ラ・コシーナ 厨房のレビュー・感想・評価
全38件中、21~38件目を表示
モノクロでないと完走できない狂気がラストに待っているので要注意案件ですよ
2025.6.17 字幕 アップリンク京都
2024年のアメリカ&メキシコ合作の映画(139分、G)
原案はアーノルド・ウェスカーの戯曲『The Kitchen』
NYのレストランの半日を描いた風刺コメディ映画
監督&脚本はアロンソ・ルイスパラシオス
原題は『La Cocina』で「厨房」という意味
物語は、メキシコから母の知り合いであるシェフのペドロ(ラウル・ブリオネス・カルモナ)を訪ねて、エステラ(アンナ・ディアス)が海を渡ってくる様子が描かれていく
店の場所を人に尋ねながら辿り着いたエステラは、面接を遅刻したシトラリ(サルマ・アルヴァレス)と間違えられて面接を受けることになった
その際に店のトラブルが発覚し、面接はおざなりになったまま、担当のルイス(エドゥアルド・オルモス)の一存で、その場にいたラウラ(ローラ・ゴメス)と一緒に採用されることになった
店のトラブルは、昨夜の売上金の一部が紛失したというもので、オーナーのラシッド(オデット・フェール)は「犯人を見つけて追い出せ」とブチ切れた
そこでルイスは、多忙な金曜日を承知で盗まれた金を探すことになり、全従業員に聞き取り調査を始めていく
そんな中で、新人のエステラはペドロの横についてチキンを仕上げ、昨日の夜に起こったペドロとマックス(スペンサー・グラニース)との喧嘩騒動の噂話を耳に入れていく
ペドロはウェイトレスのジュリア(ルーニー・マーラー)と恋人関係にあり、彼女のお腹にはペドロとの子どもが宿っていた
ペドロは産んで欲しいと思っていたが、ジュリアは頑なに堕ろそうと考えている
そして、店から盗まれたのが中絶費用ではないかと考えられ始め、ジュリアとペドロに疑いの目が向けられた
だが、ルイスはジュリアへの聞き取りの際に「ペドロを犯人と決めつけて尋問を繰り返していく」のである
映画は、冒頭でヘンリー・デイヴィッド・ソローの言葉が引用され、これは『生き方の原則:魂は売らない(Life without principle)』の一説である
1854年の公演にて語られたもので、その後亡くなる直前の1862年に出版されることになった
人生と仕事に関する哲学を語ったもので、労働とその成果による関係性を考え、全ての偉大な事業は自立している、と説いている
この引用の意図は定かではないが、移民の彼らが店の部品として取り扱われ、その成果が危ういバランスで自立に誘われているように見えてくる
また、部品がなければ動かない店を支配しているはずのラシッドも、神の許しなしに好き勝手する労働者をコントロールできないので、彼自身の自立も物凄く脆弱なものに思える
この構造は資本主義社会における経済活動そのものへの警鐘にも思え、部品ではなく自らを自立させ得る人にするために何が必要かを考えさせるもののように思えた
映画では、ロブスターの蘊蓄、宇宙人の光などの様々な例え話が登場し、その中に生きているシェフたちの望みというのは矮小のように語られる
だが、それらを満たすための賃金、環境、精神衛生があれば十分だと考える人もいて、そういった人たちの過ごしやすさを作ることも店の発展には必要と言えるのかもしれない
映画のタイトルは「The Kitchen」ではなく、スペイン語の「La Cocina」なのだが、英語タイトルにしていないところにも意味があると思う
文字通り、「厨房」はアメリカであってアメリカではないのだが、それは移民で溢れているからではない
彼らはビザを取るために腰掛けで働く存在であり、言わば暫定的にそこにいるだけの存在である
