ラ・コシーナ 厨房のレビュー・感想・評価
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リスペクトの欠如と、詰めの甘さ
ルーニー・マーラが割と好きな女優なので楽しみにして観たが、彼女が演じたウェイトレスのジュリアは残念ながら魅力的なキャラクターとは言い難い。20世紀半ばに英国で書かれた戯曲を翻案した映画化というのは鑑賞前に知っていたので、時代設定はいつごろに変えたのか、モノクロ映像は時代感をあいまいにする意図からか、などと考えながら観ていた。オフィスにあるデスクトップPCのモニターがブラウン管なのと、携帯電話が使われる描写がない(何人かは公衆電話で家族に連絡する)ことから、1980年代後半か90年代前半頃だろうかと思ったり。
だが、小型プリンタが印刷する注文のレシートが大写しになったとき、日付が2022/05/02になっていて、えっ?!と驚く。もしも今から30年か40年も前の話なら、厨房でくわえ煙草のスタッフがいて、髪の混入を防ぐ帽子やバンダナ等を着用している者もわずか、マスク着用は皆無なのに食材や皿の前で大声で叫びまくりというのも、まああったかもしれない。でも、いくら多数の移民を不法就労させているブラックな職場だとはいえ、2020年代の食品衛生や公衆衛生の常識にてらして、このキッチンの働きぶりはひどすぎないか。これだけ大勢のスタッフがいるのだから、料理を作って客に提供する仕事に誇りを持っていたり喜びを感じているキャラクターを1人か2人でも描いたらまだよかったのに。料理人という職業、そして調理する行為へのリスペクトや愛情が、映画の作り手に欠けている気がして残念に思う。
なお、劇中にこの日が金曜という台詞がある(それゆえ観光客相手の店のランチタイムは激混みで注文が殺到する)が、鑑賞後2022年5月2日の曜日を調べたら月曜だった。ここにも詰めの甘さが出ている。別にレシートを大写しにしなければ、時代をあいまいなままにできたのに。2020年代の話なら、ジュリアが妊娠を自覚しているのに煙草を吸いまくっているのもどうかと思う。どうせ中絶するつもりだから胎児への影響なんて気にしないのだとしたら、それはそれでキャラクターに一層共感しづらい。
格差社会の底辺で働く移民たち(とくに不法就労者)の劣悪な労働環境を風刺することを優先したのはわかる。ただ、以前に邦画の「FUNNY BUNNY」のレビューでも書いたことだが、舞台劇を映像化する場合、舞台で成立していた抽象や誇張を、実写の具体やリアルさにうまく調整しないと、嘘くさい話になったり、共感しづらいキャラクターだらけになったりする。舞台劇と劇映画のリアリティラインの違いから生まれる違和感とも言える。
ホールスタッフたちがトレイに料理を載せて厨房から次々に客席へ向かう動きをダンスのコレオグラフィのようにとらえた長回し撮影など、印象的なシーンもあっただけに、もったいないと感じた。
Big Apple in Hot Water
La Cocina is a stylish black-and-white film set in a bustling Manhattan kitchen. Adapted from a British play about European immigrants working in a London restaurant, this American version reimagines the story through the lens of Latin American experiences. The film vividly evokes the chaotic, high-pressure environment of working in a New York restaurant. While the narrative occasionally veers into over-dramatic territory, the strong performances lend it a theatrical quality reminiscent of its stage origins. The movie ambitiously aims to capture the zeitgeist of immigrant life in America today.
まさしく今の映画
ワカンナイ?
なにを描きたいのかよくわからない。
移民の悲喜こもごもを描きたいのか?
アメリカの移民の扱いへの抗議なのか?
それとも、移民への侮辱なのか?
途中で、話しの展開がよくわからなくなった。
映画を観ながら、ぼんやり考えたことは、なぜ、中南米は、スペイン語とポルトガル語の二言語だけなのかということ。ヨーロッパはあの狭い地域に、英語フランス語ドイツ語イタリア語ロシア語ノルウェー語フィンランド語オランダ語スウェーデン語等々とたくさんあるのに。キリスト教が世界人口の3割を占めるといっても、大地に水が染みこむようにキリスト教が広がったのではなく、大地を焼き払ったあとに、キリスト教を植えただけだろうと思ってしまう。とんでもないことである。
アメリカとメキシコの合作なのに、メキシコ人の軽薄さ単純さばかりが強調されているようで、実に不快な気持ちになった。メキシコがんばれ!
