほどわかる。
思春期で、同世代の仲間には馴染めず、親の姿は尊敬できず、
自分の価値を認めてほしい承認欲求があり、寂しさ、心の穴が目にみえる。
そこで登場したのは、自分の関心ある文学の世界の成功者。
さらに、自分に興味を持ってくれているとなれば、
自分なら、これほど隙のある状態でつけ込まれたら、逃げる自信があるだろうか。
自己責任というほど成熟できてはいないが、大人や周りの言うことを素直に聞けない時期でもある。(事実周りは何度も忠告してくれているのに、ずるずると洗脳されてしまっている)子どもというのは、そもそも不自由で身動きのとれない環境下に置かれていることが多い。
話術を通じて恋愛だと思い込ませていく展開に
「グルーミングというのは、こうやって少しずつ関係性を近づけて相手を洗脳していくのだな」という感想は、大人になっている人の分析的な視点で、
大人がダメだという結論はあまりに率直で簡単だ。
過激なシーンが多いのでR指定ではあるが、子供を持つ親や未熟で多感な年代にも鑑賞して欲しい。
大人はあらゆる立場の人と適切な距離を持って関わるべきだし
恋愛や性というものは一歩間違えれば危険で人生を後悔する関係性になり得るのだと
早くに学ぶ必要がある
「同意」というだけで済まない。
改めて考えさせられた。
カス男の筆頭ガブリエル・マツネフ、絶対許しちゃダメ!
主人公ヴァネッサをグルーミングによって性愛の対象にしていくガブリエル・マツネフの醜悪性が
これでもか!というくらい映像化されていて
胸糞以外の何ものでもない作品。
人としてこんなに否定したくなる人物を久しぶりに目の当たりにしました。
ガブリエル・マツネフ、マジで酷すぎる人格・人物であり、こいつがフランス文学界で
もてはやされていたなんて、とんでもない国だなと思いますね。
しかも最近まで。
↑
こいつを弾劾するためにも本作が事実(ヴァネッサの原作本)に忠実につくりあげられていることに
敬意を表しますし、願わくばこういう犯罪がなくなることを期待しています。
そして、こういう手口(グルーミング)が一般的に認知されることで、防止の一助となることにも期待しています。
主人公ヴァネッサの堕天使ぶりが著しい本作、観ていていたたまれない気持ちになりますが、
その体当たりな演技を見せてくれたキム・イジュランには拍手を贈りたい、素晴らしい俳優です。
胸糞ですが、多くの方に観ていただくことで、かような犯罪を社会的に排除できる機運醸成ができればと思います。
小児性愛者の執念がとにかくおぞましい
50歳の著名な作家と性的関係を持った14歳の少女と聞くと、あぁグルーミングの被害者なんだなと想像できるくらいに未成年の少年少女への性犯罪の認知が高まっていると言える。それだけ報道される性犯罪の件数も増えているということでもあるのだが。ただ、絵のモデルを頼んだ少女と画家が性的関係を持つなんてことは昔であれば珍しくなかったはず。時代が変わったから問題にできたと言える(事実、当時のフランス文学界ではマツネフは問題視されなかった)。だが、実際に映像として見るとかなりおぞましい。
ヴァネッサの通う中学校に現れたガブリエルは、ちょっとしたホラーだ。彼女が彼のおぞましさに気づかないのはおかしいと断罪するのは酷というもの。ただ、母親も娘(ヴァネッサ)に認めてくれなければ自殺するとまで言われたらどうしていいかわからなくなるのも理解できる。その後にガブリエルと仲良く食事をしている時点で母親も何やってんだ!とは思ったが。
その後の展開は、まぁ予想できるもの。グダグダにこじれて、最後にヴァネッサが告発本を書くまでを描くのだが、少し理解できないことがある。それは、ヴァネッサが何に対してトラウマを感じたのかということ。いや、もちろん老人になってまでヴァネッサを自分の所有物かのような内容のメールを送ってくる執念を見て、なんてやつだ!と思ったとは想像できる。でも、50歳のガブリエルに騙されて性的関係を持つことになったことを悔いてるというより、作家であるガブリエルが自分との関係を赤裸々に著したことへの不満の方が強い気がした(映画を観た上での印象ではあるが)。そこなのかなと疑問に思ってしまうところもある。
だからといってこの映画と、原作になったヴァネッサの告発本の意味が損なわれるということではない。性的な描写も結構あるが、どんな手口で迫ってくるのかを理解する意味でもっと積極的に未成年者に観せていくべき映画だと感じた。
リアルだからたちが悪い
虫唾がはしる
作中の中で、そんなセリフを吐いてた女性がいたが、
まさにそれ!
