「私が今作の映画『Black Box Diaries』を素晴らしい作品と評価する理由」Black Box Diaries komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
私が今作の映画『Black Box Diaries』を素晴らしい作品と評価する理由
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
(他作品のレビューが溜まっているのですが、今作を観てもいない中での喧騒が激しいので、私的今作のレビューは早めに書いておいた方が良いと思われ、優先して書きました。)
結論から言うと、今作の映画『Black Box Diaries』は、非常に優れた作品だと鑑賞後に思われました。
そして(ほぼフィクションですが今年観た邦画110本以上の中で、またこれまでの過去優れたドキュメンタリー映画を踏まえても)今作は個人的には今年の邦画の私的5本の指に入る優れた作品だと思われています。
ところで個人的にも、伊藤詩織さんの事件に関しては、彼女が実名告発した2017年5月辺り(その後、刑事事件で不起訴、その後の民事訴訟を提訴(最高裁で山口氏に性加害があったと2022年に認定され、山口氏に約332万円の賠償命令が確定)の前)から断片的には見ていて、個人的に裁判の判決文での双方の主張も当時に詳細に読んでいます。
また今回の、元担当弁護士その関係弁護士、彼女を元々は支援していたジャーナリストたちの、映画に関する批判もおおよそは読んで目を通しています。
その上で今作の映画『Black Box Diaries』を観て、今作は非常に優れている作品だとの個人的な結論に至っています。
今回問題となっている、許諾無しでの使用の、警視庁の捜査官A氏(当時現場刑事)の音声証言、タクシー運転手の音声証言、ホテルの入り口とホールの防犯映像は、映画を観てこれらは映画からは外せない必須の音声証言と映像だと思われました。
捜査官A氏の、山口氏の逮捕状を取って逮捕の直前で、上からの指示で逮捕が取りやめになり、成田空港で山口氏が目の前を素通りして行ったという趣旨などの生々しい捜査官A氏の音声証言は、事件の根幹に関わる真実性の話でカットするのは不可能に思われました。
また、タクシー運転手の証言も、その証言を裏付ける、ホテルの入り口とホールの防犯カメラの、半ば意識がない酩酊したようにみうけられる伊藤さんが山口氏に寄りかかりながらホテル(の部屋)へと連れられて行く(日本版は加工の)生々しい映像も、いずれも真実性の根幹として必須でカットは不可能に思われました。
その上で、民事訴訟で山口氏による伊藤さんへの性加害は2022年の最高裁の判決で認定され賠償金含めて確定しているのに、【刑事事件では不起訴だったではないか!】【伊藤詩織は事件をでっちあげている!】趣旨の批判がSNSやネットで、現在も溢れかえっており、伊藤さんの性被害者としての名誉を回復するためにも、映画の中で描かれた、捜査官A氏の音声証言や、タクシー運転手の音声証言や、ホテルの入り口とロビーの防犯映像の使用は、(使用許諾がなくても、少なくとも名誉棄損の違法性が阻却される)公共性、公益性、真実性(真実相当性)があると、映画を観て強く思わされました。
(※ところで刑事事件に関わる話で、相手の証言を承諾なく録音する行為は、(常識的には許されないと思われていても)事件解決のために有効になる手段になり得ます。
例えば、小沢一郎氏の秘書の政治資金規正法違反容疑(陸山会事件)の捜査過程で、容疑の当時の秘書で当時は国会議員だった石川知裕氏(今年の2025年に52歳で死去)が、秘密にICレコーダーで任意の事情聴取を録音し、その録音内容と捜査報告書の内容が一致せず、事情聴取をした田代検事が虚偽の捜査報告書を記載していたことが明らかになり、後に田代検事が辞職に追い込まれるという事件がありました。
自身の、刑事事件の過程において、また民事訴訟含めた事件解決の過程において、自らの事件をほとんど精神的に孤独の中で立証するために秘密に録音をすることは、また公共性・公益性・真実性(真実相当性)あるその内容を公表することは、私は問題ないと考えています。)
ただ、私が今作の映画『Black Box Diaries』を素晴らしい映画だと評価しているのは、【以上の点が理由なのではありません。】
私が今作が頭抜けて優れている映画だと認識しているのは、<(今回は性)被害者が、支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>事を、今作が浮かび上がらせた所に理由があると思われています。
今作の驚きの場面の1つに、伊藤さんとの電話での、酔った捜査官A氏が、ある発言をする場面があります。
もちろん、酔った上の話で個人的には、捜査官A氏のこの発言を、迂闊な発言とは思われながら責める気持ちにはなりませんでした。
しかしながら、捜査官A氏とのこの電話が終わった直後、伊藤さんは、深刻な表情を浮かべこのシーンは終了します。
もちろんこの会話内容を映画に加えた是非と危うさは一瞬感じられました。
しかし一方で、この捜査官A氏が酔った中で電話で話す場面は、<被害者が、(加害者やその関係者はもちろんですが)支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>事を指し示す、重要なシーンになっていて、監督の伊藤さんからすれば絶対に外せない作品の根幹場面になっているとも思われたのです。
そしてだからこそ(男性の観客なら特に)<被害者が、支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>事にショックを受ける事になり、あらゆる人々含めて、この場面への称賛と激しい反発とが両極端で起こっているだろうと推察しています。
私個人も、この場面の称賛とこちらとの<断絶>のショックが並行して起こる、優れた深く突きささる印象的な場面になっていると思われました。
そして、<被害者が、支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>表現は、実はこの映画の根底に流れ、他の場面でも表現されています。