厨房=世界の縮図
様々な人種の人たちが働いているレストラン「ザ・グリル」。
アメリカ人ではない労働者に対する扱いが本当に見ていてつらくなる。
メキシコ人の主人公ペドロ(ラウル・ブリオネス・カルモナ)と
アメリカ人女性ジュリア(ルーニー・マーラ)の妊娠した子どもに対する考え方の
違い、その背景にあったジュリアは実は子持ちであることも
ペドロが壊れていく大きな要因になっている。
移民同士、夢を語らい、新人の指導を割とちゃんとしたりもする中、
上記含め、店の売上金紛失事件の犯人として疑われたり、
様々な扱いの積み重ねで最後はペドロがブチ切れて大暴れしてしまう。
しかし、この怒りこそが本作の本質的に伝えたかったことではないか。
このぐちゃぐちゃぶりは、確かにモノクロでないと見てられない気がする。
このラストがあってこそのモノクロなのだと思った。
常にペドロを始め移民たちの「怒り」を画面からは感じた。
世界的な問題を厨房という小さな世界で縮図的に表現した
見事な一作だと思う。
それにしてもルーニー・マーラの力強い演技には驚いた。
私が抱いていた今までの彼女のイメージと異なる強い演技だったからだ。
まあ、本作を観る動機になったのも彼女が出演しているからなので、そこは満足した。
本日の観客に日本人と外国人(西洋系で旦那さんが日本人)の老夫婦が、終始おしゃべりをしていたのが気になったが、
スペイン語と英語だったので、どういう会話だったのかを、旦那さんが字幕を読んで奥さんに伝えていたのだろうなと
思うと、そういう鑑賞法もあるよね、と広い気持ちになることができた。
際立つコントラスト!
7月ファーストデー1本目は、そういや見なきゃと思って先送りにしてたこの作品から。
だだっ広くて雑多な厨房内の画角が4:3で休み時間の路地裏は16:9になってて(だと思ったけど気のせい?)心が押し殺されてる⇄解放されていることを表してるのかなと思ったり。外には無限に広がる空もあるしね。全編モノクロでコントラスト強めなのも「肌の色が濃いヤツから尋問するのか?」ってセリフにあるように、世の中が肌の色や国籍で生きづらさが決まってる感じを際立たせるためなのかな。そういうアングルや撮り方で今の状況を伝えていくのはセンス良いなと思いましたね。あと劇伴と周囲のノイズの使い方も秀逸。終始流れる馬鹿でかいオーダーマシンのジージーという音は、メトロノームで規則正しく動かされてる(秩序はゼロだが)多国籍のスタッフに対するある種ロボット的な扱いを際立たせていて、それの音とリズムが止まった世界とのコントラストがめちゃくちゃ上手いなと思いました。
内容的には、好きな映画は?と言われてわりとよく答える「ディナーラッシュ」を期待してたんだけど、イントロの女の子は全然ストーリーに絡んでこないし、ペドロは馬鹿だし、ホワイトトラッシュの描き方も中途半端だし、オーナーもどっち付かずのキャラだし、正直見てて何が伝えたいかわかんなかったというのが正直な感想です。というわけで、揶揄と風刺が少しだけスパイスとして効いてる詰めの甘いプロレタリア文学でわりと期待外れだったけど、絵作りはめちゃ好み!
それではハバナイスムービー!
