ラ・コシーナ 厨房のレビュー・感想・評価
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リスペクトの欠如と、詰めの甘さ
ルーニー・マーラが割と好きな女優なので楽しみにして観たが、彼女が演じたウェイトレスのジュリアは残念ながら魅力的なキャラクターとは言い難い。20世紀半ばに英国で書かれた戯曲を翻案した映画化というのは鑑賞前に知っていたので、時代設定はいつごろに変えたのか、モノクロ映像は時代感をあいまいにする意図からか、などと考えながら観ていた。オフィスにあるデスクトップPCのモニターがブラウン管なのと、携帯電話が使われる描写がない(何人かは公衆電話で家族に連絡する)ことから、1980年代後半か90年代前半頃だろうかと思ったり。
だが、小型プリンタが印刷する注文のレシートが大写しになったとき、日付が2022/05/02になっていて、えっ?!と驚く。もしも今から30年か40年も前の話なら、厨房でくわえ煙草のスタッフがいて、髪の混入を防ぐ帽子やバンダナ等を着用している者もわずか、マスク着用は皆無なのに食材や皿の前で大声で叫びまくりというのも、まああったかもしれない。でも、いくら多数の移民を不法就労させているブラックな職場だとはいえ、2020年代の食品衛生や公衆衛生の常識にてらして、このキッチンの働きぶりはひどすぎないか。これだけ大勢のスタッフがいるのだから、料理を作って客に提供する仕事に誇りを持っていたり喜びを感じているキャラクターを1人か2人でも描いたらまだよかったのに。料理人という職業、そして調理する行為へのリスペクトや愛情が、映画の作り手に欠けている気がして残念に思う。
なお、劇中にこの日が金曜という台詞がある(それゆえ観光客相手の店のランチタイムは激混みで注文が殺到する)が、鑑賞後2022年5月2日の曜日を調べたら月曜だった。ここにも詰めの甘さが出ている。別にレシートを大写しにしなければ、時代をあいまいなままにできたのに。2020年代の話なら、ジュリアが妊娠を自覚しているのに煙草を吸いまくっているのもどうかと思う。どうせ中絶するつもりだから胎児への影響なんて気にしないのだとしたら、それはそれでキャラクターに一層共感しづらい。
格差社会の底辺で働く移民たち(とくに不法就労者)の劣悪な労働環境を風刺することを優先したのはわかる。ただ、以前に邦画の「FUNNY BUNNY」のレビューでも書いたことだが、舞台劇を映像化する場合、舞台で成立していた抽象や誇張を、実写の具体やリアルさにうまく調整しないと、嘘くさい話になったり、共感しづらいキャラクターだらけになったりする。舞台劇と劇映画のリアリティラインの違いから生まれる違和感とも言える。
ホールスタッフたちがトレイに料理を載せて厨房から次々に客席へ向かう動きをダンスのコレオグラフィのようにとらえた長回し撮影など、印象的なシーンもあっただけに、もったいないと感じた。
Big Apple in Hot Water
La Cocina is a stylish black-and-white film set in a bustling Manhattan kitchen. Adapted from a British play about European immigrants working in a London restaurant, this American version reimagines the story through the lens of Latin American experiences. The film vividly evokes the chaotic, high-pressure environment of working in a New York restaurant. While the narrative occasionally veers into over-dramatic territory, the strong performances lend it a theatrical quality reminiscent of its stage origins. The movie ambitiously aims to capture the zeitgeist of immigrant life in America today.
「沸騰」のような快作を期待して出かけたが。
時代背景がはっきりしなかった。1959年英国で初演された戯曲が元のようだが、ニューヨークに舞台を移していた。PCはあり、携帯・スマホはなく、会話にはベトナム戦争のことが出てくる。あいまいさを補うためにモノクロ(一部カラーフィルター)が採用されたのだろう。
つかみはよかった。メキシコ系の小柄の若い女性、エステラがアポなしに、マンハッタンのタイムズ・スクエアにあるレストラン「ザ・グリル」に押しかける。レストランの料理人の一人、メキシコ移民のペドロを知っていたこともあり、無事、調理助手として採用される。ただ、この話の主人公は、ペドロとその恋人、白人アメリカ女性のジュリアだった。
時分時になると、観光客の「お上りさん」や、家族連れでごった返す、このレストランでは、グループ客たちは高級食材の(劇中では揶揄される)オマール海老、チキン、ピザ、サンドイッチ、サラダに、アイスクリーム、飲み物などを、思い思いに頼む。接客するのは、伝統のコスチュームに身を包んだアメリカ人のウェイトレスたち、ジュリアのような白人も多い。厨房では、オーダーの種類別に、移民しかもラテンアメリカからの不法移民が調理を担当していた。これだとウェイトレスたちと厨房のメンバーが、上手くいくはずがない。移民たちの楽しみは昼休みに建物の裏通りに出て、自分たちの思いや夢を語り合うこと。そのときペドロは、自分の言葉で夢を語ることはなく、それを行動で示す筋書きか。
昔の日本のデパートの食堂のような膨大な仕事をこなす調理場で一番大切なことは食材の発注と管理で、それはトップ・シェフの仕事のはず。ところが、それが全く出てこなかった。結局のところ、ペドロが本当に何をしたかったのか、ペドロとジュリアは、何をしたのか、お金の出所を含めてはっきりしなかったことが、1番の問題。
一番良かったのは、ウェイトレスたちが受け取った注文を調理場に伝えるのに、1台の小さな印刷機能の付いた機器が使われていたこと、形状から見て日本製かなと思った。これが調理場で一番最後まで、健気に働いていた、緑色の光線を発しながら。そうなのだ。この調理場に、一人でも、言葉はできないが、陰日向なく働き抜く、東洋系の人間がいたらな。撮影場所がメキシコでは、無理な注文だったのだろう。いくら不法移民たちの爆発的な熱狂がうずまいていたとしても、「沸騰」や「花椒の味」を見た時のような、魂が解放されるカタルシス得ることはできなかった。残念!
