クー嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件のレビュー・感想・評価
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1960年代外省人エリートの苦悩
1960年頃の台湾を舞台にした映画。この頃はまだ中国本土の共産党政権樹立と国民党の集団移住が記憶に新しい頃で、主人公の両親もいわゆる外省人の公務員。
主人公の少年、小四の中学受験失敗による親のわだかまり、夜間学級通学による不良たちとの付き合いを、ゆっくりと描いてゆく。途中の激しい展開にドキドキするが、それはあくまでも物語に厚みを増すための伏線。長い上映時間のほとんどは、じわじわとした青春群像劇。結局、タイトルにもなっている「殺人事件」も淡々と描かれ、観後感に置いていかれるエンディングでした。
この映画、1990年頃に、1960年頃の台湾を描いた映画です。1960年頃は日本も戦後復興期であり混乱の最中であっただろうが、台湾も国民党・外省人が大挙して押し寄せ社会階層が大きく変わる大混乱期だったかと。上海近郊出身の外省人公務員(当時の台湾のエリート層なのだろうか?)を父に持ち、自分は受験に失敗して夜学に行く中学生。この社会的立場はそうとう不安だったろうと思う。1960年の台湾の世相が気になる。
スクリーンに描かれるセット、小道具で日本統治の面影を多分に感じさせる。日本家屋、日本刀、短刀。日本が台湾を統治するためのインフラを国民党が利用したのか、日本家屋が外省人の住まいになっていて、日本人でもノスタルジーを感じる映像となっているところも興味深い。
傑作
舞台は国共内戦終結後10年がたった台湾で、外省人の大量流入と大陸反攻への絶望から、社会を閉塞感が覆っていた時代、少年達は不安の中で徒党を組むようになる。本作は小四(シャオスー)と小明(シャオミン)の恋愛を中心に据えながら、彼らを取り巻くグループの内部事情やグループ間の抗争、さらには親世代の葛藤を描き、その中で当時の台湾社会の矛盾を浮き彫りにしていく。
実際に起こったことを切り取ってそれを元に一つの世界を描けば、そこには現実世界さながらに多くのテーマを見出すことができる、この映画はまさにそういう映画。何しろ上映時間が長いのだが、多くは本筋の二人の恋愛とは直接の関わりがない。だが、重要でないシーンなどそういう意味では皆無に等しく、そのカットのそれぞれが作品世界を完成させている。カメラワークや光の使い方が全体的に硬質な雰囲気をもたらしていてそれがさらなるリアリティを付加している。
そんな映画を4時間も観ているうちに、かなり深く作品世界に没入してしまって、上映終了後は立ち上がるのも大変だった。素晴らしい映画を観ることができて良かった。
これが映画だ!
一回観ただけじゃ受け止め切れねえ…
事前情報を殆ど入れずに観たこともあって上映時間時間236分の内に何度も作品としての顔を変えるような印象を受けた。「青春映画」であり「ニューシネマ」であり「60年代台湾の人と時代を映すポートレート」であり「フィルム・ノワール」である。次観る時に俺はどう感じるだろうか?わかりません!
つまりこういうことやな。『牯嶺街少年殺人事件』は映画だ!これが映画なんだ!
映画は"Lights,Camera,Action"だった。『牯嶺街少年殺人事件』を観るとこれ以上無いほどわかる。夜の闇の深さと懐中電灯の光の覚束なさ。被写体と距離を保ち続けるカメラ。作品に少年少女の瑞々しい身体/性が刻まれているぜ…これが映画だ!
