ゴッドランド GODLANDのレビュー・感想・評価
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民族間の確執を体感
デンマークからアイスランドへ布教のために教会を建てることを目的に
牧師ルーカスが旅立つのですが、
これがまあいろいろあるわけです。
このルーカスなんですが、冒頭、指示を受けるところで「報酬は?」と真っ先に聞くあたり、
あ、そんなに信心深い人というより、仕事としていくのね?とあるいみ信念の無さみたいなことを感じ取り
小物感オーラが出まくっているとの印象を受けました。
このルーカスの小物感が道中で発揮されていくわけですが、
川を渡るのは数日待ったほうがいいよ、というガイドの話をガン無視し、強行したところ
頼りきっていた通訳が溺死してしまうんですね。
その後も、アイスランド語を学ぼうとせず、「言葉がわからない」の一点張り。
全く歩み寄る気がありませんし、コミュニケーションを良好にしようとも思わない。
その不遜な態度は、やはりアイスランドの人たちに見抜かれていたのだろうと思います。
ガイドの老人ラグナルとは終始対立、但し、ラグナルは歩み寄っているのに・・・です。
ラスト近くでは勢い余ってラグナルを殺してしまうルーカス。
そんなルーカスを好きになってしまう女性が現れるのですが、
それはデンマーク語が話せるデンマーク生まれの女性だからだと思います。
但し、この女性の父親はルーカスの本質を見抜いていて、ルーカスを殺すんですね。殺意を持って殺すんです。
娘のことが背中を押したのだとは思いますが、それまでのルーカスの不遜な態度の鬱憤の蓄積が爆発して殺害に至ったのだろうと思います。
人としてのあるべき姿とは?という人間の根源的なことが示唆かなと思い、そう受け取りました。
それにしても、アイスランドの荒涼とした景色をふんだんに画面で見せながら、
デンマークからの厳しい道程を描くあたり、実に素晴らしい映像美を浴びるように体感でき、素晴らしかったです。
ただ、143分は長尺すぎると感じました。全体的に静謐なためか何度か意識が飛びました(笑)
私にとって想像とは違った内容だったので、記憶に残る映画となりました。
19世紀後半、アイスランドを統治していたデンマーク。 若きデンマー...
19世紀後半、アイスランドを統治していたデンマーク。
若きデンマーク人牧師ルーカス(エリオット・クロセット・ホーヴ)は、布教のためアイスランドの辺境地に教会建設を命じられた。
夏とはいえ過酷なアイスランド。
日は沈まず、寒さも厳しい。
アイスランド東海岸から西海岸への長い旅。
通訳はいるが、直截、言葉は通じず、厳しい自然環境と異文化のなかでルーカスは疲労困憊するが、村へ到着してからも癒されることはなく、アイスランド人の老ガイド、ラグナル(イングヴァール・E・シーグルズソン)との対立はひどくなり、村での孤立も高まっていく・・・
といった物語で、前半はヘルツォーク監督『アギーレ 神の怒り』『フィッツカラルド』を彷彿させる展開。
画面に映し出されるアイスランドの荒涼とした風景から、その厳しさが伝わって来きます。
画面サイズはスタンダード。
横幅のなさが、神の恩寵のなさにも感じられ、ルーカスの精神的疲弊を表現しています。
公判、村に到着して、教会を建てる段になると、それまでの過酷な自然環境とは異なり、牧歌的な雰囲気も多少感じられます。
思い出したのは『刑事ジョン・ブック/目撃者』。
異文化との交流・・・として少し和らぐような描写もありますが、ラグナルとの対立は潜行して激化。
アイスランド人からみればデンマーク人・キリスト教は支配者・侵略者以外の何者でもない。
若い村人の結婚式を建築中の教会で挙げることになったのだが、ルーカスは建築中(つまり神が宿っていない)ことを理由に、祝福の言葉を捧げない・・・
これが引き金になったのか、ラグナルはルーカスの馬を連れ去り、荒野で殺してしまう。
アイスランドにおける馬の価値は、人間の命・全財産にも相当するようで、憎悪を現すものとしては最大級だろう。