描かれているのは古くからある普遍的な問題 労働に喜びを見い出せず 労働が苦役になってしまっている件
ニューヨークのタイムズ•スクェアにある 観光客向けの大型レストランで働く人々を描いた群像劇。スタッフの多くは成功を夢見てアメリカにやってきた移民の人たちです。そこの厨房をメインの舞台にして嵐のような一日が描かれます。英国の劇作家アーノルド•ウェスカーの戯曲 “The Kitchen” (1959年初演)を場所をニューヨークに変えて映画向けに翻案したもののようです。
思いのほか面白くて示唆に富んだ映画でした。レストランであまり期待せずに注文した料理が美味しくてしっかりと食事を楽しむことができたときのような感じ。まあ厨房内ははちゃめちゃなカオスで、この映画はほぼモノクロなのですが、カラーで見たらちょっと気分が悪くなるのでは、という内容も含まれてはいますが。
この厨房内カオスを招いたレストランの従業員たちの様子から、私は今から百数十年も前にカール•マルクスが論じていた労働疎外の問題を思い出しました。その昔、学生時代にちょっとかじった程度なのであやふやですが、以下のような感じの話です。
自給自足経済下の農民は、例えばジャガイモの収穫後に「今回のイモは前回より美味しいべ。次回はもっと美味しくなるよう頑張るべ」といった具合に労働の成果が実感でき、働く喜びも味わうことができます。これに対して資本主義下の労働者、例えば、スイスの時計工場で働く労働者は労働の対価として賃金を得ますが、毎日ちゃんと工場で働き続けられるだけの健康状態を維持できるだけの賃金、もしくは、次世代の労働力までを考慮に入れていたら、家族がどうにかこうにか食ってゆくのに足るだけの賃金を得るだけで、その工場の製品である高級腕時計を手首に巻くことは一生ありません(労働の生産物からの疎外)。
ということで、資本主義下の労働者は労働の成果を実感することもなく、その成果はすべて資本家が握っている資本の蓄積に寄与することになり、労働者にとって労働は単なる生計をたてる手段で苦役以外の何物でもないということになります(労働活動自体からの疎外)。
そんななかで、人間が本来持っている社会的•共同体的な性質とか、人間らしい生き方が奪われてゆきます(類的存在からの疎外)。
また、競争によって人間関係が分断されてゆきます(他者からの疎外)。
このあたりまではマルクスが19世紀の資本主義を観察して論じていたことなので古くからある問題と言えます。現在では「デジタル疎外」みたいな新たな疎外ネタも出てきてますが。でも日本の企業というのは一般的にこの辺のところをうまく切り抜けて、従業員個々が仕事にやりがいを持って人間らしく創造的に仕事ができるよう、環境作りをしてきたと思ってはいるのですが、こればっかりはいろんな職場があるので一概には言えません。
で、この群像劇の主人公格のペドロというのがまあ身から出た錆びの部分もあるにせよ、上記の疎外のお話そのものみたいに疎外感を感じまくって厨房内でも浮いた存在になりかけています。彼だけでなく、スタッフそれぞれが彼ほど酷くないにしろ労働疎外の実例のオンパレードみたいで、結局、こんな状態を招いた元凶はオーナー経営者のラシッドにあると言えましょう。彼の自分の部下たちに対する見方は「お前らが貧乏なのはお前らの努力が足りないからだ。そんなダメなお前らに私はお前らにふさわしい仕事をくれてやっている。これ以上、何がほしいと言うのか」といった感じで、上から目線で従業員を見下しています。これに加えて、たぶん賃金の都合で多国籍軍さながらのレストラン•スタッフの構成になっていますので、言葉等の問題でメンバー同士のコミュニケーションがうまくとれません。労働疎外の問題を小さくしてゆくためのキーとなるのはコミュニケーションだと思いますので、まあ、あそこのレストランの労働環境は最低最悪だと思います。