スラングと暴力と差別がこれでもかと出てくる
ニューヨークの観光客向けの大規模レストランの厨房が舞台のお話し。
話の展開の中で、レストランのフロアも何度か短時間出てきます。また、店の裏口に面する裏通りも、重要な場面になります。
主役はいるけれど、レストランのスタッフの群衆劇と言って良いでしょう。
スラングと暴力と差別がこれでもかと言うほど出てくるし、話の展開は全く読めないです。
物語全体としても、結末としても、かなり胸くそが悪い映画だと思います。
でも、この映画は面白いと思ってしまいました。
つまらない映画との差って、一体何なのかなぁ。
富を生み出す工場
観光客向け大型レストラン「ザ・グリル」の厨房での一日の出来事を描いた本作。
ロブスターが入れられた水槽を挟んで向かい合う主人公ペドロとジュリア、このフライヤーの絵の構図が本作を如実に物語っている。
ロブスターはその調理法や運搬方法が確立するまでは肥料などに使われる貧者の食べ物と言われた。しかし今やそれは富を生み出す高級食材に。ラテンアメリカの貧しい国々では命を失うリスクを背負いながら生活のために深い海に潜るロブスター漁をやめれないのだという。
いまや貧しい国の人々が一切口にできないロブスターを富める国の者たちが口にする。資本主義社会とは富める者が貧しい者を搾取することで成り立つ。同じ構図は富める国の中でも存在し、不法移民や貧乏白人、黒人奴隷を搾取することで資本家はその富を築いてきた。レストラン「ザ・グリル」はまさにそんな資本主義社会の縮図である。
清潔で落ち着いた店内の客席とは対照的に雑多な人間たちであふれかえった厨房。彼らは分業体制でそれぞれの担当する仕事を任されている。
産業革命以降機械の発明により農民や職人たちは仕事を奪われ単純作業のみを繰り返す単純労働者となった。単純労働だからいくらでも交換が効くし、経営者は低賃金で雇うことができた。
劇中でもペドロは料理長から腕のたつ料理人だがほかにいくらでも代わりはいると言われる。その通りで彼のように仕事を求めてアメリカに来る不法移民は後を絶たない。
彼ら従業員はまさに機械に使われるがごとく、常に客からの注文が送信されるキッチンプリンターの指示通りに働かされる工場労働者だった。そこはまさに料理を作る厨房ではなく口に入る物を製造する工場。
すべては富を生み出すために作り上げられたシステム。しかしそこで働く従業員たちは機械ではなく人間だった。
オーナーはこのシステムに油をさすのを忘れなかった。彼は常に不法移民たちにビザ取得をほのめかした。そうすることで彼らのモチベーションを維持しこの低賃金重労働体制を維持した。
彼らの夢実現という餌をぶら下げて彼らを搾取し続けた。そんな完ぺきと思われたシステムにほころびが生じていく。
厨房には貧困から抜け出すためにやってきた移民たち、黒人奴隷の子孫、貧乏白人、そんな従業員たちを束ねるのも移民であるマネージャーや料理長である。それは奴隷制度の時代、奴隷を束ねていたのも黒人奴隷であったことを思い起こさせる光景だ。オーナーはもちろんアメリカ白人。
ビザを取得して不法移民という立場を脱すれば今より楽で賃金のいい職場に移れる。そのために今は耐えていた不法移民の彼ら。しかしその同じ職場にいるのはまさに彼らが目指す立場のアメリカ人たちだった。
彼らが憧れるはずのアメリカ人が今の自分たちと同じ過酷な職場で働いている現実に彼らは気づいていたであろうか。所詮自分たちは富を生み出すための機械の一部でしかないことに。
ペドロは恋人ジュリアとの将来を思い浮かべていた。共に故郷で観光客向けの商売をして楽しく暮らしたいと。だから自分の子供を堕ろしてほしくなかった。
同じ労働者の二人。愛し合ってはいるもののその二人には隔たりがあった。ロブスターの水槽のように。
アメリカ白人のジュリアは自分の体が蟻に侵食される夢を見るのだという。それは漠然たる不安。今や白人が少数派になるというくらい有色人種が多くを占めるアメリカで移民であるペドロを愛しながらも自分たちの居場所が移民たちに奪われるのではないかという漠然たる不安を抱いてるのだろうか。けして良い仕事ではないウエイトレスの仕事さえも奪われるのではないかという。
アメリカンドリームはいまやただの「ドリーム」だ。一握りの富裕層が大半の富を独占する超資本主義社会で自分の夢をかなえるのは不可能に近い。よほどの才能と運でもない限り。渡ってくる移民たちにはもう食べ残ししか残っていない、それをアメリカ人の貧困層と奪い合うのだ。
ジュリアが自分の子を堕胎したことを知り絶望するペドロ。どんなに愛し合っていても、やはり移民の自分は受け入れてもらえないのか。ジュリアが堕胎したのはこれ以上子供を持つ余裕がないことも理由の一つだったが、ペドロは自分が移民のせいなのかと思い込む。事実ジュリアには移民への漠然たる不安もあったが。
