「クラユカバよりはいいが」クラメルカガリ 映画読みさんの映画レビュー(感想・評価)
クラユカバよりはいいが
クラユカバの方で現代のエンタメ(興業・商品)としての違和感は書いたので、その点は基本的に省く。
クラメルカガリで「原案・成田良悟」となったが、
本作も結局は「原作・監督・脚本 塚原重義」となっており、
補修の効果は薄いまま留まってしまった。
脚本は本職の誰かに、そうでなくとも成田氏に任せるべきだったと感じる。
例えば、本作は脚本を田中仁氏に丸投げしていればぜんぜん印象が変わってゲ謎級に届いた可能性はかなりある。キャラクターデザインはもっと力点だと認識してほしいが、動画や演出は文句無しなので。
謎多く終わったクラユカバと世界観をうっすらと共有しているだけで、物語は全然繋がっていない点は残念。成田氏によるスピンオフなのでそういうものとはいえ、1作目が何もわからず何も解決せずで終わった劇場映画であるので、少しは関連から見えてくるものがあると期待してしまった。クラガリの中には、こんな地域(箱庭)もあるんだねという程度。
本作は北九州の炭鉱街のような、喧嘩っ早い昭和レトロの係争がモチーフ。
それにオーパーツ化した戦車やら殺戮無人機やら現代的なモチーフまで入れてしまい、一方で主人公とヒーローの唯一の属性・特殊性たる「地図」(≒坑道)が印象としては霧散し、機能しなかったのが残念。言葉の上で思い出したように地図が大事と言われても、視聴者にとっては「そういうことにしてほしい」とお願いされてる感じで、納得感はない。
それでも、単品の話としてのまとまりはクラユカバより上だが……
クラユカバもクラメルも、「主人公」という存在が弱い。
いわゆる視点人物(映像を切り取るカメラ)でしかなく、物語の中心にあって物語を動かすキャラクターになりきれていない。
結果、没入感や感情移入が捗り「続きを追いたくなる」心理的な導線となれていない。
一方で、監督が好きになってしまったであろうサブキャラクターたち(伊勢屋、栄和島、朽縄)の持ち上げと活動に大きく尺が割かれ、時間が経過するほど物語の主従が逆転していってしまう。主役級たちが立っていないのと、サブキャラを気に入りすぎるのが問題点。
駆け出し気の物語創作ではだいたいそうなるが、映像等の製作技術はプロ中のプロなので、やはり脚本は別人に任せた方がいいように思う。
例えば、
A「クラガリという不思議な世界の生活観を魅力的に描く」(映像)
B「ユウヤはこんな底辺の生活を抜け出したいともがいている」(脚本)
この2つは二律背反で、AをやりきればBは共感できず、Bを重視すればAは描けなくなる……と、すでにメインプロットの段階で差し戻し級の大きな問題がある。
物語を牽引するメインキャラクターに共感できないというのは、絶対にゴーサインを出してはならない。
そこを軽視した結果、動かしづらい主人公たちが善なる薄味に留め置かれ、「実は」を込めやすいサブキャラクターばかり万能化して描れてしまった。
とはいえサブキャラたちの役回りの天井は決まっているので、これもよくある「実はすごいキャラたちなのだが、本作では活躍しきらないまま終わった。裏設定では…」という、よくある創作初心者のやらかしにとどまっている。
朽縄博士はいいとして、
・栄和島は存在自体カットすべき
(対むぢなで大立ち回る役割はシイナを厚くするべき。栄和島とカガリの縁は無い)
・伊勢屋は「実は何でも知ってました設定」を抑えるべき
(結局、事前に避難させました程度なので。人々を動かす役をカガリに持たせるべき)
・ササラをもっと立てるべき
(今回のゼロ地点に最も近く、主人公らとも縁があり、単体でヒット性があるため)
……など、足し算による逃げではなくて引き算も用いた取捨選択による調整で、本作の伸びは大きく変わったように思う。
シナリオのプロと組むことは間違い無く正解だが、その相手として成田良悟氏だったのはミスマッチに感じた。
成田良悟氏と言えば「街もの」だが、今や「街をしっかり描けば(群像劇として)物語ができている風に観てもらえる」時代ではなくなっている。「雰囲気系に逃げて収集つかなくなった作品って、なんか最後らへんに群像劇名乗り出すよね」というぐらい冷静なのが現代のユーザー目線だ。
また、成田氏は奈須氏に頼み込んでFate/S.Fを書いた経歴があるが、スピンオフ作家として特段辣腕という風には見えない。
監督と成田氏の感性は合うだろう。だからこそ組む効果が薄かった。監督には「街を丹念に描ききれば、物語はできているはず」という勘違いがあるように見受けられるが、成田氏はそれに太鼓判を押してしまうスタイルだ。クラユカバというIPを伸ばすものは「街もの」としての認識ではない。「物語って、心が乗るように丁寧に魅力のレールを作っていかないと、観客の先を見たい気持ち・見終わった後に語りたい気持ちは走り出さないんですよ。その丹念なる敷設工事が脚本です」というような、苦い一言だ。
脚本への造詣が深ければ(脚本で滑る怖さを知っていれば)、カガリはもっとかわいくなれたし、ユウヤはもっと迫真性のある懊悩少年になれただろう。
ササラちゃんはかわいかったです。なのでもっと絡んで欲しかった。
もしカガリを立てるのが辛かったのなら、実質の主人公としてササラちゃんを軸に組む、ぐらいしていたらたぶんキャラ的にも物語的にも腰が据わり、勝っていたであろう作品。シン仮面ライダーが仮面ライダーと言いつつ浜辺美波を軸に組んでいたアレぐらい。
美少女や美人で媚びろと言っているのではない。花ある役者にはその人にしかできない舞台上での役割があり、凄みある強面にはその人にしかできない舞台上での役割があり、全員が分を弁えながら効果的に機能しあって高めあい、舞台が作られると言っている。
監督は脚本からは離れて、キャラものかつ骨太を成功させてきた脚本家に丸投げするのが一番だと思う。それができるかできないかが、商業クリエイターとして周囲が観て測る器の大きさそのままであると感じる。
映像表現がすごいだけに、及第点に達していないキャラや脚本が非常にもどかしい作品。
>uzさん
コメントありがとうございます。
博士のエピソードは、単品としてヒキヤマあり、共感もできるので良いんですよね。ただ仰るとおり他が薄味すぎる中で濃く存在しすぎていて、主人公や世界のセットアップとしっかりハマらないというか。
博士&ササラの年齢からするとたった十数年前のことのように思えて、牛蛙事件を皆が知らないのは腑に落ちなかったです。(盤石?とされる上層の大爆発込みな大やらかしで、アブラムシが何機も下層に埋もれてるぐらいなので…) それを「伊勢屋だけ知ってる風でフフン」なのもご都合かな…と覚めてしまいました。
家族たちを起動しても、結局最後の一機はカガリたちがあの倒し方だったので大きなカタルシスがあったわけではなく。そういう意味で「集団戦を制するきっかけになった」ぐらいにとどまり、オチは弱かったのが残念です。
ササラ本当にかわいかったので、活躍、もっと見たかったですね。
こんばんは。
他キャラの背景が薄かったこともあり、ドラマのある朽縄博士に焦点がいってしまいました。
実質、彼の過去を精算する話だったのでは…
ササラは可愛かったのに、“家族”を発動させるという替わりのきく役割しかなくて残念。