私がこの20年ほどの間の社会の変化で気になっていることのひとつは、いわゆるネオリベ、新自由主義的な考え方が世の中にはびこり始めたことです。今回のレストランのオーナーなんかはその典型です。日本も雇用形態なんかが変化しているあたりにその影響が見て取れます。まあでも仕事するのに働きがいや働くことの喜びが見い出せる環境であってほしいですね。と、年金が貰えるようになって社会人をなんとか逃げ切った感のある老人の戯言でございました。
あ、そうか、映画のレビューでしたね。元ネタが戯曲なだけあって気になるセリフがいろいろと出てきます。ウラの意味を考えてみるのも一興かも。映像はモノクロですがかなりセンスいいと思います。厨房もなかなか立派でした。今すぐでなくとも何年後かにまた観てみたいと思わせるような不思議な魅力のある作品でした。
アメリカの縮図? そうかも知れないが・・・
予告編を観て、まず白黒映像というのが作者の拘りを感じたところ。何やらコミカルな空気にも興味もそそられた。でも上映館、上映回数も少ない中、最後に鑑賞の決め手になったのはお気に入り女優ルーニー・マーラの出演が有ったから。
【物語】
アメリカ・ニューヨークにある大型レストラン「ザ・グリル」。ある朝前日の売上金のうち約800ドルが消え、店のスタッフ全員に疑いの目が。 オーナーの指令で犯人捜しが始まる。マネージャーはスタッフを一人ずつ呼び出し、面談を行っていた。
一方、厨房(ちゅうぼう)では慌ただしく開店準備が進められていた。 大勢のスタッフの中には様々の国からの移民含まれている。メキシコ人料理人のペドロ(ラウール・ブリオネス)もその一人だった。白人ウエートレス、ジュリア(ルーニー・マーラー)はペドロの子供を身籠っていたが、その日人知れず中絶することを決めていた。ペドロは仕事を抜け出してはジュリアにちょっかいを出し、子供を産むように迫るが、ジュリアの決心は揺るがない。
やがて開店し、厨房にいつもの喧騒が訪れるが、あることからさらなる大混乱に陥る。
【感想】
ちょっと肩透かし。
冒頭、ある若い女性が、厨房で働く男を頼りに店を訪れる。 どうやら店で働かせてもらうのが目的らしい。
「これから何が始まるのかな?」
という興味をそそられる、なかなか良い滑り出し。
が、期待通りだったのはそこまでだった。
まず、この店を訪ねた女性が主人公的ま位置づけなのかと思いきや、その後も時々顔を出すもののその頻度は尻すぼみ。後から思うと、冒頭だけの主人公扱いは何だった? 後の展開を考えれば、彼女のシーンは1/4くらいで良かった気がする。
そして、俺の気分を下げたのがホントの主人公的扱いのペドロという男。「職場で何やってんだ」と言いたくなることばかりして、働かない、働かない。狭量な俺は映画でも、カス・クズを見せられ続けるとすごくイライラしてしまう。 そういうシーンが序盤に延々続くのでげんなり。
後半の大騒動も笑えなかったし、作品を通して何を言いたかったのか俺には良くわからなかった。
横柄な店のオーナーが居て、オーナーには逆らえず、スタッフには威張る中間管理職的マネージャーが居て、貧しいスタッフ、その中には居住継続にも不安を抱える多くの移民がいる、それが社会の縮図? にしても、あんまり伝わって来るものが無かった。
実際にアメリカ社会で暮らす人(トランプに怯える移民とか)は感じ方が違うのかも知れない。
唯一の救いは目あてのルーニー・マーラーで、「やっぱり美しい」と久しぶりに観た彼女のアップシーンだけは心が洗われる思い。
それだけだった。
「沸騰」のような快作を期待して出かけたが。
時代背景がはっきりしなかった。1959年英国で初演された戯曲が元のようだが、ニューヨークに舞台を移していた。PCはあり、携帯・スマホはなく、会話にはベトナム戦争のことが出てくる。あいまいさを補うためにモノクロ(一部カラーフィルター)が採用されたのだろう。
つかみはよかった。メキシコ系の小柄の若い女性、エステラがアポなしに、マンハッタンのタイムズ・スクエアにあるレストラン「ザ・グリル」に押しかける。レストランの料理人の一人、メキシコ移民のペドロを知っていたこともあり、無事、調理助手として採用される。ただ、この話の主人公は、ペドロとその恋人、白人アメリカ女性のジュリアだった。