ビザ取得もオーナーによるリップサービス、それに加えて金を盗んだというあらぬ疑いをかけられ、今までたまりにたまっていた鬱積が爆発する。
彼が暴れて無茶苦茶にされた後、静寂に包まれた厨房には今もなお働けと言わんばかりに壊されたキッチンプリンターの音だけが響き渡る。オーナーは自分が作り上げた製造ラインがストップした状況に呆然とする。彼の資本主義システム、富を生み出す製造工場が止められて怒りを顕わにする。
ピューリタンの子孫さながら神の許しを得たのかとペドロを問い詰める。勤勉さ、効率的という彼らの神の教えがこの資本主義社会を押し上げてきた。仕事を止めることは神の教えに反する。だからこそ彼はペドロに言う、神の許可を得たのかと。
職も食事も与えてやった、これ以上なにを望むのかというオーナーの言葉に押し黙る従業員たち。そこには対等な雇用関係というものはない。まさに支配者と被支配者という関係があるだけだ。搾取する側される側、産業革命初期の資本家と労働者の関係。それに気付いていないのはオーナーも同じだ。
ペドロは悟ったのかもしれない。ここは自分のいる場所ではないと。自分の神ではないと。自分たちを搾取するだけの神、この神は自分を幸せにしてくれないと。改めて資本主義社会は自分たちを幸せにはしないと気付いたのかもしれない。
緑色の光に包まれるペドロ、緑の光は幸せの光だという言い伝えがある。彼は間違いなくこの場から去るだろう。そして光に連れ去られた彼は知らない場所で普通に平穏な暮らしをしてるのかもしれない。どちらにせよ今のアメリカにいても幸せになれることはないだろうから。
ペドロは資本主義の搾取システムである富を生み出す工場を停止させた。それは彼の意図してのものではないだろうが、それは搾取され続けた労働者によるサボタージュでありプロレタリアートによる抵抗運動を象徴してもいる。
かつては資本主義はその暴走の恐れからそれを補完するためのニューディール政策の様な社会主義的政策が取られた。しかし冷戦終結後、社会主義国が軒並み崩壊して資本家たちは社会主義への脅威は去ったとして、労働組合の勢いが衰えたのを機に社会主義的福祉政策をどんどん切り捨てていまや産業革命当時の資本主義社会に逆戻りした。労働者は貧しい不法移民などで事欠かない。新自由主義の下で富める者はますます富を得て貧者はますます貧しくなった。
超資本主義社会の搾取システムの中で生きる人々。その中で最も搾取される不法移民たちをメインに描いた物語だが、メキシコ人監督はけして不法移民たちをただの被害者とは描かなかった。それは障害者を聖人として描かないのと同じく、あくまでも移民をフラットに見てもらいたいという思いからなのかもしれない。
移民を受け入れるということは彼らの文化や習慣もある程度は受け入れることを意味する。ただ外国製の機械を導入するのではなく血の通った人間を受け入れるということは生半可なことではない。だからこそ移民を受け入れるということはどういうことなのか綺麗ごとだけではないということを観客に問いかけたかったのかもしれない。
厨房での従業員たちの傍若無人ぶりや衛生面の描写はさすがにやりすぎな気もしないでもないが、ただ学生時代バイトしていた有名ビアレストランのドリンク用製氷機の中にはよくゴキブリの死骸が混じっていたな。まあ大昔の話だから今はそんなことないだろうけど。
Sabotage
あらすじを読む感じ厨房地獄映画かな〜と思いワクワクしながら鑑賞。
夢に飢える者たちの人情ドラマと厨房でのカオスな環境と静と動を思う存分楽しめる一本でした。
多くの人種の人々が働くレストラン「ザ・グリル」で800ドルが無くなるといったところから話はスタートし、これがメインになっていくのかなと思いましたが、別にそこは主軸ではなく、群像劇と戦闘のダブルパンチでやってくる怪作です。
間違いなくこの厨房にぶち込まれたら発狂すると思いますし、賃金目当てとはいえここに自ら飛び込むのは勇気がいりすぎます。
1回目の厨房で全員の怒りが爆発していくシーン、これがひたすら長回しで連鎖していく怒り沸き立つ瞬間の連続にやられっぱなしでした。
もう見るからに不真面目なペドロを始め悪ノリしまくったり、指示がうまく伝達していないからか料理の提供が遅れてしまったり、飛び込みで入ってきた新米もワッタワタしたりしてでもう厨房内で罵声が飛び交うとんでもない状況になっていて圧巻でした。
チェリーコークの機械がぶっ壊れて流れっぱなしなのもあって厨房内水浸しですし、やっとこさ出来上がったチキンを提供する流れになったのに他のウェイトレスとぶつかってチキンはコークの中に突入してしまったりともう目も当てられない状況になっていてカオスでした。
