「それでもバカじゃないって信じたい」アメリカン・フィクション つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
それでもバカじゃないって信じたい
どんなにバカだバカだと言ってはいても、心の底では「そんなにバカじゃないだろう」と信じたいものである。
そんな期待を踏みにじってくれて、しかも面白いのが「アメリカン・フィクション」だ。全編「そんなバカな」という笑いを禁じ得ない皮肉なやり取りの応酬で、クスリ、どころか爆笑してしまうことさえある。
「アメリカン・フィクション」で描かれるのは行き過ぎたコンプライアンス意識と、上っ面の多様性容認と、結局上から目線を脱却出来ない「隠れた差別」である。
主人公のモンクは彼の担当編集と評価されない自分を嘆き、半分ヤケっぱち・半分冗談で実在しない作家を騙り、適当なザ・黒人文学を書き上げるのだが、これが何と売れてしまうのだ。
「売れたの?!」というモンクの表情が面白く、一応彼は彼なりに(インテリ故に世間や出版社を小馬鹿にしてはいるものの)「みんなそんなにバカじゃないだろ」と、どこかで信じていたのである。
モンクの立場にしてみれば、この映画は常に彼を裏切り続ける展開だらけだ。
自覚的に「可哀想な黒人」の小説を書いてベストセラーになったシンタラと、結局同じ土俵に乗ってしまったモンク、という構図も面白いし、思惑の違いがあれどステレオタイプ黒人文学を書いた2人ともが揃って非実在作家・リーの作品は「ステレオタイプ過ぎて新鮮味がなく、文学的な価値を感じない。賞に値しない」と主張しているのが良い。
更にそれを他の選考委員(白人)が「少数派・黒人の意見を世に出すべきだ」として多数決によって賞に推してしまうところなんてブラック・ジョークの極み。
なんかそれっぽいことを言いながら、正反対の行動に出るこのシーンは滑稽を通り過ぎてもはや悲劇。
笑いながらもふと思うのだ。自分だって、目の前の誰かをその所属するところによって決めつけているところが無いか?と。
日本で言えば「これだから“ゆとり”は!」、が想像しやすいかもしれない。短所は「ゆとりのせい」長所は「ゆとりなのにね」と言われる側はたまったものじゃないだろうな、と思う。
「ゆとりですがなにか?」や「翔んで埼玉」などもある意味「アメリカン・フィクション」的なステレオタイプ・コメディだなぁ、と思ったが、日本の2作品は感情に訴えて笑わせたりホロリとさせたりする「観客に優しいコメディ」なのに対し、「アメリカン・フィクション」の笑いは笑いの中に鋭いナイフが仕込まれた「観客に厳しいコメディ」だ。
一見ゆとりなのか埼玉なのか分からない日本と、一見して黒人だと分かるアメリカの違いもそれには関係しているのかもしれない。
ともかく、アメリカ国民当事者的には、意識が高ければ高いほどグサリと突き刺さるであろう皮肉の効いた面白さは今年観た中でも最高だった。
私にとっては違う国を舞台にしたドタバタを安心して観ていられる気持ちもあったのだが、ふと思い出した。少し感染症が流行ったくらいでトイレットペーパーが無くなるようなバカな国民じゃないだろ、と信じていたのに裏切られた日のことを。
やはり、対岸の火事などという悠長な気持ちで観ていてはいけない作品だな、とレビューを書いていてちょっと真顔になった。