時分時になると、観光客の「お上りさん」や、家族連れでごった返す、このレストランでは、グループ客たちは高級食材の(劇中では揶揄される)オマール海老、チキン、ピザ、サンドイッチ、サラダに、アイスクリーム、飲み物などを、思い思いに頼む。接客するのは、伝統のコスチュームに身を包んだアメリカ人のウェイトレスたち、ジュリアのような白人も多い。厨房では、オーダーの種類別に、移民しかもラテンアメリカからの不法移民が調理を担当していた。これだとウェイトレスたちと厨房のメンバーが、上手くいくはずがない。移民たちの楽しみは昼休みに建物の裏通りに出て、自分たちの思いや夢を語り合うこと。そのときペドロは、自分の言葉で夢を語ることはなく、それを行動で示す筋書きか。
昔の日本のデパートの食堂のような膨大な仕事をこなす調理場で一番大切なことは食材の発注と管理で、それはトップ・シェフの仕事のはず。ところが、それが全く出てこなかった。結局のところ、ペドロが本当に何をしたかったのか、ペドロとジュリアは、何をしたのか、お金の出所を含めてはっきりしなかったことが、1番の問題。
一番良かったのは、ウェイトレスたちが受け取った注文を調理場に伝えるのに、1台の小さな印刷機能の付いた機器が使われていたこと、形状から見て日本製かなと思った。これが調理場で一番最後まで、健気に働いていた、緑色の光線を発しながら。そうなのだ。この調理場に、一人でも、言葉はできないが、陰日向なく働き抜く、東洋系の人間がいたらな。撮影場所がメキシコでは、無理な注文だったのだろう。いくら不法移民たちの爆発的な熱狂がうずまいていたとしても、「沸騰」や「花椒の味」を見た時のような、魂が解放されるカタルシス得ることはできなかった。残念!
スラングと暴力と差別がこれでもかと出てくる
ニューヨークの観光客向けの大規模レストランの厨房が舞台のお話し。
話の展開の中で、レストランのフロアも何度か短時間出てきます。また、店の裏口に面する裏通りも、重要な場面になります。
主役はいるけれど、レストランのスタッフの群衆劇と言って良いでしょう。
スラングと暴力と差別がこれでもかと言うほど出てくるし、話の展開は全く読めないです。
物語全体としても、結末としても、かなり胸くそが悪い映画だと思います。
でも、この映画は面白いと思ってしまいました。
つまらない映画との差って、一体何なのかなぁ。
富を生み出す工場
観光客向け大型レストラン「ザ・グリル」の厨房での一日の出来事を描いた本作。
ロブスターが入れられた水槽を挟んで向かい合う主人公ペドロとジュリア、このフライヤーの絵の構図が本作を如実に物語っている。
ロブスターはその調理法や運搬方法が確立するまでは肥料などに使われる貧者の食べ物と言われた。しかし今やそれは富を生み出す高級食材に。ラテンアメリカの貧しい国々では命を失うリスクを背負いながら生活のために深い海に潜るロブスター漁をやめれないのだという。
いまや貧しい国の人々が一切口にできないロブスターを富める国の者たちが口にする。資本主義社会とは富める者が貧しい者を搾取することで成り立つ。同じ構図は富める国の中でも存在し、不法移民や貧乏白人、黒人奴隷を搾取することで資本家はその富を築いてきた。レストラン「ザ・グリル」はまさにそんな資本主義社会の縮図である。
清潔で落ち着いた店内の客席とは対照的に雑多な人間たちであふれかえった厨房。彼らは分業体制でそれぞれの担当する仕事を任されている。
産業革命以降機械の発明により農民や職人たちは仕事を奪われ単純作業のみを繰り返す単純労働者となった。単純労働だからいくらでも交換が効くし、経営者は低賃金で雇うことができた。
劇中でもペドロは料理長から腕のたつ料理人だがほかにいくらでも代わりはいると言われる。その通りで彼のように仕事を求めてアメリカに来る不法移民は後を絶たない。
彼ら従業員はまさに機械に使われるがごとく、常に客からの注文が送信されるキッチンプリンターの指示通りに働かされる工場労働者だった。そこはまさに料理を作る厨房ではなく口に入る物を製造する工場。
