劇場公開日 2024年1月26日

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「美しいゲール語。美しいコットの瞳。美しいアイルランドで観客も究極のデトックスを共有する。」コット、はじまりの夏 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0美しいゲール語。美しいコットの瞳。美しいアイルランドで観客も究極のデトックスを共有する。

2024年1月29日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ゲール語でおおむね全編話されている映画を観たのは、初めてかもしれない。
(初めてではないかもしれないが、意識して聴いたのは初めてだ。)
率直に言って、驚いた。
なんて美しい言語なのだろうか。

鼻から息を少し逃がすような。
口のなかで一呼吸まろばすような。
一言、一言をかみしめるような。

いちおう知識としては知っていたつもりだが、
単語も発音も、英語とはほんとに全然、別物なんだな。

この映画は、どこにでもいるような一人の少女のひと夏の成長を描いた、ちいさくて、慎ましやかな物語だ。

でも、これだけは言える。
このちいさな物語の全編に、
「アイルランド」がしみわたっている。
アイルランドの自然が。
アイルランドの風俗が。
アイルランドの言葉が。

少なくとも、ゲール語で紡がれる物語が、とびきりに稀少な映像体験であることはたしかだ。なぜなら、いまアイルランド広しといえども、「ゲール語で日常会話が成されている地域」は、ほんとうに一握りしか残っていないからだ。

だから、少女コットの物語は、
ありきたりではあっても、特別だ。

彼女の傷ついた心を癒すのは、
単なる親戚夫婦の優しさではない。
アイルランドの風が。
アイルランドの泉が。
アイルランドの歌が。
アイルランドの……アイルランドの「魔法」が、コットを癒していくのだ。

そして、その「癒し」のデトックス体験を、
観客もまたこの映画を観ながら共有することになる。

― ― ―

それにしても、
なんて美しい瞳の色をした少女だろう。
日本では決して見られないような、
コバルト・ブルーの瞳。
光の入り加減では、
そこに深いエメラルド色の翠の翳が差す。

うっすら赤味を帯びた茶色のロングヘア。
真っ白に透き通るようなすべやかな肌。
少し薄目の紅く、くっきりとした唇。
コットはさながら、アイルランドの妖精のようだ。

最初出て来たとき、コットの顔には陰りがある。
硬く張り詰めた表情。少し怯えたようなまなざし。
寡黙で、引っ込み思案で、影の薄い陰キャの少女。
たいして勉強もできず、友達もいない。
家族からは空気のように扱われ、いじめられないかわりに、相手にもされていない。
あげく、母親の出産を機にひと夏のあいだ親戚夫婦のもとに出される。

『オレゴンから愛』の少年・明は、両親を亡くして古谷一行と木の実ナナの叔母夫婦に引き取られた。『赤毛のアン』のアンは、孤児院からプリンス・エドワード島に渡った。コットは、「両親がいるのに」親戚のところに出される。
そのさみしさ、不安、よるべなさはいかばかりだったろうか。

ただ、見逃してはならないのは、コットは「最初から」まっすぐ相手の眼を見て、質問ができる子だということだ。
彼女には、生来の「世界を探求しよう」という「欲」がある。
人をまっすぐに見つめられる、「強さ」がある。
ひねくれずに人の話を受け取れる「素直さ」がある。
なにか一つのきっかけで、この子は「変われる」資質をもっているのだ。

おねしょから始まった滞在1日目(アイリンおばさんは、怒らない)。
コットは、親戚夫婦の素朴な優しさと、無骨ではあっても真実味のある接し方に触れて、だんだんと心を開き、少しずつ笑顔を取り戻してゆく。
最初に彼女のすさんだ心を慰撫したのは、たしかにアイリンおばさんの示した優しさだったろう。
スキンシップ。手つなぎ。肯定感。家事の共同作業。絶対的な認容。
子供は、抱きしめられることで、自分の存在を認めていくものだ。
アイリンおばさんは、こわばったコットの心をゆっくりとほぐしてゆく。