文学や芸術の範疇を確実に超えているよね…
洗脳だよ…
お母さんもなんなんっ!!
もう、すごくイラついてしまいました。
ヴァネッサ、早く気づいて!
早く反撃のターンに場面代わって!!って。
でも、実話だから、そうは上手く進まず、
そんな思いとは裏腹に、
結局、お別れをしてもトラウマは残り、
彼女を苦しめ続け、長い時を経て…
やっと向き合えるようになり、
自身の本を出版するという文学の世界で
反撃の一歩を踏み出せたわけで…
あの時代は、いろんなことが有耶無耶で、
弱い立場の者は流されるしかすべがなく、
今だから、このインターネットが発達した時代だから動きが起きたんだろうな、
この時代までかかったんだな、と思うと長い…
そして、実際は他にも被害にあった女の子たちがいるわけで、
その女の子たちの今は…と思ってしまいました。
14歳の少女を言葉巧みに同意したと錯覚させ性的暴行を加えた小説家
フランスで文学好きな13歳の少女ヴァネッサは、50歳の作家ガブリエル・マツネフと出会った。彼は小児性愛嗜好者で、その事を隠すことなく少年少女との性行為を文学作品として発表し、既存の道徳や倫理とは違う考えを持つ作家として注目されていた。1986年、14歳になったヴァネッサは本人の同意の上で処女をマツネフに捧げ、自分はマツネフの恋人だと信じ、生活全てをマツネフの望む通りにしていたが、1年半後、ヴァネッサが15歳の時、彼はヴァネッサを捨て、次の少女を毒牙にかけていった。マツネフは、ヴァネッサとのセックスを含む行為、その時の感情を、日記、という本に書き、出版し、初版をヴァネッサへ送りつけてきた。そんな当時のマツネフとの異常な関係について成人してからもずっと悩まされ続けていたヴァネッサは、その事を断ち切るため自分から見たマツネフとの関係を、同意、という本に書き、2020年1月に出版した、という事実に基づく話。
14歳の文学少女を50歳の作家が「同意」の上で言葉巧みに性的関係を結ぶなんて簡単な事だろう。その少女に自分を恋人だと思わせ、これまで君に逢うまで間違っていた、なんて言われたら、イチコロだと思う。
病気だと思うし、犯罪だとも思う。
2024年8月現在、まだ生きている、というのも、本人がこの作品を観たらどう思うのだろう、なんて考えながら鑑賞した。
絶対悪い事したとは思ってないだろうな、と。
ヴァネッサ役のキム・イジュランは当然成人(撮影時22か23)だけど、小柄で童顔だから14歳にも見えた。
マツネフ役のジャン=ポール・ルーブはいやらしく老獪で言葉巧みな犯罪者、マツネフを好演してた。
原作者ヴァネッサ・スプリンゴラが脚本に協力したようだが、この作品を発表した事で彼女の何かが救われる事を切に願ってます。
胸クソ悪いけど、よく出来てる。でも、もう観たくない。
フランスの作家ガブリエル・マツネフと14歳で性的関係を持っていた女性バネッサ・スプリンゴラが事実を告発した著書を映画化、との事ですが、
とにかく気持ち悪くて気持ち悪くて、ずっと顔を歪めながら観てました。
スキンヘッドの老人が14歳の少女と性的関係を行うシーンがガッツリあって、心底ホントに気持ち悪い…
映画冒頭で、
原作者の思いを届けたい、その気持ちだけで映画を作りました。
みたいなテロップが入るし、
未成年者の保護に興味がある、この女性監督のインタビューを読むと、
この映画は、私1人ではなくプロデューサーや他の技術スタッフや俳優たち、皆が原作者のメッセージを掲げ、彼女の闘いを引き継ぐ思いで作った映画です。
とも言ってます。
この小児性愛の作家の異常性や残酷性と、この被害少女の悲しみや苦しみ、それを表現したいという気持ちなら、見事に表現できてると思う。
エンドロールは、変な余韻でグッタリしました…
この評価は、自分が好きかキライかに関係なく、映画の完成度に対してです。
僕は、不快で観るに耐えないし気分が悪くなるので、もう2度と観たくないです。
ネガティブな事ばっかり書いたので、最後にポジティブな事も…
被害に遭う少女バネッサを演じた主演のキム・イジュランは、原作を読み強い怒りを覚えたらしいが、入魂の素晴らしい演技でした。
