「1940年代、邸宅「悲しみの王」に暮らす老人が、ひとり娘を探してほ...」瞳をとじて りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
1940年代、邸宅「悲しみの王」に暮らす老人が、ひとり娘を探してほ...
1940年代、邸宅「悲しみの王」に暮らす老人が、ひとり娘を探してほしいと男(ホセ・コロナド)に依頼した。
戦前に上海で女優との間に出来た子どもだが、もう何年もあっていない・・・
というところからはじまるが、実は「悲しみの王」でのやり取りは『別れのまなざし』という映画の一部。
依頼を受けた男の役を演じていた人気俳優フリオ・アレナスは、撮影の途中で姿を消した。
靴は発見されたが死体は上がらず、失踪したものと世間では認識された。
映画は未完となり、監督のミゲル・ガライ(マノロ・ソロ)は、その後、メガホンをとることなく小説家に転向した。
映画の撮影は1991年のこと。
それから20数年の時を経て、フリオの失踪をテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられることになり、ミゲルに『別れのまなざし』のシーンの放映許可とインタビューの依頼が来た。
処女小説『廃墟』はそれなりの評価を受けたが、その後は長編小説はモノに出来ず、短編をいくつか書いただけで、いまは海辺の寒村で細々と暮らすミゲルにとって、報酬は魅力だった。
ミゲルは、フリオが見つかるなどとは思っていない。
番組にも魅力を感じない。
しかしながら、撮影当時のこと、途中まで編集がすんだフィルムのこと、残されたフリオの娘アナのことなど、いくつかの振り捨てようとしても、過去の想いはミゲルに迫って来る。
特にアナ(アナ・トレント)と再会し、処女長編『廃墟』の本と出会い、さらに本を捧げた当時の恋人と再会するに至っては、過去はミゲルにしがみついて逃さない。
そんな時、番組を観た視聴者からフリオによく似た男性がいるとの報せがミゲルに届く。
海辺の高齢者施設で雑役夫まがいにして働いているのだが、その男には記憶が一切なく、かつてのタンゴの流行歌を歌っていたことから、施設では高名なタンゴ歌手の名に由来して「ガルデル」と呼ばれていた・・・
という物語。ここまででおおよそ3分の2ほどか。
30数年ぶりのビクトル・エリセ監督の演出はゆったりとしている。
あまり観客を急がせない。
それはそれで好ましいのだが、前半部分、特に冒頭の映画のシーンは、あまりにものっぺりと起伏に欠き、「これは、もしかしたらひどい映画に出くわしたのではありますまいか」と、不安になりました。
テレビのドキュメンタリーにかかわる部分もそれほど冴えず、面白くなってくるのは、ミゲルが古本市で自著『廃墟』と再会するあたりから。
かつての恋人との再会、海辺の寒村でのご近所との暮らしぶりなどの中盤は、大きくな起伏などはないものの、それがかえって味わい深い。
近所の友人たちと『リオ・ブラボー』の挿入歌「ライフルと愛馬」を歌うシーンは心安らかになります。
後半は高齢者施設での物語。
ガルデルと呼ばれた男は、果たしてフリオであった。
ミゲルは、そう確信する。
しかし、ガルデルは自身のことを一向に思い出さない。
ミゲルは、最終手段を思いつく・・・
と展開するのだけれど、この結末は観客に委ねられている。
フリオが自身のことを思い出したのか、思い出さなかったのか・・・
個人的には「どちらでもよい」と感じました。
思い出せれば、まぁ一般的な幸せなんだろうし、思い出さなかったとしてもそれはそれで幸せ。
「悲しみの王」の邸宅には飾られた二面像がエンドタイトルとともに映し出される。
左を向いた顔は若々しい青年の顔、右を向いた顔は深い皺の刻まれた老人の顔。
どちらの顔も同じ人物なのだ。
青年の顔は未来を向いているように思えるし、老人の顔は過去を向いているように思えるが、べつに過去も未来も向いておらず、ただそこにあるだけ、存在すること、歳を経て存在すること、そんな風に感じられました。