「「分かり合う」ことと「仲良くなる」ことは別のこと」ふれる。 tomatoさんの映画レビュー(感想・評価)
「分かり合う」ことと「仲良くなる」ことは別のこと
相手に触れると考えていることが分かるという「ふれる」の能力だが、それが通じるのは3人の仲間の内だけ(他の人に触れても考えは分からない)だし、同居を始めた女性たちも、当然、「ふれる」と触れ合っているはずなのに、能力が身に付かないのはどうしてだろうと、「ふれる」に関するルールが分からなくてモヤモヤしてしまう。(能力は、「ふれる」が選んだ人間にしか付与されないのだろう。)
よくあるラブコメのような男女5人での共同生活にしても、見事な「五角関係」になって瓦解するのだが、だったら、何のための「ふれる」だったのかとも思えてしまう。
それで、主人公は、静岡のレストランで働くことを断り、今のバーテンダーのバイトも辞めてしまうのだが、仮に、自分のコミュニケーション能力の低さに嫌気が差したのだとしても、これから何がやりたいのかが不明で、まったく訳が分からない。
物語の鍵となると思われたストーカー事案も不完全燃焼で、男性陣がストーカーの正体に気付くくだりも、それまで、女性陣と「ストーカーって誰なの?」みたいな話をしていなかったことには違和感しか覚えない。
そもそも、「相手の心が読めると、互いに仲良くなれる」という設定には疑問を感じざるを得ず、「相手の本心を知ると、むしろ喧嘩になるのではないか」と思っていたのだが、これについては、「不和の元になるような考えにはフィルターがかけられる」というルールが明らかになって、ようやく納得することができた。
ただ、そんな都合の良い能力で仲良くなっても、それは「偽りの友情」に違いないし、実際に、色恋沙汰のせいで3人の関係がギクシャクしてしまったのは、当然の帰結と言えるだろう。
結局、3人は、「ふれる」がいなくても、自分たちは親友になっていただろうと確認し合うのだが、それだったら、わざわざ「ふれる」という謎の生物を登場させて、ファンタジーにする必要はあったのだろうかという根本的な疑問も残る。
さらに、3人が「ふれる」は必要なかったと気付いた後に、へそを曲げた?「ふれる」が暴走するシークエンスは、単に、アニメとしての見せ場を作りたかっただけのように見えてしまい、それこそ「必要なかった」と思えてならない。
いずれにしても、「人と人とが分かり合おうとする時に、不思議な力は必要ない」ということと、「すべてを分かり合わない方が、人と仲良くなれる時がある」ということが、この映画から受け取った最大のメッセージと言えるだろうか?