その馬の死骸が季節を経ていく様は、美しいが残酷。
憎しみの結果、悲劇はさらに悲劇を呼ぶことになるのだが・・・
厳しい自然の中で生きていくこと。
この土地には神がいないのか・・・
いや、生きているということで、神に感謝すべきなのか・・・
しかしながら、このわたしたちが生きているこの地は「故郷」であり、「ゴッドランド」である。
と、ラストに、デンマーク語、アイスランド語の両方でタイトルが示される。
近年、あまり接する機会のない類の映画でした。
アスペルガー的気質の若き牧師が直面する、アイスランドの厳しい自然と布教の現実。
まあ日本人の多くは、観てて
「そりゃ自業自得だよ」って
思うんじゃないのかなあ(笑)。
百歩譲って、ルーカスの性格に猛烈に難があるのが「死にかけてから頭がちょっとおかしくなってしまったせい」だとしても、なんで死にかけたかっていうと、「陸路でアイスランド島を縦断して村落まで行こうとしたせい」で、わざわざそれを決めたのは本人なんでね。
やはり、自業自得だとしか言いようがない。
だって観始めてから、ずうぅぅぅぅぅっと思ってたもん。
「なんで、こいつ海路で行かないんだ???」って。
で、村に着いて意識取り戻したら早速、移民のリーダーに訊かれてるわけ。
「なんで、船で来なかったんですか?」って。
そりゃ誰だっていぶかしく思うよね。
自分のみならず、キャラバンの10人近いメンバーまで巻き込んで、大変な陸路の旅を選択して、本人が死にかけてるんだから世話ないわけで。
しかも理由が「自分の目と足でアイスランドを確かめたかったから」「それを写真に撮って収めたかったから」。おいおい、そんな理由で、案内人巻き込んで危険な目に合わせてるのかよ。自分の判断ミスで通訳は溺れ死にさせてるわ、死にかけた自分は助けてもらっといて(後から担架で引っ張られた様子)御礼の一つも言いやしないし。
あともう一つ、「冬が来るまでに教会堂を建設せよ」って時間を切るのなら、司祭も司祭で、部下に「夏」じゃなくて「春」に出発させろよ。夏まで寝かせる理由ってあったっけ。
「小雪が降るまでには必ず」とかルーカスも返事してたと思ったら、出発して早々雪に降られてて笑ったけど。
ルーカスの場合、あくまで旅の目的は「教会堂の建設」であり「僻村での布教」である。通訳も、案内人も、その目的のために随行している。
彼がその道行で「自己満足と趣味の充足」のためにクルーを危険に晒すことは、「神の御意志」にも反しているのである。
しかも、旅支度はまったく「山歩き」を念頭に置いた旅装になっていないわ、重い機材を全部案内人に持たせてるわ、集団行動で一番重要なコミュニケーションの手段を有していないわ(アイスランド語がまったくわからないし学ぼうともしない)で、夏山登山をする僕からすれば、ルーカスは「山&高原」を完全に「舐めすぎてる」。
あと、「なぜ海路をとらなかったか」と訊かれたルーカスが「アイスランドの風土を知りたかったから」と答えたあと、移民のリーダーはこう問う。
「旅のあいだに、誰と会えましたか?」
ルーカスは、キョドったまま答えられない。
でも、前半戦のロードムーヴィーに付き合わされた我々は知っている。
会えたのはせいぜい、羊を一頭くれた農民の一群くらいだったと。
要するに、ルーカスは「アイスランドの自然の美と厳しさ」のほうは自らの体で存分に体験出来た一方で、「土地の人々」とは全く交流出来ていないし、旅の仲間である案内人たちとすらほとんど仲を深めないまま、ここまで来たわけだ。
移民のリーダーはそのまま引き下がるが、内心何を考えたかは容易にわかる。
「ああ、こいつはダメだ」
ここで、われわれは問わざるを得ない。
「ルーカスとはいったい何者なのか?」
ルーカスは有り体に言って、いらっとさせられる人物である。
独善的で、ルールを曲げず、自分の優秀さを鼻にかけ、まわりを見下している。
ひょろガキで、身体操作において不器用で、そのわりに闘争心は人一倍強い。
カメラオタクで、人との交流は超苦手だが、被写体としてなら交流できる。
そう、彼は典型的な、今でいうところのアスペルガーだ。