インタビュー動画では、元気な女の子でホッとした(笑)
また、加害者の作家スキンヘッドのマツネフを演じた俳優と手を繋いで仲よく写真に写っているが、マツネフ役の方は髪があってビックリだ(笑)
私的考える、この映画に終始つきまとう気持ち悪さの正体とは
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
一般的には、男女の恋愛において、共感する部分で共鳴し合い、相容れない部分は互いに尊重したり相互理解するのが、まともな恋愛関係だと思われます。
私的もこの映画を観る前は、互いに共感しあえる部分で共鳴し、相容れない部分で相互理解する関係であって、しかしながらそうであっても、15歳に満たない(実際は14歳)の少女に対して(36歳の年が離れた)50歳の大人が、大人の男女関係を持つのは、大人の側がブレーキを掛けなければならない、そんな映画になっていると想像していました。
ところが、この映画『コンセント 同意』は、そのような一般的な相互理解ある恋愛とは真逆の関係を映画の初めの方から描いていて、映画全体に気持ち悪さを覆わせていました。
その気持ち悪さの正体は、私的考えるに、相手を自分色に染め上げる(染め上げたい)/自分が相手色に染め上がる(染め上がりたい)、関係性にあったと思われます。
50歳を超えたフランスの作家ガブリエル・マツネフ(ジャン=ポール・ルーブさん)は、14歳のヴァネッサ(キム・イジュランさん)と男女の関係になるのですが、マツネフはヴァネッサに彼女の発言や思考の隙間を与えないように行間を自分の言葉で埋めていきます。
この事は、ヴァネッサに彼女自身の本当の気持ちや思考が出来る時間を与えないように作用していたと思われます。
もちろんヴァネッサにも、自身のあやふやな弱い気持ちや思考に取り替わるように、マツネフに染まりたいという隙があったとは思われます。
しかしながらその責任は、15歳に満たないあるいは未成年の子供には問うことは出来ません。
あくまで大人の側がそれに対するブレーキを踏むのは当たり前だと思われるからです。
この、相手を自分色に染め上げる(染め上げたい)/自分が相手色に染め上がる(染め上がりたい)という恋愛における関係性は、実は大人になった男女の関係でも見ることが出来る関係性だとは思われます。
しかしながら、染め上げる(染め上げたい)/染め上がる(染め上がりたい)恋愛関係であっても、双方が大人であれば、それぞれ大人としての自分の基盤が日常では確立していて、染め上げる(染め上げたい)/染め上がる(染め上がりたい)恋愛関係の時間帯以外は、それぞれ自分本来の基盤に戻ることが可能です。
もちろん、染め上げる(染め上げたい)/染め上がる(染め上がりたい)恋愛関係は、相互理解ある恋愛関係と違って、常に破綻が目に見えているので、多くの(私を含めた)一般の人々は内心「辞めておけ」と思ってはいると思われます。
ただ、それぞれ大人な基盤を持っている限り、その選択は自由ではあるとは一方で思われます。
しかしながら今作で描かれている、染め上げる(染め上げたい)/染め上がる(染め上がりたい)恋愛関係は、一方の側が15歳に満たない(あるいは未成年の子供)の基盤の弱いあやふやでまだ空っぽな存在であれば問題は大きくなります。
なぜなら、そんなまだ空っぽな自分のままで全面的に相手に対して染め上がりたいと望めば、関係が破綻してもその関係性自体がその人の基盤になってしまっていて、その関係を解消するのが難くなるからです。
これが、この映画を終始覆う気持ち悪さの正体だったと私には思われました。
ただ、本当に彼と彼女が相互理解のない関係性だったのかは疑念がないわけではありません。
仮に相互理解のある関係性もあったなら、それをも描いた上で、それでもなお15歳に満たないあるいは未成年の子供に対してこのような関係を持ってはいけない、という映画にする必要はあったのではとは思われました。
しかしながら、実際もこのような相互理解のない関係性であったのかもしれませんし、マツネフに対する罪を問う映画であるのであれば、今作の映画の描き方に正当性はあったとは一方では思われました。