25年働いている料理長(リー・セラーズ)ですらまともに扱われていないところを見ると、そこは永遠にアメリカ人になれない人たちの坩堝のようにも思える
そう言った意味を含めると、緑の光で照らされたペドロが赴く先は夢見る地ではないのだろう
いずれにせよ、モノクロになっているので最後まで鑑賞可能だが、耐えきれない人がいてもおかしくないと思う
ジュリアは「10週目」と言われて驚くのだが、それはペドロの子どもではないという意味にも思える
それでも、エイブ(レオ・ジェームス・デイヴィス)がいるからこそ新しい子どもを産もうとしないということは一貫していたので、誰の子どもであれ、同じ決断をしていたのだろう
ジュリアの選択で呆然として自暴自棄になったペドロだが、その起点となるのはラウラの「濡れネズミ」という言葉だった
これはメキシコ移民がリオ・グランデ川などを渡って入国する際に濡れていたことが由来で、当初は「Wetback」というスラングが生まれていた
ペドロは真っ当に生きてビザを取り、自身の夢を叶えようと考えていたが、それすらも叶わないところにこの言葉をモロッコ移民のラウラからぶつけられたことで箍が外れている
これが移民同士が罵りあっている構図になっていて、それが支配者の時間を止めるのだから面白い
そう言った観点から見ても、自立に向かおうとしない資本主義というのは問題が多いのかな、と感じた
緑色の光
いつものように 事前情報をシャットアウトして劇場へ。
ちょっと前に見た「We Live in Time この時を生きて」と同じ職種。
冒頭、アポ無しで知り合いのつてだけを
頼りに 携帯も持たずに面接に行く主人公。
レストラン事務所の面接シーン。
奥行きの有るパソコン・モニター(old MACか?)に懐かしさを覚える
ウエイトレスの制服デザインを見て
時代設定は現代じゃないと確信。
音響・照明、カメラワークが最高!
終盤に差し掛かるにつれて
なぜこの映画がモノクロームで
描かれたのかがわかる
ペドロ…
良いキャラだ
バカでチャーミングなロマンチスト
ジュリアのために作る
故郷のスパイスを効かせた
サンドイッチが旨そうだ。
今、私は国内有数の観光都市で
生活している。
職場で出会う人達の中にも
外国籍の名前がここ10年ほどで
増えてきて、
休憩時間の「国連会議」。
あのような情景が私の街でも見られる。
「面白かった」だけでは
すまされない、いろいろ
考えさせられる作品だった。
あの冷蔵庫の肉は食べたくない、おえっ!
濡れネズミ
タイムズスクエアのレストラン「ザ・グリル」で働く多国籍の人たちの話。
母親の知人が働いているというだけで、それを頼って自信満々に飛び込みで仕事を求めて少女がやって来る中、昨夜の売上のうち800$強が盗まれたと大騒ぎして始まっていく。
初っ端から道を聞いただけでタラタラ長い能書き垂れるヤツが現れるし、店も従業員も遵法精神ないしアメリカらしいなと…最近日本でも問題が取り沙汰されている地域もありますが…。
粗暴で自己中で自己主張が激しい人たちの夢だとか能書きだとか全開だし、レストラン映画としても特に食いたい!ともならないどころか汚らしいしw、仕事としても効率が良い様にみえないし。
こういうのみると日本の飲食店って凄いなと思うよね。
結局仕事に対するプライドってそういうものか?っていうドタバタで、とりあえずお花畑な日本人で良かったなと実感した。
一件のレストランの1日を通して描かれる、アメリカ社会の縮図
【イントロダクション】
アメリカ、ニューヨークのタイムズ・スクエアにある一件のレストランを舞台に、様々な国籍の従業員達が織りなす1日を描く。
イギリスの劇作家アーノルド・ウェスカーによる1957年の戯曲「調理場」を原作に、現代アメリカ社会のリアルをモノクロと趣向を凝らしたカメラワークで鮮烈に映す。映画化は今回2度目となる(1度目は1961年、ジェームズ・ヒル監督による『The Kitchen』)。
