「成長と進化の物語」猿の惑星 キングダム つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
成長と進化の物語
正直な気持ちを告白すると、予告を観た時点で私の期待感はかなり薄かった。某恐竜映画シリーズがただのモンスターアクション映画に成り下がっているように、「猿の惑星」シリーズも大味なアクション映画になっていってしまうのかなぁ、という悪い予測しか感じなかったのだ。
結論から言うと、「猿の惑星/キングダム」は予想より遥かに面白く、猿が人間を支配する世界観の中で、「進化とは?社会とは?」を問いかける哲学的要素を失わず、新たな主人公として登場したノアの成長の物語でもあった。
1968年のオリジナルや、2011年公開「創世記」からの3部作を観ていなくても大丈夫だが、作中で語られるシーザーの存在や、オリジナルを思わせる海岸のシーンなど、シリーズへの愛とリスペクトを感じさせる作りも好感が持てる。
また、今作はエイプの主人公ノアの他、ノアと行動を共にする事になる人間の少女、という二人の視点を持って映画の世界を捉えることが可能だ。
エイプの社会、エイプの文明、エイプの考え方が前作から300年ほど経過した今作の世界でどのように変化し、進化し、分化していったのか?という面も興味深いが、人間の少女の視点が入ることで、退化し野生化した人間への目線が一層もの哀しく感じられる。
それでも主軸になっているのは、エイプの青年ノアの成長と進化の物語だ。「猿の惑星:創世記」を観ている身としては、ついついエイプをシーザー基準で考えてしまうが、シーザーはかなり特殊な状況のエイプだし、人間が栄華を誇った時代の文明水準を経験したエイプである。
対してノアは、人間文明と訣別し、更に独自の文明を築いたイーグル族の青年だ。彼はイーグル族の文化しか知らず、事件をきっかけにそれが世界の全てではないということを知り、成長の中で自分とは全く違う他者へ寄り添うことを学んでいく。
私は鑑賞中全く思い至らなかったのたが、一緒に観に行った旦那は「ノアは何度も何度も落ちるシーンがあるけど、それでも登り続ける。進化っていうのは、先人の置き土産をそのまま頂いて達成するものじゃなくて、自分で何度もチャレンジして達成することなんだっていうメタファーなんじゃないかな」と教えてくれた。
そう考えると、旅の中でオランウータンのラカが道すがら話していたことも納得がいく。「人間は足で物を掴めない。だから木から落ちた時、足でぶら下がることが出来ない。二本の手しか掴まれない人間より、四本で掴まれるエイプのほうが対処しやすい」というようなことだったと思うが、それは失敗に対するスタンスの話なのだ。
なるべく多くの手段や、違う道筋、第二の目標を持っていたほうが、いざ失敗したり頓挫した時切り替えやすい。「必要ない」と切り捨て過ぎた場合、リカバリー出来ずに奈落の底に沈むことになる。
更にそこから考えられるのは、今現在の世界での人類の進化も「選択と集中」から「多様性」の社会ヘの変革の時期に来ているということである。
産業革命以後、効率化を突き詰めて発展してきた人類社会だが、行き過ぎた効率化は「最強コスパ」や「タイパ至上主義」のようななんの面白味もない正解のみを求める姿勢を生みだし、しかも大多数が盲目的に追従するどうしようもない閉塞した時代へと突入した。
だが地球に住んでいる限り、一点のみを極めた究極の生活は安泰ではない。気候変動や地殻変動、未だ人類がコントロール不可能な領域で変化が起きた時、我々を救ってくれるのは第二、第三の選択肢だ。
その為に、多様性は常に必要なのだ。多様な生き方が許容され、「正解」ではない生き方をしている人々が存在するからこそ、そこから学び、新しい生活のヒントを得ることが出来る。
エイプにはチンパンジーもオランウータンもゴリラもいる。「一緒なら、強くなれる」という言葉は、単なる頭数の強さではなく、他社へ寄り添い他者を尊重する多様性への希望の言葉なのである。