2回目の厨房ではペドロが場を支配するかの如く勢いで大暴れしますし、残り物に顔突っ込んで全身で浴びて血まみれになってとかの流れはもう笑うしかないくらいの勢いでした。
そこにストライキも入ってきたり、支配人も咎められたりと職場崩壊が見事なまでに起こったりとで心苦しかったです。
白人であるマックスがしっかり仕事もやっているのに他の不真面目な連中にヤキモキしている様子は分かるわ〜と思いますし、ペドロがクソみたいな絡みをしてくるせいでそりゃ怒るわってくらいブチギレるのは見ていて気持ちよかったです。
ナイフとかで刺すんじゃない?ってくらいの勢いでしたがとどまったのは偉すぎる。
ペドロとジュリアの恋模様も複雑に描かれるのですが、全編通してもペドロの良さが分からないのにジュリアも関係性をなぜ続けていくんだろうと思って観ていましたし、料理に携わる仕事なんだからチョメチョメした直後に料理を直で行くんじゃありませんと何度思ったことか。
この恋模様にも事情ありとはいえ、テンポもあまり良くなかったのでここは少しくどかったかなと思いました。
支配人のセリフも分かりつつも、それだけじゃ納得のいかない従業員たちの気持ちも分かりつつ、でも皆々様仕事に力は入れてなかったよな?という些細な疑問も残ったりとで良い具合にモヤモヤするのもまた面白かったです。
上司と部下が分かり合える環境ってやっぱ希少だし、日本はそこんとこまだ良い方なのかなと考えるきっかけにもなりました。
まぁこの厨房内を見た後だとここでの食事は絶対嫌だなとなります。
調理の様子までは分からないにしても、提供の様子は雑ですし、ペドロ大暴れで料理も皿もぶち壊しまくりなので、もし来店したら間違いなく⭐︎1つけちゃうと思います笑
ラストシーンもそうくるか〜といったまとめ方で、第一印象からはガラッと変わっていくのもこれまた一興でした。
オシャレとカオスが同居している不思議な作品。
評価はキッパリ分かれると思いますが個人的には楽しめたのでオールオッケーです。
鑑賞日 6/17
鑑賞時間 15:45〜18:15
ハダカデバネズミ君
だいぶ前の予告編では「ボイリング・ポイント沸騰や······」と確かにあったのですが、その後「ボイリング・ポイント沸騰や·····」のくだりはカットされました。
おそらく集客の妨げになると上のほうのひとが判断したのでしょう。
でも、手遅れだったかも。
ザ·メニューもそうでしたが、厨房のトラブルムビ―はこりごり。
老舗のザ·グリルには腐敗が蔓延してしまっていて、地下の調理場に下水が上がってるシーンはまるで半地下の家族。
あの管理体制で売り上げが合わないかどうか、すぐにわかるの?って思いましたが、やっぱり。
従業員の妨害行為は普通はじわじわと浸透していくものなんですが、最初からみごとに沸騰してました。
腐敗した組織と職員の妨害行為をみせるのに飲食業界はたいへんわかりやすいとは思いますが、ルーニー・マーラでなくてもいいんじゃね、って思っちゃいましたが、ルーニー・マーラの家系は財閥クラスなんですね。
そのギャップとのヒネリやキリスト教イジりが面白いのかもしれませんが、よくわかりません。
ネズミ君の女子更衣室出歯亀シーン😎
ハダカデバネズミって生き物を動物園で見た時は結構な衝撃でした。
映画とはぜんぜん関係ありませんけど。
ジュリアに傷心
騒がしい厨房から始まるんだろうな、とか、売上金の件が物語の“転”になるんだろうな、とか…
予想が悉く外れて少し悔しい。笑
とりあえずスタッフの民度が低過ぎる。
スタッフ同士で軽口叩いたり煽りあったり喧嘩したり、まともに働いてる人間の方が少ないのでは。
勤務中に酒は飲むわつまみ食いするわ煙草も吸うわイチャつく(どころじゃないが)わ、どんな店だよ。
ジュリアがペドロを受け入れたり突き放したりする情緒も理解不能。
というか休憩時間に中絶するんじゃないよ。
そもそもあれってどういう店?
フロアも厨房も広いし、調理は細かく担当で分かれてるし、従業員の数も多くて客も裕福そう。
でもスタッフの質は悪く(裏場だけかと思ったらバースディソングも適当)バーガーなんかも扱う。
あんな店が本当にあるのだろうか…(絶対行きたくない)
売上金の紛失やら妊娠やら夢やらいざこざやら、普通に考えればすべて移民差別に繋がるのだけど…
ペドロはじめ、全員個々の人格に問題があるようにしか見えないんだよなぁ。
冒頭にあった世界を「商売の場」とする引用や、タイムズスクエアの話もイマイチ繋がらない。
静と動のコントラストの付け方とか、ロングカットを中心としたアングルとかは良かったけどさ。
バレても覗き続けるネズミの胆力は見習いたい(オイ
色んな意味でここで飯食いたくないなと思ってたら 後半はそんなレベル...
