瞳をとじてのレビュー・感想・評価
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かくほ長き不在の、言い訳を!!
寡作・・・そして、
31年ぶりの新作映画は169分の長編。
確かに長い。
凄く退屈したか?と言われるとそうでもないが、
5回に小分けして30分毎に小休止を入れていたので、
映画館で観てたらどうだったのかは、分かりません。
ただ主役のミゲル役のマノロ・ソロさんが、素敵な初老の男性で、
役所広司を3時間見ていても苦痛でないと同様に、イイ男。
あとは詩的なフレーズや装置・音楽が80歳過ぎの監督、
ヴィクトル・エリセさんにしては若々しくて、
小洒落てるんですね。
最初に描かれる未完の映画「別れのまなざし」
この映画のテーマである、主演俳優のフリオが完成を待たずに
失踪したことにより頓挫。
ミゲルの監督キャリアも終わってしまう。
このたった2本の映画を撮って、引退したミゲルは、
ヴィクトル・エリセ監督の分身で、このミゲルに、
撮れなかった長い言い訳を担当させて、
「それから・・・執筆、釣り、野菜園、やってました的に、」
失踪したフリオも監督の分身ですね。
ただ惜しいと思ったのは、ミステリー仕立てなのに、
フリオが失踪した理由が結局は有耶無耶。
(実は、政治的にスペインは弾圧とかもあったけど、
スペインから積極的には出ない道を選んだのでしょうね)
もうひとつ、これも非常に残念なのですが、
フリオ役のホセ・コロナドの容姿が冴えない。
女がほっとかない美男で、女が振り返る男・・・何でしょ!!
最初のフィルム「別れのまなざし」のどの人なのか?
わかんなかったもの。
ユダヤ人富豪を特殊メイクで演じてるのか?
とか、まさか冴えない「娘探し」を頼まれる中年男‼️
だとは思いもしなかった。
その位冴えない男です。
(ルッキズムだけど、俳優なら仕方ないのでは、)
最初と最後に「別れのまなざし」を持ってきた。
これは監督が一番に観せたかったんでしょうね。
ラストの映像には、ユダヤ人の富豪の娘が登場して、
かなりセンチな演技を見せるけれど、私的には好きなシーン。
チャオ・シュー(ベネシア・フランスコ)可愛かった。
「ミツバチのささやき」のアナ・トレントの出演。
ミゲルのギターと歌、
お留守番してる黒犬のカリ。
エンディングのヤヌスの二面像
(過去と未来をそれぞれ見てるとか、)
どれもなかなか。
政治色が皆無なのも、意図したことでしょうか?
映像での遺言状とでも言いましょうか、
そんな作品を残せるのも幸せにことですね。
その人にとっての本当の幸せかどうか
自分を無くしたかった人にとっては、前の人生を忘れて生きてるってのは、幸せなのかもしれない。
周りから見て、記憶を取り戻してあげたい!って思うのは、周りの人間のほうが欲すること(思い出して欲しい)であり、
正気であった頃に色々苦しんでアル中になるほど苦しんでいた人が、またその頃のことを取り戻したらむしろ不幸なんじゃないか??って思った。
見つめることが、いくつものポイントで折り重なっているところや、映像美、
小道具的なものもすべて、美意識が現れていると感じた。
服も、キャンピングカーも、景色も、色も。
映画の中の映画の中に出てくる少女、父とのご対面の前に、自分のローブを脱がさせられるのに、父が亡くなった直後のところで、なんでつれが自分の上着をその子に着せたのかは不自然に感じてしまった。意味あったのかな。
主人公の友達の映写技師が性格も様子も含めて凄く良かった。
施設で働いていた女性も素敵だったし。
俳優の演技が凄く自然で、うまい。
スペインの街の風景も、この映画に合わせてしっとりした別世界のように映し出されていて、小箱の中の物語のようだった。
しんみりと、あとあと思うことある作品。