すべては富を生み出すために作り上げられたシステム。しかしそこで働く従業員たちは機械ではなく人間だった。
オーナーはこのシステムに油をさすのを忘れなかった。彼は常に不法移民たちにビザ取得をほのめかした。そうすることで彼らのモチベーションを維持しこの低賃金重労働体制を維持した。
彼らの夢実現という餌をぶら下げて彼らを搾取し続けた。そんな完ぺきと思われたシステムにほころびが生じていく。
厨房には貧困から抜け出すためにやってきた移民たち、黒人奴隷の子孫、貧乏白人、そんな従業員たちを束ねるのも移民であるマネージャーや料理長である。それは奴隷制度の時代、奴隷を束ねていたのも黒人奴隷であったことを思い起こさせる光景だ。オーナーはもちろんアメリカ白人。
ビザを取得して不法移民という立場を脱すれば今より楽で賃金のいい職場に移れる。そのために今は耐えていた不法移民の彼ら。しかしその同じ職場にいるのはまさに彼らが目指す立場のアメリカ人たちだった。
彼らが憧れるはずのアメリカ人が今の自分たちと同じ過酷な職場で働いている現実に彼らは気づいていたであろうか。所詮自分たちは富を生み出すための機械の一部でしかないことに。
ペドロは恋人ジュリアとの将来を思い浮かべていた。共に故郷で観光客向けの商売をして楽しく暮らしたいと。だから自分の子供を堕ろしてほしくなかった。
同じ労働者の二人。愛し合ってはいるもののその二人には隔たりがあった。ロブスターの水槽のように。
アメリカ白人のジュリアは自分の体が蟻に侵食される夢を見るのだという。それは漠然たる不安。今や白人が少数派になるというくらい有色人種が多くを占めるアメリカで移民であるペドロを愛しながらも自分たちの居場所が移民たちに奪われるのではないかという漠然たる不安を抱いてるのだろうか。けして良い仕事ではないウエイトレスの仕事さえも奪われるのではないかという。
アメリカンドリームはいまやただの「ドリーム」だ。一握りの富裕層が大半の富を独占する超資本主義社会で自分の夢をかなえるのは不可能に近い。よほどの才能と運でもない限り。渡ってくる移民たちにはもう食べ残ししか残っていない、それをアメリカ人の貧困層と奪い合うのだ。
ジュリアが自分の子を堕胎したことを知り絶望するペドロ。どんなに愛し合っていても、やはり移民の自分は受け入れてもらえないのか。ジュリアが堕胎したのはこれ以上子供を持つ余裕がないことも理由の一つだったが、ペドロは自分が移民のせいなのかと思い込む。事実ジュリアには移民への漠然たる不安もあったが。
ビザ取得もオーナーによるリップサービス、それに加えて金を盗んだというあらぬ疑いをかけられ、今までたまりにたまっていた鬱積が爆発する。
彼が暴れて無茶苦茶にされた後、静寂に包まれた厨房には今もなお働けと言わんばかりに壊されたキッチンプリンターの音だけが響き渡る。オーナーは自分が作り上げた製造ラインがストップした状況に呆然とする。彼の資本主義システム、富を生み出す製造工場が止められて怒りを顕わにする。
ピューリタンの子孫さながら神の許しを得たのかとペドロを問い詰める。勤勉さ、効率的という彼らの神の教えがこの資本主義社会を押し上げてきた。仕事を止めることは神の教えに反する。だからこそ彼はペドロに言う、神の許可を得たのかと。
職も食事も与えてやった、これ以上なにを望むのかというオーナーの言葉に押し黙る従業員たち。そこには対等な雇用関係というものはない。まさに支配者と被支配者という関係があるだけだ。搾取する側される側、産業革命初期の資本家と労働者の関係。それに気付いていないのはオーナーも同じだ。
ペドロは悟ったのかもしれない。ここは自分のいる場所ではないと。自分の神ではないと。自分たちを搾取するだけの神、この神は自分を幸せにしてくれないと。改めて資本主義社会は自分たちを幸せにはしないと気付いたのかもしれない。