監督・脚本は、メキシコ出身の新鋭アロンソ・ルイスパラシオス。
【ストーリー】
ニューヨーク、タイムズ・スクエアにある一件の高級レストラン“ザ・グリル”。オーナーのラシッド(オデッド・フェール)は、アラブ系アメリカ人の起業家として成功した人物。ウェイトレスは白人のアメリカ人が多くを占めているが、客から見えない厨房では、ラテンアメリカ人やアラブ系の不法移民が従業員として多く働いている。
英語を話せないヒスパニック系移民のエステラ
(アンナ・ディアス)は、コックのペドロ(ラウル・ブリオネス)のツテを頼りに、単身ニューヨークへ渡り店を訪ねる。英語を理解出来ない彼女は、デザートコックのノンゾ(モーテル・フォスター)の案内で面接室前にやって来る。エステラは面接の事前予約すらしていなかったのだが、運良く事前予約をしていた他人と勘違いされ、店で働くことになる。ペドロは粗暴ながら陽気で料理の腕も良く、前日にアメリカ人従業員のマックス(スペンサー・グラニーズ)との喧嘩も、料理長(リー・セラーズ)の計らいで不問とされた。しかし、優秀ながら風紀を乱すペドロの行動に、料理長は「警告は残り3回だ。3回目は容赦なく追い出す」と念を押す。
ペドロはウェイトレスのジュリア(ルーニー・マーラ)と交際しており、ジュリアはペドロとの子を孕っていた。しかし、「出産後は故郷のメキシコのビーチで家族3人で暮らそう」と夢を語るペドロに対して、ジュリアは中絶の意思を伝える。また、ジュリアは電話で誰か愛しい相手に繰り返し連絡を入れている様子だ。ペドロは、ジュリアに出所不明の中絶費用約800ドルを渡す。
時を同じくして、監督責任者のルイス(エドゥアルド・オルモス)は、帳簿係のマーク(ジェームズ・ウォーターストン)から、「前日の売り上げ金が823ドル足りない」と報告を受け、ラシッドの怒りを買うまいと、彼らはウェイトレスや従業員を次々と面接し、犯人探しを開始する。
いよいよ「午前の部」の店が開店し、従業員やウェイトレスは猛スピードで料理を作り、次々とテーブルへ運ばれていく。エステラはロクに指導を受ける事もなく、店の荒っぽいやり方に着いて行かざるを得なくされる。
ラシッドは犯人探しを含めて厨房の様子を見物に訪れ、ペドロに「ビザの申請に協力する」と口約束をする。しかし、それは従業員のやる気を促し、店の売り上げを保つ為の体の良い嘘でしかなかった。
チェリーコークの自販機が壊れ、厨房が水浸しになるという惨事にも拘らず、客のオーダーに合わせて次々と料理が作られては運ばれてゆく。ペドロの夢、ジュリアの中絶、翻弄されるエステラ、犯人探しに躍起になるルイスetc.様々な人物達が入り乱れる混沌とした空間の中で、“ザ・グリル”の長い1日が幕を開ける。
【感想】
本作にコメントを寄せている著名人含め、他の方も散々指摘している事だが、これはまさに「資本主義社会の縮図」だ。元の戯曲、及び1度目の映画化の舞台であるヨーロッパから、本作では舞台をアメリカへと移し、様々な登場人物達が織りなすドラマ、クライマックスの怒りの爆発に「現代アメリカの縮図」を見せる。
移民問題や人種差別、そして資本主義社会の搾取構造。一件のレストランの1日を舞台に、それぞれの登場人物達の抱える問題を浮き彫りにしていく。
グルメを題材にしつつ、登場する料理がその殆どに魅力を感じないという“逆フード映画”なのが凄い。但し、私は作中2度、登場する料理を「美味しそう」だと感じた。それは、ペドロがジュリアに振る舞うサンドイッチと、ホームレスに振る舞うロブスターの弁当だ。それはどちらも“相手の為を思って”振る舞われるものである。ベタではあるが、そのようにさり気なく“料理の本質”を描いている抜け目なさがニクい。