25-077
モノクロでないと完走できない狂気がラストに待っているので要注意案件ですよ
2025.6.17 字幕 アップリンク京都
2024年のアメリカ&メキシコ合作の映画(139分、G)
原案はアーノルド・ウェスカーの戯曲『The Kitchen』
NYのレストランの半日を描いた風刺コメディ映画
監督&脚本はアロンソ・ルイスパラシオス
原題は『La Cocina』で「厨房」という意味
物語は、メキシコから母の知り合いであるシェフのペドロ(ラウル・ブリオネス・カルモナ)を訪ねて、エステラ(アンナ・ディアス)が海を渡ってくる様子が描かれていく
店の場所を人に尋ねながら辿り着いたエステラは、面接を遅刻したシトラリ(サルマ・アルヴァレス)と間違えられて面接を受けることになった
その際に店のトラブルが発覚し、面接はおざなりになったまま、担当のルイス(エドゥアルド・オルモス)の一存で、その場にいたラウラ(ローラ・ゴメス)と一緒に採用されることになった
店のトラブルは、昨夜の売上金の一部が紛失したというもので、オーナーのラシッド(オデット・フェール)は「犯人を見つけて追い出せ」とブチ切れた
そこでルイスは、多忙な金曜日を承知で盗まれた金を探すことになり、全従業員に聞き取り調査を始めていく
そんな中で、新人のエステラはペドロの横についてチキンを仕上げ、昨日の夜に起こったペドロとマックス(スペンサー・グラニース)との喧嘩騒動の噂話を耳に入れていく
ペドロはウェイトレスのジュリア(ルーニー・マーラー)と恋人関係にあり、彼女のお腹にはペドロとの子どもが宿っていた
ペドロは産んで欲しいと思っていたが、ジュリアは頑なに堕ろそうと考えている
そして、店から盗まれたのが中絶費用ではないかと考えられ始め、ジュリアとペドロに疑いの目が向けられた
だが、ルイスはジュリアへの聞き取りの際に「ペドロを犯人と決めつけて尋問を繰り返していく」のである
映画は、冒頭でヘンリー・デイヴィッド・ソローの言葉が引用され、これは『生き方の原則:魂は売らない(Life without principle)』の一説である
1854年の公演にて語られたもので、その後亡くなる直前の1862年に出版されることになった
人生と仕事に関する哲学を語ったもので、労働とその成果による関係性を考え、全ての偉大な事業は自立している、と説いている
この引用の意図は定かではないが、移民の彼らが店の部品として取り扱われ、その成果が危ういバランスで自立に誘われているように見えてくる
また、部品がなければ動かない店を支配しているはずのラシッドも、神の許しなしに好き勝手する労働者をコントロールできないので、彼自身の自立も物凄く脆弱なものに思える
この構造は資本主義社会における経済活動そのものへの警鐘にも思え、部品ではなく自らを自立させ得る人にするために何が必要かを考えさせるもののように思えた
映画では、ロブスターの蘊蓄、宇宙人の光などの様々な例え話が登場し、その中に生きているシェフたちの望みというのは矮小のように語られる
だが、それらを満たすための賃金、環境、精神衛生があれば十分だと考える人もいて、そういった人たちの過ごしやすさを作ることも店の発展には必要と言えるのかもしれない
映画のタイトルは「The Kitchen」ではなく、スペイン語の「La Cocina」なのだが、英語タイトルにしていないところにも意味があると思う
文字通り、「厨房」はアメリカであってアメリカではないのだが、それは移民で溢れているからではない
彼らはビザを取るために腰掛けで働く存在であり、言わば暫定的にそこにいるだけの存在である
25年働いている料理長(リー・セラーズ)ですらまともに扱われていないところを見ると、そこは永遠にアメリカ人になれない人たちの坩堝のようにも思える
そう言った意味を含めると、緑の光で照らされたペドロが赴く先は夢見る地ではないのだろう
いずれにせよ、モノクロになっているので最後まで鑑賞可能だが、耐えきれない人がいてもおかしくないと思う
ジュリアは「10週目」と言われて驚くのだが、それはペドロの子どもではないという意味にも思える
それでも、エイブ(レオ・ジェームス・デイヴィス)がいるからこそ新しい子どもを産もうとしないということは一貫していたので、誰の子どもであれ、同じ決断をしていたのだろう
ジュリアの選択で呆然として自暴自棄になったペドロだが、その起点となるのはラウラの「濡れネズミ」という言葉だった
これはメキシコ移民がリオ・グランデ川などを渡って入国する際に濡れていたことが由来で、当初は「Wetback」というスラングが生まれていた
ペドロは真っ当に生きてビザを取り、自身の夢を叶えようと考えていたが、それすらも叶わないところにこの言葉をモロッコ移民のラウラからぶつけられたことで箍が外れている
これが移民同士が罵りあっている構図になっていて、それが支配者の時間を止めるのだから面白い
そう言った観点から見ても、自立に向かおうとしない資本主義というのは問題が多いのかな、と感じた
緑色の光
いつものように 事前情報をシャットアウトして劇場へ。
ちょっと前に見た「We Live in Time この時を生きて」と同じ職種。
冒頭、アポ無しで知り合いのつてだけを
頼りに 携帯も持たずに面接に行く主人公。
レストラン事務所の面接シーン。
奥行きの有るパソコン・モニター(old MACか?)に懐かしさを覚える
ウエイトレスの制服デザインを見て
時代設定は現代じゃないと確信。
音響・照明、カメラワークが最高!
