「「映画による奇跡」をめぐる葛藤の行方」瞳をとじて cinema2014さんの映画レビュー(感想・評価)
「映画による奇跡」をめぐる葛藤の行方
失われた記憶をめぐるこの物語は、「映画による奇跡」を信じながらも、そのような期待を自らに禁じる者たちによって語り継がれる。
失踪し記憶を失った元俳優が住み込みで働く高齢者施設の一室で主人公がタバコを吸う。
施設のシスターがドアをノックした途端に慌てて火を消し、灰皿を引き出しに隠し、窓を開けて煙を手で煽いで逃す。
部屋に入ってきたシスターは顔色ひとつ変えずに反対側の窓を開ける。
一見すると物語とは無関係なこの一連のシークェンスが実に素晴らしい。
柔らかな照明、無駄のない什器、充実したアクション。
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舞台は1947年、タイトルは『別れのまなざし』という設定の映画内映画から上映が始まり、過去・老い・記憶をめぐる物語が語られていく。
失踪し忘れられつつある俳優。亡くなった仲間や息子のこと。去ってしまった恋人や妻。
数十年ぶりに見つかった元俳優の記憶は失われている。
記録媒体の主流がデジタルに置き換わっても残されたままの膨大なフィルム。フィルム編集技師が戦利品と主人公に得意げに語るのはニコラス・レイ『夜の人々』の16mm。映画監督をやめて作家に転じた主人公の小説のタイトルは『廃墟』だ。
手のひらサイズの『ラ・シオタ駅への列車の到着』の登場で一層明確に告白された映画史への愛は、主人公と隣に住む若者にハワード・ホークス『リオ・ブラボー』の挿入歌を歌わせることでもっとも幸福に表現される。「ライフルと愛馬と私」。
1973年の『ミツバチのささやき』での面影を残すアナ・トレント(皺がとても美しかった)が精確に『ミツバチ』での自身を再演する。「私はアナ」と「瞳をとじて」呼びかける相手は記憶を無くし別人として生きる元俳優の父であり、あのフランケンシュタインだ。
記憶を無くしている元俳優に、失踪直前に撮影した出演作のラッシュフィルムを見せることで何かが変わるかもしれないと期待する元映画監督と、「ドライヤー亡きあと、映画が奇跡を起こすことはない」と断言する件の編集技師の葛藤は、映画を愛し続けながらもその緩慢な死を敏感に感じとっているに違いないビクトル・エリセの葛藤そのものである。
閉館した映画館(館主が語る思い出は、近所で撮影されていたマカロニ・ウェスタンだ)でラッシュフィルムを見る元俳優は、ジャン=リュック・ゴダールの『女と男のいる舗道』でカール・テオドア・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』を見て涙を流すアンナ・カリーナだ。
このラッシュフィルムの上映で奇跡が起きたかどうかの判断は観客に委ねられたまま、瞳はとじられ、映画は終わる。
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被写体とキャメラの距離感が『ミツバチ』や『エル・スール』のそれと異なり、とても近い。それぞれのシークェンスにおいてショットが切り替わるたびにキャメラが被写体に寄っていき、役者の顔に刻まれた皺が際立ってくる。
この皺は、物語の中で過ぎ去った時間(元俳優が失踪してからの数十年)の経過によるものであると同時に、瀕死の映画産業が積み重ねてきた歴史でもあるだろう。
「最初は美しい芸術に囲まれて働くのが嬉しくて仕方がなかったのに、いまは退屈になってしまった。大げさかもしれないけれど」。プラド美術館のガイドとして働くアナ・トレントのセリフは印象的だ。
過去・老い・記憶をめぐるこの物語は、映画による奇跡を信じつつ、そのような淡い期待はもはや捨て去らねばなるまいと自覚する者たちの物語であり、そのような者たちによってこれからも語り継がれていくのだろう。