それにしても、小児性愛を公言しながらテレビ出演も可能だった1970年代~80年代のフランス社会の今から考える異様さの理由は知りたいとは思われました。
さらにこの映画の原作が出版される2020年より前には全くこれらの経緯について大きな批判もなかったことにも驚きはありました。
当時の社会の15歳前後や未成年の子供は、現在と違い様々な場面に遭遇し今以上に精神が成熟していたから特に当時は問題とならなかったのか、そうではなく、当時は様々な問題が解明されず裏側に放置されていた事柄がようやく最近解明されるようになり今問題になっているのか‥
その謎についても解かれる必要はある映画にも感じました。
点数に関しては、この映画に終始まとわりつく気持ち悪さから今回の点数になりました。
ただ、出演者たちの深さある演技含めて内容がある、描かれる必要があった現在の重要作品だとは、一方で思われました。
処女膜強靭症に悩む健気なオトメ心を弄ぶガブリエル😎 ギロチン刑にしてほしい
意外にと言っては失礼ですが、過不足ないちゃんとした映画でした。
50歳男性と35歳年下の未成年女性のスキャンダラスな恋愛を描いたR15+作品とのことで、いかがわしい内容に微塵の期待も持たなかったとは言いませんが、男女逆のメイディセンバー(ナタリー・ポートマンとジュリア・ロバーツ)を観てから間もないこともあり、上映館もとても少ないので、大して深みのない映画だろうけど、他に観たい映画もないから「ローラとふたりの兄」の長兄役の名バイプレイヤー の ジャン=ポール・ルーヴが小児性愛者の(三文)文学者の役ということで観ました。
2020年に50歳を超えて立派な編集責任者となった女性が書いた告発本を原作としていることを観たあとで知りました。彼女の「怨念」がやっと実り、85歳を超えたガブリエル·マツネンが死ぬ前に間に合ってホントに良かった。
ハッキリとガブリエルに対する殺人以外の報復を長年にわたりずっと考えていたと言っているので、決して金銭目当ての暴露本ではない。
人生経験の浅い弱者を食い物にするフトドキ者(サイコパス)に対する啓蒙映画になっていました。
悪用する輩もいるでしょうけど。
1970〜80年代のフランス文壇にあって、美麗な文章を得意とするガブの実態は風俗雑誌記者のほうがお似合い。ガブは時代にもてはやされてテレビに出演したりしたものの、出版物の売上部数は全然たいしたことなかったようです。芸術や文学を国家をあげて庇護したり、よろしくないセックス慣習に寛容なフランスの悪いところが出てしまった事例で、シングルマザーの母親が出版社勤務で小児性愛者の作家に対して遠慮していたのか、若いツバメにかまけていたのか、思春期のヴァネッサにとっては火に油を注ぐ最悪の状況が重なりました。
ガブのマニラでの少年買春は完全にアウトで、それを隠そうともしない。
百歩譲っても、この手の性的搾取は年の離れた男女のみならず、経験や知性の差によって、ターゲットにされたらものは一方的に傷つくしかない。そんな被害者は実際にはたくさんいると思われるので、無垢な幼いものが邪悪な人間の餌食にならないように周りの良識ある大人たちは見張って守らないといけません。そうでなければ、泣き寝入りさせられるターゲットはいっこうに減らないと思います。
それにしても、健気な彼女はガブリエルにとってはこれ以上ないご馳走だったでしょうね。
「少年のようだ」っていうセリフは処女膜強靭症だったヴァネッサのお菊さんを何度もいたぶったに違いありません。美味しい思いをしたガブリエル。ギロチン刑にしてもまだ足りないと思います😎
キモい
これが実話だってのが驚き。
フランスってそんな国だったんか。
「表現の自由」に特別な信念のある文化的背景があるのかな。
巨匠ガブリエル・マツネフの狡猾なグルーミングの手管がただただキモい。
で、この人まだ存命なんだよね。
映画の冒頭の学校の授業のシーンで、「傲慢」を戒める話が出てくるのだけど、これってメタ的にマツネフのことを批判してるんだろうなと思った。
マツネフは、偉大な芸術家である自分は社会の法律や倫理などを超えた存在である、と確信しているような性格で、まさに「傲慢」の権化のような存在だから。