緑色の光に包まれるペドロ、緑の光は幸せの光だという言い伝えがある。彼は間違いなくこの場から去るだろう。そして光に連れ去られた彼は知らない場所で普通に平穏な暮らしをしてるのかもしれない。どちらにせよ今のアメリカにいても幸せになれることはないだろうから。
ペドロは資本主義の搾取システムである富を生み出す工場を停止させた。それは彼の意図してのものではないだろうが、それは搾取され続けた労働者によるサボタージュでありプロレタリアートによる抵抗運動を象徴してもいる。
かつては資本主義はその暴走の恐れからそれを補完するためのニューディール政策の様な社会主義的政策が取られた。しかし冷戦終結後、社会主義国が軒並み崩壊して資本家たちは社会主義への脅威は去ったとして、労働組合の勢いが衰えたのを機に社会主義的福祉政策をどんどん切り捨てていまや産業革命当時の資本主義社会に逆戻りした。労働者は貧しい不法移民などで事欠かない。新自由主義の下で富める者はますます富を得て貧者はますます貧しくなった。
超資本主義社会の搾取システムの中で生きる人々。その中で最も搾取される不法移民たちをメインに描いた物語だが、メキシコ人監督はけして不法移民たちをただの被害者とは描かなかった。それは障害者を聖人として描かないのと同じく、あくまでも移民をフラットに見てもらいたいという思いからなのかもしれない。
移民を受け入れるということは彼らの文化や習慣もある程度は受け入れることを意味する。ただ外国製の機械を導入するのではなく血の通った人間を受け入れるということは生半可なことではない。だからこそ移民を受け入れるということはどういうことなのか綺麗ごとだけではないということを観客に問いかけたかったのかもしれない。
厨房での従業員たちの傍若無人ぶりや衛生面の描写はさすがにやりすぎな気もしないでもないが、ただ学生時代バイトしていた有名ビアレストランのドリンク用製氷機の中にはよくゴキブリの死骸が混じっていたな。まあ大昔の話だから今はそんなことないだろうけど。
Sabotage
あらすじを読む感じ厨房地獄映画かな〜と思いワクワクしながら鑑賞。
夢に飢える者たちの人情ドラマと厨房でのカオスな環境と静と動を思う存分楽しめる一本でした。
多くの人種の人々が働くレストラン「ザ・グリル」で800ドルが無くなるといったところから話はスタートし、これがメインになっていくのかなと思いましたが、別にそこは主軸ではなく、群像劇と戦闘のダブルパンチでやってくる怪作です。
間違いなくこの厨房にぶち込まれたら発狂すると思いますし、賃金目当てとはいえここに自ら飛び込むのは勇気がいりすぎます。
1回目の厨房で全員の怒りが爆発していくシーン、これがひたすら長回しで連鎖していく怒り沸き立つ瞬間の連続にやられっぱなしでした。
もう見るからに不真面目なペドロを始め悪ノリしまくったり、指示がうまく伝達していないからか料理の提供が遅れてしまったり、飛び込みで入ってきた新米もワッタワタしたりしてでもう厨房内で罵声が飛び交うとんでもない状況になっていて圧巻でした。
チェリーコークの機械がぶっ壊れて流れっぱなしなのもあって厨房内水浸しですし、やっとこさ出来上がったチキンを提供する流れになったのに他のウェイトレスとぶつかってチキンはコークの中に突入してしまったりともう目も当てられない状況になっていてカオスでした。
2回目の厨房ではペドロが場を支配するかの如く勢いで大暴れしますし、残り物に顔突っ込んで全身で浴びて血まみれになってとかの流れはもう笑うしかないくらいの勢いでした。
そこにストライキも入ってきたり、支配人も咎められたりと職場崩壊が見事なまでに起こったりとで心苦しかったです。
白人であるマックスがしっかり仕事もやっているのに他の不真面目な連中にヤキモキしている様子は分かるわ〜と思いますし、ペドロがクソみたいな絡みをしてくるせいでそりゃ怒るわってくらいブチギレるのは見ていて気持ちよかったです。
ナイフとかで刺すんじゃない?ってくらいの勢いでしたがとどまったのは偉すぎる。