リア
動乱の中で空回りする音楽が印象に残る。
また服の着こなしが似通った登場人物が大変多く、さらに内部派閥の諍いや敵方の人間との交流が絡まるなど人間関係が複雑である。
社会のせいにするのは良くないという風潮こそが社会を観る目を曇らせる。
幾ら情報媒体が増えようと掴む事の出来ないものがここにある。
観る環境による
光が差し込む画がとにかく素晴らしい。けど満員の映画館で隣の隣の席の人のお腹の音が聞こえるくらい防音に優れた静かな映画館に4時間では逆に気が散って見れなかった。大画面で見れるのはいいけど、もっとお酒を飲みながら一緒に見てる人たちと都度簡単な感想を言いながら見れたほうがいい
そんなところに辿り着かなくてもいい・・・
中国と台湾、父親と小スー、そんなところに辿り着かなくてもいい・・・
○光と闇、懐中電灯、ろうそく、自然光等、撮影と照明に関してだけを観る一回目。
○教室、体育館、廊下等の校内、民家付近、演習場近くの音だけに集中して観る二回目。
○美術、装飾、小道具を集中して観る三回目。
○そして・・・カメラが向いていない場所での芝居、照明が当たっていない場所での大乱闘、両方の雄弁さを観る四回目。
それぞれが素晴らしすぎる大傑作だけど、一度にそれを感じながら鑑賞するのも難しい作品でもある。
少年期の刹那的永遠の恋
好きな映画ではありませんでしたが、間違いなく心に残る映画となりました。
幼い頃に過ごしたとても限られた小さな小さな世界。毎日毎日その小さな世界で起きて、学校に行って、遊んで、ならいごとに行って、寝て、また朝起きる。
その頃はその小さな世界が全てで、今考えればどうでもいいような事も人生の一大事だし、色々なことに頭を抱えて悩んだり、悲しんだり、喜んだりした(できていた)
この映画では、台湾のとある学校附近の小さな区域である少年はプレスリーに憧れて歌ったり、グループを作って縄張り争いの喧嘩をしたり、美しい少女に恋をしたりする。
どれも少年期ならではの危うさや苛立ちやもどかしさがまとわりつき日々は過ぎてゆく。
主人公が恋に落ちた少女は美しく、小四(主人公)は自分の想いも押さえることはできず、思いも信じて疑わなかった末路の事件。時が経ち大人になった少四は、世界がこんなにも広く人々はこんなにもいることを知ってしまった今あの頃の日々をあの日の行為をどう思うのだろう。そう大人の私は思ったのでした。
あ、映像もとても美しい映画です。
でもあれですね、ハニーの格好や振る舞いや話し口調が格好つけているのだけど、古臭くてちょっと笑ってしまった。。
長いが観られたよ
キネ旬90年代外国映画ベスト1
観たよ、4時間。
映画通だったら必ず観る映画らしいから、背伸びして観たよ。
飽きずに4時間観せる力はすごいと思う。眠くなるってことはなかったから。
当時(1960頃、俺生まれた頃だ)の台湾が、経済的にはましだが、政治的に不安定で大人達が安定を求め続けていると最初にテロップで出るが、観終えて振り返るとその感じはすごく出ていたなあ。そしてそれを感じ取る子供たちの大きなゆらぎも。(これも最初にテロップで説明された)
特に主人公は、どちらかと言えばいい子の方だったのに、… 。
襲撃といい、ラストといい、凄惨な話とも言えるのだが、やはり青春映画と呼びたくなる映画でした。
こんな評価なので、映画通になるのは、とても無理だね。
あと、小猫王はいい味出してたなあ。マンガ「きょうから俺は」で言えば、今井を慕う谷川の役廻りだ。こういうところにいい俳優がいると、よい映画になるよね。
すばらしい
長い。画面が暗い。登場人物も多すぎて名前も分かりづらく、一度では話の細かい部分は全く把握できない。
にもかかわらず、鮮烈で息苦しくて、甘酸っぱくて、魅力だらけ。性的なシーンなどほぼないのに、見てはいけないものを見てしまった少年のような気持ちで4時間。
少年の危うさ、少女の芯の強さ、家族のきずなとその脆さ、中国と台湾という背景、ものすごくたくさんの要素が詰まっている。画面も霞がかった美しさを見せる。
だからこそ本当は「映画館で観るべき」と言いたいのだが、4時間休憩なしは正直辛い。細かいところを知ったうえでDVDで見直したい……
少女の不思議な魅力がこの映画の全てかもしれない
主人公の女の子、なんて不思議な魅力なのでしょう。少女なのか娼婦なのか。見る相手の男によって多分違う顔になる。主人公の男の子は普通の中学生、思春期真っ只中。でも色々なことがあって成長し少女としての女の子を守りたいと思う。女の子はそれを私は変わらない。と拒絶。男の子の純粋な愛は彼女には重かったのか。そして悲劇が生まれてしまうのです。
この映画は透明感と儚さと逞しさとしたたかさをあわせ持つ少女の存在が不可欠な映画でした。
14歳のチャンチェンが瑞々しい。脆く、中途半端で、危なっかしい中学...