開店後の慌ただしい店内の様子をワンカットで捉えて見せたカメラワーク、作中数少ないネオンライトの青い“色”のある肉の冷蔵室内でペドロとジュリアが語り合うシーン等、魅力的で印象的なシーンは数多く存在するのだが、やはり特に印象的なのは、ペドロをはじめノンゾやサルバドール(ベルナルド・ベラスコ)、ネズミ(エステバン・カイセド)やサミラ(ソンドス・モスバ)といった様々なルーツや価値観を持つアメリカン・ドリームを夢見る移民達が、休憩時間に店の裏でそれぞれの夢について語り合うシーンだろう。
本作を語る上で重要なのが、この時にノンゾが語った“2度の緑の光”についての話だ。
とある移民が、入国審査で隻腕である事を理由に檻に入れられてしまう。強制送還を待つのみだった彼は、宇宙人に緑色の光線によって連れ去られ、離れた街で発見された。彼は生涯悲しみを背負いながら生きたが、そんな中でも確かに輝いている瞬間があったそう。
話が終わり、ネズミは「2回目は?」と尋ねるが、ノンゾは「そんな事言ったっけ?」と覚えていない様子。
この2回目の光こそが、ラストでペドロが照らされる緑色の光に繋がる。ラスト、ペドロは自らが破壊した厨房のオーダー機の緑色のライトに照らされ、1人緑に輝く(僅かにエステラも)。
もしかすると、ペドロはこの先、アメリカへやって来て夢に敗れた悲しみ、ジュリアとの恋に破れた悲しみ、そうした様々な悲しみを背負って生きていくのかもしれない。しかし、ノンゾの話にあるように、緑色の光に照らされた事で、悲しみの中でも彼なりの輝きを放ちながら生きていけるのだとしたら、彼の行く末は決して暗いばかりではないようにも思える。
クライマックスでジュリアの中絶、そしてその理由を知ってしまうペドロが切ない。
ジュリアが作中度々連絡を入れていた相手、それは、本命の恋人等ではなく、10歳程の息子だったのだ。シングルマザーである事を周囲に隠し(もしかすると、ウェイトレス仲間には知っている者も居たかもしれないが)、育てていたからだ。彼女が冷蔵室で語った「18歳の時の妊娠」。その時の感覚を忌避している様子から、てっきり過去にも中絶したのだと勘違いしていたが、彼女は子供を産んでいたのだ。だから、ペドロの子供を産む事も、共にメキシコへ行く事も出来ないのだ。
全てを知ったペドロは、茫然自失となってしまい、ウェイトレスとの口論を皮切りに、厨房やレストラン内で暴れ回り、店を機能停止に追い込む。
私には、この自暴自棄となるペドロの気持ちが痛い程分かった。それと同時に、一種の痛快さも感じた。それはまるで、ラストでエステラが僅かな笑みを浮かべてペドロを見つめていたように。
ペドロは、ラシッドの下で3年間勤め上げてきた。未だビザの取得も叶わず、しかし恋人との夢が彼の支えとなっていた。それが崩壊した以上、彼には暴れ回る事で「俺は此処に居るぞ!」と存在証明する他なかったのだろう。それは、彼に出来る唯一の無情な現実への叛逆である。そして、あの瞬間、彼は確かにこれまで自分を搾取してきたラシッドの世界の時を止めて見せたのだ。
その様子に、私はカタルシスを感じずにはいられなかった。
【資本主義社会における、搾取する側・される側】
ペドロが売り上げ泥棒の疑いを掛けられた際、面接室でルイスに語ったベトナム戦争下での小話が印象的かつ本作を象徴するものである。
「どんなに親しくしていても、俺たちはアメリカ人にはなれない」
それは、アメリカン・ドリームを夢見てやって来て、その果てでビザの取得を盾に、ラシッドの下でこき使われるあの厨房の移民全員が感じている本音だろう。だからこそ、彼らは「神の次に偉い(意訳)」と豪語するラシッドの、「これ以上何が望みだ?」という問い掛けに沈黙で答える。暴れ回ったペドロを止めに入りつつも、彼に笑みを向けたエステラのように、何処かで彼の行動に賛同する気持ちを抱えていたのではないか。私には、そう映った。
