「ねじれの位置にある正義の追求と社会の多面性」Black Box Diaries おかずはるさめさんの映画レビュー(感想・評価)
ねじれの位置にある正義の追求と社会の多面性
この作品では以下の事実を前提にしている。
・伊藤詩織が、自身が自由意思のない状態で性交を強いられたと主張していること
・裁判所は警察の捜査に基づき被疑者の逮捕令状を発給したこと
・逮捕の執行が直前になって中止されたこと
・被疑者は不起訴処分になったこと
・不起訴処分がなされるについては当時の首相の働きかけがあったとうかがわせること
・後に被疑者に対して提起した民事訴訟は原告である伊藤詩織の請求が認められ、最高裁で確定したこと
上記の事実が前提であれば、当時の首相が国会質問でみとめていないものの、国家権力による恣意的な裁量で、刑事訴訟において審理されるべき事件がもみけされた可能性がある。
それは広く世にその是非を問うべき事件である。
それを被害者である伊藤詩織が支援者の力を借りて被害届を出すとともに、公開の場で話しまた本を書くことによって世に訴え出た。
パンフレットでミキ・デザキが書くようにその勇気と実行力は希少であり、多くの人を励ましたことから、上記の公益性とともに一種の記録映画として制作される意義があったと思う。
そのうえで議論の対象となっている制作手法である。
ホテルの映像については、刑事手続や訴訟のために使用することをホテル側に約したのであれば、たとえそれを加工して実際と異なるものにしたとしても、ホテルに対する違背行為であり、損害賠償責任が生じうる。
捜査官Aとの通話や対話を記録し、それを映画に使用することについて。
捜査官Aは、自らが伊藤詩織に話したことが映画に使用されることを認識できたとは思えない。
当時、伊藤詩織は映画監督として認知されておらず、捜査官Aもジャーナリストである伊藤詩織から取材を受ける立場として話していたわけではないからである。
酔った上での発言(酔っているからこそこの会話には映画のテーマを裏付けるものを含んでいる)を引用し、その後に引用されるドアマンとの会話をくらべると、捜査官Aの人格の低劣な部分がよりあらわになってしまう。
映画での引用について捜査官Aの同意がなかった場合、権力の執行機関に勤務する公務員であるものの、政治家や高級官僚ではない捜査官Aをこのように映画の構成に組み込むことが、捜査官Aの人格権を侵害している可能性は否定できない。
西廣弁護士の映画でのホテル映像の使用に関する主張に対して、伊藤詩織は、「説明の不十分さや自身の落ち度もあって同弁護士らとの関係がこじれてしまったことに申し訳なく残念に思っている」旨をパンフレットに書いている。
併せて対話に応じてもらえるよう努力するとも書いている。
伊藤詩織は西廣弁護士が主張する問題の本質を理解していない(または理解を拒絶した)ように思える。
この事件を映画にして世に出す意義と、映画の制作において他者の人権や人格に配慮すべきことは別して語られるべき事項である。
西廣弁護士は法律家であり法律家としての倫理に従うのは当然なので、西廣弁護士の主張に沿った謝罪(あるいは別の主張)でなければ、西廣弁護士がそれを受け入れることは無いように思う。
「併せて対話に応じてもらえるよう努力する」には、一方的な正義の強要をやや感じた。
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