でも、彼女に劇的な変化をもたらしたのは、むしろショーンおじさんのほうだった。
ポストまでの全力疾走をうながす、おじさん。
新しい服を買いに行こう、と言い出すおじさん。
彼は、コットが本当に必要としていることを感覚的に把握し、与えてみせる。
脚が速いこと。美しさ。生来の気性の良さ。
コットの「資質」を真正面から認めてゆく、ショーンおじさん。
それが無骨なやり方であるがゆえに、余計にコットの心にストレートに響く。

ショーンとアイリンのキンセラ夫妻には、秘密がある。
あれだけ「この家に秘密なんかない、秘密があるのは恥ずべきことなのよ」と言っていたアイリンおばさんには、コットに話していない隠し事がある。哀しみの記憶があまりに重すぎて、おばさんはコットに語り聞かせているような正直さを、自分が生きられていない。
おばさんも、おじさんもまた、弱い人間なのだ。
粗野な隣人のぶしつけな質問から、その「秘密」を知ることになるコット。
でも、そのことは逆にコットの心に夫妻への「親近感」を芽生えさせるだろう。
そして、親近感はやがて「愛」へと変わっていくだろう。
自分が、二人の巨大な喪失感を埋めることのできる存在だと、
二人もまた、自分の存在を本当に必要としてくれているのだと知ったコットは、
すでに「与えられる」だけの少女ではない。

― ― ―

『コット、はじまりの夏』は、とてもミニマルな映画だ。
台詞も、イベント数も、登場人物も、最小限。
動きも、説明も、極力抑えられている。
夫婦の抱える悲劇も、おしゃべりな隣人以外だと、壁紙や残された服から間接的に語られるだけだ。
ただ、監督は物語の「リズム」をつくるのがとてもうまい。
出だしこそ、観ていてかなり退屈するし、眠たくもなるが、田舎にうつってからは、静謐な中にも気韻生動するリズムが常にあって、ずっと集中して観ることができた。

常に、カメラの視点を低め(子供の高さ)に設定していて、コットの世界認識と共鳴しながら観られるようになっているのも、ポイントが高い。
ここにも「小津」の影響があるとすれば、『Perfect Days』『枯れ葉』に続くフォロアー作品ということになり、その影響力の高さを感じとることができる。

僕が一番感動したのは、ラストシーンだ。
なんで、こんなにも胸が熱くなるのか。
おじさん、つい「うううう」って泣いてしまいました(笑)。

いや、そりゃあ「別れ」ってのは辛いものだ。
山本太郎だって、イモトアヤコだって、ものの1週間滞在しただけで、部族との別れはいつも涙、涙の愁嘆場になるわけで。
でも、そういう情緒的なことだけじゃないんだよなあ。この感動は。

演出として、驚くべき精度で、これしかないという間合いで、絶妙のバランスで射貫いてきている。そういう感じがする。
これ以上やりすぎたら「ダサく」なるし、
これ以上抑制したら「地味なまま」に終わる。
これは、演出とモンタージュの勝利だ。

僕にとって、『Perfect Days』のラストは「やりすぎ」で気持ち悪かったし、『枯れ葉』のラストも僕にはちょっと戯作味(=監督の含羞)が強すぎた。
このあいだ観た似たテーマを扱った『ミツバチと私』にしても、ラスト近くの「名前呼びイベント」は明らかに「演出過多」で、監督のエゴと傲慢が透けて見えた。
その点、『コット、はじまりの夏』のラストには、最初からこのシーンで終わることを念頭において、徹底的に精査を重ねて、すべてがしっくりくるように計算されつくしているような奇跡的なバランスがある。魔法のようなカメラワーク。二度繰り返される、とある台詞の温度差。でも、「押し付けがましく」なるぎりぎりのところで踏みとどまって、きちんと余情を残して映画を締めている。
ほんとうに優秀な監督さんだと思う。