それぞれの『 まなざし 』
作中映画『 別れのまなざし 』が、どうにも苦手でした。
海の近くで、愛犬カリと慎ましく暮らす元映画監督のミゲル( マノロ・ソロ )。粒らな瞳でミゲルを見つめるカリ、鼻を鳴らして甘える姿が愛らしい。
終盤の映画館でのシーンは、名作「 ニュー・シネマ・パラダイス 」へのオマージュでしょうか。
映画館での鑑賞
仏の田舎の海沿いの老人施設の様子。クリスチャン系の施設で修道女が働く。映画自体の内容はぼちぼち
一人の俳優が撮影中に失踪、20年後仏の田舎の老人施設で発見されるが、認知症が進み、娘の顔も分からず。当時の映画仲間が、自分が出ていた映画を見せて、思い出させようとする。
仏の海沿いの老人施設、食事も質素だが、立地も良く、シスター達は親切で良い。
「老い」を丁寧に描いた(タイトル変えました)
大変冗長。
ビクトル・エリセは30年の沈黙の間に「省略」という手法を忘れてしまったのか
何かあるごとに、起きたことすべてを時系列でいちいち丁寧にすみずみまで余す所なく描き出し、ハナシが停滞。それが延々続き渋滞するので見ている方はたまったもんではないです。
省略、することで映画にメリハリができ、強調したいところも際立つものでしょうに
さらに情感たっぷりで間がゆったりとしていて、次の動作までが長い。
これ必要? というシーンがやたらに多い(しかも長い)
さらに同じテンポのゆったり劇中劇が長々と映されて追い打ちをかける
3時間の尺なのに、8時間くらいあった感じ
面白い映画は長くても長く感じないものですが、その逆もあり。
アナ・トレントが役名も「アナ」分かりやすくてよいですが、あのアナちゃんだと、すぐわかりました。
体感上映時間8時間を耐えたのに、結局何も判明しない。
フリオは過去を思い出したのか、彼はなぜ失踪したのか
劇中でも何度も問いかけているにも関わらず、ひとつも判明しないって、詐欺にあったか罰ゲームか、または忍耐力のテスト?
見終えて徒労感と疲労しか残らなかった。
一緒に見ていたダンナは、帰りに、3時間拷問だった、と白状しました。
ビクトル・エリセは、何が言いたかったんでしょう
タイトルの通りなら、「瞳を閉じて」過去に思いを馳せろ、記憶を呼び起こせ、登場人物たちが「記憶」という単語をよく口にしていた気がするので、「記憶」がキーワードなんでしょうが、ミステリーの形を取った過去を礼賛する老人のノスタルジー(愚痴?)に見えてしまいそうです。
瞳を閉じたら寝ちゃったわ
始終、「老い」を丁寧に描いていて、私自身も老境に差し掛かっている年齢なので、リアルも感じました。
追記)この映画の隠れたテーマは「老い」なのでは、と思っています。
映画祭で
上映するにはもってこいの作品、これは“映画の力”を表現したんだと思えるから。例え病人を癒やす事が出来なくても、映画に関わった監督、技術、観客、俳優、それ等の家族に至るまで想いが有るのだと解る。
珍しくミステリータッチでストーリーを追う形の作品でした、やはりちと長く感じたけれど。
欧米のイヌは凄く躾けられてるなぁ、付かず離れず、日本の子たちはグイグイ引っ張る。
タイトルの通り
瞳を閉じてウトウトしてしまった。
長時間なので体調を整えてから鑑賞することをお勧めする。
この作品自体が過去の映画と現実をいったりきたりする設定だが
全体的に「静」の映画なので、寝不足もあいまって自分も夢と現実をふわふわと。。。
残すところ4分の1くらいから動きが出てきて面白くなってきたのだが、
そこに至るまでの時間が自分には長かった。
登場人物は軒並み良い人。
主人公の犬がとても可愛く演技達者。
もう少しあらすじやこの監督の過去の作品について勉強をしておけば・・・
前日しっかり睡眠をとっていれば・・・と反省。
ラストのフリオの表情良かったが、結局観客に委ねられた、ということ?