この性格は「厳しい旅でねじ曲がったから」そうなった性格ではない。
もともとそういう性分だったのが、死にかけたことで「先鋭化」しただけだ。
明らかに「狙って」そういうキャラクターとして描かれている。
彼は19世紀に生きる、絵に描いたような高機能ASDなのだ。
典型的なのは、村落で結婚式が執り行われたとき、ルーカスは牧師として二人を祝福しようとしない。「なんで結婚式をあげてやらないんだ」と移民のリーダーに問われたルーカスは言う。「まだ教会が出来ていませんから」
それを聞いたリーダーは言う。「変わった牧師だ」
アスペルガーの人は、ルールを容易に曲げられない。
融通をきかせられない。
たとえば、リーダーの次女の写真を撮ろうというとき、少女のほうは「馬と少女」という取り合わせの中から、馬の上に立ってみたり、馬の上で寝そべってみたり、横を向いたり、後ろを向いたりと、あらゆるヴァリエイションを楽し気に呈示してみせる。
しかし、ルーカスのほうは頑なに「こちらを向いて横座りした普通の写真」にこだわり、シャッターを切ろうとしない。こういうところである。
あるいは、グランドオープン成った教会堂での栄えある最初の説教。
うまくいっているあいだは、なんとかうまくこなせている。
しかし、赤ん坊の声や犬の声といった「邪魔」や「夾雑物」が入ると、もう続けられなくなる。「型」や「暗記」には強いが、突発的事態に弱いからだ。
で、彼の場合はそこに、衝動的な行動や暴力衝動の高まりが伴うタイプでもある。
この「前」に勃発した、彼の人生における最大の過ちもまた、そうやって犯されたものだった。
果たして監督は、観客にルーカスのことをどうとらえてほしかったのだろう?
もしかすると、ある程度の共感は寄せてほしかったのだろうか。
苦難の旅を経て神経を病み、伝道の使命を果たせないままに横死して果てた、気弱で偏屈で内向的な青年の侘しい人生を、少しは憐れんでほしかったのだろうか。
それならば、その試みはあまりうまくいっていないのではないか、としか言いようがない。
ルーカスは余りに「ヘイト」を溜め過ぎた。
自助努力の出来ない、本能のままのアスペ君でありすぎた。
もともとそういう性分で、勉強は出来たが頑固でエリート意識が高く、周りともうまく溶け込めず、そのへんを見越して世知に長けた老獪な司祭に、辺境の教化を上手い具合に押し付けられたということだろう。
で、持ち前のかたくなさで陸路の旅を断行して人を死なせ、自分も死にかけ、案内人との軋轢を村まで持ちこみ、陰気さに磨きをかけ、人には教会を建てさせながら自分はカメラ遊びにうつつを抜かし、己の業績の報告(手紙)は怠らず、挙句の果てに突発的に衝動殺人を犯し、その足で姦淫の罪を犯し、最初の説法は台無しにしたまま、荒野に逃げ出してトンズラを図ろうとする。
「ああ、こいつは本当にダメだ」
そう観客がみんな嘆息したところで、「救い主」のように移民のリーダーが現れて、「彼の殺人の罪も姦淫の罪も知らない状態で」(=断罪されることもなく、犯した罪の深さに直面することもなく)、一瞬の死を与えてくれるのだ。
要するに、ルーカスは救われたのだ。横死することによって。
彼は咎人としてではなく、被害者として、アイスランドの大地に溶け込んでいく。
案内人によって殺されてしまった馬の死体と同様に。
これは、明らかに「可哀想」なエンディングではない。
「ほっとする」エンディングだ。
逆に、きっとこの頃の牧師とか、こういう手合いが多かったんだろうな、くらい僕は思いながら観ていた。
単に、内向的で攻撃的な牧師が多かったという話ではない。
アスペルガーっぽい気質を持つタイプで、宗教家を目指した奴はきっと多かったんだろうな、という話だ(今だって結構そうかもしれない)。
前に『田舎司祭の日記』というロベール・ブレッソン監督の映画を観たことがあるが、まさにあれの主人公もこういうタイプだった。宗教家の仕事を型にはめてとらえていて、相手に対してやたら説教臭く、周りと軋轢を生んでは内に閉じこもり、酒に逃げて自分を追い詰めていく……。北フランスの寒村に赴任する出だしなど、おそらく『ゴッドランド』の監督も参考にしている映画にちがいないが、この手のタイプの人はむしろ「修道士」や「教学僧」には向いていても、「布教」や「説法」にはまるで向いていないのではないかと思わざるをえない……。