以下、アイルランドについて、ちょっと思ったことなど。

●原題の『The Quiet Girl』って、やっぱりジョン・フォードの『The Quiet Man』が元ネタなのかな? 映画のなかでも「何も言わなくていい、沈黙は悪くない」って台詞があったけど、「寡黙な誠実さ」ってのは、アイルランド人の生き方の中核にあるものの考え方なのかもしれないね。

●舞台は1981年。まだ携帯やSNSがない時代、というのが物語を「シンプル」にしていて、プラスに働いていると思う。

●ふだん使いでは、ゲール語で会話しているキンセラ夫妻だが、ラジオやテレビから流れてくるのはすべて英語の放送。こうなってくると、ゲール語話者であり続けることは、ある種の誇りと使命感がないと難しいよね。

●アイリンおばさん役のキャリー・クロウリーって、だれかに似てるなあと思ったら、90年代くらいのマギー・スミスに雰囲気がよく似てるのね。
アイリンおばさんに関しては、ショーンおじさんによる「善良すぎて人の悪意をもろに受け止めてしまう」みたいな人物評がとても深くて、ドキッとした。

●この映画は、もともと英語で書かれたクレア・キーガンの「Foster」を原作としながら、敢えてゲール語で撮られている。ここには、「Cine4」というアイルランド語(ゲール語)でオリジナル長編映画を制作する資金提供のプロジェクトがかかわっているらしい。
あえてゲール語を第一公用語にしているくらいのアイルランドで、ゲール語を用いた映画が作られてこなかったというのはむしろ意外な感じもする。ちなみに、パンフの梨本邦直教授の寄稿によると、この映画はアイルランド国内でも大ヒットしているが、英語話者である観客の多くは、「英語字幕を見ながら」この映画を鑑賞しているらしい。もはや、アイルランドに住んでいても、ゲール語を理解できない人間のほうが多数派なのだ。
このあたり、日本人にはまったくわからない感覚だよなあ。
むしろ失われゆく言語と文化という意味では、アイヌなんかに近い感覚でとらえるべきなのかもしれない。

●ちょうど同じ時期に公開されているエスティバリス・ウレソラ・ソラグレン監督の『ミツバチと私』は、本作同様に「小学校中学年のヒロイン(トランスジェンダーだけど)が、ド田舎にある親戚の家でのひと夏の体験を経て成長する」お話で、なにげに共通点が多い。
主人公がオーディションで選ばれた新人さんで、「史上最年少で主演賞を獲得」といった宣伝文句も思い切りかぶってるし(笑)。
本作ではゲール語話者の住む地域、『ミツバチと私』ではバスク地方が舞台に設定されていて、「廃れゆく古い言語と文化によって特別に聖化された地域」で展開する物語であることが、作品内容とも深く結びついているという点でも、両者はよく似た映画だと思う。

●最後に、コットのお父さんが後ろに追いかけて来てたのは、少しは良心にやましいところがあって、多少は気に掛ける思いもあるからだと、とらえてもいいのだろうか?
この作品のなかでは、お父さんだけがゲール語を話さず、英語だけで会話しているあたりに、ここで描かれている「アイルランドの魔法」は、お父さんにはかかっていないことが示唆されている。コットの人生においては、間違いなくこのお父さんは「リスク要因」でしかないので、少しでも更生してくれることを願ってやまない。

じゃい
humさんのコメント
2024年4月26日

アイリンのゲール語、まろやかでなんとも言えない響きしたね。
コットに語るショーンの言葉にもじんとしました。詮索好きでお喋りな近所のおばさんからの出来事が、ショーンの態度、言葉から〝学び〟に変わったコット。
こどもにとってどんな会話をする大人がそばにいるかは重大なんだなとあらためて感じたシーンでした。

hum