フィルモグラフィーの空白
Close Your Eyes
監督とは無二の親友でもあった俳優が、撮影途中で失踪した。映画の中では彼は、探し人の依頼を受け旅に出る。
撮影は頓挫し、時が流れ、思い入れの残ったフィルムを、監督はお金のためにドキュメンタリー番組へ売る。しかし良心が痛み、放映を見ることは叶わない。
その後、俳優が記憶喪失の状態で発見された。彼は、監督と実の娘に再会するが、記憶は一向に戻らない。まるで探し人が見つからなかったかのようで、映画とはある意味で鏡像のようだ。
自身の作品の空白、業界の現状の中で、せめて映画だけは、世界を洗練されたものに戻してほしい。監督の願いを見る
映画の奇跡を撮った映画
ビクトル・エリセらしい重層的な映画。劇中劇から始まり、劇中劇を観る主人公たち(あるいは劇中劇から観られる主人公たち)で幕を閉じる。また、監督の過去作との連環も多く、自伝的でもある。シネフィルが作った映画愛を映す映画であり、映画そのものがテーマにもなっている。
冒頭とエンドロールでヤヌス像が映されるように、時間についての映画でもある。そしてそれも、映画内のミゲルの過ぎ去った時間やフリオやミゲルの息子のこの世から離れて止まった時間、現実として過ぎ去った時間(アナ・トレントの50年)が入り交じるような重層的な時間である。
ラストシーンでは、丹念に映し続けた一つ一つのまなざしが劇場内で怒濤のように複雑に交錯し、瞳がとじられた刹那、劇中劇が終わりこの映画も終わる。これほど見事なエンディングは観たことがないし、確かに映画を観たという叫びたくなるような気持ちになったこともかつてなかった。
これが映画なのか。なんと素晴らしい。
1940年代、邸宅「悲しみの王」に暮らす老人が、ひとり娘を探してほ...
1940年代、邸宅「悲しみの王」に暮らす老人が、ひとり娘を探してほしいと男(ホセ・コロナド)に依頼した。
戦前に上海で女優との間に出来た子どもだが、もう何年もあっていない・・・
というところからはじまるが、実は「悲しみの王」でのやり取りは『別れのまなざし』という映画の一部。
依頼を受けた男の役を演じていた人気俳優フリオ・アレナスは、撮影の途中で姿を消した。
靴は発見されたが死体は上がらず、失踪したものと世間では認識された。
映画は未完となり、監督のミゲル・ガライ(マノロ・ソロ)は、その後、メガホンをとることなく小説家に転向した。
映画の撮影は1991年のこと。
それから20数年の時を経て、フリオの失踪をテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられることになり、ミゲルに『別れのまなざし』のシーンの放映許可とインタビューの依頼が来た。
処女小説『廃墟』はそれなりの評価を受けたが、その後は長編小説はモノに出来ず、短編をいくつか書いただけで、いまは海辺の寒村で細々と暮らすミゲルにとって、報酬は魅力だった。
ミゲルは、フリオが見つかるなどとは思っていない。
番組にも魅力を感じない。
しかしながら、撮影当時のこと、途中まで編集がすんだフィルムのこと、残されたフリオの娘アナのことなど、いくつかの振り捨てようとしても、過去の想いはミゲルに迫って来る。
特にアナ(アナ・トレント)と再会し、処女長編『廃墟』の本と出会い、さらに本を捧げた当時の恋人と再会するに至っては、過去はミゲルにしがみついて逃さない。
そんな時、番組を観た視聴者からフリオによく似た男性がいるとの報せがミゲルに届く。
海辺の高齢者施設で雑役夫まがいにして働いているのだが、その男には記憶が一切なく、かつてのタンゴの流行歌を歌っていたことから、施設では高名なタンゴ歌手の名に由来して「ガルデル」と呼ばれていた・・・
という物語。ここまででおおよそ3分の2ほどか。
30数年ぶりのビクトル・エリセ監督の演出はゆったりとしている。
あまり観客を急がせない。
それはそれで好ましいのだが、前半部分、特に冒頭の映画のシーンは、あまりにものっぺりと起伏に欠き、「これは、もしかしたらひどい映画に出くわしたのではありますまいか」と、不安になりました。
テレビのドキュメンタリーにかかわる部分もそれほど冴えず、面白くなってくるのは、ミゲルが古本市で自著『廃墟』と再会するあたりから。
かつての恋人との再会、海辺の寒村でのご近所との暮らしぶりなどの中盤は、大きくな起伏などはないものの、それがかえって味わい深い。