14歳のチャンチェンが瑞々しい。脆く、中途半端で、危なっかしい中学生男子のシャオスー。中学生の女子は男子より遥かに大人なのが悲しい共感。懐中電灯に象徴される思春期の暗闇ナイスアイデア。もう一度見たい。
群像劇というよりもはや大河ドラマ
評論家筋には称賛の箇所も、見辛さに転じてしまう要素を多分に含有している。例えば素人だらけの演者の芝居はかなり間延びしているが、これがリアルだという評。また自然光に依存した一定の露出による撮影は、昼夜のシーンで画面のザラつきが異なり、観る者にとって非常に優しくない。
ましてやプロットに至っては、ややもすれば "これが言いたかっただけでしょ?" なんて声も出てしまうかもしれない。
何れにせよ鑑賞者の洞察力が問われるクロニクルであろう。
事件
この映画の中のワン・チーザン(リトルプレスリー)の出演シーンはすべて真に素晴らしいと思う。思うにエドワード・ヤンがもしアメリカを舞台にして青春映画を撮っていたらDRMの『アメリカン・スリープオーバー』のような、いやさらに青春映画の地平を広げたようなものを撮ったかもしれない。そう妄想すると何か別のもう一本の映画ができそうでかなり楽しい。
それから、これは重要なことなんだけど、このあとの「恋愛時代」「カップルズ」といった作品のほうを偏愛している自分的にはこの流れでこれらの映画の再評価がなされたら本当に嬉しい。
この映画を僕は学生時代に大学図書館の(確か)LDで初めて見た。伝説の大傑作と言われているのはもちろんすでに知っていたけど、この長尺の作品を大学図書館にあるその小さいブースで見終わったときにはしばらく呆然として身動きがとれず、思考停止状態になった。
この映画の上映の権利の行方が実はどこそこのなにやら如何わしいとある個人か団体かに流れてしまっていて、そこからにっちもさっちもどうにも動きそうにないのだという、まことしやかな噂は昔から有名な話だった。その後、どうやら権利問題は解決して公開にまでこぎつけれそうだという噂も幾度かあったように思う。そんな噂が途切れては聞こえ途切れては聞こえ二十数年が経ってしまった。そのあいだ、中古市場では値段が高騰しレンタルではすでにかなり消耗してしまっているVHSテープ(しかも二巻に別れてなおかつ短縮版!)を見ることでみんなこの空白をどうにか慰めていた。だから、一昨年末のまさかのクライテリオン版リリースが聞こえてきたときの「うわぁ、"クーリンチェ"がブルーレイで見れるようになるのか!」という多くの人の異様なまでの興奮は大げさなものでもなんでもない。僕にしたって、やはり他聞に漏れずこれまでに四度か五度はソフトを消費することで空白を埋めてきた。なぜならそんな僕らもまた別の角度ではみな慎重だったからだ。「公開はまたどうせ無理なんでしょう?」
"クーリンチェ"のスクリーンにおける不在は深い諦観を色濃く刻ませていたのだ。こうしたことを鑑みれば今回の公開がまさしく「事件」であることを理解してもらえると思う。
たったいま目の前にあるスクリーンのほうへ手を伸ばして触れでもしたら、その箇所からシャオスーたちが吸っている湿気に満ちて、でもやたらと冷たそうな空気が、あの長くてデカいめちゃかっこいいマグライトの光線と、大きく鋭い針糸がまるで無数に飛んでくるかのように暴れる夜の台風とか、リトルプレスリーの愛くるしい歌声とか、シャオミンの撃った銃弾とかシャオスーの浴びた返り血とか、何よりあの深く美しい噎せ返るような夜闇が全部一緒くたになって溢れ出してくるんじゃないか、そういった強迫観念にいまだ駆り立てられる。
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