だが、あの店で搾取されているのは、何も移民達だけではない。監督責任者のルイスや帳簿係のマーク、果てはあの店で25年勤め上げてきたという料理長すら、ラシッドからクビを切られる事を恐れ、彼に支配されている。特に料理長に至っては、調子に乗ったペドロに囃し立てられた他のシェフやウェイトレスに求められれば、国家を披露してお尻を出す事でその場を収めるしかない。
ラストのペドロの自暴自棄は、支配する側の傲慢さを浮き彫りにさせ、そんな支配者側は支配しているはずの一個人の叛逆によって、自らが築き上げた世界を止められてしまうのだ。
【総評】
現代における資本主義社会の縮図を、モノクロによる映像で痛快・痛烈に描いてみせる。
ペドロの行く末が、ノンゾの語った話のように、悲しみの中にも確かな輝きを持つものである事を願うばかりだ。
ところで、勤務中にあれ程皆でビール缶を開けて乾杯し合っている厨房はどうなのだろうか?(笑)少なくとも私は、あの店で食事をする気にはなれない。
【”ロブスター。”今作は白人優位のアメリカ社会は、低賃金の不法滞在者達の劣悪な労働条件有りて循環している事実を、有色人種もしくはプアホワイトで回すレストランの厨房を舞台に強烈に皮肉った狂騒曲である。】
ー 知らなかったが、今作の原案は故、蜷川幸雄氏の演出で上映されたアーノルド・ウェスカーの戯曲「調理場」だそうである。-
・それを、アロンソ・ルイスパラシオス監督は、主人公の料理人を労働ビザが無く、不法滞在しているメキシコ人料理人ペドロ(ラウル・プリオリネス)に置き換え、劣悪な条件下、ビザを与える事をチラつかせながら働かせる総料理長(と言っても、指示するだけで何もしない。)や白人オーナー、ラシッド(オテッド・フェール)等の、”使役者側”の視点と、“非使役者側”の視点で、厨房を描いているのである。
ナカナカ、斬新である。
・厨房は、常に鬼の様に忙しく、見習いとして入った幼きエステラ(アンナ・ディアス)も走り回っている。ウェイトレスは、次々に皿を客席に運ぶが、ハンバーガーや、カレーチキンと言った料理を見ると、そんなに格式の高いレストランではない事が分かる。
■序盤に、ペドロが水槽の中に次々に放り込まれるロブスターを見て”こんなもの、昔は猟師の食い物だったんだ。それが、今や高級食材だよ。”という台詞が、今作を観ていると何ともシニカルに思い出されるのである。
”ロブスターを有難がって食べている白人たちも、昔はこれを庶民の食べ物としていたんだろ!”ってね。
・ある日、レストランの売上金から約800ドルが紛失し、ペドロが恋仲のウェイトレス、ジュリア(ルーニー・マーラ)に中絶金として金を渡した事が噂で流れ、彼に嫌疑がかかるシーン。ペドロは忙しい中、苛立ち乍ら料理を作り続け、ジュリアは堕胎直後にも関わらず、ウェイトレスの仕事を続けるが、倒れてしまう。
そんな時、白人スタッフが血相を変えて”お金が見つかりました。”と、ペドロを追求していた男に言うシーン。その男は狼狽えるが、その事実を厨房に伝えないのである。
<で、厨房は更に混乱して行き、ジュリアに息子がいる事を知ったペドロは更に苛立ち、多くの皿が割れグチャグチャになった厨房で、客のオーダーを知らせる機具を拳で叩き潰すのである。
今作は、白人優位のアメリカ社会は、低賃金の不法滞在者達の劣悪な労働条件有りて循環している事実を、有色人種もしくはプアホワイトで回すレストランの厨房を舞台に強烈に皮肉った狂騒曲なのである。
アロンソ・ルイスパラシオス監督の、厨房の狂乱をドキュメンタリー風に映すセンスが良くって、”第二の、アルフォンソ・キュアロンになってくれい!”と思った作品でもある。>
見えない者たちの怒り?