近所の友人たちと『リオ・ブラボー』の挿入歌「ライフルと愛馬」を歌うシーンは心安らかになります。
後半は高齢者施設での物語。
ガルデルと呼ばれた男は、果たしてフリオであった。
ミゲルは、そう確信する。
しかし、ガルデルは自身のことを一向に思い出さない。
ミゲルは、最終手段を思いつく・・・
と展開するのだけれど、この結末は観客に委ねられている。
フリオが自身のことを思い出したのか、思い出さなかったのか・・・
個人的には「どちらでもよい」と感じました。
思い出せれば、まぁ一般的な幸せなんだろうし、思い出さなかったとしてもそれはそれで幸せ。
「悲しみの王」の邸宅には飾られた二面像がエンドタイトルとともに映し出される。
左を向いた顔は若々しい青年の顔、右を向いた顔は深い皺の刻まれた老人の顔。
どちらの顔も同じ人物なのだ。
青年の顔は未来を向いているように思えるし、老人の顔は過去を向いているように思えるが、べつに過去も未来も向いておらず、ただそこにあるだけ、存在すること、歳を経て存在すること、そんな風に感じられました。
ぼくとフリオと海浜で
ヴィクトル・エリセは、「ミツバチのささやき」「エル・スール」「マルメロの陽光」と、10年に一度宝石のような果実を実らせるという類稀なる監督だ。この3本は紛れもなく傑作だと思う。今度は何と31年ぶりの新作だという。こうなると、もうほとんど竜舌蘭に匹敵する。
主人公の元映画監督がかつて撮影中に失踪した俳優の消息を求めて、過去の断片をたどっていく。かつての純文学的な文体は薄まり、より直截的な描写が多くなった。それでも溶暗の悠揚たるテンポなどは実に心地よく、ただ身を委ねていられる。
劇中劇のレヴィと娘の再会が、フリオとアナの再会と二重写しになっている。「ミツバチのささやき」から半世紀を経て、再び「ソイ・アナ(私はアナよ)」という呟きが甦った時には、思わず震えた。
アナ・トレントは子役の例に漏れず、その後あまり役に恵まれてこなかったみたいだ(いつしかカラスの足跡も飼ってしまったような)。
夜、月明かりの下でミゲルとフリオがタンゴを歌うところは、いいシーンだ。
揺れるまなざし
「ミツバチのささやき」を劇場で観てから12日後に日比谷シヤンテで「瞳をとじて」を。
ミゲルが監督した映画「別れのまなざし」は、オープニングとエンディングだけ撮影したが俳優フリオの失踪により未完成になっていた。
未完成なのに何故エンディングがあるんだ?というレビューがあったが、映画は必ずしも「順撮り」ではない。同じ建物内での撮影ならばオープニングとエンディングを先に撮影するのはあり得る事である。
先日、NHKで宮崎駿の「君たちはどう生きるか」の製作過程を描く番組があったが、全体のストーリーが確定する前に少年が母親と家に帰ってくるシーンは既に完成していた。アニメとはいえ、時間的制約から確定した所から製作に入るのだ。
評判を取ったTVの「VIVANT」も役所広司のモンゴル海外ロケの最初の撮影は同志との別れのシーンだったそうだ。
殆どの作品が順撮りでない中で、感情の起伏を表現しなければならない役者さんは大変だろうなぁ。
閑話休題
映画「別れのまなざし」は、1947年を舞台にヤヌスの二面像(それぞれが過去と未来を向いている)が入口に飾られた「哀しみの王」と名付けられた邸宅に住むユダヤ人の男レヴィが生き別れた娘を探す事を依頼する。レヴィは中国語、英語、スペイン語を話す。依頼を受けた男は上海へ娘を探しに行くと言うストーリだが、男を演じた俳優フリオの失踪により映画は完成しない。
友人でもあった俳優フリオの失踪でミゲルは監督を辞めて作家になるが、今では「南」の海辺の村に暮らして魚を獲ったりして生活している。ミゲルの息子は事故死している。
失踪から22年が経ち、TVの「未解決事件」にフリオの失踪が取り上げられ、ミゲルも番組に出演して「別れのまなざし」の一部も放映される。これをきっかけにフリオの娘アナと再会する。(「ミツバチのささやき」から50年後のアナ・トレントと我々も再会する)
作家として出版した本(かつて恋人だったロラに送ったサイン本)を古本市で発見し購入する。アメリカ人と結婚しアメリカに行っていたロラが帰国している事を知り、会ってサイン本を渡す。「アメリカに行ってる間に家族が処分したのね」ロラは喜んで戻って来た本を受け取る。ロラはフリオとも付き合っていたが、アメリカ人と結婚したのだ。
