「不在の「エス」が引き起こした波紋を逆にたどる」エス 八束丸さんの映画レビュー(感想・評価)
不在の「エス」が引き起こした波紋を逆にたどる
最初にレビュアーとしての自分の立場を明らかにしてから始めたい。私は太田監督と大学の演劇サークルで、同時期を過ごした者だ。太田監督とは特別に親しくもなく、かといって特にお互いに激しく嫌い合っているわけでもない、そんな中途半端な関係だった(彼が私をどう思っていたかはわからないが)。ただ一点、太田監督は芝居に対して直情的ともいえる熱い思いを持った後輩であり、若かったこともあって時にその過剰なエネルギーを持て余しているように、私には見えた。
2011年2月25日、彼が不正アクセス禁止法違反容疑で逮捕されたというニュースを、私はテレビでリアルタイムで観た。太田監督が手錠をかけられ、うつむいて警察車両に乗せられるシーンを目にした時の最初の感想は、「何でその犯罪容疑なんだ?」だった。彼には確かに過剰なエネルギーがあったが、それが性的要素を含む一種卑怯にも思われる犯罪行為に向けられたことについて、非常に意外な思いがした。少なくとも私からは、彼は決してそういうことをするタイプには見えなかったからだ。
すぐさまかつてのサークル仲間の何人かに連絡を取った。そして何日か経って、(おそらく釈放のための?)嘆願書を提出するために署名活動を行っている仲間がいる、ということを知った。逮捕から2週間ほど経って東日本大震災が起きたこともあり、嘆願書の提出はうやむやに終わったと聞いた。以降、彼が何をしていたかを、ほんの1週間前までまったく知らずに過ごしてきた。サークルの同期から連絡が来て、太田監督が再び映画を撮って上映まで漕ぎつけたと聞いて仰天して劇場に足を運んだのが、この作品を観た個人的な経緯だ。
したがって私は前提条件を何も知らずにこの作品を観た観客ではない。頭では「監督の人格と作品は無関係である」と理解しているが、実際には作品と適切な距離感を測るのが非常に難しかったため(こういった状況で映画を観るのは初めてだったので未だにその距離感はわからない)、個人的な思い入れも入ってしまうかもしれない。そのことを最初に明らかにしなくてはフェアではないと思ったので、上記のことを書かせていただいた。
前置きが非常に長くなってしまったが、私がこの作品を観てみたいと思った理由は3つある。
①太田監督が13年間何をしていたのか、知りたかった
②過ちを犯した一人の映画監督が、表現者として再び立ち上がる姿を見たかった
③自分が逮捕勾留された経験に、表現者としてどう向き合って作品化したのかを観たかった
①は各種インタビューで既に彼自身が語っていることなので省略する。②は実際に舞台挨拶で彼の晴れやかな表情を見ることで目的は果たせた。
さて、レビューとしては③を書かなくてはならない。本作は自伝「的」作品である。小説でいえば「私小説」に近いのかもしれない。しかし自伝「的」作品や「私小説」というのは、あったことをそのまま記述したからといって優れた作品になるわけではない。それならば日記で事足りることだ。むしろ己を徹底的に相対化し、客観視し、嗤いも含めて己を描かなくては、優れた作品にはなり得ない。
太田監督は、この問題を一種アクロバティックな手法で切り抜けている。逮捕勾留された太田監督自身を投影した染田(通称・エス)を不在にし、かつての大学時代の演劇サークル仲間のパートと、現在の職場であるコールセンター会社のパートで、それぞれ周囲の人間に「エス」を語らせることによって、相対化しているのだ。
ある人物が起こした問題行動は、池に石を投げた時の波紋のように、周囲の人間に影響が広がっていく。近ければ近いほどその影響は大きく、遠い場所にいる人にはその影響は及びにくいのが普通だろう。実際に最も影響を受けたのは当然、監督の家族だったのではないかと想像するが、太田監督はそこは描かない。あくまで描かれるのは、大学時代の演劇サークルの仲間たちと、現在の職場の同僚である。こういった類の作品で家族というのは散々描かれてきたので、敢えてそこは避けたのかもしれない。あるいは太田監督にとって、当時最も問題だったのが、実際に周囲にいたかつての仲間たちや職場の同僚の態度だったからなのかもしれない。