こんなにまとまってなくてみんなが勝手な感じの厨房で これだけの席数...
こんなにまとまってなくてみんなが勝手な感じの厨房で
これだけの席数の店(←見える限りでの想像だけど)が回るはずない
ってとこが気になったら
ずっと入れないまま
そして最後は呆気に取られたまま終わってしまった
期待しすぎてたのかな?
レストラン=アメリカ合衆国
異文化共生の難しさ
「夢と希望を持って生きる」ことを妨げるのは、過度な労働
モノクロである理由が最後でわかる。スルメを噛むようにどんどん味が出てくる映画だ。終わりまで見ることができてよかった。そうしなければこの映画が伝えたいことを掴めなかったろう。
原作の戯曲「調理場」は約70年前のものなのに、今も、いや、もっと尖鋭化し分断された社会が怒りと暴力で描かれている。自分と異なる存在を匿名で陰険にチクチクと虐める国も、移民による多様性が強みだったはずが世界の流れに逆行する言動を繰り返すトップ政治家(なのか?そもそも)ゆえに頭脳流出している国も、どっちもどっち。
いろんな罵り言葉を言い合って笑って盛り上がる厨房でのシーンは楽しそうだった。でも仕事が始まると同僚を名前で呼ばずに「○○○人」と、相手の出身国で呼びかけるのはとても嫌だった。モロッコ出身の女性は「カサブランカ」と呼ばれていたけれど嬉しくもなんともないだろう。自分の母語で自分の感情を吐き出せないのはどれだけ辛いか、と言うペドロの言葉に心が痛んだ。複雑な人間で、すぐ頭に血がのぼるけれど、困っている仲間には優しくてジョーク好きのペドロは、この映画の芯だ。ペドロの最後の暴れまくりの意味をレストラン・オーナーのラシッドは理解できない、というより他者への共感と想像力を既に失っている。彼ら移民を人間だと思っていないから。でもペドロを頼ってメキシコから来た新入りのエステラの表情に希望が少し見えた気がした。
ルーニー・マーラの輝きに癒される。サウンドデザイン、映像、音楽よかった。
小難しい会話劇ながら混沌を楽しめる
原作は、 A.ウェスカーの戯曲「調理場 The Kitchen」(1959年初演)。
戯曲なだけに、ちょっと小難しい会話劇。
基本モノクロームの画面が時代を曖昧にしてくれていて、普遍的な物語にしてくれている。
レストランの厨房を舞台に、過酷な労働条件で働くさまざまな人種の従業員の人間模様。
あわよくばVISA取得を狙って働く移民に、その心情を利用する経営者。
サボったり、いちゃついたり、自分の持ち場を主張する割には…
自分の仕事を全うしようとして被害を被るウエイトレスが気の毒になってしまう。
そして、次々起きるトラブルに厨房がカオスと化し、ヒリついていく臨場感 ったら!
諍いや喧騒がメインなせいで残念ながら、料理が美味しそうじゃない 。
怒涛のラストで、見ている方が、呆気にとられて虚無になった
レストランで働くって、大変ですね。
演劇ファン見るべし!