海辺の村で普段の生活に戻る(主人を待っている犬が可愛いい)が、ここにも立退き話が持ち上がっている。ミゲルはギターで隣人と「ライフルと愛馬」を合唱する(私も声を出して一緒に唄ってしまった。だって何度も観た「リオ・ブラボー」の挿入歌でシングル盤も持っているから)。
番組を観た人からフリオに似た男がいるとの情報提供があり、ミゲルは会いに行く。
男は3年前に記憶を失って発見され、高齢者施設の手伝いをしながらそこに住んでいる。(施設は南部の海辺にあり陽光に溢れている。「ミツバチのささやき」では観られなかった風景だ)
再会してもミゲルの事は判らないが、昔軍艦に一緒に乗っていたので、もやい結び等が出来る。ミゲルはアナを呼び寄せる。アナは男に呼びかける「私はアナ」と。
「ミツバチのささやき」で父親から逃げたアナから50年、私達は初めて父親に「私はアナ」と呼びかけるアナ・トレントを目撃する。フリオはそれでも記憶を取り戻さない。施設長の修道女がミゲルに発見された時の持ち物を渡す。缶の中にはチェスの王の駒(日本のホテルのマッチもある)が。王の駒は「別れのまなざし」の冒頭でレヴィが手にした駒だった。
ミゲルは映画「別れのまなざし」をフリオに見せようとする。編集の仕事をしてフィルムを保管しているマックスにフィルムを運ばせ、施設の近くに有る閉館した映画館の映写機が動くのを確認してフリオとアナの前で上映が始まる。映画「別れのまなざし」は、フリオが探し出した生き別れた娘と再会したレヴィがその場で亡くなって終わる。
そして、そのスクリーンをまじまじと見つめるフリオのまなざしで「瞳をとじて」が終わる。
「瞳をとじて」は、過去を失った男と過去を忘れたい男、父親と娘、そして、人生の記憶、映画と友人の思い出に溢れた映画だった。
映画の記憶は誰のもの?
神隠しのような感じで行方不明となった人物と遭遇する、という物語が、戦争など現代の歴史の中で描かれるが、基本は神話や民話の類いの話の現代版だと思う。実際、「失踪」した理由や背景は全く描かれない。謎を解き明かす映画ではなく、謎が存在する状況をつきつける。
本人の記憶喪失が悲劇として語られる一方で、映画監督である主人公の精力的な努力(執念)とそれにつきあう相棒の人の良さが強調される。物質である膨大な映画のフィルムが記憶の手がかりとして描かれるが、結局、そのフィルムは記憶の手がかりとして役に立たないことが強調されている。それが、悲劇として描かれているのが印象的だった。
映画を描いた映画だと思うが、監督の意図が今ひとつよくわからなかった。特に、記憶喪失者に問題の映画を見せる場面。なぜ、座席を指定するのか?しかも事務的に指示するだけ。実際の映画撮影での指示を真似た演出だという解説を目にしたが、この映画にそういうオタク的な演出が必要か?もしかして、この映画の監督が映画オタクなのか?
映画の手法に凝ったせいなのか、途中で少し、眠くなった。テレビと映画を対比させようとした点も、逆効果ではないかと思った。現代の殺伐とした状況と過去の映画全盛期の状況をノスタルジックに語っただけの映画だろう、と言われたら、そのとおりだと監督は開き直るかもしれない。
この物語の流れと同じように、老いというものは静かにやってくるものなのかもしれません
2024.2.21 字幕 京都シネマ
2023年のスペイン映画(169分、G)
失踪した俳優探しに関わることになった映画監督を描くヒューマンドラマ
監督はビクトル・エリセ
脚本はビクトル・エリセ&ミシェル・ガスタンヒデ
原題は『Carrar los ojos』、英題は『Close Your Eyes』で、ともに「目を閉じて」という意味
物語の舞台は、スペインのある街
かつて映画監督として数々の作品を作り続けてきたミゲル(マノロ・ソロ)は、撮影中に俳優が失踪すると言う事件に遭遇した過去があった
それから30年が過ぎ、その事件は忘れ去られていた
ミゲル自身も田舎町に越して、自家農園を営みながら、細々とした生活を送っていた
ある日、ミゲルの元にテレビ局からオファーがあり、「未解決事件」という番組にて「失踪した俳優を追う」という特集が組まれる事になったという
その題材になったのが、ミゲルの映画で失踪したフリオ・アレナス(ホセ・コロナド)で、関係者たちのインタビューを交えながら、彼が今どうしているのかを訴えかける構成になっていた