ペドロとジュリアの恋模様も複雑に描かれるのですが、全編通してもペドロの良さが分からないのにジュリアも関係性をなぜ続けていくんだろうと思って観ていましたし、料理に携わる仕事なんだからチョメチョメした直後に料理を直で行くんじゃありませんと何度思ったことか。
この恋模様にも事情ありとはいえ、テンポもあまり良くなかったのでここは少しくどかったかなと思いました。
支配人のセリフも分かりつつも、それだけじゃ納得のいかない従業員たちの気持ちも分かりつつ、でも皆々様仕事に力は入れてなかったよな?という些細な疑問も残ったりとで良い具合にモヤモヤするのもまた面白かったです。
上司と部下が分かり合える環境ってやっぱ希少だし、日本はそこんとこまだ良い方なのかなと考えるきっかけにもなりました。
まぁこの厨房内を見た後だとここでの食事は絶対嫌だなとなります。
調理の様子までは分からないにしても、提供の様子は雑ですし、ペドロ大暴れで料理も皿もぶち壊しまくりなので、もし来店したら間違いなく⭐︎1つけちゃうと思います笑
ラストシーンもそうくるか〜といったまとめ方で、第一印象からはガラッと変わっていくのもこれまた一興でした。
オシャレとカオスが同居している不思議な作品。
評価はキッパリ分かれると思いますが個人的には楽しめたのでオールオッケーです。
鑑賞日 6/17
鑑賞時間 15:45〜18:15
ハダカデバネズミ君
だいぶ前の予告編では「ボイリング・ポイント沸騰や······」と確かにあったのですが、その後「ボイリング・ポイント沸騰や·····」のくだりはカットされました。
おそらく集客の妨げになると上のほうのひとが判断したのでしょう。
でも、手遅れだったかも。
ザ·メニューもそうでしたが、厨房のトラブルムビ―はこりごり。
老舗のザ·グリルには腐敗が蔓延してしまっていて、地下の調理場に下水が上がってるシーンはまるで半地下の家族。
あの管理体制で売り上げが合わないかどうか、すぐにわかるの?って思いましたが、やっぱり。
従業員の妨害行為は普通はじわじわと浸透していくものなんですが、最初からみごとに沸騰してました。
腐敗した組織と職員の妨害行為をみせるのに飲食業界はたいへんわかりやすいとは思いますが、ルーニー・マーラでなくてもいいんじゃね、って思っちゃいましたが、ルーニー・マーラの家系は財閥クラスなんですね。
そのギャップとのヒネリやキリスト教イジりが面白いのかもしれませんが、よくわかりません。
ネズミ君の女子更衣室出歯亀シーン😎
ハダカデバネズミって生き物を動物園で見た時は結構な衝撃でした。
映画とはぜんぜん関係ありませんけど。
ジュリアに傷心
騒がしい厨房から始まるんだろうな、とか、売上金の件が物語の“転”になるんだろうな、とか…
予想が悉く外れて少し悔しい。笑
とりあえずスタッフの民度が低過ぎる。
スタッフ同士で軽口叩いたり煽りあったり喧嘩したり、まともに働いてる人間の方が少ないのでは。
勤務中に酒は飲むわつまみ食いするわ煙草も吸うわイチャつく(どころじゃないが)わ、どんな店だよ。
ジュリアがペドロを受け入れたり突き放したりする情緒も理解不能。
というか休憩時間に中絶するんじゃないよ。
そもそもあれってどういう店?
フロアも厨房も広いし、調理は細かく担当で分かれてるし、従業員の数も多くて客も裕福そう。
でもスタッフの質は悪く(裏場だけかと思ったらバースディソングも適当)バーガーなんかも扱う。
あんな店が本当にあるのだろうか…(絶対行きたくない)
売上金の紛失やら妊娠やら夢やらいざこざやら、普通に考えればすべて移民差別に繋がるのだけど…
ペドロはじめ、全員個々の人格に問題があるようにしか見えないんだよなぁ。
冒頭にあった世界を「商売の場」とする引用や、タイムズスクエアの話もイマイチ繋がらない。
静と動のコントラストの付け方とか、ロングカットを中心としたアングルとかは良かったけどさ。
バレても覗き続けるネズミの胆力は見習いたい(オイ
色んな意味でここで飯食いたくないなと思ってたら 後半はそんなレベル...
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