「演劇ファン見るべし!」ラ・コシーナ 厨房 いたりきたりさんの映画レビュー(感想・評価)
演劇ファン見るべし!
原作が1959年初演のアーノルド・ウェスカーの戯曲「調理場 The kitchen」だと知らずに鑑賞。冒頭から映画ならではの鮮やかなカメラワークに見惚れるも、しばらくすると「あ、これは舞台劇だ」と気づく。台詞こそ巧みに翻案されてはいるものの、コトバの端々に舞台特有の“匂い”が多く残る。鑑賞後に確認してわかったのだが、全体構成も戯曲に準じている。これは案外、原作に忠実な映画化といってよいのでは。その意味で演劇ファンにぜひ見てもらいたい一作だ。
原作は、多様な人種が働く過酷な労働現場をベースに、資本主義が抱える矛盾、人間の尊厳破壊、階級社会、人種差別などをあぶり出す。この映画は、それらを現代にも通じる普遍的問題としてとらえ、主な舞台を「現代ニューヨークにある大型レストラン裏の厨房」としたうえで、その場所を「移民問題に揺れる米国社会の縮図」のように描いてみせる。テーマ的には、移民が抱くアメリカン・ドリームの果てを描いた『ブルータリスト』や移民問題を裏モチーフとした『パディントン 消えた黄金郷の秘密』など、昨今の洋画の時流に沿った1本ともいえるだろう。
そんな本作の、映画として最大の見どころはカメラワークと編集の巧さだ。冒頭のスタイリッシュな畳みかけや、劇中のワンシーンワンカットかと見紛うような語り口などは、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を彷彿とさせる。また、陰影に富んだモノクロ画面はアルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA/ローマ』のようでもある。
狭い厨房に立った料理人たちと調理台の合い間を縫うように動き回るカメラは、スリリングそのもの。また、従業員を面接したり皆で賄い飯を食べたりするシーンなどでは、効果的にクローズアップや切り返しが重ねられる。一種の群像劇でもある本作は大人数がかなり激しく出入りするが、映画の強みを活かし、脇キャラに至るまで見事に印象づけることに成功している。
調理中に飲酒、喫煙はもとより、口角泡を飛ばして下ネタやレイシスト・ジョークに興ずる。あるいは、ピークタイムにドリンクサーバーからチェリーコークが止めどなく溢れ出し、厨房の床全体が水浸しになってしまう——そんな不潔、不快な料理描写の数々は、どこかコラリー・ファルジャ監督作『サブスタンス』における調理風景や終盤の血しぶきブシャー(笑)を連想させる。
こうしたピークタイムの厨房のカオスは、まるでがなり立てる現代音楽の狂騒のようであり、チャップリン主演『モダン・タイムス』の非人間的な流れ作業の記憶ともダブって見えて、思わず体に力が入ってしまう。
このように本作は「映画」として大健闘しているのだが、一方で台詞の応酬や大仰なアクションがいかにも演劇的に響き、ダレてしまう瞬間も何回かあった。映画ファンとして「上映時間139分は長かったなぁ」というのが率直な感想だ。
最後に一つ、つけ加えると、パティシエの黒人が「奇跡の緑の光線」にまつわる悪夢のことを語る劇中シーンがある。この印象的なエピソードは後に、心の折れてしまった主人公が緑色に染まる(?)ラストショット(無声映画のパートカラーのように画面全体が緑色になる)へとつながっていくのだが、ここでふと思い出したのがエリック・ロメール監督の『緑の光線』。劇中に語られる緑の光線の逸話と多幸感あふれるラストが心を打つ名作だ。
本作のラストシーンはとにかく救いがなく、解決への糸口も示されない。しかし先のロメール作品を本作に引き寄せて考えることで、自然とナットクできたというか、一種の救いのようなモノを画面から感じ取ることができた。それは、主人公と同郷の女性が緑色の彼を見つめて微笑むところからも見て取れる。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のラストで、病室の窓から身を乗り出したエマ・ストーンが空を仰ぎ見ながら微笑むシーンに相通ずるモノが、本作の笑顔からもうかがい知れるのだ。なかなか鮮やかな幕切れだった。
以上、試写会にて鑑賞。