原作が1959年初演のアーノルド・ウェスカーの戯曲「調理場 The kitchen」だと知らずに鑑賞。冒頭から映画ならではの鮮やかなカメラワークに見惚れるも、しばらくすると「あ、これは舞台劇だ」と気づく。台詞こそ巧みに翻案されてはいるものの、コトバの端々に舞台特有の“匂い”が多く残る。鑑賞後に確認してわかったのだが、全体構成も戯曲に準じている。これは案外、原作に忠実な映画化といってよいのでは。その意味で演劇ファンにぜひ見てもらいたい一作だ。
原作は、多様な人種が働く過酷な労働現場をベースに、資本主義が抱える矛盾、人間の尊厳破壊、階級社会、人種差別などをあぶり出す。この映画は、それらを現代にも通じる普遍的問題としてとらえ、主な舞台を「現代ニューヨークにある大型レストラン裏の厨房」としたうえで、その場所を「移民問題に揺れる米国社会の縮図」のように描いてみせる。テーマ的には、移民が抱くアメリカン・ドリームの果てを描いた『ブルータリスト』や移民問題を裏モチーフとした『パディントン 消えた黄金郷の秘密』など、昨今の洋画の時流に沿った1本ともいえるだろう。
そんな本作の、映画として最大の見どころはカメラワークと編集の巧さだ。冒頭のスタイリッシュな畳みかけや、劇中のワンシーンワンカットかと見紛うような語り口などは、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を彷彿とさせる。また、陰影に富んだモノクロ画面はアルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA/ローマ』のようでもある。
狭い厨房に立った料理人たちと調理台の合い間を縫うように動き回るカメラは、スリリングそのもの。また、従業員を面接したり皆で賄い飯を食べたりするシーンなどでは、効果的にクローズアップや切り返しが重ねられる。一種の群像劇でもある本作は大人数がかなり激しく出入りするが、映画の強みを活かし、脇キャラに至るまで見事に印象づけることに成功している。
調理中に飲酒、喫煙はもとより、口角泡を飛ばして下ネタやレイシスト・ジョークに興ずる。あるいは、ピークタイムにドリンクサーバーからチェリーコークが止めどなく溢れ出し、厨房の床全体が水浸しになってしまう——そんな不潔、不快な料理描写の数々は、どこかコラリー・ファルジャ監督作『サブスタンス』における調理風景や終盤の血しぶきブシャー(笑)を連想させる。
こうしたピークタイムの厨房のカオスは、まるでがなり立てる現代音楽の狂騒のようであり、チャップリン主演『モダン・タイムス』の非人間的な流れ作業の記憶ともダブって見えて、思わず体に力が入ってしまう。
このように本作は「映画」として大健闘しているのだが、一方で台詞の応酬や大仰なアクションがいかにも演劇的に響き、ダレてしまう瞬間も何回かあった。映画ファンとして「上映時間139分は長かったなぁ」というのが率直な感想だ。
最後に一つ、つけ加えると、パティシエの黒人が「奇跡の緑の光線」にまつわる悪夢のことを語る劇中シーンがある。この印象的なエピソードは後に、心の折れてしまった主人公が緑色に染まる(?)ラストショット(無声映画のパートカラーのように画面全体が緑色になる)へとつながっていくのだが、ここでふと思い出したのがエリック・ロメール監督の『緑の光線』。劇中に語られる緑の光線の逸話と多幸感あふれるラストが心を打つ名作だ。
本作のラストシーンはとにかく救いがなく、解決への糸口も示されない。しかし先のロメール作品を本作に引き寄せて考えることで、自然とナットクできたというか、一種の救いのようなモノを画面から感じ取ることができた。それは、主人公と同郷の女性が緑色の彼を見つめて微笑むところからも見て取れる。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のラストで、病室の窓から身を乗り出したエマ・ストーンが空を仰ぎ見ながら微笑むシーンに相通ずるモノが、本作の笑顔からもうかがい知れるのだ。なかなか鮮やかな幕切れだった。
以上、試写会にて鑑賞。
カオスカオスをたのしめるか?