まあ本作の監督さんはもしかすると、「カメラで撮って写真に収める」ことに異常に執着する頭でっかちでオタク気質のルーカス君に、「映画人としての自分」を思い切り投影しているのかもしれないが……残念ながら共感しやすいキャラクターではなかったなあ。
あと、お話の組み立てとしても、観客がルーカスに寄り添いづらい構成だった点は否めない。
通例、こういう「極限体験を経ておかしくなってしまう」人間を描いたドラマというのは、その「前段」についても比較的、丁寧に描かれることが多いのではないか。
本作でいえば、たとえばだけど、多少偏屈でも仲間と相応にうまくやっていて、優秀な牧師であるように「擬態」できているルーカスの平和で気安い日常をじっくり描いてから、中盤で大変なことが起きてその「本性」があらわになる、というのが「一般的」な作劇のような気がする。
ところが本作では、アバンが終わったらすぐにロードムーヴィーに切り替わってしまう。
ルーカスがどういう人間かも観客にはわからないまま、アイスランド横断の冒険行が始まってしまい、われわれは彼の心のうちを知る間もなく、ほぼ無言のまま旅は一時間くらい続いてゆく。
観客としては、なんとなく空気の読めないやつ、集団行動のできないやつ、案内人に高圧的にふるまうやつ、くらいの認識しかないところで、彼は死にかけて、ある意味正気を失ってしまう。
村についてからのルーカスは、たしかに「昔のままの彼」ではない「すでに半分病んだ」人間なのかもしれない。死にかけた状態でいったんアイスランドの荒原のただなかに放置されて、もう捨てられ置いていかれたと思いこんだ彼は、そこで「完全に闇落ち」してしまったのかもしれない。
でも、前段がないから、僕たちには「健全だったころのルーカス」の様子がわからない。なので、狂ったルーカスがどれくらい狂ってるのかがわからない。
ぶっちゃけ、最初からこんなやつだったようにしか思えないのだ。
その意味では、ルーカスは損をしていると思うし、ふつうに考えれば、制作者側もこういう作劇にしている以上、彼に感情移入してもらいたいとは思わないで作っているはずだ。
結局、彼は「ダメな牧師」として登場し、「ダメな牧師」として退場した。
なぜ、ルーカスは殺されたのか。
それは、「見限られた」からだ。
娘の婿候補としてだけではない。もちろん、このまま放っといたら先に子供までこしらえそうだから、事前に排除したという部分はあってもおかしくないが、それが殺された理由のすべてではない。
彼は、辺境の牧師として「役に立たない」から、切り捨てられたのだ。
これだけ突発事態にもろくて、人付き合いに難があって、職責を全うできないのであれば、この厳しい寒村ではとても「やっていけない」。
「やっていけない」から「いてはいけない」。
とはいえ、わざわざ解任させようにも、コペンハーゲンからは離れすぎていてそれも難しい。
だから「申し訳ないけど」死んでもらうしかなかったのだ。
ルーカスは、観客からも、登場人物からも、監督と制作陣からも見限られ、アイスランドの大地で一生を終えた。
そんなちっぽけな彼の人生と、雄大な大自然を対比して捉える、という意味では確かに良く出来た映画だと思う。
だが、たとえば『ミッション』のような文化と文化のぶつかり合いを感じさせる壮大なスケール感はないし、全体からすればむしろこぢんまりした印象の映画だ。
スタンダードサイズの四辺を丸く削った画面サイズ(ダゲレオタイプを意識したらしい)は、あえて大自然を小さな枠内で捉えることで、逆説的に大きく見せている部分もあるが、一方で19世紀の牧師の旅に、実際に古いカメラが同行しているような親密な感覚もある。
ただ、このサイズ感や時代感が本当に映画にプラスに働いたかどうかは、僕には正直よくわからない。個人的には、これだけ雄大な自然をこれだけ丁寧にフィルムに収めるのなら……ふつうに視界いっぱいのワイドスクリーンで堪能したかった気もするんだけどね(笑)。