終盤に差し掛かるにつれて
なぜこの映画がモノクロームで
描かれたのかがわかる
ペドロ…
良いキャラだ
バカでチャーミングなロマンチスト
ジュリアのために作る
故郷のスパイスを効かせた
サンドイッチが旨そうだ。
今、私は国内有数の観光都市で
生活している。
職場で出会う人達の中にも
外国籍の名前がここ10年ほどで
増えてきて、
休憩時間の「国連会議」。
あのような情景が私の街でも見られる。
「面白かった」だけでは
すまされない、いろいろ
考えさせられる作品だった。
あの冷蔵庫の肉は食べたくない、おえっ!
濡れネズミ
タイムズスクエアのレストラン「ザ・グリル」で働く多国籍の人たちの話。
母親の知人が働いているというだけで、それを頼って自信満々に飛び込みで仕事を求めて少女がやって来る中、昨夜の売上のうち800$強が盗まれたと大騒ぎして始まっていく。
初っ端から道を聞いただけでタラタラ長い能書き垂れるヤツが現れるし、店も従業員も遵法精神ないしアメリカらしいなと…最近日本でも問題が取り沙汰されている地域もありますが…。
粗暴で自己中で自己主張が激しい人たちの夢だとか能書きだとか全開だし、レストラン映画としても特に食いたい!ともならないどころか汚らしいしw、仕事としても効率が良い様にみえないし。
こういうのみると日本の飲食店って凄いなと思うよね。
結局仕事に対するプライドってそういうものか?っていうドタバタで、とりあえずお花畑な日本人で良かったなと実感した。
一件のレストランの1日を通して描かれる、アメリカ社会の縮図
【イントロダクション】
アメリカ、ニューヨークのタイムズ・スクエアにある一件のレストランを舞台に、様々な国籍の従業員達が織りなす1日を描く。
イギリスの劇作家アーノルド・ウェスカーによる1957年の戯曲「調理場」を原作に、現代アメリカ社会のリアルをモノクロと趣向を凝らしたカメラワークで鮮烈に映す。映画化は今回2度目となる(1度目は1961年、ジェームズ・ヒル監督による『The Kitchen』)。
監督・脚本は、メキシコ出身の新鋭アロンソ・ルイスパラシオス。
【ストーリー】
ニューヨーク、タイムズ・スクエアにある一件の高級レストラン“ザ・グリル”。オーナーのラシッド(オデッド・フェール)は、アラブ系アメリカ人の起業家として成功した人物。ウェイトレスは白人のアメリカ人が多くを占めているが、客から見えない厨房では、ラテンアメリカ人やアラブ系の不法移民が従業員として多く働いている。
英語を話せないヒスパニック系移民のエステラ
(アンナ・ディアス)は、コックのペドロ(ラウル・ブリオネス)のツテを頼りに、単身ニューヨークへ渡り店を訪ねる。英語を理解出来ない彼女は、デザートコックのノンゾ(モーテル・フォスター)の案内で面接室前にやって来る。エステラは面接の事前予約すらしていなかったのだが、運良く事前予約をしていた他人と勘違いされ、店で働くことになる。ペドロは粗暴ながら陽気で料理の腕も良く、前日にアメリカ人従業員のマックス(スペンサー・グラニーズ)との喧嘩も、料理長(リー・セラーズ)の計らいで不問とされた。しかし、優秀ながら風紀を乱すペドロの行動に、料理長は「警告は残り3回だ。3回目は容赦なく追い出す」と念を押す。
ペドロはウェイトレスのジュリア(ルーニー・マーラ)と交際しており、ジュリアはペドロとの子を孕っていた。しかし、「出産後は故郷のメキシコのビーチで家族3人で暮らそう」と夢を語るペドロに対して、ジュリアは中絶の意思を伝える。また、ジュリアは電話で誰か愛しい相手に繰り返し連絡を入れている様子だ。ペドロは、ジュリアに出所不明の中絶費用約800ドルを渡す。
時を同じくして、監督責任者のルイス(エドゥアルド・オルモス)は、帳簿係のマーク(ジェームズ・ウォーターストン)から、「前日の売り上げ金が823ドル足りない」と報告を受け、ラシッドの怒りを買うまいと、彼らはウェイトレスや従業員を次々と面接し、犯人探しを開始する。
いよいよ「午前の部」の店が開店し、従業員やウェイトレスは猛スピードで料理を作り、次々とテーブルへ運ばれていく。エステラはロクに指導を受ける事もなく、店の荒っぽいやり方に着いて行かざるを得なくされる。
ラシッドは犯人探しを含めて厨房の様子を見物に訪れ、ペドロに「ビザの申請に協力する」と口約束をする。しかし、それは従業員のやる気を促し、店の売り上げを保つ為の体の良い嘘でしかなかった。
チェリーコークの自販機が壊れ、厨房が水浸しになるという惨事にも拘らず、客のオーダーに合わせて次々と料理が作られては運ばれてゆく。ペドロの夢、ジュリアの中絶、翻弄されるエステラ、犯人探しに躍起になるルイスetc.様々な人物達が入り乱れる混沌とした空間の中で、“ザ・グリル”の長い1日が幕を開ける。