主人公のバネッサがマツネフに放った、「若くなくなったら愛さなくなるんでしょ」に対するマツネフの返答が、「私が愛することによってお前は永遠に若くいられるんだ」というセリフの意味が映画を観ているときには意味不明だったが、あとになってから、それって「私がお前を小説に書くことにより、本の中でお前の若く美しい時代は永遠のものになる」という意味なんじゃないかと気づいた。
もしそうなんだとしたら、こいつはマジでクズで、自己中の怪物みたいな存在だと思った。
バネッサが(マツネフの小説の中に)永遠に閉じ込められた支配を脱却するために、自分自身の小説(この映画の原作である「同意」)を書く、という手段をとったのは、バネッサにとっては単に自分自身を取り戻す、という意図に過ぎなかったのかもしれないが、マツネフに対してこれ以上ないくらいの復讐になったのは間違いない。
マツネフの「日記」と、バネッサの「同意」は、同じ二人の生活をマツネフ主観で描いた小説と、バネッサ主観で描いた小説になるわけだ。
「同意」は「日記」の芸術性やマツネフの人間性に厳しい審判を下す、マツネフの思想の答え合わせのような存在になる、という意味で、マツネフにとってこれほど恐ろしいものはない。
マツネフは「同意」に対してどう思っているのか、自分の傲慢さを反省した、ということがあるのか、気になる。
ジャニーさんと違ってマツネフが存命のうちにこうした糾弾がなされたということは良かった。
この映画のテーマである「同意」には考えさせられた。何をもって「同意」とするのか?
最近、統一教会への多額の寄付についての裁判があったが、未成年かそうでないかに関わらず、非道な「同意」というのは世の中にたくさんあるんではないか。
じゃあどうやって正当な同意と、そうではない同意を区別するのか、というのはまた非常に難しい問題なんだけど…。
自由と自己責任
14歳の文学少女である主人公が、影響力と語彙力を兼ね備えた小児性愛嗜好の人気作家と性的関係を結んだことをきっかけに転落していくといった展開。
人気作家は自身の小児性愛嗜好を隠さず、関係を持った人物との情事を作品として公表するため、これが主人公を含め過去に作家と関係を持った少年少女を更に苦しめることになっている。
自由恋愛や表現の自由といった自由に対する権利が主張されやすく、認められやすいフランスらしい作品。インフルエンサーの言動に振り回されたり、デジタルタトゥーの拡散に苦しむ人が後を絶たない現代の社会を皮肉った作品と捉えることもできる。
枷
ペドフィリア、という言葉がそれなりに浸透してきている現在。小児性愛は、多くの先進国で犯罪と見做され、忌むべきものとして認識されている。その価値観から逸脱することのリスク、大多数の人間は理解し行動している。
だが、ゲーテや豊臣秀吉の例に漏れず、動物としての人間は若さに魅了される感覚を持っている。この点は疑いのないところなのだろうなと思う。寿命の短かったその昔、子孫を残すために人間は寿命に適合的な行動を選択し、その結果として、人類は今現在存続しているのだから。
本作を鑑賞して、魅力的な文章を紡げる才能に惹きつけられてしまうこと、仕方ないのかなと思ってしまう自分がいる。と同時に、圧倒的な能力差、経験値の差をもって、相手を蹂躙していくその態度は、大人が取るべき行動としては許されないとも思う。今の、2024年の価値観では。
映画「愛人/ラマン」も小児性愛描写だといえばそれまでだが。許される・許されないの枷は時代と共にうつろふ。その時代の変化に応じて、我々平民は今日も生きていく。
なぜダメなのか、に答えた作品
編集者である母と参加したパーティーで中年の作家ガブリエル・マツネフに見初められた少女ヴァネッサが、彼との恋路と関係解消後に傷つき、再起する姿を描いた作品。ヴァネッサが交際から30年以上を経て出版した告白/告発本を基に、本人の監修のもと脚色をした物語である。
年齢や立場の差がある恋愛、特に若い側が10代や20代前半にある関係は、前世紀なら障害を越える純愛としてドラマチックにさえ描かれた題材である。現代においては、パートナーシップの下にある搾取構造や不均衡が指摘され、不道徳なものとして位置づけられている。