番組プロデューサーのマルタ(エレナ・ミケル)はミゲルにオファーを掛け、同時にフリオの娘アナ(アナ・トレント)にも声をかけていた
ミゲルは渋々承諾するものの、アナは協力を拒んでいて、ミゲルは映画編集担当のマックス(マリオ・バルド)の力を借りながら、当時の情報を集めていくことになったのである
映画は、制作途上で頓挫した映画の一幕で始まり、フリオ演じるフランクという男性が、レヴィ氏(ホセ・マリア・ポウ)の依頼を受けて少女ジュディス(ヴェネシア・フランコ)を捜すという内容になっていた
ジュディスはレヴィ氏の生き別れの娘で、死が差し迫っているレヴィ氏のために、フランコが奔走するという感じに綴られていく
だが、映画はフランコ役のフリオの突然の失踪により中断し、依頼シーンと最後の再会のシーン以外には残っていない
後半の再会シーンでも、編集でフランコがそこにいるように見えているが、おそらくはあの場にはいないのだろうと思われる
物語としてはシンプルで、そこまで難しい話ではないものの、まさかの169分という長さに驚いてしまう
無駄なシーンはないものの、長回しによるシーンの蓄積が気づいたらこんな事になっていた、という印象になっている
ポスタービジュアルは少女のアップだが、劇中映画のラストにて、レヴィ氏が彼女のメイクを落とそうとするシーンも、直前の涙に見立てた扇子越しの視線と重ねるなどの細かなこだわりがある
ミゲルの愛犬カリの存在感も抜群で、テレビにご主人様が登場したらキョロキョロしちゃうなど、芸が細かいなあと思ってしまう
映画を観ているシーンでも、それぞれのキャラがフリオの様子を観ているのだが、誰もが同じことを思いつつ、過去の彼と自分たちが知る姿を重ねていたりする
過去も現在もどちらも魅力的で、そのどちらかに行けば良いというのではなく、この多面性こそが人間を構成する要素である、というメッセージがあるのだろう
エンドロールでは、二つの顔をもつヤヌス神の石像が登場し、これ見ようがしにずっとアップで映っていたりする
ちょっとしつこいかなあと思いながらも、老いに向かうことの意味を考えさせる時間なのかな、とも思えた
いずれにせよ、映画らしい映画という感じで、切り取れば額縁に飾れそうなシーンもたくさん登場していた
個人的には1.5倍速で頼みますわと思えるシーンもあったが、映画館でゆったりとくつろぐということを考えればOKなのかなと思う
『ミツバチのささやき』に心を奪われた世代向けという感じなのであまり刺さる部分はなかったが、いつもはそこまで混まないミニシアターがほぼ満席というのは驚いてしまった
意義ある失踪の先に記憶が封印された理由はわからないが、死に際を求めて彷徨った終着点があの施設だとするならば、思い出さないことは神様の配慮なのかもしれません
エリセ監督の本作に奇跡は起こったのだろうか?
製作途中に行方不明となった俳優を元映画監督が探す物語。
劇中、映画監督の言葉に「カール(ドライヤー)の映画以降、映画に奇跡は無くなった」といった主旨のセリフがある。
はたしてエリセ監督の本作に奇跡は起こったのだろうか?
その答えは作品を観た人に委ねられている。
古き善き作品を観たような感動が残ります。
「映画による奇跡」をめぐる葛藤の行方
失われた記憶をめぐるこの物語は、「映画による奇跡」を信じながらも、そのような期待を自らに禁じる者たちによって語り継がれる。
失踪し記憶を失った元俳優が住み込みで働く高齢者施設の一室で主人公がタバコを吸う。
施設のシスターがドアをノックした途端に慌てて火を消し、灰皿を引き出しに隠し、窓を開けて煙を手で煽いで逃す。
部屋に入ってきたシスターは顔色ひとつ変えずに反対側の窓を開ける。
一見すると物語とは無関係なこの一連のシークェンスが実に素晴らしい。
柔らかな照明、無駄のない什器、充実したアクション。
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舞台は1947年、タイトルは『別れのまなざし』という設定の映画内映画から上映が始まり、過去・老い・記憶をめぐる物語が語られていく。
失踪し忘れられつつある俳優。亡くなった仲間や息子のこと。去ってしまった恋人や妻。
数十年ぶりに見つかった元俳優の記憶は失われている。
記録媒体の主流がデジタルに置き換わっても残されたままの膨大なフィルム。フィルム編集技師が戦利品と主人公に得意げに語るのはニコラス・レイ『夜の人々』の16mm。映画監督をやめて作家に転じた主人公の小説のタイトルは『廃墟』だ。