(私の記憶が曖昧なのですが、おそらく永田町で車椅子の利用者の)政治的な訴え演説をしている年配の女性が、伊藤詩織さんの名前を出して伊藤さんの被害の話をしている所に、たまたま伊藤詩織さん本人が通りかかる場面があります。
そして伊藤さんは、その訴えていた女性にお礼的に本人ですと名乗り出て喜んで感謝の握手を求める場面があります。
しかしながら、その訴えをしていた年配の女性は、握手を求めて来た人が伊藤詩織さん本人であることにその時は気がつかず、伊藤さんが立ち去った後で、え?本人なの言ってよ~と周りの自身の関係者友人に伝えているのです。
もちろん、ある公に知られた人の話をしている時に、まさかその本人が目の前にその直後に現れるとは誰も思わず、現れた人物がとっさに誰だか分からないのは現実で初対面なら私含めて全然あり得る話だと思われるのです。
なので、個人的にもこの訴えをしていた年配女性を責める気は全くありませんし、伊藤さんも特にだからどうだということではなかったとこの場面からは伝わります。
しかしこの場面の次のシーンで伊藤さんは(自身の名前を出して支援的な演説をしていた女性と握手をした事とは全く別の位相の)、ある自身についての悲しみの想いを涙を浮かべながら吐露するのです。
この一連の場面も、<被害者が、支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>表現になっていたと思われるのです。
(意識的にも無意識的にも)<人間の矛盾>を深いレベルで表現した作品を、私個人は優れた作品だと認識し、いつも高く評価しています。
そしてまた、その、<人間の矛盾>を、今作で言えば<その人と、他の人達との、<断絶>>を深いレベルで表現された優れた作品に、私達は実はそう滅多にお目にかかることも一方では出来ません。
なぜなら、<人間の矛盾>や<その人と、他の人達との、<断絶>>を意識化すれば、逆にその【矛盾や断絶を自分好みに一色化して無化する】(ある種の傲慢な)方向に作用すると思われるからです。
それ程までに私達は(本当は人間は<矛盾>し、<断絶>しているのに)、その【矛盾や断絶に耐えられない】【矛盾や断絶を自分好みに一色化して無化したい】と欲望していると感じられるのです。
しかし残念ながら、伊藤詩織さんは性被害者として、<被害者が、(加害者やその関係人物だけでない)支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>事から、逃れることは根源的に出来ず、だからこそ今作の映画『Black Box Diaries』は<人間の断絶>を描き切った傑作として作ることが出来たと思われるのです。
そして、今回の今作にまつわる伊藤さんへの批判は、<被害者が、支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>事を認めずその立場に立つこともなく、逆に【その断絶から目を逸らし自分好みに断絶を一色化して無効化しようとする】、深い人間理解からは、真逆の表層の傲慢な噴き上がりを起こしている現象だと、個人的には感じられています。
さらに言えば、今回の【その断絶から目を逸らし自分好みに断絶を一色化して無効化しようとする】噴き上がりに対する回答は、<被害者が、(加害者やその関係人物だけでない)支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>との根底に深く流れる終始一貫した今作の表現によって、初めから今作に今回の批判に対峙する形で存在していたと思われるのです。
(加え、この<人間の断絶>の立場に立てば、逆に酔った時の捜査員A氏の発言も、逆照射で<断絶>しながら、この言葉だけ距離を取り他で関係を続ける事も、(もちろん決裂することも)互いに認め可能になると思われるのです。)
ところで、今作の個人的には唯一の不満は、ラスト近くのある混同させる編集場面で、私はこの最後の混同の編集は感心しませんでした。
ただしかしながら、伊藤さんの長い戦いの後に民事裁判で(<断絶>意味では)孤独に勝ち得た喜びで、この混同の編集ぐらいは、加害者の山口氏のそれまでの立場からすれば、最後に限って許されるだろうとも、一方で私にも思われました。
そして加え驚くのは、この最後の編集の混同への批判があるならば、<矛盾>や<断絶>から【目を逸らし】、【全ての差異を自分好みに一色化して混同化し無化している】、左派右派関わらずへの批判へと、そっくりそのまま批判しているその人に帰って来る構造にこの映画はなってもいるのです。
この映画の<人間の断絶>を深く認識した上の救いは、最後にドアマンを通して実は語られていると思われました。
しかし、<人間の断絶>を踏まえた(今回のドアマンに象徴された)希望の未来が、絶望的に遠いこともまた、今作と伊藤詩織さんに対して、今回起こった左派右派含めたあらゆる人々の【人間の断絶を表層で無効化し自分好みに一色化しようとする欲望】による批判の嵐を見れば、この国の絶望として明らかになっていたと思われます。
今作が表現していたように、<(性)被害者が、(加害者やその関係人物だけでない)支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>所からすれば、被害者でない私が、伊藤さんを芯から深いところで<断絶>を超え根本理解することは不可能に思えます。
しかしながら、伊藤さんが今後も真摯に人間とこの社会に向き合い、ギリギリのところで人間の深淵である<矛盾>や<断絶>から目を逸らさず向き合い図らずもその表現に到達しようとし続けるのであれば、今後の生み出す表現に期待をし、そちらからの<断絶>の遠い場所からでも応援したいと思われています。
ただ落ち着いたらしばらくは精神の休まる時間もあればと思われています。
その<矛盾>もまた、人間の本質の一方だと思われているので。
映画を観た鑑賞者の多くもその<断絶>を甘受し、【一色化する信者】などとは真逆に、今作が表現した<人間の矛盾><断絶>の深さに対して、感銘と称賛を感じた人も少なくなかったと思われます。
非情に屈指の優れた作品をありがとうございました。
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