「大変面白く観ました!(ただしドラマ版は必ず観てから映画を観た方が良いかと‥)」【推しの子】 The Final Act komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
大変面白く観ました!(ただしドラマ版は必ず観てから映画を観た方が良いかと‥)
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと、今作の映画『【推しの子】 The Final Act』を大変面白く観ました。
一方で、ドラマ版のエピソードはほぼ映画では描かれないので、Amazonプライムのドラマ版は観てから映画を観た方が良いとは思われました。
個人的には時代の流れとはいえ、映画と配信に分けるのはどの作品でも疑問はあるのですが、ドラマ「【推しの子】」は、観てその質と志の高さに驚かされました。
ドラマ「【推しの子】」はいわば芸能批評も加えられていると思われましたが、批評に留まらず、必ず登場人物の主観に戻る素晴らしさがあったと思われます。
1人の登場人物が、客観的批評性と主観的ドラマ性を、同時に成り立たせる構成は、今まで意外になかったのではと、唸らされました。
そして今作の映画『【推しの子】 The Final Act』ですが、特に前半のアイ(齋藤飛鳥さん)が素晴らし過ぎたと思われました。
子供虐待のネグレクトを扱った作品は、今年に限らずこれまで映画やドラマで数多く描かれて来たと思われますが、アイを演じた齋藤飛鳥さんの解釈と演技は、これまでの同様題材の歴代の作品の中でもトップクラスの素晴らしさだったと思われます。
齋藤飛鳥さんが演じたアイによって、ドラマと映画を通しての【推しの子】に、作品の深さと一貫性の力強さが貫かれていたと思われました。
雨宮吾郎(成田凌さん)と天童寺さりな(稲垣来泉さん)との関係性も本当に良かったと思われました。
もうこれだけで今作の素晴らしさは達成されていたと思われ、なので称賛だけを言いたいところですが、映画の後半に問題がなかった訳ではないとは、一方で思われました。
映画の後半の問題は、細かくは私的には4点あったように思われます。
まず1点目の後半の問題は、後半で描かれたアイのドキュメント的な再現映画(「15年の嘘」)に対する、批評的(批判的)な目線がなかったことです。
(ドキュメント的な再現映画への批判的批評性は、当然、一般論として可能だったと思われます。)
ドラマ「【推しの子】」は、優れた点の1つに、上でも触れた芸能批評がありました。
そのドラマ版にはあった批評的メタ視点が、今作の映画の後半には(すなわち映画を通して)なかったと思われました。
そして、(ドラマ版にはあった)批評的メタ視点の欠如は、作品としての後半の重層性が薄まった要因の1つだと思われました。
もちろん作中映画「15年の嘘」は、ドラマ版で描かれた芸能の話ではなく、星野アクア(櫻井海音さん)が、カミキヒカル(二宮和也さん)をおびき寄せる為に仕掛けた策略の一環でした。
となると、(批評的メタ視点でなく)カミキヒカルをどのように作中映画「15年の嘘」でおびき寄せることが出来たのか(出来なかったのか)、を描く必要があったと思われます。
ところが、作中映画「15年の嘘」(の制作)によってどのようにカミキヒカルをおびき寄せられたのか(られなかったのか)、今作の映画ではしっかりと描かれていなかったのではないか?との疑問は持ちました。
それが2点目の映画後半の問題だと思われました。
もちろん、カミキヒカルは星野アクアの上手を行って、あえて作中映画「15年の嘘」に出資することによって、逆に出し抜くために星野アクアに近づいたのだと思われます。
しかし後半のカミキヒカルの星野アクアへの接近と出現は唐突に思われ、作中映画「15年の嘘」の制作の意図から来る星野アクアとの対立ドラマ性は薄れた印象を持ちました。
3点目の映画後半の問題は、映画の構成の問題から、星野アクア/雨宮吾郎の、アイと、星野ルビー(齊藤なぎささん)/天童寺さりなとの、思い入れのバランスが、ドラマ版と映画版で若干変わっているように感じる所です。
ドラマ版では、ほぼアイが殺された所から始まり、アイを殺した復讐を軸に話が進んで行きます。
ところが、今作の映画では、前半に雨宮吾郎と天童寺さりなの関係性が重きを持って描かれ、ドラマ版で描かれた(映画の前半と後半の間に当たる)アイを殺した復讐への想いの積み重なりが抜けています。
そのために、映画を観ている観客からすると、星野アクア/雨宮吾郎が、映画の後半で(映画の前半と違って)あまり星野ルビー/天童寺さりなに重きを置いていない(アイへの想いに重きが変わっている)ことに、若干のズレを感じてしまったと思われるのです。
この映画の構成での、星野アクア/雨宮吾郎が、映画の後半であまり星野ルビー/天童寺さりなに重きを置いていない、映画の前半との関係性のズレは、ドラマ版を観ている私からしても感じたので、仮にドラマ版を観ていない観客なら、なぜ後半で星野アクアは星野ルビーをもっと大切に扱わないのだろうか?との、違和感を持ったのではと思われます。
そして4点目の映画後半の問題ですが、カミキヒカルがなぜ殺人も厭わない人間になったのかの、解明が深くまでされていなかったのでは?との疑問があったと思われました。
アイは、どこか自分と似ているカミキヒカルを(自分たちの子供に会わせようとするなど)救おうとしていました。
しかしカミキヒカルは、星野アクアへのインタビュー場面で「違うんだよなぁ」と、アイと自分が似ている(同じである)ことを否定します。
すると(映画前半でアイの本心の底を解明したように)カミキヒカルがなぜアイとは違うのかを、映画の後半で解明する必要があったと思われるのです。
もちろん、カミキヒカルは幼少期に性的な虐待を受けています。
しかしながら、幼少期の性的虐待は、人を殺さないと生きていけない人物になる、必然の条件ではないと思われます。
すなわち、幼少期の性的虐待のさらに奥の(人を殺さないと生きていけない)カミキヒカルの奥底の解明が、映画の後半では必要だったと思われるのです。
私は原作は未読なのですが、カミキヒカルの解明が奥底まで原作でも達していなかったのでは?と推察します。
なぜなら、ドラマ映画を通しての志の高さしか感じなかった今作の制作・監督・スタッフそして俳優陣の皆さんからすると、原作でカミキヒカルの解明が奥底までされていたのであれば、その描写が映画の中で成されないのはあり得ないと思われたからです。
ただ、これら個人的に感じた、映画後半の4点の問題は、ドラマ版や映画前半の図抜けた素晴らしさからの差で感じた問題で、決して映画全体を通しての致命的な問題だとは一方で思われていません。
カミキヒカルを演じた二宮和也さんも、与えられた構成の中で素晴らしい存在感ある演技をしていたことは一方で強く思われています。
カミキヒカルの解明が奥底まで達していて、星野アクア/雨宮吾郎の星野ルビー/天童寺さりなとアイとへの想いのスムーズな移行が構成されていれば、映画前半の図抜けた素晴らしさと合わせて、おそらく今年を代表する傑作映画になっていたと思われます。
しかしながら、映画後半の私的感じた問題を差し引いても、今作の映画『【推しの子】 The Final Act』は素晴らしい秀作だったと思われます。
俳優陣も、ドラマ版含めて皆さん素晴らしかったと思われます。
そして、スミス監督の(ドラマ版のみの松本花奈 監督も含めて)センスと人物描写の深さと志の高さは、他の作品も観てみたいと思わせる素晴らしさだったと、僭越ながら思われました。