手のひらサイズの『ラ・シオタ駅への列車の到着』の登場で一層明確に告白された映画史への愛は、主人公と隣に住む若者にハワード・ホークス『リオ・ブラボー』の挿入歌を歌わせることでもっとも幸福に表現される。「ライフルと愛馬と私」。
1973年の『ミツバチのささやき』での面影を残すアナ・トレント(皺がとても美しかった)が精確に『ミツバチ』での自身を再演する。「私はアナ」と「瞳をとじて」呼びかける相手は記憶を無くし別人として生きる元俳優の父であり、あのフランケンシュタインだ。
記憶を無くしている元俳優に、失踪直前に撮影した出演作のラッシュフィルムを見せることで何かが変わるかもしれないと期待する元映画監督と、「ドライヤー亡きあと、映画が奇跡を起こすことはない」と断言する件の編集技師の葛藤は、映画を愛し続けながらもその緩慢な死を敏感に感じとっているに違いないビクトル・エリセの葛藤そのものである。
閉館した映画館(館主が語る思い出は、近所で撮影されていたマカロニ・ウェスタンだ)でラッシュフィルムを見る元俳優は、ジャン=リュック・ゴダールの『女と男のいる舗道』でカール・テオドア・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』を見て涙を流すアンナ・カリーナだ。
このラッシュフィルムの上映で奇跡が起きたかどうかの判断は観客に委ねられたまま、瞳はとじられ、映画は終わる。
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被写体とキャメラの距離感が『ミツバチ』や『エル・スール』のそれと異なり、とても近い。それぞれのシークェンスにおいてショットが切り替わるたびにキャメラが被写体に寄っていき、役者の顔に刻まれた皺が際立ってくる。
この皺は、物語の中で過ぎ去った時間(元俳優が失踪してからの数十年)の経過によるものであると同時に、瀕死の映画産業が積み重ねてきた歴史でもあるだろう。
「最初は美しい芸術に囲まれて働くのが嬉しくて仕方がなかったのに、いまは退屈になってしまった。大げさかもしれないけれど」。プラド美術館のガイドとして働くアナ・トレントのセリフは印象的だ。
過去・老い・記憶をめぐるこの物語は、映画による奇跡を信じつつ、そのような淡い期待はもはや捨て去らねばなるまいと自覚する者たちの物語であり、そのような者たちによってこれからも語り継がれていくのだろう。
31年振りの作品と言われるけれども…
ヴィクトル・エリセの作品がタイムリーに見れるとは、何という僥倖か!まさに「生きてて良かった!」と声高に述べてもおかしくないと思う。それほど期待を裏切らない素晴らしい作品だ。ここ数年に於けるベストな作品を鑑賞したと言っても過言ではない。現実世界での169分ではなく、エリセの作品の中に埋没し、旅する169分なのだ。時間軸は作品の中にあり、過去に遡ることで未来が現れて、自分の思い出を遡ることによって未完成の映画が完成する。そこに現実世界でのエリセのセルフ・オマージュも重なり、彼自身のこれまでの時間が溶け込み、これほどまでに美しい作品が生まれたのだ。エリセにとって31年の時は余り関係なく、彼は常に「今」という時を過ごしているようだ。アナが登場した時、正直なところ、涙が溢れた。成長した姿ではあってもアナはアナなのだ。リップサービスのような「ソイ・アナ…」の台詞にも込み上げて来る熱いものがあった。エリセの時間を共有出来た喜びは私の宝でもある。余りにも思い込みが激しくなってしまった感想だが、致し方ない。私の素直な心情をここに吐露した結果である。
魂を呼び戻すもの
余命いくばくもない「悲しみの王」と呼ばれる男が、最後に自分の娘に会いたいと切望し、ひとりの男に捜索を依頼する。
男は上海で撮られた娘の写真を手にし、屋敷を出ていく。
と、実はこれは未完成に終わった映画のワンシーンであることが明かされる。
捜索を依頼された男を演じたフリオが、撮影の途中に姿を消してしまったのだ。
それから20年、その映画の監督だったミゲルは、『未解決事件』というドキュメンタリー番組のディレクターであるマルタの依頼でインタビューを受けることになる。
何故フリオは失踪したのか、事件に巻き込まれたのか、自殺をしたのか、それともまだ生きているのか、何一つ分かってはいない。