【感想】
本作にコメントを寄せている著名人含め、他の方も散々指摘している事だが、これはまさに「資本主義社会の縮図」だ。元の戯曲、及び1度目の映画化の舞台であるヨーロッパから、本作では舞台をアメリカへと移し、様々な登場人物達が織りなすドラマ、クライマックスの怒りの爆発に「現代アメリカの縮図」を見せる。
移民問題や人種差別、そして資本主義社会の搾取構造。一件のレストランの1日を舞台に、それぞれの登場人物達の抱える問題を浮き彫りにしていく。
グルメを題材にしつつ、登場する料理がその殆どに魅力を感じないという“逆フード映画”なのが凄い。但し、私は作中2度、登場する料理を「美味しそう」だと感じた。それは、ペドロがジュリアに振る舞うサンドイッチと、ホームレスに振る舞うロブスターの弁当だ。それはどちらも“相手の為を思って”振る舞われるものである。ベタではあるが、そのようにさり気なく“料理の本質”を描いている抜け目なさがニクい。
開店後の慌ただしい店内の様子をワンカットで捉えて見せたカメラワーク、作中数少ないネオンライトの青い“色”のある肉の冷蔵室内でペドロとジュリアが語り合うシーン等、魅力的で印象的なシーンは数多く存在するのだが、やはり特に印象的なのは、ペドロをはじめノンゾやサルバドール(ベルナルド・ベラスコ)、ネズミ(エステバン・カイセド)やサミラ(ソンドス・モスバ)といった様々なルーツや価値観を持つアメリカン・ドリームを夢見る移民達が、休憩時間に店の裏でそれぞれの夢について語り合うシーンだろう。
本作を語る上で重要なのが、この時にノンゾが語った“2度の緑の光”についての話だ。
とある移民が、入国審査で隻腕である事を理由に檻に入れられてしまう。強制送還を待つのみだった彼は、宇宙人に緑色の光線によって連れ去られ、離れた街で発見された。彼は生涯悲しみを背負いながら生きたが、そんな中でも確かに輝いている瞬間があったそう。
話が終わり、ネズミは「2回目は?」と尋ねるが、ノンゾは「そんな事言ったっけ?」と覚えていない様子。
この2回目の光こそが、ラストでペドロが照らされる緑色の光に繋がる。ラスト、ペドロは自らが破壊した厨房のオーダー機の緑色のライトに照らされ、1人緑に輝く(僅かにエステラも)。
もしかすると、ペドロはこの先、アメリカへやって来て夢に敗れた悲しみ、ジュリアとの恋に破れた悲しみ、そうした様々な悲しみを背負って生きていくのかもしれない。しかし、ノンゾの話にあるように、緑色の光に照らされた事で、悲しみの中でも彼なりの輝きを放ちながら生きていけるのだとしたら、彼の行く末は決して暗いばかりではないようにも思える。
クライマックスでジュリアの中絶、そしてその理由を知ってしまうペドロが切ない。
ジュリアが作中度々連絡を入れていた相手、それは、本命の恋人等ではなく、10歳程の息子だったのだ。シングルマザーである事を周囲に隠し(もしかすると、ウェイトレス仲間には知っている者も居たかもしれないが)、育てていたからだ。彼女が冷蔵室で語った「18歳の時の妊娠」。その時の感覚を忌避している様子から、てっきり過去にも中絶したのだと勘違いしていたが、彼女は子供を産んでいたのだ。だから、ペドロの子供を産む事も、共にメキシコへ行く事も出来ないのだ。
全てを知ったペドロは、茫然自失となってしまい、ウェイトレスとの口論を皮切りに、厨房やレストラン内で暴れ回り、店を機能停止に追い込む。
私には、この自暴自棄となるペドロの気持ちが痛い程分かった。それと同時に、一種の痛快さも感じた。それはまるで、ラストでエステラが僅かな笑みを浮かべてペドロを見つめていたように。
ペドロは、ラシッドの下で3年間勤め上げてきた。未だビザの取得も叶わず、しかし恋人との夢が彼の支えとなっていた。それが崩壊した以上、彼には暴れ回る事で「俺は此処に居るぞ!」と存在証明する他なかったのだろう。それは、彼に出来る唯一の無情な現実への叛逆である。そして、あの瞬間、彼は確かにこれまで自分を搾取してきたラシッドの世界の時を止めて見せたのだ。
その様子に、私はカタルシスを感じずにはいられなかった。
【資本主義社会における、搾取する側・される側】
ペドロが売り上げ泥棒の疑いを掛けられた際、面接室でルイスに語ったベトナム戦争下での小話が印象的かつ本作を象徴するものである。
「どんなに親しくしていても、俺たちはアメリカ人にはなれない」
