「これこそがフィクションの神髄・映像作品の神髄」トラペジウム 大河黒影さんの映画レビュー(感想・評価)
これこそがフィクションの神髄・映像作品の神髄
物語はそれを観るひとのためである必要がある。勿論両論あるだろうが、少なくとも私はそう思う。娯楽作品である以上原則的にそれは鑑賞者の癒しのためのツールであるという側面が必要であるし、しかしそれとは別に、鑑賞後からやってくる現実の世界を生きる上での助けとなる教訓と励ましと、そして背中を押す情報である必要もあるだろう。そしてなによりこの作品は観ていて“ワクワク”した。そしてそれは、非日常と現実の交差によってもたらされる。異物がすぐそばにあるという緊迫感と、一方でリアリティのエンタメ化が効果的に実現されている。
そしてなにより、今作は“映画”している。原作は一人称視点の小説である。主人公の主観にそのまま没入できるものであったが、今作では一歩引いた、客観的な物でありつつも、没入感を保ち、リアルタイムをそのままに感じられる。原作では比較的長めなシーンも全体として多少のオミット・変更はあるが、そのディティールが客観的な時間の中で見事に完結する。ここでも主観と、客観的な映像の両輪で現実性とフィクション性が交差している。
また今作は映像制作という集団活動についての示唆にも富んでいる。映画は単独で創られるものではない。映画は大規模になればなるほど、一人の作家が制御できるキャパシティを超える。無論小説だって一人執筆されるものではないが。今作は原作が、あるいは作家が持っていた主観的な感覚も維持しつつ、普遍性を持った映像作品に昇華できている。集団が、原作について、あるいは作家の意図や感性について考えに考え抜いたが故に、ある種作家の単独での作業以上に作品がブラッシュアップされる。これは別に所謂原作付きに限ったことではなく、作家を持つ全ての映像作品に対しても同じ理屈が通るだろう。
最後に内容の話をしよう。この話には希望が詰まっている。自分にとって一番近い現実は他でもない自分であり、それを受容し、胸を張って肯定できる。誰か・何かではなく自分であることに誇りを持てるつくりは、まさに生きる希望をみせてくれる。それをもたらす要因はやはり程よいバランスの現実と虚構のつり合いで成り立っていることは言うまでもない。