フリオの娘であるアナは完全に父を過去の人間として忘れ去ろうとし、インタビューにも答えなかった。
女性絡みのスキャンダルなのか、それとも老いていく自分と向き合うことが出来なかったのか、様々な憶測が飛び交う中、ミゲルは真相を知るために映画のフィルムを保管しているマックスや、元恋人のロラのもとを訪れる。
これはまず大切な人間を失ってしまった者の喪失感と向き合う映画であると思った。
後にミゲルには家族を失った過去があることも分かる。
人はいなくなっても、誰かの記憶に残る限り、その記憶の中で生き続ける。
そしてフリオは未完成ながらフィルムの中でも永遠に生き続けるのだ。
と、同時にこれは過去ではなく今と向き合う映画でもある。
ドキュメンタリー番組が放送された後に、意外な形でフリオの居場所が明らかになる。
彼は記憶を失い、高齢者施設でシスターたちに囲まれて細々と暮らしていた。
ミゲルはすぐに彼のもとを訪れるが、フリオが彼に向ける視線は完全に見知らぬ他人に対するものだった。
その姿にミゲルはショックを受けるが、彼は強引に自分が彼の友人であったことを明かそうとはしない。
まずは彼のそばで生活し、今の彼の姿を受け入れようとする。
二人が記憶の中にあるタンゴの歌を歌うシーンはこの映画の見所のひとつだ。
父親の無事を知らされたアナは、やはりすぐにはその事実を受け入れられない。
ましてやフリオにはアナと過ごした記憶もないのだから。
何とかフリオの記憶を呼び覚ましたいミゲルが思いついたのは、彼に未完成の映画を観させることだ。
フリオは20年も映画で使われた娘の写真を持ち続けていた。
クライマックスの映画館でフリオがフィルムに映る20年前の自分の姿を見つめるシーンは感動的だ。
同時に観客も冒頭の映画の結末を観届けることが出来、二重の感動を味わう。
結果的にフリオの記憶が戻ったのかは観客の想像力に委ねられる。
おそらくビクトル・エリセ監督は映画の持つ力をこの作品で伝えたかったのだろう。
映画は人の魂を呼び戻すものであると。
上映時間は長めではあるものの、終盤に向けての求心力が凄まじく、あっという間に時間が過ぎてしまった。
そして『ミツバチのささやき』のアナ・トレントが、同じくアナという役でスクリーンに映っていることに感動した。
今は過去から続き、未来は今から始まる。
22年前に失踪した親友フリオを探すことになる男・ミゲル。
曖昧な記憶のかけらと未完成の映画のシーンを辿りながら、来る日も来る日もフリオに想いを寄せることが、ミゲル自身をみつめるきっかけになり突き動かされるように一筋の奇跡を求めていく。
友情、愛情、家族、栄光、華やかさの裏に封印したものを走馬灯のように巡らせ、さらにみつめる現実。
せまりくる忘却の光が親友を包み去る前にと願い、ささやかなたのしみもある平穏な日常を離れてまで抗い探るのは、ミゲルが歩んだ人生と終盤に残された時間への意識があってこそだったのだろう。
懐かしい海風にはためく真っ白な洗濯物の向こうに、漆喰を塗る2人がいる。ハシゴの上の彼らは無心で湿り気のかけらもなく明るい空気と同化してみえる。
もしかしたら、この青空が時をさかのぼらせ、全ての憂いを吹き飛ばしてくれたのかと思うほど清々しい。
その光景に身をのりだすような期待を抑えながら次のシーンを見守ると、あちこちに飛んだ白い塗料をつけたままの2人が揃って食卓に着いていてわずかに私の緊張の糸が緩んだ。
しかし目の当たりにするのは、変わらず叶わぬ疎通。
目配せしてみたミゲルの心中が伝わってきてがっくりとする。
だが、奇跡が起きなくとも幸福な安堵が確かにそこにあることにふと気づく。
さっき微笑んでいたシスターの気持ちや、故郷の親と過ごす時の私の気持ちに近いことにも。
するとようやく、内心唖然として観ていた冒頭の劇中劇、〝悲しみの王〟に出てきた彫刻が私に語り出す。
過ぎ去っていくこの人生の全てを、授かったいのちでかみしめ、祈りにも似た閉じた瞳の奥でみつめれば、静寂のなかに必ずなにかがみえる、と。
ミゲルとフリオの未来もここからだ。
そこに連れて行く為、エリセ監督が沈黙の歳月の満ち潮にのせて創り上げた消えない軌跡。
いまこそこの世に遺さんとするものの重み、私なりに触れることができた温もりの深さに、ありがたさでいっぱいになるのだ。
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