それは、アメリカン・ドリームを夢見てやって来て、その果てでビザの取得を盾に、ラシッドの下でこき使われるあの厨房の移民全員が感じている本音だろう。だからこそ、彼らは「神の次に偉い(意訳)」と豪語するラシッドの、「これ以上何が望みだ?」という問い掛けに沈黙で答える。暴れ回ったペドロを止めに入りつつも、彼に笑みを向けたエステラのように、何処かで彼の行動に賛同する気持ちを抱えていたのではないか。私には、そう映った。
だが、あの店で搾取されているのは、何も移民達だけではない。監督責任者のルイスや帳簿係のマーク、果てはあの店で25年勤め上げてきたという料理長すら、ラシッドからクビを切られる事を恐れ、彼に支配されている。特に料理長に至っては、調子に乗ったペドロに囃し立てられた他のシェフやウェイトレスに求められれば、国家を披露してお尻を出す事でその場を収めるしかない。
ラストのペドロの自暴自棄は、支配する側の傲慢さを浮き彫りにさせ、そんな支配者側は支配しているはずの一個人の叛逆によって、自らが築き上げた世界を止められてしまうのだ。
【総評】
現代における資本主義社会の縮図を、モノクロによる映像で痛快・痛烈に描いてみせる。
ペドロの行く末が、ノンゾの語った話のように、悲しみの中にも確かな輝きを持つものである事を願うばかりだ。
ところで、勤務中にあれ程皆でビール缶を開けて乾杯し合っている厨房はどうなのだろうか?(笑)少なくとも私は、あの店で食事をする気にはなれない。
【”ロブスター。”今作は白人優位のアメリカ社会は、低賃金の不法滞在者達の劣悪な労働条件有りて循環している事実を、有色人種もしくはプアホワイトで回すレストランの厨房を舞台に強烈に皮肉った狂騒曲である。】
ー 知らなかったが、今作の原案は故、蜷川幸雄氏の演出で上映されたアーノルド・ウェスカーの戯曲「調理場」だそうである。-
・それを、アロンソ・ルイスパラシオス監督は、主人公の料理人を労働ビザが無く、不法滞在しているメキシコ人料理人ペドロ(ラウル・プリオリネス)に置き換え、劣悪な条件下、ビザを与える事をチラつかせながら働かせる総料理長(と言っても、指示するだけで何もしない。)や白人オーナー、ラシッド(オテッド・フェール)等の、”使役者側”の視点と、“非使役者側”の視点で、厨房を描いているのである。
ナカナカ、斬新である。
・厨房は、常に鬼の様に忙しく、見習いとして入った幼きエステラ(アンナ・ディアス)も走り回っている。ウェイトレスは、次々に皿を客席に運ぶが、ハンバーガーや、カレーチキンと言った料理を見ると、そんなに格式の高いレストランではない事が分かる。
■序盤に、ペドロが水槽の中に次々に放り込まれるロブスターを見て”こんなもの、昔は猟師の食い物だったんだ。それが、今や高級食材だよ。”という台詞が、今作を観ていると何ともシニカルに思い出されるのである。
”ロブスターを有難がって食べている白人たちも、昔はこれを庶民の食べ物としていたんだろ!”ってね。
・ある日、レストランの売上金から約800ドルが紛失し、ペドロが恋仲のウェイトレス、ジュリア(ルーニー・マーラ)に中絶金として金を渡した事が噂で流れ、彼に嫌疑がかかるシーン。ペドロは忙しい中、苛立ち乍ら料理を作り続け、ジュリアは堕胎直後にも関わらず、ウェイトレスの仕事を続けるが、倒れてしまう。
そんな時、白人スタッフが血相を変えて”お金が見つかりました。”と、ペドロを追求していた男に言うシーン。その男は狼狽えるが、その事実を厨房に伝えないのである。
<で、厨房は更に混乱して行き、ジュリアに息子がいる事を知ったペドロは更に苛立ち、多くの皿が割れグチャグチャになった厨房で、客のオーダーを知らせる機具を拳で叩き潰すのである。
今作は、白人優位のアメリカ社会は、低賃金の不法滞在者達の劣悪な労働条件有りて循環している事実を、有色人種もしくはプアホワイトで回すレストランの厨房を舞台に強烈に皮肉った狂騒曲なのである。
アロンソ・ルイスパラシオス監督の、厨房の狂乱をドキュメンタリー風に映すセンスが良くって、”第二の、アルフォンソ・キュアロンになってくれい!”と思った作品でもある。>
見えない者たちの怒り?
こんなにまとまってなくてみんなが勝手な感じの厨房で これだけの席数...
こんなにまとまってなくてみんなが勝手な感じの厨房で
これだけの席数の店(←見える限りでの想像だけど)が回るはずない
ってとこが気になったら
ずっと入れないまま
そして最後は呆気に取られたまま終わってしまった
期待しすぎてたのかな?
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