「そういわれてみれば…」あまろっく talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
そういわれてみれば…
<映画のことば>
ほんま、迷惑なおっさんやったけど、私はお父ちゃんに、ずっと守られていたんや。
お父ちゃんは、ほんまに、ほんまに、尼ロックやったんや。
これからは、あたしが、あんたらの尼ロックになる。
若い世代を中心に結婚後の女性も自分の仕事を持って働いている家庭も増え、夫が「一家の大黒柱」として家の収入を一手に支えているケースは、令和の今の時代には、そう多くはなくなったないように見受けられますけれども。
そのせいか、そう言われてみれば、作中の竜太郎の台詞のように「飯食うて寝てられれば、何とかなる」「人生、起こることは何でも楽しまんと」とばかり、家の中で「どんと構えているお父さん」っていうものは、そうそうは見かけなくなったことに、改めて、評論子は気づかされました。
そして、そのことが、世上、往々にして妻から夫に対する「モラハラ」という批判として析出しているのではないかとも、危惧しました。
上掲の映画のことば、本作の、いわば「締めくくり」として、優子によって語られるものではありましたけれども。
本作で語られる尼ロック(尼崎閘門:尼崎ロックゲート)ような夫・父親のあり方を指して、それを「一家の大黒柱」というかどうかは、ひとまず別の問題として。
家庭の中での「夫としてのあり方」という意味では(もちろん評論子自身への自戒も含めて)胸にズンと堪えた一本になりました。
同じ受け止めだったかどうかは分かりませんけれども。
上記の意味では、評論子が入っている映画サークルの先輩会員の「作り手(監督)の人柄が偲ばれる」というコメントは、その意味では決して「的外れ」でもないと、評論子も思います。
評論子としては、思わぬ「自戒」までもスクリーンを通して突きつけられるという、佳作に値する一本だとも思いました。
(追記)
ほんの些末なことなのですけれども。
鉄道ファン(乗り鉄)の評論子には、見逃せない脚本上の「欠陥」がありまして。
(末尾ですし、駄文なので、読み飛ばしてもらって、全然OKです)
優子は南雲に、砂漠地帯では砂塵の問題があるので、新幹線鉄道を敷設するよりも、リニア(磁気浮上式)鉄道の方が、優れているとアドバイスします。
しかし、線路の上を鉄製の車輪で走る普通の鉄道(粘着式鉄道)は、滑り止めの機構として砂を散布する装置を備えていたりするくらいですから、砂塵が舞う環境であることが、新幹線鉄道の建設の支障になるという一般的な知見があるとは、ちょっと考えがたい状況です。
【砂撒き装置】
粘着式鉄道の鉄道車両において、上り勾配や落ち葉等により駆動輪が空転して牽引力を失うのを防ぐため、砂を車輪とレールの間に介在させることによって両者間の摩擦力を増加させる装置である。この装置の改良形であるセラミック粉を増粘着剤として使用する場合には、セラミック噴射装置と呼ばれる。(wikipedia)
wikipediaで引っ張れば簡単に出てくるくらいの知見ですから、この点に手当てが及んでいないという脚本は、シンクタンクでは、他の研究員の妬みを買い、理不尽なリストラに遭うほど優秀だったはずの優子の発言としては、ちょっと「お寒い」と言わざるを得ません。
(そういうアドバイスが出てくるということは、優子が働いていたのは、いわゆる都市交通系のシンクタンク(研究調査会社)という設定だったのでしょうか。)
ちなみに、鉄道は傾斜(坂道)に弱い交通手段です。
クルマが走る道路の傾斜は「パーセント(百分率)」でカウントされますが、鉄道(線路)の傾斜は「パーミル(千分率)」でカウントされます。
単純に言えば、鉄道はクルマに比べて、10倍も傾斜(坂道)に弱いといえるでしょうか。
もし、優子の南雲に対する発言が「傾斜に対する既存(粘着)鉄道の弱さと、その点でのリニア鉄道の優位性」みたいな内容だったともし仮定すれば、脚本のシズル感がグッと増していただろうと思うと(作品全体としては決して悪いものではないこともあり)少しく残念な思いもあります。
この点で、少しく残念だったのですけれども、それは、あくまでも鉄道ファン(乗り鉄」としての評論子には「物言わぬは腹ふくるるわざなり」ということわざもあって付け加えただけのことになりますので、それを差し引いても充分に佳作という本作の良さに免じて、「蛇足」をお許しいただきたいと思います。
共感ありがとうございます。
そんな不整合な部分が在ったんですね!
そもそも主人公が仕事を辞めた原因、コミュ障的な雰囲気も出してましたが、そんな事で商社のプロジェクトの責任者になんてなれないですよね。最後は経営者になってた様に、何か嫌気がさしてあんな態度を取り、休みを続けていたんでしょうか。