試写会にて鑑賞。
ボイリングポイントと雰囲気は似てるけど、さらにカオスな厨房と、そこで働く破茶滅茶なアメリカの移民たちのとある一日。
なぜ店として成り立ってるのか不思議なくらい全く秩序のないレストラン。機械が壊れて床は大洪水、キッチンスタッフは女にうつつを抜かしてすぐサボる、同僚に喧嘩売って暴力沙汰になる、なんなら冷蔵庫?の中でいたしてる。面接にきた人を確かめもせず雇い入れる。
それでも大繁盛で大忙しの厨房。流れ作業で料理を運び無表情でハッピーバースデーを歌い、怒られたり勝手にシフト増やされたりしながらもなんとか働くウェイトレス。
アメリカ人に混ざって色々な国の人が働きにきている。彼らはそれぞれ小さな夢があったり、なかったり。多くはメキシコ人でビザ取得をチラつかされてなんとか職にしがみついてる。そんな彼らがなぜ暴れるか理解できないオーナー。でも彼もアクセントからすると元は夢を掴んだ移民なのか?
主人公は滅茶苦茶で、シチュエーションもカオスで、共感できるところが本当にない。笑 唯一、現地の言葉喋れなくてもこんなに自由に振る舞って生きてんだな、自分中心にして生きるってこういうことなのかな。日本人ってやっぱり言語に対して負い目持ちすぎだし真面目すぎよね、ということくらいか。
試写会トークショーでは、全編モノクロだからこそこのカオスぶりでも見れた、という話やカメラの構図が特徴的だったこと。そして店のメニューを作っているシーンはちっとも美味しそうに見えないものの、唯一恋人とホームレスに作っている料理だけはきちんと音も入れて美味しそうに見せていた、という点になるほどね、と思った。
つくづく日本人でよかったわ、というのが感想だろうか。。
カメラワークが好き過ぎる
最近知ったばかりの土間シネマって素敵シアターでまだやってるのを見て、鑑賞。
ペドロのばーか!ほんとバカ!仲間からしたら、そこが憎めないとかあるのかも知れないけどほんとバカ!wルーニー・マーラ可愛い、けどめっちゃ男見る目ないよジュリア!70年前の原作だからかも知れないけど、主人公がクソ男すぎるんよ!w
ホームレスに施し、エステラを雑に扱い、下ネタや下品な言葉で盛り上がって、同僚にタバコをたかり、避妊もしないし、自分でした約束も忘れてるし⋯
オーナーが有色人種に仕事と給料を与えてやっていると不遜な態度取るのと何が違うねん。とも思う。
消えてしまいたい、自分の人生はこんなじゃない、エイリアンが連れ去ってくれる世界は希望に溢れてるはず。こんなクソみたいな人生じゃないはず。って感じだったけどペドロは自業自得過ぎるやろ。
あと、料理長がまさかあんなノリノリで歌ってくれると思わなくって、なんだかんだ、連帯感みたいなのあるんだな。とか、移民達の複雑な関係が描かれてて良かった。そして、今も有色人種へ配慮していますよ、がパフォーマンスになる世界。
でも実際今の日本の状況見てると、移民歓迎とは一切思わないから、複雑な気分。
正直ストーリー的には退屈するシーンもあるし、不快な部分もあるけど、それを補ってあまりあるカメラワークのおかげで最後まで観られる。
ワンカットの長回しをあの狭い厨房で頻繁にやってるんマジスゴイ。そこがすごく良かったのと、キャシアンアンドーS2のラスト3epを監督してると知って益々次作が観たくなった。
長回しシーンだけでなく引いた時の構図も好き。モノクロの見せ方は、最近だとガールウィズニードルが陰影のこだわりがエグすぎて、かなりさっぱりして見えてたけど、途中の冷蔵庫や、ラストシーンでカラーが効いててそこは良かった。
いい所もあかんなーてとこもあったけど、飛び抜けて良いなと思ったのはカメラワークだけかも知れないw
全38件中、21~38件目を表示














