「ゴミ山さえもが美しい。」型破りな教室 penさんの映画レビュー(感想・評価)
ゴミ山さえもが美しい。
「教育とは、生徒が自発的に成長することを促す営みである。」という信念で、型破りな授業をして、最低と見放された子供達の潜在力を開花させた実話に基づく物語。結果ではなく、知ることの喜びに目覚めた子供達の人としての素晴らしい成長の過程が何より美しく、そうなると、貧困の象徴であるゴミ山さえもが、空の青さとの対比で白く輝いて見えてしまうところが、なんとも不思議でした。(以下ネタバレありです。)
例えば、ゴミ山での金属収集で生計をたてている病弱な父の身体を労りながら、仕事を手伝うパロマは、授業を受けて、以前は思いもしなかった宇宙工学者への夢をもちはじめます。また、兄の手伝いをしながら、いずれはギャング団の一員になる道を辿っているニコは、自分が神秘的な法則に支配されている宇宙の一部であることを実感し、ギャング団に入ることをためらうようになります。さらに、自分で考えることの楽しさを知った子沢山の母子家庭の長女ルペは、大学の図書館に通って哲学の本を読みあさるようになります。この三人を軸に物語は進むのですが、三人だけでなく、学ぶことの楽しさに目覚めたこどもたちの目は、犯罪や麻薬と隣り合わせとは信じられないくらい、みんな明るく輝いていたのが、とても印象的でした。
メキシコの人質ビジネスや、麻薬犯罪を題材にした映画は数知れず、第1次トランプ政権による「壁建設」に至っては、メキシコ人がアメリカ人に比して劣っているかのような印象操作が行われているような感さえありましたが、本当にそうなのでしょうか?「1から100までの数の和」をわずか数秒で解いたパロマの計算方法は、レンガ職人の子として生まれながら「歴史上最高の数学者」と言われたガウスが小学生時代に発見した方法と全く同じでした。つまり犯罪と麻薬に汚染されているのは確かに事実かもしれませんが、それは長い歴史の違いがあってのことであって、ホモサピエンスとしての潜在的な能力は多分アメリカ人や我々と何ら変わるところはなく、天才の潜在的な発生確率は、同じなのではと思います。
また貧困のためその才能を社会で生かすすべを持たないという状態は、果たして本当に悪なのでしょうか?知る喜びだけではダメなのでしょうか?ルペが授業で「中絶の是非」の論議をするにあたりミルの「最大多数の最大幸福」(ベンサムのそれより倫理的な側面を重視しているそうです。)を引用し、「彼ならこの貧窮をみて中絶賛成と言うと思いますが、世話をしている可愛い弟たちがもし生まれなかったら・・と考えると、私は簡単に賛成とはいえません。」といった考えを述べます。そしてその考えは彼女の最後の選択に繋がっているように思うのです。その選択をしたときの表情が、たまらなく美しく見えました。