本作はヴァネッサの心の動きだけを見れば、ローティーンにありがちな背伸びした恋による火傷の体験にも見える。しかし本作の主題に則り、ガブリエルとヴァネッサの関係のバランスに注目すると、ガブリエルが洗脳に似た手法でヴァネッサをコントロールしていた実態が見えて来る。
ヴァネッサを特別な子と言い続けることで思春期特有の他己評価に飢えた自尊心を満たし、多数派の価値観や彼女の学友達の幼稚さを貶して孤立させ、彼から離れれば無価値で孤独な14歳の子供に戻ると植え付けていく。そうしてガブリエルが愛を捧げる側から捧げられる側へ変貌する様は手慣れたものだった。仮に劇中で別離の決め手となる出来事がなくとも、この不均衡により2人の関係がじきに破綻していたことは想像に難くない。
彼の口車に惑わされないためには、ヴァネッサには人生経験が圧倒的に不足している。ヴァネッサだけの問題ではなく、大人、それもある程度の人生経験を持つ大人と対峙した若者全般に言えることだろう。
ヴァネッサには相談相手がおらず、ガブリエルに本音をぶつけることもできないため、物語の中ではヴァネッサの気持ちがあまり言語化されない。そのため観客はティーンの頃の感性を思い出しながら、微かな表情の変化から彼女の動揺を汲み取らねばならない。また、恋の傷を新しい恋で上書きしようとするのは実にフランス映画らしいが、手放しには共感しにくい行動だった。
二人が交際していたのは80年代で、既にガブリエルは小児性愛を公言しその体験や海外での買春記を本にしていた有名作家だった。表現の自由の名のもとにインモラルな表現や尖った存在が持て囃されていた、時代の徒花とも言える。ヴァネッサが書店で「まだ早い」として店員からガブリエルの著書の購入を止められるエピソードがあり、ガブリエルがどんな作品を書いているのか知らないまま彼と関係を持ってしまうのが、何とも皮肉だった。現代なら、ネットで検索してガブリエルが何者かを知ることができただろうか。それとも、求愛に舞い上がった少女には相手のスキャンダルなど関係なかっただろうか。
ヴァネッサが告発本を書いたのは反論や補償が目的ではなく、彼が属する文章の世界で同じ土俵に立ちたかったからだという。時間はかかったようだが書き出す行為が一種のケアになった面もあるだろうし、ペンに傷つけられた体験にペンで向き合う姿勢は見事である。彼の作品と違いヴァネッサの著書は世界中で翻訳され、映像化までされた。次の30年後の価値観では、どちらが世に残っているだろうか。
なお本作はヴァネッサの物語であるためか、ガブリエルが一つの題材に拘る理由や、後年価値観の反転により梯子を外されどうなったかについては触れられていない。前者については、ガブリエルもまた大人によって彼の言うところの「手ほどき」された存在だったというから、彼にとって性愛とはそういうものなのかも知れない。
一番気になったのはヴァネッサの母親である。別れた夫や世の男達のことを愚痴り、娘に不倫を隠さない母親は、ヴァネッサにとって反面教師らしい。ヴァネッサが読書家なのも、母が本に子守りをさせていたからではないのかと勘繰りたくなった。
ガブリエルとの交際については、当初は彼の為人を知っているため反対するが、ヴァネッサが反発して家を出ようとすると容認したり、外泊は許しても旅行は許さなかったり、ガブリエルが権力者に顔が効くことを知って後押ししたりと、一貫しない。
自分の価値観が芽生え一人で行動するようになった子供をどう監督するかというのは、いつの時代も頭の痛い問題である。年頃の子供や、その手前の年代の子供を持つ親が本作をどう観たのか知りたくなった。
若者と大人の恋愛のタブーについては年齢差ばかりが取り沙汰されるが、何歳差までなら許される、というものではなく、アンバランスなリレーションシップが形成される限り立ち止まるべきだ、という一つの回答をはっきりと主張した作品だった。
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