それぞれのパートに特徴的なことがある。かつての大学演劇サークル仲間たちは、「エス」の犯した罪がどれだけ「ダサい」か、自分たちがどれほど「エス」を思っているのか、あるいは迷惑をかけられているのか、といったことを延々と語り、そこではなぜか奇妙なマウンティング合戦まで起きたりするのだが(「エス」のことをどれだけ思っているかで段位がつけられたりするし、最後には階段を使ってまで順位付けがされたりする)、実はこれらの会話はまったく核心にたどり着かないのだ。演劇的手法が取り入れられたこの会話劇は、映画としては非常にしつこく長く、無意味で無駄に感じてイライラする観客もいるかもしれない。しかし太田監督がここで表現したかったのは、「友人」「仲間」「先輩」たちが、逮捕勾留された近しい人間をどう受け容れるのか、あるいは受け容れないのか、その心の揺れのリアリティだったのではないか。そのためにこの執拗さは必要であり、実際に観終わった後にこのシーンに対しては異様な気持ち悪さが私の中に残った。それは私自身、もしこの距離感の近しい人が逮捕勾留されたときに、簡単には割り切れない思いを持つだろうという想像がリアルに働き、内面を揺り動かされたからだろう。
コールセンターパートはもっと直接的だ。「エス」の逮捕勾留歴を知らない同僚は、「エス」のことを褒めそやしている。ある人物は「エス」は目が澄んでいてそれだけで信用ができる、と言う。綺麗めのバツイチの同僚女性は、「エス」に恋心を持っていてデートをしたいとさえ思っている。「エス」は職場ではかなり素敵な人物と見做されているのだ。ところがひょんなことから、「エス」が昔、逮捕されたということが職場中に知れわたり、同僚たちの態度は一変する。
「エス」をこの職場に紹介したのは、かつて「エス」と交際していた千穂だった。しかし今の千穂は他の男性と結婚しており、すでに人妻である。千穂はサークル仲間でもあり、職場の同僚でもある唯一の人物だが、なぜか全登場人物の中で「エス」を一番心配している。しかし周囲が冷やかすようにそれは復活した恋心から来るものではなく、彼女は自分でも理解しきれない感情を持ちながら「エス」を必死に擁護する。ラスト付近で、千穂は職場の同僚女性に「いま染田が過去に逮捕されたことを知ったからといって、染田自身は何も変わらない」と号泣しながら訴える。しかし、その思いは決して同僚に伝わることはない。職場はあくまで仕事をする場であり、同僚はたまたま居合わせた人間に過ぎない。「本当の染田」を知る必要も義務も、同僚にはないのだ。結果、「エス」は職場を自主退職することになる。
観客はこの映画の110分を通じて、「エス」自身ではなく「エス」が引き起こした波紋を目撃することになる。この波紋を、中心に向かって逆側にたどることでしか、「エス」という存在を理解することはできない。逮捕勾留された人物が(起訴されて刑事裁判を受けたかどうかまでは描かれていなかったので、そこは問題にしない)罪を償うためにできることは、心の中で被害者に謝罪し、ひたすら反省することだけであり、他人には外形的にその「反省度」をはかることができない。もし「エス」自身を登場人物の一人としてはっきりと描いて一言でもセリフを喋らせてしまったら、何を言っても自己弁護となってしまうだろう。しかし「エス」自身を描かなかったからといって、太田監督は自身の問題から逃げているわけではなく、むしろ周りの人間の心情を想像しながら一つ一つセリフを書き出して行くことは、想像以上に辛い作業だったのではないだろうか。
太田監督自身は、今後も、おそらく生涯、この問題と向き合わなければならないだろう。しかしとにかく、太田監督にとってはどうしても撮らなくてはならない、ここを乗り越えないと次のステージには行けない、そんな作品だったように思う。幸い、多くの観客がこの一風変わった作品を観に、劇場を訪れているようだ。かつて期待のホープだった映画監督が、12年もの間自らの過ちと向き合って制作し、商業映画としてはデビュー作となった今作を分水嶺に、次にどんな作品を撮るのか、今からとても楽しみにしている。