「普遍性」映画 ふしぎ駄菓子屋 銭天堂 R41さんの映画レビュー(感想・評価)
普遍性
ふしぎ駄菓子屋 銭天堂──「幸運」は誰の手に宿るのか
暖簾をくぐると、世界の秩序がひとさじだけ甘くなる。
駄菓子屋とは、子どもの手のひらに乗る宇宙だ。
そこには「何でもあり」の引き出しがあり、ドラえもんの四次元ポケットに似た許容のひとときがある。
だが、それは幼さの免罪符ではない。
むしろ、世界の重たさに耐えるための、最小限の魔法の単位である。
『不思議な駄菓子屋 銭天堂』の型は、古い。
「教える」ことが物語の役目だった時代の、わかりやすい構造を保っている。
伏線は素直に回収され、善と悪はきちんと対峙する。
子どもから20代の若者に届くように設計された輪郭だ。
だが、古い型は必ずしも陳腐ではない。
古典的ということは、普遍へ向けて作られているということだ。
誰が見ても楽しめるのなら、その背後で扱っているのは個の事情ではなく、社会の重力——人が同じ方向へ落ちるときの、共通の法則だ。
子どもの世界は変わり続ける。
テストの点数、塾通い、順位、偏差値。
彼らは彼らの尺度で十分に苦しんでいる。
20代の若者にも新しい悩みが訪れる。
進路、恋愛、仕事、自己肯定の欠如。
その延長には健康への不安が横たわる。
結局のところ、人はみな悩みの器を持っている。
器の形が違うだけで、中身は似ている。
悩みがなければファンタジーは生まれない。
現実という摩擦が、夢を見る権利を作り出す。
銭天堂は、その摩擦を受け止める柔らかい掌でもある。
願いはいつも近視眼的だ。
いまの点数が欲しい… モテたい… おしゃれになりたい…
欲望は常に手元を照らす懐中電灯のようで、遠くを照らさない。
そこに影を落とすのが「悪意」である。
もっと強い力がほしい。頑張らなくてもいい点数がほしい。誰かの才能と交換したい。
欲望の隣には、いつでも近道が座っている。
近道はしばしば悪意と呼ばれる。
この配置は、心理学の図解に似ている。
マズローの欲求階層説が積み上がるピラミッドだとすれば、プルチックの「感情の輪」は色相環のように拡がっていく。
だが、この物語が扱うのはもっと具体的な、階段の一段一段でつまづく感覚だ。
エイブラハムの「感情の22段階」に近い。
人は自分で感情を選んでいる。出来事には意味がないのに、意味を与え、反応し、感情を作る。
人間は自作自演の名手である。
だからこそ物語は、感情そのものに裁きを下さず、ファンタジーという手段でそっと手を差し伸べる。
銭天堂が差し出すのは「幸運」だ。
幸運とは、豪奢な贈り物ではない。封を切る音が小さい、小包のようなものだ。
扱いを誤れば、簡単にどこかへ消えてしまう。だからこの物語は、幸運の使い方を、受け取った者に委ねる。
欲望は決して満足しない。
世界の食糧不足は、理屈の上では一部の大金持ちが一瞬で解決できるだろう。けれど現実はそうならない。大抵、動くのは「小金持ち」か、名もなき隣人である。
自分ができないことを他者に押し付けるのは、どこか滑稽だ。
結局、人が確かに動かせる世界は、自分の家族の半径か、自分自身に限られている。だから銭天堂は、個人の願望にピントを合わせる。
この映画の語り手は、おそらく小太郎だ。
彼は「いい人」であるという分かりやすさを持っている。
黒い渦の中へ飛び込んで、妹を救う。
なぜ彼でなければならなかったのか。その答えは、かつて銭天堂に足を踏み入れたことがあるという、わずかな記憶の粒にある。
物語は彼の視点で進み、彼の選択で灯りが点る。
善と悪の対立は、いつも彼の心臓の鼓動に合わせて描かれる。
だが、勝利の瞬間に喝采が鳴り響くわけではない。
ここで救われるのは、世界という巨大な抽象ではなく、たったひとりの人間性だ。
「助ける」という単純で、しかし最も難しい行為が、世界の端をほんの少し明るくする。
お金は、設定だ。
よく言われるように、お金は手段にすぎない。けれど、どうしてもお金になってしまう——この頑固な現実が人間の物語を重くする。
もしこの「設定」から抜け出せるなら、私たちはすでに銭天堂の暖簾をくぐっているのかもしれない。
物語に登場する願望が、テストの点数やおしゃれや恋であれ、根の部分で揺れているのは「交換」と「短縮」の誘惑だ。
努力の時間を圧縮し、他者の才能を移植する。
そのとき、私たちの指先には必ず「支払い」の影が差す。
銭天堂の品々は、支払いの形を問わない。だが、支払いが不要だとは言わない。幸運はつねに、どこかで請求書をたたんでいる。
問いは、観客に返される。
この作品を見た若者のうち、どれほどが普遍へ到達するだろう。
小学生の登場人物が並ぶ画面を前に、どれほどが自分自身をあてはめることを許すだろう。
「子供向け」というラベルを貼って安心したい衝動は、誰にでもある。
だが、救われるべきものはいつだって単純だ。
助けること。それだけだ。助けるという人間性が世界を救う——この命題は、手垢がつくほど語られてきた。
だからこそ、古い型で語り直す意味がある。古典には、繰り返してもなお届かない人が必ずいる、という前提があるというのを、是非知って欲しい。
銭天堂が差し出すのは、結論ではない。
選択である。
自分で感情を選び、自分で幸運を扱う。世界はその手つきで変わる。
私たちがしなくても、誰かがしてくれるわけではない。
けれど、私たちがするなら、世界の端は少し明るくなる。
駄菓子屋の包み紙は、いつも薄い。破れやすい。だからこそ、やさしく持つ必要がある。
幸運とは、やさしく持たれたいものの別名なのかもしれない。
暖簾は今日も揺れている。
中から、やわらかな光が漏れている。
そこへ入るのは、誰でもない。
あなた自身だ。