写真の被写体の表情から、ルーカスの生き様が見えてくるのは残酷だと思う
2024.4.8 字幕 京都シネマ
2022年のデンマーク&アイスランド&フランス&スウェーデン合作の映画(143分、G)
デンマーク領のアイスランドにて、布教活動を行う牧師を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本はフリーヌル・パルソマン
原題は『Vanskabte Land』で、直訳すると「変形した土地」という意味
物語の舞台は、1900年代前半のデンマーク領アイスランド王国
司祭のヴィンセント(ワーゲ・サンド)にアイスランドでの布教活動を言い渡された牧師のルーカス(エリオット・クロセット・ホープ)は、通訳(ヒルマン・グズヨウンソン)、現地ガイドのラグナル(イングバール・E・シーグルズソン)とともに海を渡ることになった
目的地に直接船をつけるのではなく、道中の写真を撮りながら移動する一行だったが、大雨で増水した川を渡ろうとした際に、通訳が溺れて死んでしまう
言葉が通じず、思った以上に過酷な道のりに、ルーカスはとうとう倒れ込んでしまった
同行したラグナルたちは彼を目的地に連れて行き、農夫のカール(ヤコブ・ローマン)の家で面倒を見てもらうことになった
物語は、目的地に着くまでにかなりの時間を要し、そこからはデンマークから移住してきたカール一家との関係性が紡がれていく
ようやくここで会話が成り立つのだが、それによって、会話できない人との溝というものがさらに深くなってくる
ラグナルはルーカルをここまで突き動かす宗教に意味を感じ、「どうしたら聖職者になれるか」と訊くものの、ルーカスはまともに答えない
彼の本来の目的である布教を忘れ、教会さえ建てば良いと思っている
その作業に尽力し、自分を助けてくれた恩義に報いることなく、自分は聖職者であり、あなたたちとは違うのだと言わんばかりに、距離を置き始めるのである
映画は、最後に負の連鎖が描かれまくるのだが、これがルーカスの旅の集大成というところが恐ろしい
彼の旅はキリスト教の布教活動だったはずなのに、禁忌と呼ばれるものを侵し続け、その身を業火に焼き尽くす
残されたのは、彼がほとんど関わらなかった教会と、方々で撮られた写真だけで、映画自体が「アイスランドで撮られた最初の7枚の写真」から着想を得ているところが面白い
後の世では布教活動に赴き、教会を完成させた殉教者の扱いであるものの、その実態は聖職者とはかけ離れたものだった、というふうに結んでいるのである
いずれにせよ、神はルーカスに多大な試練を与えてきたのだが、悉く裏切っているように見えてくる
自然=神という構図の中で、一人前の聖職者になるには「内なる会話だけでは不十分」であり、言葉が通じない世界に遣わされている意味を理解していないとこうなる、というものだろう
映画は遺された7枚の写真から着想を得たものになるが、その写真の表情から、ルーカスと彼らの距離が見えてくるのだろう
そう言った意味において、写真というものは真実を写すのかな、と思った
傲慢な余所者と冷淡な現地人
主人公の牧師は赴任先に敬意を払わない傲慢な余所者であり、現地人がそのような存在に煩わしさを感じるのは当然である。しかし、旅のガイドを務めた老人もこの牧師に対して終始過剰に冷たく、目的地の村に到着した後もしばしば嫌がらせを行うなど、決して好人物ではない。
終盤、ミサの最中に教会の外で騒ぐ犬を主人公が追い払おうとするシーンは、痛々しすぎて観ていられない。本作はフィクションであり、作中の人物にとっては製作者は神に近い存在である。神を信じて苦行に耐えてきた主人公への仕打ちとしてはあまりにもひどいのではないだろうか。
アイスランドの美しい大自然を舞台に、互いに相手を見下す人間の醜さを描く手法からは、監督の強烈なブラックユーモアを感じる。
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